コルネリウス・ア・ラピデ
目次
本章の概要
神はアブラハムと契約を結び、割礼を契約のしるしとして定められる。第二に、第15節において、息子イサクを約束される。第三に、第23節において、アブラハムは自らおよびその家の者たちに割礼を施す。
ウルガタ本文:創世記17章1–27節
1. さて彼が九十九歳になり始めたとき、主は彼に現れて言われた。「われは全能の神である。わが前を歩み、完全であれ。2. われはわが契約を、われと汝との間に立て、汝をいとも大いに増やすであろう。3. アブラムはひれ伏した。4. 神は彼に言われた。「われは在る者であり、わが契約は汝と共にある。汝は多くの国民の父となるであろう。5. もはや汝の名はアブラムとは呼ばれない。汝はアブラハムと呼ばれるであろう。われが汝を多くの国民の父と定めたからである。6. われは汝をいとも豊かに増やし、汝を諸国民の中に置き、王たちが汝から出るであろう。7. われはわが契約を、われと汝との間に、また汝の後の子孫との間に、その代々にわたって永遠の契約として立てる。それはわれが汝の神となり、汝の後の子孫の神となるためである。8. われは汝と汝の子孫にカナンの全地を永遠の所有として与え、彼らの神となるであろう。9. さらに神はアブラハムに言われた。「汝はわが契約を守らなければならない。汝も、汝の後の子孫も、その代々において。10. これがわが契約であり、汝らがわれと汝との間に、また汝の後の子孫との間に守るべきものである。汝らのうちの男子はすべて割礼を受けなければならない。11. 汝らは包皮の肉に割礼を施さなければならない。それがわれと汝らとの間の契約のしるしとなるためである。12. 汝らのうち八日目の幼児は割礼を受けなければならない。代々のすべての男子は、家で生まれた者も、買い取られた者も割礼を受けなければならず、汝の血統でない者もすべてそうである。13. わが契約は汝らの肉にあって永遠の契約となるであろう。14. 包皮の肉に割礼を受けない男子、その魂はその民から断たれるであろう。わが契約を破ったからである。15. また神はアブラハムに言われた。「汝の妻サライをサライと呼んではならない。サラと呼ぶがよい。16. われは彼女を祝福し、彼女からも汝に一人の息子を与えるであろう。われはその子を祝福する。彼は諸国民となり、諸民族の王たちが彼から出るであろう。17. アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った。「百歳の者に子が生まれようか。九十歳のサラが子を産もうか」。18. そしてアブラハムは神に言った。「せめてイシュマエルが御前に生きますように」。19. 神はアブラハムに言われた。「汝の妻サラが汝に息子を産むであろう。汝はその名をイサクと呼ぶがよい。われはその子と永遠の契約を立て、その後の子孫とも契約を結ぶであろう。20. イシュマエルについても、われは汝の願いを聞き入れた。見よ、われは彼を祝福し、増やし、いとも大いに繁栄させるであろう。彼は十二人の族長を生み、われは彼を大いなる国民とするであろう。21. しかしわが契約はイサクと立てるであろう。サラが来年のこの時期に汝に産む子である。22. 彼と語っておられた方の言葉が終わると、神はアブラハムのもとから上り去られた。23. アブラハムはその息子イシュマエルと、家で生まれたすべての僕たちと、買い取ったすべての者、すなわちその家の男子全員を連れ、神が命じられたとおりに、直ちにその日のうちに彼らの包皮の肉に割礼を施した。24. アブラハムが自らの包皮の肉に割礼を受けたとき、彼は九十九歳であった。25. その息子イシュマエルは割礼を受けたとき、十三歳であった。26. 同じ日にアブラハムとその息子イシュマエルは割礼を受けた。27. その家のすべての男子、家で生まれた者も、買い取られた者も、異国の者も、同様に割礼を受けた。」
第1節:主が現れた
主が現れた――すなわち神に代わって行動し、纏った身体において神を表す天使が現れたのである。これは第17節および第22節から明らかである。カイェタヌスその他もそう述べている。その目的は、アブラムが第15章で自分に与えられた子孫の約束がイシュマエルによって成就したと考えないよう、それがイサクにおいて成就されるべきものであることを示すためであった。
第1節:われは全能の神――エル・シャダイ
われは全能の神である。――ヘブライ語ではエル・シャダイであり、いわば「われは強く寛大なる神である」という意味である。注意すべきは、シャダイはシン(関係詞)とダイ(十分さを意味する。このヘブライ語のダイまたはデから、ギリシア語のゼウスやテオス、ラテン語のデウスを導き出す者もいるが、デウスは「与えること」(ダンド)に由来し、ユピテルは「助けること」(ユワンド)に由来すると考える者もいる)から成り立っている。すなわち、あらゆる十分さ、豊かさ、富裕さ、充満、豊穣の角杯を有する方、最も十分であり、最も豊かであり、最も潤沢である方であって、御自身があらゆる善きものに満ちておられるばかりでなく、他の者にもあらゆる十分さと豊かさを授けたもう方、ということである。ヨハネが第1章で神の子について述べているとおりである。「その満ちあふれる豊かさの中から、われらは皆、恵みの上にさらに恵みを受けた。」
それゆえ使徒パウロはテモテへの第一の手紙第6章でシャダイに言及して次のように述べている。「富の不確かさに望みを置かず、万物を豊かにわれらに与えて楽しませてくださる生ける神に望みを置くように。」またラビ・サアディアも言う。「神がシャダイと呼ばれるのは、その配慮、摂理、知恵、善良さによって万物が存在し、生き、すべての被造物のすべての必要を満たしたもうからである。」
それゆえアキラ、シュンマコス、テオドティオンは、聖ヒエロニムスが書簡136のマルケラ宛ておよびエゼキエル書第10章第5節への注解で証言するとおり、シャダイを「強力な」「万事を成し遂げるに足る」と訳しており、すなわちアウタルケース(自足的)およびパントクラトール(全能者)と同義であって、われらのウルガタが通常訳すとおりである。
第二に、シャダイは他の箇所からも、また創世記第49章第25節のヘブライ語からも察せられるとおり、シャド(乳房、胸)に由来する。いわば「乳房のごとき方」である。なぜなら神から、あらゆる善きもので満ちた乳房からのように、われらは豊かにあらゆる善きものを吸うからである。シャダイはそれゆえ、神が乳房や乳のごとく甘美であること、母が幼児を乳房にあてがい、乳で養い育てるときの慈しみと愛の情をもって万物を養いたもうことを意味する。レヘム(胎)から神がラフム(最も憐れみ深い方)と呼ばれるのと同様に、シャド(乳房)から神はシャダイ(最も豊かな方)と呼ばれるのであり、いわば神的な豊穣である。
したがって神がシャダイと呼ばれるのは、その方が寛大であり、力あり、全能であるからであり、その配慮、摂理、知恵、善良さによって万物が存在し、生きるからである。
それゆえパウロは使徒言行録第17章でシャダイを説明して言う。「神は何ものをも必要としたもわない。御自ら万物にいのちと息とすべてのものを与えたもうからである。」
こうしてプラトンは、窮乏・自足・溢流というこの三者を区別し、善性の溢流のみを神に帰した。すなわち、ある盃が葡萄酒で満ち満ちて溢れ出るように、神も神の善性も溢れ出るのである。ナジアンゾスのグレゴリウスは『子についての第四説教』でプラトンを批判しているが、それはただ、この盃の比喩によって、意志的でも自由でもない、本性的で必然的な溢流を神に帰しているように見える限りにおいてである。それ以外においては、ナジアンゾス自身も『復活祭説教』でこの溢流を神において認めている。
したがって神はアブラハムに言われる。「われは神シャダイ、すべてに十分な、最も豊かな、最も富める、最も寛大な者である。われは汝を富ませ、あらゆる善きもので満たすことができ、またそうすることを欲する。それゆえわが前を歩め。これらの富を受ける器となり、われが汝に約束した善きものにふさわしい者となるために。」同様に神はヤコブにも創世記第35章第11節で言われた。「われは全能の神(ヘブライ語でシャダイ)である。それゆえわれから増え、繁殖せよ。」またイサクもヤコブに創世記第28章第3節で言った。「全能の神(ヘブライ語でシャダイ)が汝を祝福し、汝を増やし繁殖させたもうように。」そしてこれは、神がモーセに出エジプト記第6章で言われたことに当たる。「われは主である。われはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として(神シャダイのさまで、神シャダイとして――ヘブライ語にあるとおり)現れたが、アドナイの名はまだ彼らに知らせなかった。」
それゆえ神はわれらのシャダイであり、満たしたもう方、われらのあらゆる願いを善きもので満たしたもう方である。それならばなぜ、不幸な人よ、汝は多くのものの間をさまよい、安息を求めて見出さないのか。汝は富を愛する――しかし満たされない。それらはシャダイではないからである。汝は名誉を愛する――しかし満たされない。それらはシャダイではないからである。汝は肉体の優美さと美しさを愛する――しかしそれらは汝のシャダイではない。おお人の心よ、ふさわしからぬ心よ、苦難を経験し苦難に沈められた心よ、なぜ汝は空しく、些末で、束の間の、欺きの善きものの後を走り回るのか。それらは汝の魂の飢えと渇きを満たすことができない。汝のシャダイを愛せよ。この方のみが汝の魂のすべての奥処を満たすことがおできになる。この方のみが汝に快楽の奔流、いや大海から飲ませるに足る方であり、この方のもとにいのちの泉があるからである。この方は理性にとって光の充満であり、意志にとって平和の豊かさであり、記憶にとって永遠の継続である。この方は御自身のものにとってすべてにおいてすべてであり、またそうあり続けるであろう。栄光が汝を喜ばせるか。「栄光と富はその家にあり。」美が汝を喜ばせるか。「義人はその父の国で太陽のように輝くであろう。」知恵が汝を喜ばせるか。「ああ、神の知恵と知識の富の深さよ。」味覚、葡萄酒、佳肴が汝を喜ばせるか。「汝の栄光が現れるとき、われらは満たされるであろう」。また「彼らは汝の家の豊かさに酔うであろう。」まことに神は、栄光のすべての宝、富のすべての宝、知識のすべての宝、すべての喜び、すべての快楽――まことに御自身そのものを天において選ばれた友なる者たちに注ぎたもうであろう。それゆえ、わが魂よ、汝のこの唯一の善に汝自身をすべて据えよ。これが汝の安息であり、これが汝の心の中心である。この唯一のものをすべての祈りと努力をもって追い求めよ。それゆえわれらの聖なる教父イグナティウスと共に言え。「主よ、汝を除いてわれは何を欲し、また何を欲するであろうか。わが心の神よ、わが分け前は永遠に神である。」また聖ルドヴィクスと共に言え。「わが富はキリストである。他のものは欠けてよい。わが神ならぬあらゆる豊かさは、われにとって貧しさである。」
第1節:わが前を歩め
「わが前を歩め」――主人の前の僕のように、教師の前の弟子のように、指揮官の前の兵士のように、父の前の息子のように、すべてにおいて主に仕え、従順で忠実であり、誠実に、注意深く、完全に仕え、従い、喜ばせるようにである。それゆえ七十人訳は「わが前に喜ばれよ」と訳し、カルデア訳は「わが前に仕えよ」と訳す。これはザカリアが歌うところである。「われらの日の限り、主の御前において聖さと義をもって主に仕えん。」このようにエノク(第5章第22節)もノア(第6章第6節)も行った。常に神を現前するものとして思い、畏敬し、あたかもその御前にあるかのごとくいたるところを歩み、それに従ってすべての行いを為し遂げる者は幸いである。キリスト者は異教徒セネカの書簡10を聞くがよい。「人々の間では神が見ておられるかのように生きよ。神に語るときは人々が聞いているかのように語れ。」ソロモンの箴言第3章第6節を聞くがよい。「すべての道において主を思え。主は汝の歩みを導きたもうであろう。」またトビトが息子に語った第4章第6節を聞くがよい。「汝の生涯のすべての日に神を心に留めよ。」またミカ書第6章第8節を聞くがよい。「人よ、われは汝に何が善であるかを示す。主が汝に求めたもうことは何か。すなわち正義を行い、慈しみを愛し、慎み深く汝の神と共に歩むことである。」
ここにアブラハムの三つの段階と状態が、すべての人の徳の模範として提示されていることに注意せよ。第12章から今に至るまで、アブラムは初心者として描かれてきた。しかしここから第22章までは、進歩する者として描かれる。最後に、第22章から第25章までは、完成された者として描かれる。進歩する者にはそれゆえ、まずこの神の現前の戒めが与えられる。「わが前を歩め。」
神の御前を歩むことの六つの果実
さて、この神の現前の第一の果実は罪の回避である。「神を思い起こせ。されば汝は罪を犯さないであろう」と聖イグナティウスはヘロンへの書簡で述べ、またアレクサンドリアのクレメンスは『教導者』第3巻第5章で言う。「ただこの方法によってのみ、人が決して堕ちないということが起こるのである。すなわち、神が常に自らに現前しておられると考えるならば。」ある遊女が聖エフレムを罪へと誘った。エフレムは見せかけに応じたが、公共の広場で行うことを条件とした。遊女がそれは恥ずかしく不名誉なことだと言うと、エフレムは答えた。「最も隠されたものさえ見通したもう神の御前においてこそ、もっと恥じるべきではないか。」この言葉に撃たれた遊女は赦しを求め、修道生活を受け入れた。スザンナもまた「主の御前で罪を犯すよりは」死ぬことを選んだ。タイスを回心させたあの聖人も同様であった。
第二の果実は、誘惑、危険、敵に対する勝利である。詩篇第24篇第4節。「たとえ死の陰の谷を歩むとも、われは禍を恐れない。汝がわれと共におられるからである。」こうしてマカバイの者たちは「心の中で主に祈りながら」ニカノルを三万五千人もろとも打ち破った。「神の現前を壮麗に喜びながら」(マカバイ記二第15章16節)。
第三。「常に神を思い起こせ。されば汝の心は天となるであろう」と聖エフレムは言う。こうしてヤコブは梯子の上に天使と共に主を見て言った。「ここは神の家にほかならず、天の門である。」
第四。そのような人は天使のごとき者である。天使は常に御父の御顔を仰ぎ見ているからである。エリヤもそのような者であった。「わが仕える主は生きておられる。わがその御前に立つ主は」(列王記上第17章第1節)。
第五。そのような人は驚くべきほどに神への愛に燃え立たされ、常に喜ぶ。神の現前を享受しているからである。こうしてダビデは詩篇第15篇で言う。「われは常に主をわが前に置いた。」そして付け加える。「それゆえわが心は喜び、わが舌は躍った。」聖パウロが言うとおり、「主に結びつく者は、主と一つの霊となるからである。」
第六。この神の現前は怒り、情欲、散心を追い払い、人を完全なものとする。こうして聖ドシテウスは、その生涯に記されているとおり、聖ドロテウスのこの戒めから、「常に神が汝に現前しておられると思い、汝がその御前に立っていると思え」、放蕩な兵士から完全な修道士へと変えられたのである。
第1節:完全であれ
「完全であれ。」――わが律法と意志を完全に満たすことに努め、汝のすべての業をことごとく完全に行い、それらに何の欠けもなく、何の咎めもないようにし、すべての徳において汝自身を完成させよ。それゆえ七十人訳は「咎められるところのない者であれ」と訳している。神はその報いを付け加えて言われる。
注意すべきは、神がアブラハムに完全さを求められたのは若い時ではなく、老いた時、イサクが生まれようとする時であった。これはキリストの時代に神が信者に完全さを求めたもう時のしるしである。キリスト教とはすなわち、最高の完全さへの修練、務め、努力にほかならないからである。
ある聖なる博士は、修道者の卓越した完全さに至る手段をも次のように示唆している。すなわち、第一に、絶えず神の御前を歩むこと。第二に、悲しいことにおいても喜ばしいことにおいても、すべてにおいて神の御意志に自らを適合させ、「御意志が行われますように。主の御名はほめたたえられますように」と言うこと。第三に、汝は速やかに完全になることを望むか。汝の魂の奥底に退き、そこで注意深く吟味せよ。何が汝を最も妨げ引き止めて、神への奉仕とすべての徳において清く、自由で、敏捷であることを阻んでいるかを。そしてこの罠、汝を引き止めているこの石を根こそぎ切り取り、海の深みに沈めよ。さもなくば汝が何をしようとも、すべては空しいであろう。この克己は苦しく、いわば肉を骨から削り取るような一種の生ける死である。しかしそれは必要であり、実践そのものによって容易になる。第四に、われらの本性はきわめて欺瞞的であり、千の隠れた曲がり角と策略に満ちており、その中で自らを甘やかし、保持している。これらが根こそぎ取り除かれない限り、汝はほとんど進歩しないであろう。これらの中で最大のものは、聖人さえも、時には修道士さえも捕らえているものであるが、見られたいという望み、他の者が自分のほうを向き、自分に敬意を示すことを望むことなどである。これは断固として放棄されなければならない。汝が洗礼者ヨハネの言葉の根底にまで至るためである。「われはその履物の紐を解く値打ちもない。」第五に、それゆえ少なくとも心において、すべての人々から自らを引き離せ。第六に、もし汝に起こるならば愛着の執着や過度の心配と不安をもたらすようなすべてのものから自らを解き放て。内に受け入れたいかなる心像からも清くかつ自由に自らを保て。第七に、汝の心を的を狙うように神に据えよ。断食、徹夜、清貧などその他のことはこの目的に向けて参照し、この目的のために有用な分だけそれらから取るがよい。第八に、すべてのことにおいて自らを神に委ねよ。あたかも広大な海に投げ出されて自分の外套の上に座っている者のように。そのような者は神にすべてを委ねること以外に何ができようか。汝も同様にせよ。第九に、すべてを軽んじ、すべての者から軽んじられることを学べ。聖パウロと共に世の塵芥、万人のかすとなるために。
第2節:わが契約を立てん
「わが契約を、われと汝との間に立てん。」――すなわち、もし汝がわが前を完全に歩むならば、われは汝と特別の友情と契約を結び育てるであろう。それにより、われは特別の配慮をもって汝と汝のものを他の人々や民族にまさって守り、導き、前進させ、アブラハムの神と呼ばれるであろう。汝もまた特別の信仰、従順、礼拝をもってわれに仕えるであろう。そしてわれはこの契約の象徴としるしとして割礼を与えるであろう(第10節)。
第3節:ひれ伏した
「ひれ伏した」――神を礼拝し、感謝を捧げたのである。
第4節:われは
「われは。」――われはありてある者である。われは永遠であり、不変であり、約束において恒常にして忠実である。ゆえにわれがこの言葉をもって汝と結ぶわが契約は、不変にして取り消し得ぬものとなる。聖ヒエロニムスは『マルケッラへの書簡』において、神はただ存在したもうのみであると記している。なぜなら神は過去も未来も知りたまわず、その本質は存在そのものであり、神と比べればわれわれの存在は無に等しいからである。これについてはさらに出エジプト記第三章および第六章を参照せよ。
第5節:アブラハム――名の変更
「汝の名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムと呼ばれるであろう。」――アブラムはヘブライ語ではアブ・ラムすなわち「高き父」のごとくである。高遠なことを思い、高き所すなわち天上的な事柄に住み、高尚にして神的な事柄を企て追い求める者のことである。
さて神はアブラムを「アブラハム」と呼びたもう。これはアブ・ラム・アモンすなわち「大いなる高き群衆の父」あるいは「多くの高き者たちの父」のごとくである。続く箇所にあるように、「われは汝を多くの国民の父として立てた」からであり、すなわちユダヤ人と異邦人の父としてである。それゆえアブラハムはそれまで自分の名をよく用い、その高貴な生涯がよくそれに応えてきたのであるから、今やもう一つの名を受けるに値するのであり、それによって他の多くの者たちをも高き者とするのである。もしわれわれもキリストから受けた名に応えるならば、キリストはわれわれに主の口が語りたもう新しい名を与えてくださるであろう(イザヤ62章2節、黙示録3章12節)。
したがって、アブラハムという名は一つの柱のごとくであり、その上に神は子孫と永遠にわたる忠実で選ばれた種の約束を刻みたもうたのであると聖ヨハネ・クリソストモスはここで述べている。集会の書(シラ書)第四十四章二十節で歌われるアブラハムへの讃辞を見よ。
使徒がローマ書第九章五節から七節で述べているとおり、アブラハムの子孫は、ここでは文字通り彼の肉体的・血縁的子孫、すなわちユダヤ人として解されることに注意せよ。彼らは十二の部族に、あたかも十二の国民のように分かれていた。
しかし寓意的に、そして最も重要な意味では、アブラハムの霊的な子どもたち、すなわちアブラハムの信仰と敬虔を模倣する信者たちが意味されている。そのような者はまずユダヤ人であった。次にキリストのもとでは、わずかなユダヤ人とすべての異邦人である。これらこそ正しく「多くの国民」と呼ばれるのであり、そのうち多くの者が高き者であった――すなわち使徒たち、殉教者たち、教師たち、童貞者たちなどである。それゆえ神はここで霊的な約束を肉的な約束と混合したもうのであり、このことはローマ書九章六節において論じたとおりである。
したがってアブラハムはすべての高き者たちの、すなわち天の市民たちの父である――ユダヤ人から封印された十四万四千人の、そして異邦人から封印された誰も数えることのできない大いなる群衆の父である(黙示録7章9節)。
ヘブライ人、聖ヒエロニムス、リポマヌスらは、アブラムにヘーの文字が加えられてアブラハムとなり、同様にサライにも加えられてサラとなったことに注目している。このヘーの文字は神の名である四文字聖名(テトラグラマトン)の中で最も重要な文字であり、その中に二度現れる――あたかもこれによって神は、メシアすなわち神であり神の子であるイエス・キリストがアブラハムとサラから生まれることを示されたかのようである。
ペレリウスは、ヘーが五を意味すると付け加えている。すなわち世界の年の第五千年紀であり、その初めにキリストがアブラハムとサラから生まれたというのである。しかしキリストは第四千年紀の終わり近くに生まれたというのがより正確である。
第二に、フィロンは『巨人について』の中で、アブラムが「高き父」と呼ばれたのは彼が天文学者であり、高く天上的なものを探究したからであると記している。しかしその後アブラハムと呼ばれたのは、アブ・バル・ハモンすなわち「大いなる音声あるいは声の選ばれた父」あるいは「選ばれた調和の父」のごとくだという。この調和とは善き人の知性、声、生き方のことである。このような人は選び抜かれ、浄められた者であり、声と調和の父である。それによってわれわれは神の讃美を響かせ、あらゆる生涯において行いと言葉をもって神に和合するのである。ゆえにアブラムからアブラハムへ――すなわち天文学者から神的な人へ、天の人から神の人へと変えられたのである。フィロンはこう述べているが、これらの解釈は象徴的かつ神秘的なものである。
第三に、聖ヨハネ・クリソストモスはここで記憶違いを犯したように思われる。アブラムが「渡る者」を意味し、両親がカルデアのウルからカナンへの彼の移住を予見してそう名づけたと述べているからである。聖ヨハネ・クリソストモスはアブラムという名を「渡る者」を意味するヘブライ人という名と混同しているのであり、あるいは少なくともアブラムが両親によってヘブライ人と呼ばれたと考えているが、これは蓋然性に欠ける。
第6節:汝から王たちが出る
「汝から王たちが出るであろう。」――すなわちヤコブからイスラエルとユダの王たち、エサウからエドム人とアマレク人の王たち、そしてまたイシュマエルも、ケトラから生まれた他の者たちも、それぞれ自らの王たちを有していた。
第7節:われは立てん
「われは立てん。」――ヘブライ語ではハキモティ、「われは立たしめん」すなわち、堅固にし、確認する。今や汝と結ぶ契約を、第四節で述べたとおりに。
「永遠の契約において。」――この契約は永遠であったが、絶対的にではなく、肉的な種すなわちユダヤ人においては相対的に永遠であった。すなわちユダヤ人の教会と国家が存続する限り続いたのである。しかし霊的な種すなわち信者においては、それは絶対的に永遠である。
第8節:われが汝の神となるために
「われが汝の神となり、汝の後の子孫の神となるために」――すなわちこう言っているのである。この条件と約定のもとにわれは汝とその民との契約を結ぶ。すなわちわれが汝の、また汝の民の神となり、汝がわれのみを礼拝し崇め、われのみに依り頼むことである。われは見返りに、わが特別な所有として汝を愛し、守り、護り、祝福する。ヴァタブルスらもそう述べている。
第9節:汝は守るべし
「汝は守るべし」――すなわち守れ。聖アウグスティヌスもそう述べている。
第10節:これがわが契約――割礼のしるし
「これがわが契約である」――すなわち、これは今や汝と結ばれた契約のしるしである。続く箇所から明らかなとおりである。したがって使徒はローマ書第四章十一節において、アブラムについて語ってこう述べている。「彼は割礼のしるしを受けた。それは無割礼のうちにある信仰の義の証印であり、無割礼によって(すなわち無割礼の者たち、つまり異邦人として)信じるすべての者の父となるためであった。」
ここで、このしるしすなわち割礼の用途と理由について簡潔に記す。第一に、これは神がここでアブラハムと結んだ契約の記念的しるしであった。ユダヤ人たちが割礼を受けるとき、あるいは自分が割礼を受けていることを思うとき、彼らが神とのこの契約に加わったことを、したがって自分たちが神に献げられ聖別された民であることを思い起こすためである。ちょうど悪魔が――神の猿として――己の魔術師たちの額に焼印を押し、それによって彼らが己の権力のもとにあり、己の羊であり、己の所有であり、己の奴隷であることを記し示すように、いっそう神は万物の主として、アブラハムとユダヤ人に対し、この割礼のしるしを肉に感覚的に、深く、消し難く刻むことを望みたもうた。彼らが神の権威のもとに入り、神の民であり特別な所有であることを表すためにである。
第二に、割礼はアブラハムの信仰と、それによって得られた義の表象的しるしであった。使徒が少し前に引用した言葉で述べているとおりである。
第三に、これは忠実な者たちを不忠実な者たちから、すなわちユダヤ人を異邦人から区別するしるしであった。
第四に、これは原罪を示し、これを浄めるしるしであった。教父たちが教えているとおりである。なぜなら生殖の器が割礼されたのであり、それによって原罪が伝えられるからである。この事柄については聖トマス、スアレス、およびスコラ学者たちを参照せよ。
第五に、これは洗礼の予型であった。なぜなら洗礼と割礼はともに、真の宗教と信仰への最初の秘跡であり入門であり、その公の宣言と義務であるからである。そしてそれに伴い、神の教会とその権利および報いへの養子縁組と登録である。
このゆえに、割礼においては――ちょうど今日の洗礼においてそうであるように――割礼を受ける者に新しい名が与えられるのが常であった。ここでアブラムは割礼を受けるにあたり、アブラムに代えてアブラハムと呼ばれた。割礼によって、新しい名、新しい国民、新しい宗教すなわちユダヤ教に入れられたからである。同様にローマ人は女児には誕生後八日目に、男児には九日目に名前を与えていた。プルタルコスが『ローマ問答集』第百二問においてその理由を述べている。
「汝のうちのすべての男子は割礼を受けるべし。」――アブラハムはこの律法の力により、その家族に割礼を施す義務を負い、したがってイシュマエルにもイサクにも施す義務があった。同様にイサクはその後ヤコブとエサウに割礼を施す義務があった。しかしイシュマエルとエサウがアブラハムとイサクの家族から分離したとき、もはや自分の子孫に割礼を施す義務はなかった。しかしヤコブには義務があった。なぜなら彼のすべての息子たちからアブラハムの家族(すなわちキリストが生まれるべき神の民)が集められ、それがこの律法に拘束されたからである。
それでもエドム人、サラセン人、アンモン人、および他の諸民族も割礼を採り入れた。しかしそれは旧約律法の秘跡として、モーセの律法を奉じる意図をもってのことではなかった(そうであれば律法に拘束されたであろう)。単に人間的な慣習として、先祖たちの模倣としてであったにすぎず、ゆえにモーセの律法に拘束されることはなかった。
さらに、オスマのセバスティアヌス司教が教え、フランシスコ・スアレスがそれに従って述べているように(第三部、問題七十、区分二十九、第二節)、割礼が原罪を赦す治療手段として、また来たるべきキリストへの信仰告白として、すべての民族の間で用いられ得たことは非常に蓋然的である。なぜなら彼らは他のしるしの中からこのしるしを選ぶことができたからであり、その意図をもって行われた場合、それは疑いなくそのような効果のために有効であったからである。たとえユダヤ教を奉じ、そしてその民に加わる意図をもっていなかったとしても。このようにして、そのような人々は割礼によって原罪から清められたが、モーセの律法には拘束されなかった。
「すべての男子。」――それゆえ、ストラボンは第十七巻において女性もまた割礼を受けたと考えているが、これは誤りである。なぜなら割礼は何よりも次の目的のために与えられたのである。すなわち、それによってしるしとして、アブラハムの民を他の諸民族から区別するためである。そしてこの民の区別は男性から取られるものであって、女性からではない。
第11節:包皮の肉
「汝は包皮の肉を割礼すべし。」――なぜ神がこの包皮の部位に割礼を制定されたかと問うであろう。第一に答えるならば、この部位においてアダムは己の不従順の結果と肉の反逆を最初に感じたからである。
第二に、この部位によってわれわれは生まれ、原罪が伝えられるからであり、原罪は割礼によって癒されるのである。
第三に、贖い主であり新しい契約の制定者であるキリストがアブラハムの種から生まれることを意味するためである。
寓意的には、割礼は洗礼と悔悛の予型であった。道徳的には、情欲とあらゆる悪徳の克己の予型であった。天上的には、復活の予型であり、復活は八日目に、すなわち世界の第八の時代と世紀に起こる。そのとき肉と自然のあらゆる腐敗が切り取られるのである。ルペルトゥスとオリゲネスの説教第三を参照せよ。バラディウスの『キリストの割礼について』も参照せよ。
第12節:八日目の幼児
「八日目の幼児。」――八日目を繰り上げることはできなかったことに注意せよ。なぜならそれ以前では幼児はあまりに弱く、生存可能であるかどうか不確かだからである。フランシスコ・ヴァレシウスがガレノスに基づいて『聖なる哲学』第十八章で教えているとおりである。
注意すべきこととして、もし幼児が八日目以前に死の危険にある場合は、女子と同様に自然法の治療法と儀式によって救われ得たのである。
第二に注意すべきこととして、正当な理由がある場合、割礼は八日目を過ぎて延期されることもあった。荒れ野において四十年間、絶え間ない旅のゆえに延期されたとおりである(ヨシュア記5章6節)。テオドレトゥスとヨセフスもそう述べている。
「割礼を受けるべし。」――聖アウグスティヌス、聖ベルナルドゥス、命題集教師などは、ユダヤ人が石の刃で割礼を行うのを常としていたと考えている。モーセが出エジプト記第四章で、ヨシュアが第五章でそのようなものを用いたからである。
しかしここではそのようなことは何も命じられていない。実際、聖ユスティヌスは『トリュフォンとの対話』の中で、自分の時代にユダヤ人は石ではなく鉄の刃を割礼に用いていたと証言している。聖トマス、あるいはより正確にはイギリスのトマス、リラのニコラウス、トスタトゥスらもそう述べている。
「家で生まれた者も、買い取られた者も割礼を受けるべし。また(汝の奴隷で)汝の血統に属さない者も。」――ヘブライ語では語順を移してこう表している。「家で生まれたすべての奴隷と買い取られたすべての奴隷、汝の種に属さない者は、必ず割礼を受けるべし。」
ここには三つの解釈と見解がある。第一はカイェタヌス、リポマヌス、リラのニコラウス、聖アンブロシウスの見解であり、アブラハムの家族に属するすべての者――奴隷たちのみならず自由な僕たちさえも――がここで割礼の義務を負うと考えるものである。第二はペレリウス、ソトゥス、ハレスのアレクサンデル、ボナヴェントゥラ、ルペルトゥスの見解であり、いかなる成年の奴隷も自ら進んで同意しない限り、自身または子孫の割礼を義務づけられることはなかったとするものである。スアレスもこの見解に傾いている(第三部、問題七十、第二条、区分二十九、第二節)。すなわち、「買い取られた奴隷は割礼を受けるべし」とは、もし彼が汝の民のもとに移り、ユダヤ人になることを望むならば割礼を受けてもよい、という意味であるかのようにである。第三の見解は最も聖書に適合するものであり、アブレンシスのものである。自由な僕でも雇い人でもなく、奴隷すなわちヘブライ人の財産である者は、たとえ異邦人であっても、割礼を受けることを強制された。彼らが家生まれの者(すなわち主人の家で生まれた者)であろうと、買い取られた者であろうと――この範疇には戦争で捕らえられた者も含めよ。すべてに同じ理由が当てはまるからである――そうであった。これは驚くべきことではない。アリストテレスが『倫理学』第五巻で述べているように、奴隷は主人の所有物だからである。そしてここでのヘブライ語が述べているとおり、奴隷は主人の価値あるいは金銭的財産であり、金銭で買われた者として主人から金銭のごとく所有される者である。第二に、「割礼を受けるべし」という言葉は命令を意味しており、「もし望むならば」と補うならばその力を弱めることになるからである。ここに定められているのは割礼についての法律なのである。さらにヘブライ語ではヒンモル・ユィンモル、「割礼されて割礼されるべし」すなわち絶対的に割礼を受けるべしとある。そしてアブラハムはこの神の命令をこのように理解したと思われる。第二十三節において、アブラハムがイシュマエルとすべての奴隷たちに「神が命じたもうたとおりに」割礼を施したと記されていることから十分に明らかである。ゆえに割礼は奴隷たちに対して単に許されたのではなく、命じられたのである。神がアブラハムとその子孫にこれを課したように、彼らの奴隷にも課したのである。奴隷は主人の財産であるからである。とりわけ、割礼とユダヤ教は当時奴隷たちにとって有益で名誉あるものであったからである。それによってアブラハムの家族と神の民に加えられたからである。第三に、そうでなければ奴隷と雇い人の間に区別がなくなったであろう。しかし神は出エジプト記第十二章四十四節でこの区別を設けたもうている。なぜなら雇い人もまた望めば割礼を受け、それによって過越を食することができたからである。区別は次のとおりであった。すなわち奴隷は割礼を義務づけられたが、雇い人はそうではなかった。この律法の理由は、アブラハムの家族全体が神に捧げられ、神の礼拝、信仰、救いがより多くの人々に広まるためであった。愛と自発的意志によらずとも、少なくとも恐れと強制によって。なぜならあの時代と律法は子たちのものではなく、僕たちのものであったからである。最後に、アブラハムとその子孫が神によってこの重荷を課されたことについて不平を言えなかったとすれば、アブラハムの奴隷たちがそれについていかなる不平を言い得ようか。
第14節:その魂は滅ぼされる
「その魂はその民から滅ぼされる。」――ヘブライ人たちはこれを次のように説明する。すなわち、もしユダヤ人のうちの誰かが割礼を受けなかったならば、五十歳に至る前に、しかも子なくして死ぬであろうと。彼らはこれがそのように起こるという夢を伝えている――いやむしろ、彼ら自身が作り話をしているのである。
第二に、ディオドロスとカイェタヌスは、ここでは成人についてのみ語られており、もし彼が自分自身またはその家族の割礼を怠るならば裁判官によって死刑に処されることがここで命じられていると主張する。しかし先行する諸節、とりわけ第十二節から明らかなように、神はここですべての無割礼の者に対し、幼児であっても死の罰をもって脅したもうているのである。
第三に、ヴァタブルスはこう説明する。「その魂は滅ぼされる」とは、その人はわが民のうちに数えられず、アブラハムの子とも、カナンおよびわが他の約束の相続人とも見なされないということである。さらに、彼は割礼によって予型されたキリストの受難にも与ることなく、したがって恩寵によってもたらされる心の霊的な割礼を得ることもなく、カナンがその予型であった天の国の相続人ともならない。すなわち、彼は割礼によって除かれるべき原罪のうちに留まっているからである。聖アウグスティヌスとルペルトゥスもそう述べている。
第四に、第二と第三の解釈を次のように結合するならば、最善にして最も十全な意味が得られるであろう。すなわち、たとえ幼児であっても割礼を受けなかった者は、成年に達したとき裁判官によって死をもって罰せられる。なぜなら割礼を怠ったのは幼児期においてではなく青年期においてであるからである。その時にはすでに理性の年齢にあるのであるから、両親の怠慢を補い、割礼を受けるよう取り計らう義務があった。これが意味するところであることは、続く言葉から明らかである。「彼がわが契約を破ったからである」、すなわち侵犯したからである。これは幼児期にはなし得ないことであり、理性の年齢に達した青年期になし得ることである。
第二に、「滅ぼされる」に対してヘブライ語ではニフレタすなわち「断ち切られる」とある。民から断ち切られることは殺されることと同じである。同様の仕方で安息日の侵犯者は民から断ち切られるよう、すなわち裁判官によって殺されるよう命じられている(民数記15章31節、ヘブライ語において)。ペレリウスもそう述べている。この律法によってユダヤ人が割礼を怠った成人を死をもって罰したことには疑いの余地がない。
さらに霊的には、ここで肉体的な死によって意味され、意図されているのは、割礼を受けなかった者――幼児として受けなかった者(なぜなら魂の死は神によって幼児にも課され得るが、裁判官による肉体的な死はそうではないからである)であれ、成人として怠った者であれ――の魂の霊的な死と永遠の滅びである。すなわち、この理由のゆえに彼はアブラハムの家族から、神の民と教会から、したがって天の遺産から断ち切られるのである。ゆえに七十人訳はこう記している。「八日目に割礼を受けなかった幼児はその民から滅ぼされる。」しかし「八日目に」はヘブライ語にもラテン語にもなく、誰かが挿入したものと思われる。なぜならそれは先の意味を変えてしまうからである。
「彼がわが契約を破ったからである」――厳密には、わたしが述べたように青年期においてである。第二に、幼児期においては非本来的かつ受動的にであり、次のような意味である。すなわち、わが契約は幼児期に彼においては破られ侵犯されたが、それは彼自身の罪によるのではなく両親の罪による、あるいは偶然によるのであり、ヘブライ語のヒフイル態がカル態の代わりに用いられている。聖アウグスティヌス(ルペルトゥスも従う)は『神の国』第十六巻第二十七章でそう述べている。しかし聖アウグスティヌスは七十人訳に従って「八日目に」を読みつつ、ここでの契約を、禁じられた実を食べないことについて神がアダムと結んだ契約と理解している。アダムがこれを破ったゆえに、子孫とともに滅び、永遠の死の負債を負った。そしてこの死は実際に、アダムのこの罪を割礼によって償わなかったすべての者に臨んだのである。しかし先行する諸節から明らかなように、これはアダムとの契約についてではなく、アブラハムとの契約(第十節)について、すなわち割礼がそのしるしであった契約について理解されるべきである。
第15節:サラ――名の変更
「汝はもはやサライと呼んではならず、サラと呼ぶべし。」――「サライ」は「わが女君」あるいは「わが女主人」すなわち「わが家の女主人」と同じ意味である。しかし「サラ」は絶対的に「女君」「女主人」を意味する。次のように言っているのである。今まではサライは一人の夫と一つの家庭の女主人であった。しかし今や彼女はサラ、すなわち絶対的な女君にして女主人となる。なぜなら彼女はイサクを通じて多くの国民の、いや実にすべての国民の母となるからである。イサクからキリストが生まれ、キリストはすべての信仰深きキリスト教諸国民の父となるからである。したがってサラはこれらの者たちの祖母、母、女主人、女君となる。聖ヒエロニムス、聖アンブロシウスらもそう述べている。
注意すべきことがある。ヘブライ人、ギリシア人、ローマ人の慣習として、妻は夫を「主人」と呼び、逆に夫は妻を「夫人」と呼び、このようにして相互の敬意と愛を表現し育んでいた。ゆえにサラはアブラハムを己の主人と呼び、アブラハムもまたこれに応えて彼女をサラすなわち夫人と呼んだのである。
第二に注意すべきこととして、「サライ」にヘーの文字が加えられて「サラ」となった。その理由は第五節で述べた。
寓意的には、サラは教会の予型であると聖アンブロシウスは述べている。教会はその子たちとすべての国民を至って賢明に治めるからである。
第16節:われは彼女を祝福する
「われは彼女を祝福する」――不妊にして老いた彼女を自然を超えて、奇跡によって豊かにし、イサクを産ませるのである。
「王たち」――第六節で挙げた王たちのことである。
第17節:アブラハムは笑った
「アブラハムはひれ伏し、云々、そして笑って心のうちに言った。『百歳の者に子が生まれるだろうか。』」――アブラハムは神の約束を疑ってはいない。聖ヨハネ・クリソストモスと聖ヒエロニムスの主張するとおりである。なぜならモーセが十五章六節で、パウロがローマ書四章十九節でアブラハムの信仰を称賛しているからである。しかしこの言葉は、かくも大いなる、かくも新しい、かくも前代未聞の恩恵に歓喜し、祝賀し、驚嘆する魂の言葉である。ゆえにアブラハムは、ある者たちが主張するような不信仰からではなく、最も深い謙遜と畏敬から――あたかも自分にはサラからイサクが生まれるに値しないと認めるかのように――まだ生まれていないイサクのためではなく、すでに生まれたイシュマエルのために祈って言ったのである。「せめてイシュマエルが御前に生きますように。」聖アンブロシウス、聖アウグスティヌス、ルペルトゥスもそう述べている。「アブラハムの笑いは」と聖アウグスティヌスは『神の国』第十六巻第二十九章で述べている、「祝賀する者の歓喜であって、疑う者の嘲笑ではない。」
カイェタヌスとペレリウスは、アブラハムが疑ったのは神の力や神の約束の真実ではなく、この約束が字義通りに音のごとく理解されるべきか、それとも譬喩的、象徴的、あるいは謎めいた意味で理解されるべきかについてであったと付け加えている。しかしそのようなことはない――実際、モーセもここで、パウロもローマ書四章十九節で、むしろ反対のことを示唆している。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。」――アブラハムは百歳であったゆえに、生殖に関して絶対的に不能であったのか、それとも相対的にのみ不能であったのかと問うであろう。ある者たちは、いかなる女に対しても絶対的に不能であり、したがって奇跡によって彼の活力と生殖能力の完全な回復が絶対的になされたのだと主張する。彼らの証拠は、使徒がローマ書四章十九節でアブラハムの体を絶対的に「死んだ」と呼んでいることである。わたしもその箇所でそのように説明した。
しかしより深く考察すれば、アブラハムは絶対的にではなく、相対的にのみ生殖不能であったというのがわたしにはより蓋然的に思われる。すなわち妻サラに対してのみである。彼女は九十歳であり、すでに月のものが止んでいたからである。このような女からは百歳のアブラハムは子孫を起こすことができなかった。しかしより若い女からならば可能であった。なぜなら、サラの死後、百三十七歳のとき、ケトラから六人の子を儲けているからである。ケトラは若く、健やかで、豊かであったからである。ケトラに対しては、その老齢にあってもなお十分な活力と能力を保っていたのであるが、サラに対してはそうではなかった。ゆえにここで神から奇跡によってそれを受けるのである。
これがそうであることは第一に次のことから証明される。アブラハムはイサクの誕生後なお七十五年間生きた。ゆえにイサクを儲けたとき、その生命力、したがって生殖能力は完全に死んではいなかったのである。第二に、当時の人々は二百歳まで生きていた。たとえばアブラハムの父テラは二百三年生きた。ゆえに百歳で老衰し生殖不能であったはずがない。さもなくば人生と年齢の半分を老衰のうちに過ごしたことになり、それは異例であり自然に反する。第三に、アブラハムの孫ヤコブは――アブラハムよりも大きな牧羊の労苦にあった者であるが――百七歳でベニヤミンを儲けている。これは第三十五章十八節で示すとおりである。ゆえにアブラハムは百歳で子を儲けることが可能であった。
この論拠に対してわたしは次のように応答する。使徒がアブラハムの体を「死んだ」と呼ぶのは絶対的にではなく、相対的に、すなわち妻サラとの関係においてである。ゆえに使徒は付け加えている。「サラの死んだ胎も。」なぜなら「も」という接続詞は「彼の死んだ体」と結合的かつ一体的に説明されるべきだからである。アブラハムの体が完全に死んでいなかったことは確かである。なお七十五年間生きたからである。使徒はゆえにこの箇所を暗示しており、ここで語られているのと同じことを述べている。すなわちアブラハムは百歳、サラは九十歳で、その体は互いからは子を儲けることができないという意味で「死んでいた」のであるが、他のより若い女からであればアブラハムは可能であった。聖アウグスティヌス、エウケリウスらもそう述べている。
注意せよ。神はアブラハムの信仰、希望、忍耐を試し鍛えたもうた。約束された子孫という重大な事柄を二十五年間も遅らせたのである。神はアブラハムが七十五歳のときにそれを約束されたが(第十二章三節)、ここでアブラハムが百歳のとき、自然的にはもはや望みなき事態と思われたときに成就されたのである。
第18節:せめてイシュマエルが
「せめてイシュマエルが御前に生きますように。」――アブレンシスはこれを二つの仕方で説明する。第一に、感嘆的にである。すなわち、主よ、汝がイサクを与えたもうほどの大いなる善をわたしになそうとされるのであるならば、わが子イシュマエルもまた御前に生きますように、願わくは。第二に、アブラハムは、神がもう一人の息子すなわちイサクを与え、そのうちに祝福が成就されることを望みたもうているのを見て、神がイシュマエルを殺し、あるいはその日を縮めようとしておられるのではないかと恐れた。ゆえにイシュマエルのために祈って言ったのである。「せめてイシュマエルが生きますように。」しかし、わたしが少し前に述べたように、より正確には次のとおりである。アブラハムは最も深い謙遜と畏敬のゆえにイサクのために祈る勇気を持たず、イシュマエルのために祈ったのである。すなわち、せめてイシュマエルを生かし、第十六節で汝がわたしに生まれると約束されたイサクを祝福されたように、イシュマエルをも祝福してくださいますように、と。わがイシュマエルが御前に生きますように、すなわち御心に適い、御命令に従いますように、と。聖アンブロシウスとヴァタブルスもそう述べている。
したがって神が第二十節でアブラハムに対して同じことを承諾し許したもうたのであるから、ヘブライ人たちはここから蓋然的に推論して、イシュマエルは悔い改めをなし、神の御心に適い、正しく義しく生き、救われたとする。ゆえに第二十一章二十節では神が彼とともにおられたと言われ、第二十五章十七節では死後イシュマエルがその民に加えられたと言われている。
しかしリポマヌスやペレリウスなど他の者たちはイシュマエルの救いについて疑っている。カイェタヌスもそうであり、こう記している。「イシュマエルは人類のうちで最初に神から名を受けた者であった。しかしこのかくも新しく小さくない恩寵をもってしても、彼が善人であったか悪人であったかは知られていない。」
第19節:サラが産む――イサク
ヘブライ語ではアバルすなわち「否、実に」が付加されている。すなわち、イシュマエルが汝の後に生き残るのみならず、サラもまた汝にイサクを産むであろう、と。
イサク。――イサクは「笑い」を意味し、語根ツァハクすなわち「彼は笑った」に由来する。イサクがこう名づけられたのは、神から自分に息子が生まれると聞いたとき(第十七節)のアブラハムの笑いと喜びのゆえである。その後サラもまた同様にこの息子の誕生を笑い喜びつつ、すでに与えられたこの名を繰り返し確認している。第二十一章六節にこうある。「神はわたしに笑いを与えてくださった。聞く者はみなわたしとともに笑うであろう。」
寓意的には、イサクはキリストの予型であった。キリストは全地の笑いと喜びであったとルペルトゥスは述べている。
「われは彼とわが契約を立てん。」――イサクは汝と結んだ契約の相続人となる。したがってこの契約によって約束したすべてのものは、イシュマエルではなくイサクとその子孫に帰するのである。たとえば、汝とその民にカナンの地を与えること、汝とその民の神となり、彼らがわが民となること、汝の種(キリスト)においてすべての国民が祝福されること、がそれである。
第21節:イサクと共に
「イサクと共に」――すなわち、イサクと共にである。ヘブライ語およびカルデア語の本文はそう読んでいる。「この時に」――今年のこの時期に。「翌年」――すぐ次の年である。
第22節:神は上り去られた
「神はアブラハムのもとから上り去られた。」――神を代理する天使がアブラハムの目から身を隠し、天に帰ったのである。マノアに現れた天使もまた同様にした(士師記第13章第20節)。
第23節:直ちにその日
「直ちにその日のうちに。」――ここでアブラハムとその全家族が割礼を受けた際の、迅速かつ敏捷な従順を注目せよ。主人の如くしもべたちも然りであり、しかもその数は容易に四百人に達した。アブレンシスは言う。「真に従順な者は遅滞を知らない。命令が下されたならば行動において長く思案することもない。ちょうど真に徳ある者が、協議がなされた後に何もせず留まることがないのと同じである。アリストテレスが『倫理学』第6巻、善き助言についての章で述べるとおりである。従順と善き助言とは同じ位置を占める。なぜなら、完全な熟慮の後には行動することのほかに何も残らないのと同じく、命令が示されたならば、従順な者にとってはただ行動のみが続くからである。」
また聖ベルナルドゥスはその「従順の徳について」の説教において言う。「忠実な従順者は遅滞を知らず、明日を避け、怠惰を無視し、命じる者に先んじ、見るために目を、聞くために耳を、語るために舌を、働くために手を、旅のために足を備え、命じる者の意志を果たすために自らのすべてを集中する。」また聖ベネディクトゥスはその修道規則において言う。「完全な従順は、自らの不完全な業を後にする。」またダビデは詩篇第17篇第45節にこう言う。「耳の聞くところに従って彼はわたしに従った。」かくしてペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコブは、キリストに召されるや直ちにすべてを捨てて主に従った。天使たちもまたそのようにする。詩篇作者は彼らについてこう言う。「主はその天使たちを霊となし、そのしもべたちを火の炎となし給う。」星々もまたそのようにする。星々は「呼ばれて『ここにおります』と言った」のである。また稲妻についても、神はヨブに向かって第38章第35節でこう仰せられる。「汝は稲妻を遣わすことができるか。それらは行き、帰りて汝に言うであろうか、『ここにおります』と。」異教徒の言葉をも聞け。クセノポンによれば、キュロスは兵士クリュサンタスを称賛した。クリュサンタスは戦いにおいて剣で敵を打たんとしていたが、退却の合図を聞くや打撃を加えなかった。なぜ敵を赦したのかと問われて答えた。「指揮官に従うことは敵を殺すことに勝るからである。」セネカの書簡第106で引かれた哲学者クレアンテスの言葉を聞け。「わたしを導き給え、父よ、高き天の支配者よ、御心のままに。従うに遅滞なし。わたしはここにあり、喜びて参ずる。」
第25節:十三歳
「十三歳。」――それゆえサラセン人たちは、その父祖イシュマエルの先例に倣い、十三歳で割礼を受けるのだと、ヨセフスは『古代誌』第1巻第12章で述べている。しかしこの点において彼らは、すべての者が生後八日目に割礼を受けるよう命じた神の律法(第12節)を守っていないのである。
本章の神秘的意味については、ルペルトゥスの第5巻第28章から第38章までを参照せよ。