グイゴ一世

省察

(Meditationes)


第一章 真理と平和について、そして平和はいかにして真理のみによって得られるか。

真理は、何か美しいもののように、衆目の前に置かれなければならない。もし誰かがそれを忌避しても裁いてはならず、ただ憐れみなさい。しかし、あなたは真理に至ることを望んでいながら、自分の悪徳を叱責されると、なぜそれを退けるのか。真理がどれほど苦しんでいるかを見よ。酔いどれには「おまえは酔いどれだ」と言われ、好色な者、高慢な者、饒舌な者にも同様に言われる。そしてこれは真実である。しかし彼らはたちまち激昂し、その説教者のうちにある真理を迫害し、殺すのである。虚偽がどれほど敬われているかを見よ。あらゆる悪徳の奴隷であるこの上なく邪悪な人々に対して、「善き主人たちよ」と言われる。彼らはなだめられ、喜び、そのように語る者のうちにある虚偽を崇めるのである。

見目も麗しさもなく、十字架に釘づけられた真理を、我々は礼拝しなければならない。

被造物が高貴で力あるものであればあるほど、それだけ進んで真理に服従する。いや、まさに真理に服従するからこそ、力あるものであり、高貴なのである。

現世のものがあなたを刺す――なぜ他のもの、すなわち真理へと逃れないのか。

真理がすべての逆境以上に我々にとって苦いのは、個々の逆境が一つまたは複数の快楽を攻撃するのに対し、真理はそのすべてを一度に告発するからである。

もしあなたがすべての色彩と、目を通して経験しうるその他すべてのものを経験し尽くし、あるいは他の身体の感覚を通して経験し尽くしたとしても、もしすべての報告を語り、あるいは聞いたとしても――何の益があろうか。あなたが経験し聞いてきた多くのことについても同様である。

あなたは自分自身の不義によらなければ、誰をも憎むことはできない。なぜなら悪人にさえ善を願うことは、聖なる者たちにこそふさわしいことであるからだ。ただ真理と、そこから生ずる平和のみを愛すべきである。

真理の奉仕者は、自分が奉仕するもの(真理)と、奉仕の相手を愛するがよい。そして同じことが他者によって自分に奉仕されるとき、自分が愛するものとして、感謝をもってそれを受け入れるがよい。

真理を語る理由は愛徳でなければならない。それは癒しの場合と同様である。もし誰かがそれを受け入れないならば、あなたはその人を憐れんでいるか、あるいはその人を愛していないか、あるいはその人が軽んずるものをあなた自身も取るに足らないと考えているかのいずれかである――病人が癒しの薬を拒むようなものである。

真理には終わりなき平和が続き、それは天使たちと共有される。虚偽には労苦と悲しみが続き、それは悪魔と共有される。真理が弁護を必要とするのではない――むしろ、あなたが真理を必要としているのである。

真理はあなたの同胞にとってこの上なく苦く不快であるが、それは真理自身の過ちによるのではなく、彼らの過ちによるのである――ちょうど明るい光が弱い目にとってそうであるように。それゆえ、あなたがそれをしかるべきように、すなわち愛徳をもって語らないことによって、より苦くしないよう注意せよ。なぜなら、心ある医師が病人に有益だが苦い薬を与えるとき、杯の縁に蜜を塗り、甘いものが喜んで口にされる間に、癒しとなるものも同じ一口で容易に飲み下されるようにするからである。しかもあなたの務めはすべて、人の益となることにある。

もしあなたが真理を、真理への愛からではなく、他者を傷つけたいという望みから語るならば、真理を語る者の報いではなく、侮辱者の罰を受けることになるであろう。

真の光があなたを完全にあなた自身に顕わにしたとき、あなたがどれほどの苦悩を受けるか見よ――ただ一言によってその悪の一端を示される者でさえ、すでにこれほど苦しむのである。なぜなら、そのとき心の企みが露わにされるであろうからだ。

あなたは、他者を非難する場合も、他者から非難される場合も、等しく罪を犯す。なぜなら、いずれの場合にもあなたは、真理を悪しく受け取るか、あるいは悪として真理を加えているからである。それゆえ、あなたを鞭打とうとする者は、あなたの生、すなわち真理を捉えよ。それによってあなたを打ち、苦しめよ。

真理は命であり、永遠の救いである。それゆえ、真理を不快に思う者を憐れむべきである。なぜなら、その限りにおいて、その者は死に、滅びているからである。しかし、ひねくれたあなたは、それが相手にとって苦く耐え難いと思わなければ、その者に真理を語ろうとはしないであろう。なぜなら、あなたは自分を基準にして他者を測るからである。しかし最も悪いのは、人々を喜ばせるために、彼らが愛し崇めるような真理を、虚偽やへつらいと同じように語ることである。それゆえ、真理は不快だからと言って語るのでもなく、快いからと言って語るのでもなく、益となるように語るべきである。害を与えかねない場合にのみ沈黙すべきであり、それは光が弱い目を害するのと同じである。

パン、すなわち真理は、人の心を強め、身体の形姿に屈服させないようにする。

真理の認識と愛によってのみ心が動かされ、あるいは感化され、身体もまた心そのものによってのみ動かされる者は幸いである。なぜなら、そのようにして身体もまた真理のみによって動かされるからである。もし心に真理の動き以外のものがなく、身体に心の動き以外のものがなければ、身体にもまた真理の、すなわち神の動き以外のものはないであろう。

あなたはすべてのことを平和のためになすが、平和に至る道はただ真理のみを通る――そしてその真理はこの生における、あなたの敵対者である。それゆえ、真理をあなたに従わせるか、あなた自身を真理に従わせるかしなさい。なぜなら、あなたに残されているのはこの二つ以外にないからである。

逆境は平和を望めと警告する。しかし、盲目となったあなたは、あなたがそれを愛し望む限り、平和を得ることが全く不可能であるようなものを望むのである。

なぜあなたは他者においてあれほど不快なもの、すなわち怒りを、自分の中に引き入れるのか。あなたは怒る。なぜなら、彼が怒るからである。むしろ、あなた自身が怒っているがゆえに、自分自身に怒りなさい。もし怒りが真にあなたにとって不快であるならば、それを受け入れるのではなく、逃れるであろう。これはひとえに平和を保つことによってのみ達成される。

池は水が豊かだからと言って誇りはしない。なぜなら、水は泉から来るのだからである。あなたの平和についても同様である。なぜなら、平和の原因は常に何か別のものであるからだ。それゆえ、あなたの平和は、それが生ずるもとのものが移ろいやすいのと同じだけ、弱く欺きやすいのである。人の顔の快さから生ずるとき、それはいかに空しいことか。

すべての人は安全であることを望む。しかしこの安全は、より多く乱され得るほどに、より少なくなる。そして人は、自分が愛するものが自分の望みに反する状態になりやすいほど、より多く乱され得る。それゆえ、誰かがあなたに言うとしよう、「私はおまえに害を加えよう。おまえの平和を奪おう。おまえについて確かに悪しく思い、あるいは悪しく語ろう」と。見よ、あなたはいかに容易に苦しめられ、乱されることか。

現世のものがあなたの平和の原因であってはならない。なぜなら、そのような平和はそれらと同じく空しく脆いものとなるからである。そのような平和は獣と共有するものであろう。あなたの平和は天使たちと共有するもの、すなわち真理から生ずる平和であるようにせよ。

平和と幸福のためにあなたが保持し愛してきたものは何であれ、それを軽んじなさい――さもなければ平和と幸福を完全に失うことを望むことになる。

平和とは、それが宿る魂の善である。それゆえ、快い味わいのように、それ自体のために求められるべきである。あなたのうちにそれが大きくあり、悪しき者をも排除しないほどであるように。

「あなたがたの心を騒がせてはならない。また恐れてはならない」(ヨハネ14:27)。これこそ真の安息日である。誘惑されることもなく、強制されることもない者がこれを祝う。この者は自分自身を自らの力のもとに置いている。この者は自分自身から施しをすることができる。すなわち、他者が適切と見なすままに、怒ったり宥められたりすることができるのである。

現世的な平和への愛は、必然的に心の不安を生む。それゆえ、この平和を持ち、これを愛する者は、必然的に平和を欠いている。

あなたに悪を行う者を妬まなければ、その者たちとの間に平和を持つであろう。

すべてのものが類似と平和によって存続するように、非類似と不和によってすべてのものは滅びる。


第二章 自己に対する有益な不満について、および罪の謙遜な告白について。

真理に立ち帰る始まりは、虚偽のうちにある自己を不快に思うことである。矯正に先立つのは叱責である。なぜなら、不快に思わないものを変えようとは思わないからである。それゆえ、あなたは常に変えられる必要があるのだから、常に自己を不快に思う必要がある。

あなたの救いのために行うすべての配慮のうちで、自分自身を叱責し、軽んずることほど有益な務めも治療もない。それゆえ、誰であれこれを行う者は、あなたの助け手である。なぜなら、その者は、あなたが救われるために行っていた、あるいは行うべきであったことを行っているからである。

あなたが自己に満足するのは、自分からは何の善も得ていないことを理解していないからである。あなた自身からは悪しかない。それゆえ、あなたは自分に対していかなる感謝も負わない。すべての悪はあなた自身から来る。それゆえ、報いとして大きな罰を負っている。

神への道は容易である。なぜなら、荷を降ろすことによって進むからである。もし荷を負うことによって進むのであれば、困難であったろう。それゆえ、すべてのものを捨て去り、自分自身をも否定するほどに身を軽くしなさい。

自分が取るに足らない者であると知る者は、叱責を自分自身の判決であるかのように、静かに、謙遜に受け入れる。しかし称賛は、自分自身の判決ではないものとして退ける。

誰かがあなたについて悪を言うとき、もしそれが真実でなければ、それはその者を害するのであって、あなたを害するのではない――ちょうど金を糞と呼んだところで、金に何の害があろうか。もしあなたについて言われることが真実であるなら、何を避けるべきかを教えられるのである。しかし善を語る者は、称賛される者ではなく、自分自身を益する。あなたについて善きことを言われるとき、あなた自身がよりよく知っている噂をなぜ語って聞かせるのか。ただ自分自身を叱責せよ。

各人は自らの悪徳から逃れよ。なぜなら、他者の悪徳がその人を害することはないからである。あなたの衣服とあなたの冠は絶えざる偽りである。なぜなら、それらは欠けているものを表しているからである。

誰かが窃盗を犯したことを悲しむとき、それから生じた不名誉のゆえにそうするなら、窃盗を悔いているのではなく、不名誉を被ったことを嘆いているのである。罪を犯すことではなく、罰せられることを恐れ、あるいは悪と見なしているのである。しかし義人にとっては、罪を犯すことと罰せられることは別のことではない。彼らは罪そのものを最も残酷な罰と見なし、それゆえいかなる不義も罰を免れ得ないと考える。なぜなら、罪の不義そのものが大きな罰であり、誰にもこれ以上悪しきものを加えることはできないからである。そしてこの理由から、たとえ他のいかなる悪がそこから生じなかったとしても、あらゆる悪の中でこれを最も避け、逃れるべきものと判断するのである。

もし誰かを憎むべきであるなら、自分自身ほど憎むべき者はいない。なぜなら、あなたほどあなたを害した者はいないからである。

もし叱責されなければ何も改善されないのであれば、叱責されることを望まない者は改善されることを望まないのである。なぜなら、こう記されているからである。「戒めを憎む者は愚かである」(箴言12:1)。「しかし、叱責に聞き従う者は思慮を得る」(箴言15:32)。

告白について。

ファリサイ人が高慢にも面と向かって言い放ったことを、徴税人が謙遜に告白しなかったならば、救いへの帰還はあり得なかったであろう。

あなたが義であるのは、ただこのことにおいてのみである。すなわち、自分の罪のゆえに断罪されるに値すると認め、そう宣言することにおいてである。もし自分を義であると称するなら、あなたは偽り者であり、真理であられる主によって、主に逆らう者として断罪される。自分を罪人と称しなさい。そうすれば、真実なる者として、真理であられる主と一致し、解放されるであろう。

告白する者たちのために赦しを得るよう執り成すことは偉大な者の務めである。しかし、自らの罪を未だ認めていない者たちのために、認めるよう慈愛をもって嘆願すること、また、恥じているがゆえに、あるいは罪を愛しているがゆえに告白しない者たちのために、告白するよう嘆願することは、より偉大な者の務めである。

復讐しようとするすべての理性的な魂は、自らが恐れ、忌み嫌い、悪と見なすものを他者に加える。しかし、復讐のために真理ほど貪欲に捉えるものはなく、これほど激しい精神をもって加える悪もない。それゆえ、自分について真理を語られることほど忌み嫌うものはないのである。なぜなら、敵対者が他者について語ることは、それを言われた者が謙遜にそれを認めれば、永遠の救いに値するようなものであるからだ。姦通者を姦通者と呼ぶ者は、姦通者自身が自らの救いのために自発的に告白すべきことを、悪として語っているのである。それゆえ、これを喜んで受け入れ、どのような意図で語られたかではなく、何が自分に語られたかに注目せよ。

真実であると見せかけるのではなく、真に真実であることを愛し、偽り者であると見せかけるのではなく、真に偽り者であることを恐れる者は、自分が偽ったことに気づくやいなや、自らに反論し、いかなる侮辱も損害もこれを妨げない。なぜなら、真実な者は偽り者として生きるよりも死ぬことを望むからである――もし偽り者が生きているとすればの話であるが。なぜなら、こう記されているからである。「偽りを語る口は魂を殺す」(知恵の書1:11)。

あなたが隠そうとするもの、すなわちあなたの罪を糾弾せよ。そうすれば、もはや隠すべきものはなくなるであろう。なぜなら、あなたはそれを消し去ることはできるが、隠すことはできないからである。覆われていて露わにされないものはなく、隠されていて知られないものはないからである。それゆえ、なぜあなたは病を癒すよりも隠すことを好むのか。身体の病を、同情してもらうために喜んで他者に見せ、信じてくれなければ自分を哀れだと思い、痛みは増し、怒りさえ覚えるのと同じように、魂の病についてもそのようにせよ。


第三章 五感の快楽と卑しい歓びについて。

二つの経験を考えてみよ。すなわち、取り入れることと排出することである。どちらがあなたをより幸いにするか――一方を通して経験するものか、それとも他方を通して経験するものか。前者は無用なもので重荷を負わせ、後者は荷を降ろす。それぞれが何の益をもたらすか考えよ。これこそ、すべてを経験によって飲み尽くしたということの意味である。もはやいかなる望みも残されていない。すべての感覚的なものについても同様である。それゆえ、このようなすべてのものが、望みにおいてであれ現実においてであれ、あなたにいかなる幸福をもたらしたか見よ。そして将来についても同じように考えよ。過去の繁栄を思い返し、そのように将来を判断せよ。あなたが望むものはすべて滅びるであろう。そしてあなたは――そのとき何であるのか。過ぎ去らないものを愛し、望みなさい。

あなたは火に焼かれる木を色彩で飾ろうとする。あなたが消費するものを美しくしようとするとき、それが食物であれ衣服であれ、そうなのである。あなたに必要なのは寒さに対する衣服であって、この色やあの色ではない。同様に飢えに対する食物であって、この味やあの味ではない。

獣的な快楽は肉の感覚から来る。悪魔的な快楽はすべての高慢、嫉妬、欺瞞から来る。哲学的な快楽は被造物を知ることから来る。天使的な快楽は神を知り愛することから来る。

移ろいゆく快楽のうち、より多く歓ばせるものは、またより致命的である。

あなた自身が作ったようなものを追い求め、あなたが破壊するもの、すなわち味覚やその他の感覚的なものに魂を傾けることは、同等あるいはそれ以上の愚かさである。

「主は彼らを諸方の地から集められた」――すなわち、聖なる魂を味覚、香り、肉の触覚から引き離し、御自身のうちに集められるのである。

このように人々は真の快楽あるいは至福を作り出そうとする。あたかもそれが存在しないか、あるいは作り出し得るかのように。しかし真にはそれのみが存在し、いかなる方法でも作り出すことはできないのである。これを試みることは、自分のために神と至福を造ることであり、至福が存在しないと、神が存在しないと想定することである。

すべての人が他のすべてのことを捨て、ただ一つの色あるいは味覚に全身全霊を捧げたならば、いかに惨めで、醜く、愚かであるかを見よ。彼らがこれほど多くの多様な事物の性質に心を向けている今も、それと全く同様に惨めなのである。なぜなら、多くの被造物、あるいはすべての被造物を合わせても、そのうちのいずれか一つと比べて、より我々の神であるわけでもなく、より我々の救いであるわけでもないからである。

我々が獣と同じもの――すなわち犬のように好色さを、豚のように貪食を、その他同様のものを――喜ぶとき、我々の魂は彼らの魂と同じようになり、しかも我々は身震いしない。しかし私は、犬の魂を持つよりも犬の身体を持つ方がましであろう。しかもなお、好色さによって我々の魂が犬の魂に似ていくのと同じ程度に、我々の身体が犬の身体に似ていくとしたら、誰が我々に耐えられようか。誰が恐れおののかないだろうか。魂が神の像という尊厳にとどまりながら身体が獣に変えられる方が、身体が人間のままで魂が獣的になるよりも、はるかに良く、耐えうることであろう。そしてこの変容は、魂が身体に優るだけ、より恐ろしく、より嘆くべきことである。それゆえダビデは言う。「馬や騾馬のようになってはならない。彼らには悟りがない」(詩篇31:9)。なぜなら、これが身体の類似について言われたと考えるべきではなく、さもなければ滑稽であろう。

食物や飲み物などを、ひたすらより多くの快楽を与えるように仕立てることは、我々の破滅のために悪魔に協力し、剣を研いでより容易に、より深く我々の内臓を貫くようにすることである。なぜなら、我々がこれらのものにおいてより多く歓べば歓ぶほど、より重く、より深く傷つけられるからである。


第四章 滅びゆくものへの欲望と愛着から生じる、この世の子らの空しい恐れ、悲しみ、苦悩について。

人は自ら進んで身体と虚栄への愛に絡めとられるが、望むと望まざるとにかかわらず、それらの滅びに対する恐れと悲しみに苦しめられる。身体そのものが奪い去られるにせよ、自分自身が非難されるにせよ、そうである。なぜなら、滅びゆくものへの愛は、無益な恐れ、悲しみ、あらゆる不安の泉のようなものであるからだ。それゆえ主は、世俗的な愛の束縛から解き放つことによって、貧しき者を力ある者から自由にされる。なぜなら、滅びゆくものを何一つ愛さない者には、いかなる力ある者によっても傷つけられる場所がなく、全く不可侵なのである。なぜなら、不可侵なるもののみを、愛すべき仕方で愛しているからである。

もし誰かがあなたの頭のすべての髪を切り落としたとしても、頭皮に付いているものに触れるときを除いて、あなたを傷つけることはない。同様に、欲望によってあなたの中に根を下ろしたものに誰かが触れなければ、あなたを傷つけることはない。それらがより多く、より愛されているほど、より多く、より激しい悲しみを生むであろう。

欲望を完全に消し去るか、さもなければ乱されること――すなわち、恐れるべきでないものを恐れ、悲しむべきでないことを悲しむこと――に備えよ。

人間の魂は、苦しめられうる限り、すなわち神以外の何かを愛している限り、自らのうちで苦しめられる。なぜなら、神を自らの意に反して失うことはできないからである。神を見捨てることはできるが、失うことはできない。なぜなら、誰も自分自身によらなければ害されないからである。

主があなたを解放してくださった物事への愛――その物事があなたのために滅びるか、あなたがそのために滅びるかであった――それだけ多くの恐れ、悲しみ、嘆きの苦痛から、主はあなたを免除してくださったのである。

身体の外観あるいは形姿――それへの執着によってあなたは汚される――が(神が旋律を奏でるなかで、音節がそれぞれの定められた時に消えるように)滅びゆくとき、あなたは苦しめられる。なぜなら、育った錆が削り取られるからである。

あなたにとって、労苦しないこと以上に労苦なことはない。すなわち、労苦が生ずるもとのすべてのもの、つまりすべての移ろいゆくものを軽んずることほど困難なことはないのである。

あなたの同胞のいかに大いなる群衆が世のために労苦してきたかを見よ。彼らはそれを得られなかったばかりか、その取引において自分自身をも失ったのである。しかしもしあなたが努めるならば、すべての者がそのために労苦し、あるいは労苦してきたものと比較にならないほど多くのものを得るであろう。

魂の愚かな動揺、それ自体が悲惨である。これはあなたのうちにほぼ常にある。それは神が、あなたの死の原因――すなわち、あなたが誤って執着してきた物事――を壊してくださるとき、あなたがそれらを捨てて生きるようにと、そうされるのである。

あなたは侍女を恥ずべき仕方で愛している。すなわち被造物を。それゆえ、その主人、すなわちあなたの神が、正しく御心のままにそれを扱われるとき、あなたはこれほど苦しむのである。

あなたは偉大な歌の一つの音節に執着した。それゆえ、この上なく賢い歌い手が歌い進めるとき、あなたは乱される。なぜなら、あなたが唯一愛していた音節が取り去られ、他の音節がその順序に従って続くからである。なぜなら、歌い手はあなたのためだけに歌うのではなく、あなたの意志に従ってではなく、御自身の意志に従って歌われるからである。そして続く音節があなたに敵対するのは、ただ、あなたが誤って愛していた音節を押しのけるからにすぎない。

歌における音節が占めるもの、それと同じものを、世の推移において各々のものが場所あるいは時において占めている。それゆえ、あなたは苦しめられるであろう。なぜなら、あなたはより劣ったものに執着したのであり、それらは歌における音節のようにその順序に従って過ぎ去るからである。

逆境と呼ばれるこれらすべてのものは、悪しき者たち、すなわち造り主の代わりに被造物を愛する者たちにとってのみ逆境なのである。

もしこの人、あの人が、世のために労苦するのと同じだけ神のために労苦したならば、その誕生日は殉教者のそれとして祝われるであろう。

氷から寒さが来るように、現世のものへの愛から無益な恐れが、他のあらゆる悲惨とともに魂に襲いかかる。恐れの原因となるすべてのものを、寒さの原因を取り除くようにして、自らから取り除きなさい。場所からではなく、魂から取り除きなさい、と私は言う。なぜなら、恐れるべきは、避けることができ、また避けるべきもの、すなわち罪だけであるからだ。そして避けるべきものはすべて、神の助けをもって避けることもできる――すなわち不義を。

あなたがいかに人々の手中にあって、乱され苦しめられやすいかを見よ。彼らが言葉によって、あるいは思いや意見によってあなたを非難できるのと同じく容易に、彼らはあなたを乱すことができる。では、どうか。もし彼らの意に適わなければ、あなたは乱される。それゆえ、あなたは彼らの手中にある。誰かがこれを行おうと行うまいと、あなたは心の態勢によってそのように露わにされている。もし善きことにおいて彼らの意に適わないならば、それは彼らを害するのであり、あなたを害するのではない。それならば彼らの心を変えることに努めよ。あなたの善を変えるのではなく。もし悪しきことにおいて彼らの意に適わないならば、意に適わないことそのものはあなたを害さない――むしろ益する――しかし、あなたの悪こそが害するのである。

殉教者たちは神に向かって言う。「あなたのゆえに、我々は日がな一日殺されている」(詩篇43:22)。あなたはいかなるつまらぬものにでも向かって言う。「おまえたちのゆえに、私は日がな一日乱されている」と。

あらゆる方面から自らを制し、集めよ。移ろいゆくものの渦が、あなたをそれらの中に見出し、あなたが苦しめられることのないように。

あなたが受ける苦しみ、それが恐れによるものであれ、怒りによるものであれ、憎しみによるものであれ、あるいはいかなる種類の悲しみによるものであれ、それをただ自分自身にのみ帰せよ――すなわち、あなた自身の欲望、無知、怠惰に。しかし、もし誰かがあなたを害しようとするならば、それはその者の欲望に帰せよ。あなたの傷と苦痛は、あなたの罪の徴である――すなわち、神を捨てて、傷つきやすいものを愛したということの。

あなたが愛する見世物が損なわれるとき、あなたは嘆く。これを自分自身と自分の過ちに帰せよ。なぜなら、あなたは損なわれうるものに執着したからである。なぜなら、人間はすべての悪を他の何かに転嫁することにあまりにも慣れており、石につまずいたり、火に焼かれたりすれば、神の被造物そのものを非難し呪う大胆さを持つほどである。もし被造物がそうしなければ、むしろ無力で生命なきものとして当然非難されるべきであって、自らの弱さの惨めさを嘆くべきではないかのようである。

乳母は、幼子が雀を受け取れば喜ぶであろうと知っていても、にもかかわらず、その子が雀を手にすることを大いに恐れる。そして、その子がそれによって喜ぶであろうと思えば思うほど、なおさら恐れる。確かにすべての人は、自分自身と愛する者たちが喜ぶことを望む。ではなぜ乳母は、この子にそれを望まないどころか、大いなる悪であるかのようにそれを避けるのか。確かに乳母はその子が喜ぶことを望んでいる。ではなぜ、喜ぶもとになると知っているものを取り上げるのか。なぜか。それは、やがて来る悲しみを見通しているからにほかならない。その悲しみの原因がまさにこの喜びであることを知っているからである。なぜなら、乳母は確かに知っている――先立つ喜びが激しければ激しいほど、その後に幼子の心を襲う悲しみはそれだけ重くなることを。まさに現在の喜びの大きさによって、将来の悲しみの大きさを測っているのである。この行為において、この女性は次のこと以外に何を示唆しているであろうか。すなわち、嘆きが後に続くすべての喜びは、疫病や毒のように避けるべきだということである。それらが存在する間、現在においていかなる甘美さを持っているかに注目すべきではなく、去りゆくときに我々のうちにいかなる苦さを生み出すかに注目すべきなのである。すべての現世的喜びはそのようなものである。ではなぜ私は、同じ先見の明ある注意をもって、葡萄畑、牧草地、広い家、畑の所有を、なぜ金銀を、なぜ人々の評判や称賛や、その他同様のものを避けないのか。ああ、誰が老いてなお愚かな子ども――すなわち全地に広がる全人類――に、ある偉大な、この上なく賢い乳母を与えてくれるだろうか。将来の悲しみの種であるそれらの喜びから、そのような配慮と心配をもって取り上げ、あるいは引き離してくれる乳母を。しかし、全世界にこれほどの涙の呻きがあるのは、この最も慈愛深く最も力ある乳母が、御自身を通して、あるいは他の方法で、人類から悲しみの原因――すなわち現世のもの――を、幼子から雀を取り上げるように、取り去り、あるいは与えないことを決してやめないからにほかならない。


第五章 地上的・現世的事物への欲望・愛着・誇りについて、またそれらによって真の悲惨が除かれるのではなく、かえって増大することについて

二つのものが等しいとき、一方が他方より大きくなるには二つの方法がある。すなわち、自らの増大によるか、あるいは相手の減少によるかである。この後者の方法によって、この世のすべての君主や権力者は、他のすべての者より偉大であることを喜び、あるいはそうなろうと努める。すなわち、他者の卑下と減少によってであり、自らの身体や精神の向上や増大によってではない。なぜなら、彼らの身体も精神も何ら改善されるわけではなく、ただ他者が衰え減少したがゆえに、自分が進歩し成長したように見えるだけだからである。しかし、もしすべてのものがことごとく減少して無に帰したとしたら、それによってあなたの魂や身体はいかなる点で成長するというのか。

煉瓦を作ろうとする者が、乾くまでの間それを置いておく広場を用意するように――そこに永く留まるためではなく、乾いたら他所に移すために――そしてその広場は特定の煉瓦のためではなく、これから作られるすべての煉瓦のために等しく用意されるように、神もこの人間の住処を、人間を創造し、その時が満ちたら他所に移すために造られたのである。そして陶工が先のものを取り除いて新しく作られたものがその場所を継ぐようにするのと同様に、神は死によって、いわば先住者の移動によって、後に続く者たちのために場所を備えられるのである。それゆえ、心の愛着をもって広場にしがみつき、自分がどこに移されるべきかを不安のうちに黙想しない者は、愚かにして狂気の沙汰である。また、煉瓦が移されるとき、それを不当あるいは過酷と思うべきではない。なぜなら、まさにそのために置かれたのだから。そして、自分が必然的に移されねばならないことを考えない者にだけ、そのように思えるのである。彼らは狂気の欲望によって、共有のものであり誰のものでもなく、数え切れぬ将来の住人のために共同で定められたものを、あたかも自分のものであるかのように要求する。まさにこの同じことに、それに劣らぬもう一つの狂気を見よ。これらの煉瓦はほぼすべて同じ大きさであるのに、そのうちの一つとしてただ一つ分の場所で満足するものはほとんどなく、むしろできるだけ多くの煉瓦を追い出し、あるいは砕いて、多くの者の場所を自分一人のために要求するのである。

到底支えることのできない家を、何をもってしても何一つ支えることのできない材料で支えることに、すべての注意と時間を費やす人をどう思うか。いや、たとえ支えられるとしても、その支え自体が、支えるべき家と同じだけの別の支えを必要とし、その支えもまた同じだけを必要とし、かくして無限に続くのである。この生がその家であり、あなたがそれを支える者であり、支えとは現世的事物のことであって、それは決して同じ状態にとどまることなく、支えることも支えられることも全くできないものである。

長い生涯を求める者は、長い誘惑を求めているのである。なぜなら、地上における人間の生涯は試練だからである(ヨブ7:1)。

神がその友人や親族において愛されなかったもの――すなわち権力、高貴な血筋、富、名誉――を、あなたも自分の友人や親族において愛してはならない。

あなたは罠を食べ、罠を飲み、罠を纏い、罠の上に眠る。すべてが罠である。

あなたは愛において、快楽において、愛着において流浪の身である――場所においてではなく。あなたは腐敗の地、情欲の地、暗闇の地、無知の地、邪悪な愛と憎しみの地において流浪の身なのである。

あなたが自分自身を――すなわちこの現世の生を――どれほど愛そうとも、過ぎゆくものをも同じだけ愛さざるを得ない。なぜなら、それらなしにはあなたは存在できないからである。そして逆に、この生とその糧をどれほど軽蔑するかも同様である。

あれやこれやを失ったことがあなたには辛い。ならば失うことを求めるな。なぜなら、保持できないものを愛し、手に入れる者は、失うことを求めているのだから。

すべての悲惨はここに存する。すべての人はある一つのものを主として愛し、常にそこに注意を固定している。しかし、あなたは何に注意を向けているのか。見よ、すべての人が宝を見つけたかのように、各自が世界の個々の部分に飛びつき、それに心を注いでいる。あるいは幾つかのものの間で引き裂かれている。二切れの肉の間に置かれた犬のように、どちらに先に近づくべきか分からず、他方を失うことを恐れている。

もしあなたが信頼し、あるいは喜んでいるものが、自分自身に対して同じことをしたなら――あなたはそれらを愚かなものとして嘲笑するか、むしろ滅びたものとして嘆くであろう。そして、すべての人がかくも狂っているとしても、あなたが狂っていてよいことがあろうか。自分自身がこれほど汚れていても許容するなら、なぜ他の誰をも許容しないのか。あなたが愛するものが被る不幸の数だけ、あなたの心もまた同じ数の不幸に服するのである。

愛すべきでないものを愛する者は、たとえ彼自身もそのものも決して滅びなくとも、惨めで愚かである。なぜなら、偶像崇拝者が惨めなのは、彼の崇拝するものが滅びるからだけだろうか。ならば、もしそれが滅びなければ惨めではないのか。確かに、彼の偶像が存続している間も、崇拝者は身体が健全で現世の財に満ちていても、最も惨めなのである。

逆境があなたを惨めにするのではない。あなたがすでにそうであったことを示し、教えるのである。しかし順境は魂を盲目にし、悲惨を覆い隠し増大させるのであって、除去するのではない。

魂がいかにして物質的なものに捕らえられ、捕らえられた後にいかにして苦しめられるかを見よ――たとえば子供の場合のように。子供は雀を見て心を奪われ、それを手に入れるや、雀自身が被るのと同じだけの不幸に服する。しかし、そのようなものに捕らえられる前、魂はいかに安全であったことか。なぜなら、魂を喜ばせるものがそれを捕らえて離さず、逆境によって罰せられるようにするからである。

船を与えられた私たちは、出会う姿形の移り変わりによって喜んだり悲しんだりしながら、風に運ばれていった。

自らの弱さや醜さですら誇る人間が、いかにして自分の強さや美しさを誇らずにいられようか。なぜなら、馬に乗れば誇り、その醜さが美しい衣服で覆い隠されれば誇るのだから。むしろ、自らの力で馬を担ぐことができるか、少なくとも馬を必要としないのであれば、そしてその輝きで衣服を飾ることができるか、少なくともその装飾を必要としないのであれば、誇ることができるかのように見えるであろう。なぜなら、これらのものやこれに類するものは、彼の窮乏と醜さを証しするからである。

もし自分自身の美しさがあるなら、人はどれほど喜んでそれを見せびらかすことだろう。彼は他者のもの――すなわち毛皮の衣服であれ何であれ、衣服における美しさ――をあれほど喜んで見せびらかすのだから。

現世的なものの獲得を喜ぶ者のために嘆くべきこと、それはその喪失を嘆く者のために嘆くべきことに劣らない。なぜなら、両者ともに熱病に、すなわちこの世への愛に苦しめられているからである。


第六章 賞讃・栄光・好意への無益で卑しい欲望について

もしあなたが人間の評判や好意の本質と力をよく知っていたなら、それらのために少しでも労し、喜び、あるいは悲しむことは決してないであろう。なぜなら、それらはそれを受ける者に何の益も与えないからである。ちょうど色彩やその他の形態が、物体やそれらが宿る事物をかえって醜くするのであって、事物そのものを助けも害しもしないのと同様である。太陽や月が異教徒によって神と見なされたことが、太陽や月に何の益があったか。あるいは、あなたがそれらを被造物と認めることが、それらに何の害を与えようか。そしてもしあなたがそれらを糞であると思ったとしても、何の害があるか。それゆえ、あの草やあの木の本質と力を調べるのと同様に、これらの事物の本質と力を調べよ。神の助けによって、あなたはそれを容易になし得るであろう。そしてこの尺度からすべての他の評判や好意を測るがよい。

ここにおいて、あなたは何が神のみに帰すべきものであるかを認識する。すなわち、いかなるものに対して差し出されても何の益もないもの――認識、好意ある愛、畏れ、崇敬、感嘆、その他がそれである。なぜなら、それらが差し出される相手に何の益ももたらさないという事実そのものが、それらは何をも必要としない方にのみ帰すべきものであることを示しているからである。もし賞讃され、知られ、感嘆されることが有益であるなら、誰もが日ごとに労働者を雇って、絶えず自分にこれらを示させ、休むことなく進歩できるようにしないだろうか。いかなる母親が子供にこれを絶え間なく施さないだろうか。誰もが自分の衣服、自分の領地、自分の家畜、そして自分自身を昼も夜も「善し」と言って、讃えることでそれらをより良くしないだろうか。

それゆえ、これらのものは、それを受ける者に何の益ももたらさない。しかし、それを示す者は、示すことによってより悪くなるか、あるいはより善くなる。もし愛すべきもの、感嘆すべきもの、畏れるべきものを愛し、感嘆し、畏れるなら、より善くなる。愛すべきでないもの、感嘆すべきでないもの、畏れるべきでないものにそうするなら、確かにより悪くなる。その他の場合も同様である。ならば主はなんと慈悲深いことか。主は私たちから御自身の益のためには何も要求されず、もし私たちが常に自分自身に有益なことを行うならば、大いに仕えられたと見なされるのである。

根や草やその他の物事の本質を量るように、評判、好意、賞讃、非難の本質もまた量れ。

各人の愛はすべての人に属するものである。なぜなら、各人はすべての人を愛すべきだからである。それゆえ、この愛が特に自分に向けられることを望む者は強盗であり、それによってすべての人に対して罪を負う者となる。

見よ、この身体に結びつけられて、あなたは十分に惨めであった。なぜなら、蚤の噛み傷やおできに至るまで、身体のすべての腐敗に服していたのだから。しかし、これだけでは足りなかった。あなたは他のものにも、あたかもそれらが身体であるかのように自分を混ぜ合わせた――人々の評判、感嘆、愛、名誉、恐怖、その他同様のものに。そして身体の損傷によって苦しむのと同様に、これらの損傷によっても苦痛に苛まれるのである。あなた自身が、自らを焼く薪を自分に当てがったのである。なぜなら、軽蔑されればあなたの名誉は傷つき、その他も同様だからである。身体の形態についても同様に考えよ。

あの人やこの人があなたを軽蔑したその悪徳と同じ悪徳によって、あなたは臆病者として軽蔑されたことを嘆いた――すなわち傲慢によって。そしてあの者があなたから奪ったその悪徳と同じ悪徳によって、あなたは奪われたものを嘆いた――すなわち滅びゆくものへの愛着によって。

人々が敵対することによって、あるいは助けることによってなし得ることのすべてを軽蔑しない限り、あなたは彼らの感情、すなわち憎悪や愛を軽蔑することはできない。したがって、良い評判も悪い評判も軽蔑することはできない。

見よ、あなたは居酒屋の酒のように、自分の魂の愛やその他の感情を小銭で売り払っている。また見よ、あなたは居酒屋の酒のように、人間の魂の評判や愛やその他の感情や動きを小銭で買い求めている。

この者は賞讃のためにすべての所有物を与え、あの者は腹と喉の快楽のためにすべてを与えた。この二人のうち、どちらがより悪いことをしたか。これは私には分からないが、一方は豚的な快楽に、他方は悪魔的な快楽に駆り立てられたことは知っている。

あなたは人々に愛されたいと思うか。もちろん、彼らが私を助けてくれるように――すなわち、この私の生を助けてくれるように、と。それゆえ、あなたは自分が弱く、彼らの暴力に屈しやすいと感じているからである。それは、あなたがこう言っているのに等しい。「人々が望めば私は死に、人々が望めば私は生きる」と。しかしそれは偽りである。なぜなら、彼らが望もうと望むまいと、あなたは必ず死ぬからである。死を免れるために何ができるか。それゆえ、あなたは人々にあなたのことを偉大な、あるいは善き者と思ってほしいと望む。彼らがあなたを愛するか畏れるように。そして愛するか畏れることによって、助けてくれるか、少なくとも害さないように。逆に、あなたは人々にあなたのことを卑しい、あるいは悪しき者と思われることを恐れ、嫌悪する。彼らがあなたを憎んだり軽蔑したり、害したり、少なくとも助けなくなったりしないように。しかしこれは、神から離れ、不安定で弱いものにしがみつき、頼ることによってあなたが招いた弱さのゆえである。もしそれらの卑しさと弱さを感じなければ、あなたはそれらのために恐れたり嘆いたりしないであろう。しかし、あなたはそれらのために恐れ嘆くのである。すなわち、それらが滅び、あるいは奪われるときに。それゆえ、あなたはそれらの卑しさと弱さを認識しているのである。このゆえに、それらを愛しそれらに頼ることについて、あなたは何一つ弁解を立てることができない。しかし、あるものの弱さを感じつつなおそれに頼り、その卑しさを知りつつなおそれを愛し感嘆するとは、まことに驚くべきことである。それゆえ、このことのゆえに嘆いたり恐れたりするとき、あなたは自分の中に両立し得ないと思われる二つのものが存在していることを示しているのである。すなわち、それらの弱さと卑しさを知り感じていながら、なおそれらを愛しそれらに頼っているということである。なぜなら、この二つのうちの一方があなたの中になければ――すなわち、もしそれらを愛していないか、あるいはそれらの卑しさを知らないかのどちらかであれば――それらが滅びるとき、あなたは決して嘆くことはないであろう。


第七章 義人の真の讃美と悪人の非難について、また誰が讃美に値し、誰が値しないかについて

讃美されるにふさわしい人物であれ。なぜなら、善き者でなければ正しく讃美されることはなく、讃美を貪る者は善き者ではないからである。したがってその者は讃美されていないのである。それゆえ、あなたが讃美者に愛想よくするとき、あなたは自分自身の讃美者に愛想よくしているのではない。なぜなら、かくも空虚なあなたは、もはや讃美されているのではないからである。

「なんと善い人、なんと義しい人」と言われるとき――そうである人が讃美されるのであって、そうでないあなたが讃美されるのではない。それどころか、あなたはかくも悪しく不義であるがゆえに、少なからず非難されているのである。なぜなら、義人の讃美は不義なる者の非難だからである。したがって、それは不義なる者としてのあなたへの非難である。それゆえ、あなたが義人の讃美者に拍手を送るとき、あなたは自分の最も真実なる非難者に拍手を送っているのである。なぜなら、あなたは不義だからである。自分を義しいと思う者は義しくない――一日の嬰児ですら。

讃美を喜ぶ者は讃美を失う。もし讃美を愛するなら、讃美されることを求めるな――すなわち、もし讃美されたいなら、讃美されたいと思うな。なぜなら、讃美されたいと望む者は真に讃美されることができないからである。讃美されるのは、その善行が公に語られる者である。しかし、讃美されたいと望む者は、あらゆる善から空虚であるのみならず、さらに巨大にして悪魔的な悪――すなわち大いなる傲慢――に満ちている。したがって、その者は讃美されないのである。反対に、義人は常に讃美される。義人の非難はあり得ない。なぜなら、非難とは悪の否認であるが、義人が持たないものは義人に投げつけられることができず、したがって非難されることもできないからである。そして普遍的に、義人へのすべての讃美は不義なる者の非難であり、不義なる者へのすべての非難は義人の真の讃美である。しかし、誰かが善きことのゆえに讃美されるとき、それは讃美される者ではなく、讃美する者の益となるのである。

ある人があなたの聖性のゆえにあなたを讃える――その人は上を目指しているのである。なぜなら、彼を喜ばせるものはあなたを超えたところにある。すなわち聖性である。しかし、もしあなたが彼を聖性に喜ぶ者としてではなく愛するなら、あなたは下に向かっているのである。

何か現世的なものを失って嘆き、あるいは怒る者は、まさにそのことによって、それを失うに値したことを示している。同様に、侮辱を受けて怒り、あるいは嘆く者は、その侮辱に値したことを示している。なぜなら、侮辱されたくないと思ったのと同じだけ、讃美されたいと望んでいたのだから。

あなたは軽蔑され、あるいは低く見られたことを嘆いた。まさにそのことによって、あなたは軽蔑され低く見られるに値していたこと、そしてそれゆえそれが正当に行われたことを示しているのである。なぜなら、軽蔑され低く見られるに値しなかったならば、軽蔑されたり無視されたりすることを恐れたり嘆いたりすることは決してなかったであろう。なぜなら、まさにこのこと自体によって、あるいは主としてこのことによって、あなたは軽蔑され低く見られるに値するのだから――それを恐れ、あるいは嘆くということによって。要するに、無価値と見なされることや軽蔑されることを恐れる者は、無価値であり軽蔑に値する者にほかならない。


第八章 愛され、感嘆されることを望む者について、またそのような欲望を通じて人はいかにして悪魔に似た者となり、自らを他者にとっての偶像とするかについて

真に神を礼拝する者は、畏れ、愛、尊敬、崇敬、そして感嘆の情をもって真に神に向かう者だけである。なぜなら、これのみが真にして完全なる礼拝だからである。それゆえ、神以外のいかなるものにもこれを捧げる者は、真の偶像崇拝者である。そして、これが自分自身に捧げられることを望む者は、あらゆる手段を用いてこれらを人々から搾り取ろうとする悪魔の、まさにその立場に立つ者にほかならない。かくして人々のすべての不満はここに帰着する。すなわち、彼らの神々が滅びるか、あるいは奪い去られるか――つまり、この真にして神的な礼拝を彼らが捧げていた被造物が――あるいはそのような礼拝が自分たちに捧げられないか、のいずれかである。

それゆえ、偶像崇拝がなおもあなたの中に、また全世界においてどれほど支配しているかを見よ。

いかなるものも、愛されることそのものによって愛する者を至福にするのでなければ、善きものとして愛されることを望むべきではない。しかし、これをなし得るのは、愛する者を必要としないもの――すなわち、他者に愛されることも他者を愛することも何の益ともならないもの――のみである。それゆえ、最も残酷なのは、自分がその者に何の益ももたらすことができないのに、誰かが自分に注意と愛情と希望を固定することを望むものである。これこそ悪魔たちの行うことであり、彼らは神への奉仕の代わりに自分たちへの奉仕に人々を縛りつけようとする。それゆえ、あなたの崇拝者たちに叫べ。「やめよ、哀れな者たちよ、もはや私を感嘆したり崇敬したり、いかなる仕方であれ敬ったりするのは。なぜなら、私は惨めな者であって、自分自身にも、あなたがたにも何の助けももたらすことができないのだから。それどころか、私はあなたがたの助けを必要としているのだから」と。

あなたの力の及ぶ限りにおいて、あなたはすべての人々を滅ぼしたのである。なぜなら、あなたは神と彼らの間に自らを割り込ませ、彼らの視線をあなたに向けさせ、神を捨てて、あなただけを感嘆し、見つめ、讃えるようにしたからである。そしてこれは、あなたにも彼らにもまったく無益であるのみならず、むしろ破滅的であった。

理性的被造物の中で、特に敬虔な精神において最も尊いものはなく、身体の腐敗ほど卑しいものはない。そして、あなたが人々から感嘆されることを望むとき、まさにこの傲慢に目を塞がれて、いかに哀れな深みに落ちたかを見よ。ゆえに神の正義を見よ。あなたは自分自身を神として――すなわち被造物の最も優れた部分によって感嘆されるにふさわしい者として――立てたのであり、神はあなたを最も卑しいものに服させたのである。なぜなら、あなたはすべての人々から知られ、見られ、讃えられ、感嘆され、崇敬され、愛され、畏れられ、敬われることを望み、またそう企てたのだから。――これらすべては被造物の最も優れた部分、すなわち理性的精神のみによって、神のみに帰すべきものである。それゆえ、被造物の最も尊い部分に対して神の代わりに自分を立てた者が、被造物の中で最も卑しいものを自分の神として受け、また最も優れたものから神のみに帰すべきものを不正な横奪によって搾り取ろうとした者が、自分が神のみに負うべきものすべてを最も卑しいもの――すなわち身体の腐敗した屍体――に費やすことは正当であった。なぜなら、先に挙げた神のみに帰すべきものすべて――すなわち愛、その他――を、あなたはこれらに心を尽くして捧げているのである。それゆえ、神に帰すべきもの――讃えられること、その他――を横奪する間に、あなたは人間に固有のもの――すなわち、あなたが創造された目的である神を讃えること、その他――を失ったのである。そして最高のものの上にも場所はなく、最低のものの下にも場所はないのだから、最高のものの上に手を伸ばしている間に、あなたは再び最低のものの下に落ちるのである。なぜなら、何かによって限界づけられる者は、愛によってそれに服さねばならない。しかしあなたは最低のものを享受している。それゆえ、あなたは最低のもののさらに下に、およそ場所のないところに突き落とされたのである。

この世との友情は、聖ヤコブの言うように、神に対する敵意である。なぜなら、この世の友となろうとする者は、神の敵となるからである(ヤコブ4:4)。しかし、この世の一匹の蝿すら愛する者は、全世界を愛さざるを得ない。なぜなら、彼が愛するものには全世界が必要だからである。さらに、この世への愛がある限り、神と人間との間に敵意が存する。それゆえ、あなたが彼らに愛されることを望むとき、あなたは彼らが神の敵となることを望んでいるのである。しかしあなたは、被造物はすべて軽蔑されるべきであると説く――彼らが神と和解するために。ではあなた自身だけを例外とし、人々にこう言うのか。「私を除いてすべてのものを神のために軽蔑せよ」と。そうすれば、人類と神の和解を妨げる唯一のものはあなたとなり、あなたのためだけに神と人間の間の敵意が存続し、あなたを愛することで全世界を自分たちに必要なものとして愛さざるを得なくなるがゆえに、誰も救われなくなるのである。なぜなら、世の中で、あるいは世のために人々を愛することと、神の中で、あるいは神のために人々を愛することは別のことであり、欲望をもって愛することと憐れみをもって愛することも別のことだからである。


第九章 現世的なものの享受と愛によって神から離れ、悪魔によって犯される魂について

現世の財に語らせよう。「もし神が私たちの腐敗の病を癒されるなら、あなたはどうするのか。私たちを用いること自体において、あなたが私たちによっていかにして善くなるのか、あるいは将来そこから何を望むのかをよく考えよ。あなたは私たちを試した。それで、どうなのか。あなたは私たちに変わりたいのか、それとも私たちにあなたに変わってほしいのか。あなたは私たちとどのような関係があるというのか。なぜ私たちが過ぎ去ることを嘆くのか。私たちは主の御意志に従って滅びることを、あなたの欲望に従って留まることよりも好んだのである。このあなたの愛のゆえに感謝の言葉をかけることはしない。むしろ愚か者として嘲笑する。私たちは誰に最も従うべきか――神にか、あなたにか。言えるものなら言ってみよ。あなたのほぼ全生涯の営みとは、私たちを貪り食って腐敗に変えることではないか。」

これがあなたの有用性、あなたの力である――あなたを通じて私たちの腐敗が豊かに流れ出ること。なぜなら、あなたはこの自らの営みを持続させることすらできないのだから。これがあなたの至福である――私たちの汚穢に事欠かぬこと。あなたは進んでそれに身を委ね、悪魔はそれを通じてあなたを腐敗させ汚すのであり、あなたの欺瞞と破滅を自らの大きな快楽と喜びとしているのである。

あなたがいかなる形相を享受しようとも、それはあなたの精神にとって夫のようなものである。なぜなら、精神はそれに譲り屈服するからである。そしてその形相があなたに順応するのではなく、あなたがそれに順応し、それに似た者となるのである。そして同じその形相の像が、偶像がその神殿に刻まれるように、あなたの中に印されたまま残り、あなたはそれを享受するとき、牛でも山羊でもなく、理性的魂と身体を――すなわちあなた自身の全体を――犠牲として捧げているのである。

見よ、いかにしてあなたは、居酒屋のように、自分の愛をあたかも売り物であるかのようにさらけ出し、人々からの贈り物に応じてそれを分け与えている。この居酒屋では、何も与えず、また与えることが期待されもしない者は、何も受け取らない。しかし、あなたには売るべきものすらなかったはずである。何も与えなかったあなたに、上から無償で与えられたのでなければ。あなたはすでに報いを受けたのである。

神から自らを空しくし、神から遠ざかることが、欲望への備えとなる。

あなたをあなた自身のうちに享受しようとする者は、あなたの血を吸う蝿や蚤と同じ感謝しか、あなたから受けるに値しない。

もしこれらのもの――すなわち、あなたの心にそれらの像が刻まれ、神にのみ帰すべき礼拝である感嘆と愛によってあなたが屈服するもの――を、あなたが家の片隅に彫刻や絵として、感嘆や愛や身体の礼拝をもって崇拝し、それが人々に知れ渡ったなら、彼らはあなたをどうするだろうか。

姦淫を避け、自分の夫のもとを離れないのは、長くとどまってくれる姦夫が見つからないからにすぎない女は、姦淫を避けているのではなく、長続きする姦淫を求めているのである。しかしあなたは、悪を積み重ねるために、すべての通行人に精神の脚を広げ、永続的あるいは永遠の姦淫を得られないがゆえに、つかの間の姦淫をも享受しようとしたのである。

要約すれば、これこそが人間の堕落のすべてである。自己より優れたもの、すなわち神を捨て、自己より劣るもの、すなわち現世的事物にしがみつき、それを享受することに心を注ぐことである。

糞虫は飛び回りながらすべてを見渡すが、美しいもの、健全なもの、永続するものは何一つ選ばない。しかし、悪臭を放つ糞を見つけるやいなや、これほど多くの美しいものを蔑んで、即座にその上にとどまる。あなたの魂もまた同様である。天と地、そしてそこにある偉大にして貴いものを眺め渡しながら飛び越えるが、何にもしがみつかない。そしてすべてを軽蔑し、心に浮かぶ多くの卑しく汚れたものを好んで抱きしめるのである。このことを恥じよ。


第十章 姦淫する魂の厚顔無恥について。それは神にその邪悪さの中で自分を慰めるよう求める

あなたが貪欲にしがみついたものを神に取り去らないでくださいと願うとき、それは、まさに姦通の現場で夫に捕らえられた妻が、罪の赦しを乞うべきところを、かえって姦通の快楽を中断しないでくれと頼むようなものである。

あなたにとって、神から離れて姦淫するだけでは足りないのである。あなたはさらに神を屈服させて、あなたがその享受によって腐敗させられるもの――すなわち身体の形態、味わい、色彩――を増大させ、保存し、整えさせようとする。

夫にこう言うほど厚顔無恥な妻があるだろうか。「あの男、この男を見つけてきてください。あの人と寝たいのです。あの人はあなたよりも気に入っているのですから。さもなければ安らぎは得られません」と。しかし、あなたはまさにこれをあなたの夫、すなわち主に対して行っている。神以外のものを愛しながら、まさにそのものを神に求めるとき。

あなたが神に「これを私にください、あれを私にください」と言うとき、それは「あなたを怒らせ、あなたから離れて姦淫するためのものを私にください」と言っているのに等しい。なぜなら、神から神御自身以外のものを求めるとき、あなたはまさにその嘆願によって、自分の罪と神からの離反を神に露わにしていながら、それに気づいていないのである。

花婿が花嫁を姦通の現場で捕らえ、彼女が姦淫のために用いていたものをただ取り上げるだけなら、それは慈悲深い懲罰である。しかし、もし彼女がこれを不当な仕打ちと受け取るなら、なんと厚顔無恥なことか。あなたが嘆く原因のほとんどすべてはこの類いのもの――すなわち、取り上げられた姦淫のためのものについてである。それゆえ、あなた自身の悲しみがあなたの姦淫を告発しているのであり、他の証人は不要である。

いかに厚顔無恥な女であっても、通常は花婿の目から隠すものがある。すなわち、愛人に降りかかった損失のために流す涙、怒った愛人から受けた侮辱のための涙、そしてその侮辱そのもの、また彼女の喜びをも。

ならば今、あなたが神に対してせめてこれだけのことをしているかどうかを見よ。――すなわち、あなたの姦淫、つまりこの世の損失のために神の前で公然と嘆き、その繁栄のうちに歓喜していないかどうかを。「されば、汝は遊女の額を持つに至れり」(エレミヤ3:3)。


第十一章 地上的なものへの愛によって自己の外に注ぎ出された人間が自己を省みることのできない自己無知について

内なる観照の貧しさ、すなわち神の不在(神が内に在さないのではなく、内なる目の見えぬあなたに見えないのである)が、あなたに自分の内面から喜んで外に出させる。いやむしろ、暗闇の中にいるかのように自分自身の内にとどまることができず、身体の外面的な形態や人々の評判に心を奪って感嘆させるのである。身体的形態があなたを引き留め、あるいは恐れさせ、何らかの仕方で動かすことを身体的形態のせいにするな。あなた自身の盲目さと、至高の善からの空虚さのせいにせよ。

あなたが自分自身をいかに知らないかを見よ。なぜなら、いかに遠く未知の地域であっても、あなた自身について偽りを語る者をこれほど容易に信じてしまう地域はないからである。

時として悪は善の報いなしに嫌悪される――例えば、一つの家で二人の者がそれぞれの意志を傲慢に行使しようとするなら、両者ともに悪を望んでいる。彼らの意志が互いに不快であるとしても、それは傲慢への憎しみからではなく、傲慢への愛から生じるのである。なぜなら、自分の傲慢を愛するこの者は、相手の傲慢がそれを妨げるがゆえに、相手の傲慢を憎むのだから。これはきわめて隠れた罠である。

あなたはこの世において、あたかも身体の形態を眺め驚嘆するためにここに来たかのように振る舞っている。

もし内なる観照に事欠くことがなければ、あなたは外なる観照に出て行くことも、それに心を費やすこともないであろう。

寓話の中の少女が太陽を見つめ続けて衰弱したように、あなたも必然的に滅びゆく身体の形態と人間の評判に対してそのようである。

この観照――すなわち、あなたの魂が身体とその形態、人間の評判と好意をどれほど超えているか、あるいはどれほどそれらに服しているか――は、この生においては、何よりも神の目にだけ、そしてあなた自身の能力に応じてあなたの目にだけ開かれている。

見よ、いかにして神から背を向けたあなたが、神以外のすべてのものに口を大きく開けながらこの世に入ってきたかを。


第十二章 人間の真の益について、またすべての人間の益がいかにして一つにして同じものであるかについて

安全に労することを選ぶ者は幸いである。安全な選択と有益な労働とは、すべての人の益となることを望みつつ、しかも彼らがあなたの助けを必要としないような者になろうとすることである。なぜなら、自分自身の利益に心を向けているように見える者ほど、実際にはそれだけ有益なことを為さないからである。各人固有の益とは、すべての人の益を望むことなのである。しかし、誰がこれを理解するだろうか。それゆえ、自分自身の益を追求しようとする者は、自らの益を見出さないのみならず、魂に大きな損害をも被る。なぜなら、存在し得ない自分だけの益を求める間に、共通の善から、すなわち神から退けられるからである。すべての人間の本性が一つであるように、その益もまた一つなのである。

自分の益となるものを何も望まない者はすべて幸いである。しかし、人は自分の益とならない、あるいは自分を害するものを望み得るのだろうか。あなたの全生涯を通じてただ一度でも、益となるものを然るべき仕方で望んだことがあればよいのだが。ああ、惨めな運命よ、害あるものを拒むことができないとは。

もし人々に、なぜ惨めなのかと問うなら――すなわち、自分に有益なものを望まないのか、それとも望むものを得られないからなのか――彼らはただちにこう答えるであろう。「望むものを得ることができないからである」と。しかしこれは、「私たちは啓かれている。自分に何が有益かをよく知り、それを愛しているが、力が足りないのだ」と言っているに等しい。しかしこれは偽りである。なぜなら、この世の人々のうち、自分をより善くし得るものを愛している者が誰かいるだろうか。人々は自分自身より価値の低いものしか望まない。そして、より善く、より貴く、より尊いものが、より劣り、より卑しく、より価値の低いものによっていかにして改善され得ようか。ああ、自分の望むことを行う者のなんと多いことか。しかし、獲得した後に真に自分の益となるものを望む者のなんと少ないことか。しかし、このことをアダムの子らに納得させることのできる者がいるだろうか。彼らが自分の益を愛していないと信じてもらえるのはいつのことか。彼らは自分に悪を望んでいないと誓い、あれほど多くの労苦に耐えるのはすべて自分の益のためだと主張する用意があるのだから。それはちょうど、偶像崇拝者に神を崇拝していないと言うようなものである。彼はただちに立ち上がり、神を崇拝していると誓い、その礼拝にどれほど費やしているかを数え上げ、自分が崇拝する神をまさに指で差し示すであろう。しかし、彼は神を崇拝しているのではなく、誤りに欺かれて別のものを神として扱っているのである。同様に、人々は間違いなく自分の真の益を愛し、あるいは望んでいるのではなく、誤りの中で自分の益であると思い込んでいるものを愛し、望んでいるのである。そしてそれゆえ、そのようなもののためにすることも耐えることも、自分の益のためにしている、あるいは耐えていると思い込んでいるのである。しかし、神を愛する者でなければ、自分の真の益を望み、あるいは愛する者はいない。なぜなら、神のみが人間の本性にとっての全き唯一の益だからである。聖書にこう記されているとおりである。「愛にとどまる者、すなわち神を愛する者は、神にとどまり、神もまたその人にとどまる」(一ヨハネ4:16)。それゆえ、人間の益とはかくなるものである。それを持つ者でなければ誰もそれを愛することはできず、それを愛する者からそれを決して引き離すことはできない。したがって、人々が自分の益を愛していると言うこと(なぜなら、これを誓う用意のない者がいるだろうか)にもかかわらず、それを持っていないというこの事実こそ、彼らが自分の真の益ではなく別の何かを愛していることの証なのである。なぜなら、人間が自分の益を得るためにすべきことは、ただ愛することだけだからである。しかし人々は、それが存在しないかのように、絶えずそれを作ろうとする。異教徒が神を作ろうとするように。なぜなら、もし神のみが人類の益であり、神を全く愛さない者でなければ神に事欠くことはあり得ないのだから、この益は永遠なるがゆえに作られるべきものではなく、ただ愛されるべきものなのである。私たちのすべての悲惨のまさしく唯一の原因はこれである。すなわち、私たちは自分の益を知らず、愛さないか、あるいは知り愛するべき仕方や度合いにおいて知り愛していないのである。


第十三章 あらゆる種類の順境あるいは逆境において自らの益のために用いるべき賢明な注意について

見よ、あなたは悲しみ、心を乱して、あの人やこの人が侮辱と憎悪に満ちた言葉をあなたに語ったと不満を述べている。あなたが嘆くのは、そのようなことが言われたからか、あるいはそのような精神で語られたからかのいずれかである。もし彼のために嘆くのであれば、それは善い。なぜなら、それは彼の益にならないからである。しかし、もし自分のために嘆くのであれば、それは誤りである。なぜなら、あなたにこれほど聖にして善く語られ得たいかなる言葉も、もしあなたがこれらの言葉を善く用いるなら、これほど有益なものはないからである。善きことであれ悪しきことであれ、誰かがあなたに語り、あるいは行うことは、あなたにとっては、あなたがそれをいかに用いるかに従ってそのようになる。しかし、それを行い語った者にとっては、いかなる意志をもって行い語ったかに従ってそのようになるのである。なぜなら、不義はただ自らに対してのみ偽りを語り、あなたに対してではない(もしあなたが同意せず、それを咎めるなら)。同様に、不義が行い語るすべての悪は自らに対して――すなわち自らの滅びに向けて――行い語るのである(もしあなたが同意せず、敬虔にかつ憐れみをもって咎めるなら)。それゆえ、あなたに悪を行い語った者のために嘆くべきであって、あなた自身のためにではない。なぜなら、他者の悪でさえ、あなたがそれを善く用いるなら、あなたの善に資するのであり、しかもあなたがそれを善く用いるのと同じだけの大きな善に資するからである。したがって、あなたに為され語られたものが悪であれ善であれ、あなたがそれを悪く用いるのと同じだけの悪にもなるのである。なぜなら、「神を愛する者には万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)――他者の悪でさえもそうである。しかし神を憎む者には、反対にすべてが彼らの悪のために共に働く――善きものでさえもそうである。それゆえ、すべての不満を、それを悪く用いている自分自身に向けよ。

なぜなら、あなたに為され語られたものが真に悪であったとしても、あなたがそれを悪く用いないかぎり、それはあなたにとって決して悪とはなり得ない。同様に、善きものも、あなたがそれを善く用いないかぎり、あなたにとって善とはならないのである。

常に注視すべきは、あなたの魂の中で何が起こっているかであり、他者が善をなすか悪をなすかではなく、あなたが彼らの行いに対して何をするか――すなわち、彼らの善と悪をいかに用い、それらからいかに益を得ているか、励まし助けることによってであれ、憐れみ正すことによってであれ――である。なぜなら、すべての人の行いに対してあなたが善く対処するのは、彼らのいかなる恩恵にも偏愛に引き込まれず、彼らのいかなる悪行にも愛から退かないときだからである。そのとき、あなたは自由に愛するのである。なぜなら、私たちと平和を保たない者と平和を保つことにこそ功績があるのだから。

何があなたに起ころうとも、あなたの魂が怒り、憎しみ、悲しみ、恐れの動きに陥らず、またそれらの原因にも陥らないかぎり、来たるべき世においてあなたを害するものは何もないであろう。

二つの球を太陽の光線の中に置け。一つは粘土の、もう一つは蝋の球である。光線は一つにして同じであるが、両方に同じ効果を生み出すことはできず、それぞれの性質に応じて異なった作用を及ぼす。一方を硬化させ、他方を溶かす。なぜなら、土を溶かすことも、蝋を硬化させることもできないからである。同様に、一種類の金属――すなわち金が――多くの人に見られるとき、彼らの心の状態に応じて異なった動きを引き起こす。ある者はそれを奪い取ろうという欲に燃え、ある者は盗もうとし、ある者は貧しい者に施そうとする。愚者はその所有者を幸いと呼び、賢者はその愛好者を嘆く。善い心には悪しき意志を起こすことができず、悪しき心には善き意志を起こすことができない。むしろ、これらのもの、そして身体やその他の事物のすべての外見や原因は、それぞれの心の状態に応じて人間の心を動かすのである。それゆえ、私たちの邪悪のすべての原因は、私たちが罪を犯す対象の事物にではなく、私たち自身に帰せられねばならない。それらは私たちを試す以外の何もしない。なぜなら、それらは私たちが密かにどのような者であったかを明らかにするのであって、私たちをそのような者にするのではないからである。花嫁がいかに堅く揺るがぬ愛をもって花婿に結ばれているかは、他の男たちの視線が試すのである。なぜなら、もし彼女が真に貞潔であれば、他のいかなる者の美しさにも心を動かされない。同様に、もしあなたが最も堅固な愛情をもって神に結ばれていたなら、いかなる被造物の眺めにも誘惑されることはないであろう。なぜなら、これらすべてのものが、あなたの神に対する貞潔がいかほどのものであるかを試すのだから。


第十四章 この世の逆境について――いかに耐え忍ぶべきか。逆境を通して我々は有益にも神へ立ち返ることを余儀なくされるのである。

見よ、神はあなたが被造物への欲望によって神の外へ手を伸ばすところ、どこにおいてもあなたを刺し給う――ちょうど、乳母が揺籃の外に伸ばされた幼子の腕を刺して、寒さで命を落とすことのないようにするように。

神があなたに憐れみを垂れ給い、あなたの心の足が安息する場所を見出さないようにして下さるように。そうすれば、おお魂よ、少なくとも強いられて、ノアの鳩のように箱舟へ戻るであろう。

貧困そのもの、あるいは苦難が、現世の拷問者に代わって、我々に善きもの、これらとは異なるものを望むよう強いる。しかし我々は現世のものにのみ慣れ、他の何も知らないゆえに、我々が苦しんでいるものとあまり異ならないものを望み、その怒り――すなわち苦難――を何らかの緩和によって、いわば一種の和解として束の間中断させるか、あるいはそれらとあまり異ならないものを受けることを選ぶのである。

おお、苦痛に悩む人よ、それを和らげたいと望むか。望む。現世的にか、永遠にか。永遠にである。ならば永遠の膏薬、すなわち神を望め。神があなたを打ったのは、あなたが神を望むためであって、薬草や包帯を望むためではない。

一つの熱病が、あなたが抗っているすべてのもの――すなわち五感の快楽――を奪い去る。ならば残るは何か。与えられた勝利について神に感謝することのみではないか。しかしあなたは、それに反して、屈服する相手を求め、自由を憎む。

もしあなたが敵の罠と槍に自ら進んでもたれかかり、それらを警戒しないばかりか、かえって喜んで抱き、身をさらし、一つから別のものへと逃げ込むならば、何の望みがあろうか。あなたはそれらを治療薬、慰めと考え、それらを望み、それらなしでは耐えられないのである。

繁栄は罠である。この罠を断ち切る刃は逆境である。繁栄は神への愛の牢獄である。これを打ち壊す破城槌は逆境である。

逆境はあなたに言う――あなたは私が去るよう努力する。これを確かにあなたは妨げることはできなかった。もし正しく望むならば、できるのである。

主が旋律を導き給う間、私はとどまることができない。私は一つの音節にすぎないのだから。

もし最も邪悪な人間に対して羊のようであるべきなら、何らかの鞭で神から矯正されるとき、神に対してはなおさらではないか。

見よ、あなたはまるで戦争の中にいるようである。渇きが焼き尽くし、あなたは飲み物をそれに対抗させる。飢えが苦しめ、あなたは食物を対抗させる。寒さに対しては衣服または火を。病気に対しては薬を。これらすべてに対して、忍耐と世の軽蔑が必要である。そうしなければ、ここから生じるもう一つの戦い――すなわち悪徳の大軍――に打ち負かされるであろう。

あなたは快楽のみに捕らえられるのであるから、快楽をもたらすもののみを警戒すべきである。ゆえにキリスト者の魂は逆境の中以外にあっては決して安全ではない。

あなたが愛するものから、神はあなたのために鞭を作り給うた。繁栄を逃れては逆境に突進し、あなたは苦しめられる。すべてのものは鞭である。鞭を打ち砕く方を除いては――ちょうど打つ父の杖を折る子のように。

体は、より強い力に打ち負かされて、押されるか引かれるかする。意志も同様である。しかし、体を打ち負かして動かすものではなく、心と意志を動かすものに注意せよ。

禍いなるかな、現世のものを失った者にではなく、忍耐を失った者に。いかなる情念も忍耐そのものを通してでなければ克服されない。飢えは食べることによって抑えられるのではなく、仕えられるのである。ちょうど渇きが飲むことによって仕えられるように。これらの情念が目指すのは、外的な肉体の形姿の享楽へと魂を傾けさせることである。これが起こるとき、情念は克服されるのではなく、支配するのである。その目的――すなわち魂の傾斜と、より容易でより大きな傾斜への準備――を達成したのだから。

すべての苦痛と苦悶に対する唯一の薬は、損なわれたものへの軽蔑と、心を神へと転じることである。

あなたが退ける肉の快楽の数が多く、またそれが激しいほど、それだけ多くの、それだけ強力な悪魔の罠をあなたは免れる。あなたが逃れる苦難の数が多いほど、とりわけ真理のための苦難であれば、それだけ多くの薬となる治療法をあなたは退けるのである。


第十五章 真の忍耐について――罪人と弱き者をいかに耐え忍び、愛すべきか。その矯正を敬虔に希望しつつ。

見よ、穀物がまだ茎にあるうちに、小麦がまだ曲がっているうちに、それを愛することができるように――まだ善くない者たちをそのように愛せ。すべての人に対して、真理があなたに対してあったように振る舞え。真理があなたをより善くするためにあなたを忍び愛したように、あなたも他の人々をより善くするために忍び愛せ。

病人について絶望することによって、あなたは医者を冒瀆するのである。その病人の癒しは、医者の力と癒しにおける慈愛と同じだけ容易なのだから。

人の業のゆえに神の業を軽んじることのないように注意せよ。人の業とは殺人、姦淫、およびそれに類するものであるが、神の業とは人間そのものである。何か或るもの、たとえば家やそれに類するものを愛する者は、そこから作られ得る材料――すなわち木材や石――をも愛する。ゆえに善い者を愛する者は皆、善い者は決して他のものからは作られないのであるから、必然的に悪い者をも愛さねばならない。杯を作ることのできる素材を愛するならば、なぜ天使を作ることのできるものを愛さないのか。人間について次のように書かれているではないか。「彼らは神の御使いに等しい者となるであろう」(ルカ20:36)。

善をもって悪に勝つとは、何と美しい技であろうか。相反するものは相反するものによって克服されるのだから。

あなたは敵の槍を鈍らせるための的として置かれている――すなわち善の対置によって悪を打ち滅ぼすためである。悪に対して悪を返すべきでは決してない。ただし治療として行う場合を除く。その場合はもはや悪に悪を返すのではなく、悪に善を返すことである。

世を愛する者たちは、愛するものを手に入れ、あるいは享受するための技を苦労して学ぶ。あなたは神を得ようと望みながら、神を得るための技――すなわち悪に善を返すこと――を軽蔑するのか。

この場を去るか、あるいはあなたがここに置かれた目的を果たせ――すなわち、癒し、忍耐せよ。

この者は愚かである――すなわち敵意ある人間である。あの者は狡猾である――すなわちこの人間を通してあなたを攻撃する悪魔である。この者に対しては柔和であれ、その者を解放するために。あの者に対しては警戒せよ。

あなたは私が動揺したから動揺する。動揺した者が動揺した者を叱責する。おお、恥ずかしいことよ。まっすぐな者が曲った足の者を嘲り、色白の者が色黒の者を嘲るがよい。私は矯正されよう、もはやこの悪を行うまい。しかしあなたは自分のこの悪徳をどうするのか。それによってあなたは私を癒すどころか、救いをもたらすことすらできないではないか。

なぜあの兄弟を追い出そうとするのか。怒りとあらゆる悪徳に満ちているからか。ならば神もあなたに同じことをなし給え。あなたは自分の口から、その兄弟を追い出すべきでないことを証明したのである。「医者を必要とするのは健康な者ではなく、病人である」(マタイ9:12)。もし母親に息子を見捨てる理由を尋ね、弱くて病気だからと答えたなら、息子に同じことをされたいかと尋ねよ。そして否と言えば、こう加えよ――ならばあなたは悪い理由で憎んでいるのである。医者についても同じである。

赦しを求める者が報復を要求する者であってはならない。

もし自分自身をこれほど不潔なまま容認するなら、他の誰をも容認しないのはなぜか。

他の者たちをエルサレムへ行かせよ。あなたは忍耐あるいは謙遜のところまで行け。これこそがあなたにとって世の外へ出ることであり、あれは世の中に入ることなのだから。

あなたがどれほど、またどのように背くとしても、神と人々があなたに対して持つことを望む態度、そのものを、他の者たちがどれほど、またどのように過ちを犯そうとも、その者たちに示せ。


第十六章 弱き者への慈悲深い配慮と癒しについて、および堕落なき心をもっていかに彼らの間に生きるべきか。

息子から傷つけられた母は、報復としてその子の損害を求めない。なぜなら、その子の苦しみもまた自らのものと見なすからである。ゆえに、もし誰かが母の仇を討とうとしてその子を傷つけるなら、仇を討ったのではなく、損害を繰り返したと見なすべきである。すべてのキリスト者はすべての人に対してかくあるべきである。すなわち、憐れみを与えることを望み、自らの悲しみの最も確かな原因――つまり滅びゆくもの――を知る者として。

あなたの兄弟とその悪徳とを区別することは、善と悪を区別するのと同じく容易である。実際、人を見て怒る者、憤る者が誰かいるであろうか。しかしその人の悪徳を見て、誰が不快にならないであろうか――非常に賢明かつ善良な者を除いては。その者は、これが当人自身を他の誰よりも害することを知り、ゆえに憐れみを示すべきだと知っている。

あなたの兄弟は愛徳と知恵に満たされているが、あなたはそれを分かち合わない。兄弟は怒り、憎しみ、激怒に満たされているが、あなたはそれを分かち合わずにはいられない。狂った者には正気の者が必要である。その者を抑えるか、癒すかのために。

あなたが神にただ一つ示してほしいと望むもの――すなわち慈愛――それをすべての人に示せ。鞭を通してであれ、柔和を通してであれ。なぜ盲人や弱き者を侮辱するのか。あなたも同じである。あるいは、もし異なるならば、それはあなた自身によるのでも、あなた自身からでもない。

もしすべての人がつねにこのように狂気に駆られているとしたら、あなたは何をすべきか考えよ。それゆえに動揺すべきであろうか。では、一人の人が時として動揺するとき、なぜあなたは動揺するのか。あなたがその者に負うているのは薬であって、動揺ではない。狂気を狂気によって癒すことがどうしてできようか。

なぜ自分と同族の者の苦悶があなたを喜ばせるのか。それが正しいからか。ならばあなたの苦悶もまた神を喜ばせよ、それが正しいのだから。しかしこの理屈はあなたを永遠の火に引き渡すのである。

愚かな医者は、自分の評判を落としたくないがゆえに、それが自分の過失であっても、何かうまくいかないことがあれば病人自身のせいにする。あなたも、自分が預かる者たちに対して同じことをしている。

もしあなたがすべての人から離れ、その罪と悲惨とを思い巡らしていたならば、すべての人に対してどのような態度をとるであろうか――少なくとも今、彼らが盲目あるいは弱さのゆえに滅びゆくのを自らの目で見ているとき、まさにその同じ態度をとれ。彼らは悪魔によって現世のものを通して欺かれているか、打ち負かされているかのいずれかなのだから。

あなたの上に下される神の測り知れない裁きに戦慄せよ。あなたが他の者たちの上にあるものが何であれ、なぜ彼らがあなたの上に立たなかったのか、あなたは知らないのである。ゆえに、もし彼らがあなたの上にあったならばあなたに対してどうあるべきであったか、あなたが見るとおりに、彼らに対してそのようにあれ。

あなたの報いは、あなたの預かる者たちの進歩に応じてではなく、あなたの望みと努力に応じて量られるであろう。彼らが進歩しようとしまいと。

ある人が邪悪であると十分に確認したとき、あなたはその罪を嘆かねばならない。主もまたあなたの罪を嘆き給うたのだから。病人の病を探ったのに、病を知った上でその者と共に悲しみ癒すどころか、かえって嘲るならば、なぜ探ったのか。

他者の悪を見聞きするとき、自らの魂を省みよ。その中にどれだけの人々への真の愛があるかを試すために。

他の者たちよりも自分が優れていることがあっても、喜ぶべきではない。むしろ彼らが善において劣ることを悲しみ、これを自らの欠如として数えるべきである。

まず、裁こうとする者、あるいは矯正しようとする者の立場に身を置け。そうすれば、もし自分がその者の立場にあったならば有益であると感じるであろうことを、その者にもなすであろう。「あなたがたが量る、その量りで量り返され、あなたがたが裁く、その裁きで裁かれるであろう」(マタイ7:2)と書かれているとおりである。キリストもまた裁き給う前に、まず人間性をお取りになったのだから。

あなたは、自分の主人たち――その父、すなわちあなたの神である主から、その奉仕に任じられた者たち――にあなたの望むことをさせようと努めるべきではなく、彼らに益となることをさせるべきである。あなたは彼らの益のために自らを曲げるべきであり、彼らをあなたの意志に曲げるべきではない。彼らがあなたに託されたのは、あなたが彼らを支配するためではなく、彼らに益するためである――ちょうど病人が医者に託されるのは、医者がその者を支配するためではなく、むしろ癒すためであるように。医者は病人に敵対するのではなく、病人のためにある――すなわち病気に敵対するのである。そして医者は、患者から受けるすべてのことに対する十分な報復を、患者の健康に見出す。医者は何一つ人のせいにせず、病気そのもののせいにする。ゆえに医者にとって完全な復讐とは、病気の消滅なのである。

四人の者が二人の医者に託された。一人の健康な者と一人の病人が、それぞれに一人ずつ。健康の保持または回復の看護に対して報酬が約束された。一方の医者は、託された者たちの健康の保持または回復のためになすべきことをすべて行ったが、二人とも死んだ。もう一方の医者はなすべきことを何もしなかったが、健康な者は健康なままであり、病人は回復した。このうちどちらが報酬に値するか――託された者が二人とも死んだ方か、生きて健やかな方か。疑いなく、敬虔な意志をもってなすべきことをなした者は、たとえ彼らが生きて健やかであったとしても、それに劣らず称賛と報酬に値する。そしてなすべきことを拒んだ者は、たとえ彼らが死んだとしても、それに劣らず罰に値するのである。

ゆえに、二つのものが医者を完成させる。善き意志と、完全な知識である。自らが看護するすべての者を癒すこと――これは医者の力の及ぶところではない。誰が望みなく病んでいるか、誰が回復の望みをもって病んでいるか、誰も知ることはできないのだから。ゆえにすべての者に看護を施し、あらゆる慈愛をもって、全技術を一人一人に尽くさねばならない。そうすれば、万物の父の前で、死んだ者に対しても健康な者に対するのに劣らぬ恩寵と報いとを得るであろう。

心を堕落させることなく悪しき者たちと共に住むよう自らを備えよ――これは天使的である。しかし聖人たちとこれを行うことに何の栄光があろうか。

悪徳ある者たちと共に生き、その悪徳に堕落しないこと、これは天使の徳である。病人や狂人と共に住み、まったく堕落しないばかりか、彼らに健康を回復させること、これは最も優れた医者の証である。


第十七章 神と隣人への愛の力とその効果について、またいかに愛徳は望まれ、施されるべきか。

或る肉体の形姿を享受する者は、そこから自分にとって善く見えるものを、自分にではなくその形姿そのものに帰し、そのゆえに心の中でそれを讃え愛する。自分自身を善いとは見なさず、その形姿を善いと見なす。自分が善いのはそれによってのみであると考える。自分の内にとどまらず、その形姿に向かって伸び、そこへと移行する――享受においてそれに驚嘆し愛するほど、心の努力と意志の動きはますます強くなる。ゆえに、もし誰かがその形姿を傷つけ、あるいは奪うならば、損害はその形姿にではなく自分に対してなされたと考える。そしてその形姿にすがることが楽園であり至福であったように、それから引き離されることが地獄であり悲惨なのである。あなたも神に対してかくあれ。

何らかの他の善を必要とする善が望まれるとき、悲惨は排除されず、窮乏が積み重なり増大する。ゆえに他のいかなる善をも必要としない善を望め。しかしすべてのものは善性によって善である。ゆえにすべてのものは善であるために善性を必要とする。しかし善性そのものは何も必要としない。それ自体によって善だからである。ゆえにこれを愛せ、そうすれば至福となるであろう。

見よ、それはいかなる善であるべきか。その痕跡の最後の痕跡――すなわち現世のもの――が、これほど多くの、これほど大きな労苦と迷いの危険をもって、これほど多くの理性的・非理性的存在によって追い求められているのである。

自分自身においても他者においても、神の内にある以外の何にも喜ぶべきではない。

すべての悪徳と罪は、被造物のため――すなわち最低の善のため――に犯されるゆえに、創造主の善性――すなわち最高善――に反するのである。

我々の同族の風――すなわち世評や讃辞――がこれほど熱心に求められるならば、我々の同族の救い――すなわち創造主――はどれほどもっと求められるべきであろうか。善いと呼ばれることがこれほど甘美で、善くあろうとしない悪人ですらこのことを喜ぶならば、善くあることはどれほどより甘美であろうか。そして悪いと呼ばれることがこれほど苦く恥ずかしく、「悪を行って喜び、最も悪しき事柄に誇る」(箴言2:14)者たちですらそれに耐えられないならば、悪くあることはどれほどより悪いであろうか。

人は何か被造のものを望み、あるいは肉体の感覚をもってそれにすがりつき、自分を忘れる――しかしあなたはいつ創造主に対してそのようにするのか。

主はあなたに至福を持つよう命じ給う。すなわち、主ご自身への完全な愛を。それから恐れないこと、動揺しないことが生まれる――すなわち平和と安全である。

悪から離れることを知るのは真理のみであり、それをなし得るのは真理への愛のみである。ゆえに悪から離れることは場所の問題ではない。

愛することによって失うことのできないものを愛せ――すなわち神を。

もし神にすがることがあなたの全き唯一の善であるならば、神から引き離されることはあなたの全き唯一の悪であり、他に何もない。これがあなたのゲヘナであり、これがあなたの地獄である。

今こそ、これらの肉体の形姿から自らを引き離せ。それらなしに存在できないことを恥じよ。そしてあなたが望もうと望むまいと、いつかそれらを失うのであるから、いつか大きな苦痛なしにはなし得ないことを、今、大きな報いあるいは恩寵をもって、自ら進んでなせ。たとえ誰もそれらを奪わなくとも、あなたはこの生と、それに属するすべてのものを軽蔑するのではないか。見よ、すべてを持て。いつかそのすべてを奪われるのではないか。ゆえに、すべてを失ったときになすことを今なせ――すなわち、これらのものなしに生きることを学べ、主の中に生き、喜ぶことを学べ。

隣人への無償の愛について

すべての人を愛する者は疑いなく救われるであろう。しかし人々から愛される者は、それゆえに救われるのではない。あなたへの憎しみがすべての者にとって命への妨げであるように、すべての者の憎しみはあなたへの妨げである。ゆえにすべての人を愛することはあなたに益し、また彼らがあなたを愛することも彼らに益する。

愛は無償で望まれるべきである――すなわち、その固有の甘美さのゆえに、最も甘美な蜜のように。たとえすべての人が狂おうとも、いかなる代価をもっても売ってはならない。愛は我々に有益であり、我々を至福にする。他の者たちが何をしようとも。

もし愛されるから愛するのであれば、あるいは愛されるために愛するのであれば、あなたは愛するというよりは愛し返しているのであり、愛に対して愛で報いているのである。あなたは両替商である――すでに報いを受けたのである。

あなたに害を与えた者に対しては、より親しく親密に振る舞え。あなたが害を与えた者に対しては、へりくだり恥じ入って振る舞え。

人々からあなたに対してなされた善をすべて神の賜物と見なし、すべての感謝は神に捧げられるべきだと信じるように、あなたが人々に示すすべての善も、自分の功績ではなく神の恩恵と見なせ。

誰かを友として愛しながら、富を善きものとしてその者に望むとき、あなたはその人自身よりも富をより優れたものとして愛しているのである。その人を不足ある者として愛し、富を充足として愛しているのだから――その人なしでいるよりも富なしでいることを一層恐れている。

自らの不義によって悪人を殺す者は、不義を憎み、それを滅ぼそうと望んでいるつもりでいるが、誤っている。悪人がその不義のうちに死ぬとき、不義は永遠となるのだから。ゆえに不義を憎む者は、悪人が矯正されるよう努めるべきであり、そうすればその不義は滅びるであろう。

「神は愛である」(ヨハネの手紙一4:8)。ゆえに、愛そのもののためでなく他の理由で誰かに愛徳を示す者は、神を売り、自らの至福を売るのである。愛するときにのみその者は幸いなのだから。

もし愛徳と、その徴――すなわち喜ばしさなど――が他者においてそれほどあなたを喜ばせるならば、なぜあなた自身の魂においてはるかに甘美でないことがあろうか。

誰かに何かを与える者が、その人が何かを与えたから、あるいは与えるであろうからそうするならば、その者は神からの恩寵を持たない。平和と愛についてもあなたは同様である。

もしあなたがそれほど愛し、愛そのものに強いられるなら、叱責せよ、打て。もし他のように行うなら、自分自身を罪に定めるのである。すべてのことを他者に対して、あなたが神からなしてもらいたいと望むのと同じ精神をもってなせ。

「神の愛が、私たちに与えられた聖霊を通して、私たちの心に注がれている」(ローマ5:5)。しかしあなたは、現世的な利益のためでなければ、神も隣人も愛さない。ゆえにあなたの内に注がれるものは、現世のものを通して来るのであって、聖霊を通してではない。このように注がれるものは愛徳ではなく、貪欲である。

見よ、あなたの務めは修道院長になる以前と今とで何も変わらない。祈りと嘆願と愛情をもって行っていたことを、今は行いをもって行い始めたのである――すなわち人々に益することを。しかし業が愛情そのものを減ずるべきではなく、むしろ刺激し増大させるべきである。

あなたが神に対して貞潔を保つ事柄がいかなるものであれ、その同じ事柄において、隣人に対する正義をも保つことができるであろう。それは貪欲にならないということにある。

人々は、自分にとって煩わしいことが愛徳からなされたとは、なかなか信じようとしない。


第十八章 天使たちの完全な正義について、および天使たちの正義と我々の正義との違いについて。

誰かが何かを完全に享受し、自己を忘れるとき、自己を放棄し軽蔑したかのようにしてそのものに向かい、自分の内に何が起こるかではなく、そのものの内に何が起こるかに注意し、自分がいかなるものであるかではなく、そのものがいかなるものであるかに注意する。ゆえに天使たちは我々以上に自己を軽蔑している。全力をもって神に向かい、自らをすべての被造物と共に全注意をもって後に残す。振り返って自らを見ることすら顧みない――それほど自らを卑しきものと見なすのである。全き心をもって自己を軽蔑し、自己を忘れて、全体として神に向かい、自分たちが何であるか、いかなるものであるかではなく、神が何であるかに注意する。そして自己をより軽蔑し、自己から離れ、自己を忘れるほど、ますます神に似た者となり、ゆえにますます善き者となる。

キリストは天使たちをその花婿の抱擁へと導き給うが、我々は姦夫――すなわち世――から引き離し給う。天使たちを花婿を享受するために強く堅固にし給い、我々を姦夫――すなわち世――なしに過ごすために強くし給う。天使たちを目に見える形と実在のうちに保ち給い、我々を信仰と希望のうちに保ち給う。天使たちには真の至福における完全な喜びを与え給い、我々には患難における忍耐を与え給う。天使たちには至福の生を、我々にはせいぜい貴い死を。天使たちには自らのために――すなわち神のために――生きることを、我々には世に対して死ぬことを。天使たちには自らの善を喜ぶことを、我々には自らの悪を悲しむことを。天使たちには喜ばしき心を、我々には砕けた心を。天使たちには正義を、我々には悔い改めを。天使たちには善の完成を、我々にはその始まりを。私は確信をもって断言する――天使たちは神から愛徳よりも偉大な、あるいは尊い、あるいは貴重な、あるいは有用な、ゆえにより望ましい、あるいはより美しい賜物を受けていないと。これを誰が理解し、あるいは信じ得ようか。神は愛であるからである。ゆえに愛徳よりも偉大な何か、あるいは善き何かを持つ者は、神よりも偉大な何か、あるいは善き何かを持つのである。


第十九章 魂の真なる内的な美について、およびすべての人の真の完徳がいかなるものにあるかについて。

あなたが目にするものの中で、固有の種類において或る自然的な美と完全さを持たないものは一つもない。これが何らかの仕方で減じられ欠けているとき、それは当然あなたを不快にする――たとえば、鼻を切り取られた人を見かけたならば、直ちにそれを非とするであろう。あなたは、人間の本性の自然的完全さに何が欠けているかを感じるのである。すべてのものについて同様であり、一枚の木の葉やいかなる草に至るまでそうである。実際、人間の精神が或る自然的かつ固有の美と完全さを持つことを否定し得る者がいようか。これは、存在する限りにおいて正当に是認され、欠如する限りにおいて正当に非難される。ゆえに、神の助けをもって、あなたの精神にこの美と完全さがどれほど欠けているかを考察し、この欠如を非とすることをやめるな。では、魂の自然的な美とは何か。神に献身することである。どの程度まで。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(ルカ10:27)である。さらにこの同じ美に属することとして、隣人に対して慈しみ深くあることがある。どの程度まで。死に至るまでである。もしあなたがそうでないなら、誰の損失となるか。神のか――まったくない。隣人のか――おそらく幾らかはある。しかしあなた自身のか――疑いなく最大である。自然的な美と完全さを奪われることは、いかなるものにとっても害とならざるを得ないからである。もし薔薇が赤くなくなり、百合が良い香りを放つのをやめたならば、その損失はそのような楽しみを愛する者にとっては小さくないように私には思われるが、薔薇や百合自身にとっては――その自然的かつ固有の美を奪われた者にとっては――はるかに大きく、はるかに悲惨であろう。

理性的被造物の真の完徳とは、おのおのの事物をそれが評価されるべきだけの値をもって評価することである。それを過大あるいは過小に評価することは、誤ることである。さらに、あらゆる事物は本性上、理性的被造物の上にあるか、並びにあるか、下にあるかのいずれかである。上には神がいる。並びには隣人がいる。下にはその他すべてがある。ゆえに神を、評価されるべきだけ評価せねばならない。そして神はそのあり給うままに評価されるべきである。しかし、神がいかに偉大であるかを知る者でなければ、神がいかに偉大であるかに応じて評価することはできない。しかし、神がいかに偉大であるかを完全に知り得るのは、神ご自身のほか誰もいない。神の本質が我々の本質を超えるのと同じだけ、神の自己認識は我々の認識を超えるからである。ゆえに、神の本質に比して我々の本質が無に等しいように、神の自己認識に比して我々の認識は盲目であり無知である。ゆえに、完全な自己認識は神のものだけであり、神ご自身に等しい。ゆえに主は言い給う、「父を知る者は子のほかにはいない」(マタイ11:27)。ゆえに、完全な自己認識が神のものだけであるように、自己への等しく完全な愛もまた神のものだけである。神のみが、自分がいかに偉大であるかを完全に知り給うゆえに、自分がいかに偉大であるかに応じて完全に自分を愛し給うのである。

さて、冒頭に私が置いた定義に戻れ。より精細に考察するならば、それは理性的被造物にではなく、ただ神にのみ当てはまることが明らかとなるからである。他のことを措いても、示されたように、自分がいかに偉大であるかに応じて完全に自分自身を知り愛するのは、神ご自身のほかにはいない。では、理性的被造物の完徳とは何か。それは、すべてのもの――上にあるもの、すなわち神も、等しいもの、すなわち隣人も、下にあるもの、すなわち劣る霊魂等も――を、理性的被造物がそれを評価すべきだけの値をもって評価することである。いかに評価すべきか、次のように結論せよ。神には何も優先されず、何も等しくされず、何も半分、三分の一、あるいは無限に至るまでいかなる割合でも比較されない。ゆえに何も神より多く、何も同じだけ、何も半分あるいは無限に至るまでいかなる割合でも評価すべきでない。何も神より多く、同じだけ、あるいはいかなる割合でも、神と比較して愛すべきでない。ゆえに主ご自身言い給う、「あなたの神である主を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして愛せよ」(ルカ10:27)――すなわち、享受のためにも、依拠のためにも、他の何も愛するなということである。これが上にあるものについてである。

本性上等しいもの――すなわち本性に関する限り――とは、すべての人間である。ゆえにすべての人をおのれ自身と同じだけ評価すべきである。ゆえに上にあるもの、すなわち神について、愛において何も優先させず、何も等しくせず、いかなる部分においても比較すべきでないのと同様に、いかなる人の救いに対しても、そしてその永遠の救いのためになすべきこと、あるいは耐え忍ぶべきことのすべてを、いかなる人の永遠の救いのためにもまったく同様になし、あるいは耐え忍ぶべきである。ゆえに主は言い給う、「隣人をおのれのごとく愛せよ。」これが並びにあるものについてである。

下にあるものとは、理性的精神に次ぐすべてのもの――すなわち動物と共有する感覚的生命、草木と共有する肉体を養う植物的生命、金属や石と共有する肉体の実体とその形相および性質――である。ゆえに上にあるものより多く、またそれとの比較において同じだけ愛すべきでないのと同様に、下にあるものより少なく、またこれほど安く評価すべきでなく、下にあるものとの比較においていかなる無限に至るまでの割合によっても卑しく見なすべきではない。これが書かれていることの意味である。「世を愛してはならない。世にあるものをも愛してはならない」(ヨハネの手紙一2:15)。これが下にあるものについてである。

かくしてそのような人は、上にあるものを喜びとし、等しいものを交わりとし、下にあるものを奉仕に用いるであろう。神に対しては献身的であり、隣人に対しては慈しみ深く、世に対しては節制的であり、神の僕、人の伴侶、世の主人である。神の下に置かれ、隣人の上に高ぶらず、世に隷属しない。下にあるものを中間のものの用に供し、中間のものを上にあるものの栄誉に供する。上にあるものに対して不敬でなく、冒瀆的でなく、涜聖的でない。等しいものに対して高慢でなく、嫉妬深くなく、怒りやすくない。下にあるものに対して狂暴でなく、放蕩でない。下にあるものからも等しいものからも何も受けず、上にあるものからすべてを受ける。上にあるものによって刻印され、下にあるものに刻印する。上にあるものによって動かされ、下にあるものを動かす。上にあるものによって感化され、下にあるものを感化する。上にあるものに従い、下にあるものを導く。上にあるものに所有され、下にあるものを所有する。上にあるものによってその似姿へと変えられ、下にあるものを自らの似姿へと変える。

この完徳に向かって我々はこの世において努力するが、来世においてでなければ完全に達することはない。そのとき、今ここでより熱烈に望むほど、より満ちてそれを得るであろう。そのとき精神には神からの動き以外は何もなく、肉体には魂からの動き以外は何もなく、かくして魂にも肉体にも神からの動き以外は何もないであろう。罪――すなわち意志の歪み――もなく、罪の罰――すなわち肉体の腐敗、苦痛、死――もないであろう。裸の精神は裸の真理にすがり、それに至るためにいかなる言葉も、いかなる秘跡も、いかなる類比も、いかなる範例も必要としない。そこでは「人はもはやその兄弟に教えて『主を知れ』と言うことはない。小さい者から大きい者まで、すべて私を知るようになるからである、と主は言われる」(エレミヤ31:34)。すべての者が「神に教えられる者」(ヨハネ6:45)となるからである。


第二十章 御言葉の受肉について、およびいかにして御言葉は前述の完徳を我々にご自身において最も十全に示し給うたか。

これらの徳、あるいは正義の線は、今なおこの死すべき生においても、もし魂が非常に清いならば、魂自ら、神の真理と知恵そのものの内にそれを見るであろう。また、自分が――すなわち人間の魂が――不滅にして永遠であることのみならず、その肉体もまた復活においてそうなることを見るであろう。復活そのものもまた、そこにおいて――すなわち神の御言葉と知恵の内に――明瞭に見るであろうからである。しかし魂はその不浄のゆえにこれをなし得なかったため、御言葉に人間の精神が結合された。この精神は神の御言葉を最も十全に受け、完全にそれに同形とされ似た者とされ、それのみによって全体として、その全体から刻印された。次のように書かれているとおりである。「私をあなたの心の上に印章として置いてください」(雅歌8:6)。かくしてその似姿の内に全体として変えられ、蝋が印章の似姿へと押されるように、御言葉を我々にご自身の内に見させ知らせるために現し給うたのである。

しかし我々はあまりに盲目であったので、神の御言葉のみならず、人間の魂すら見ることができなかった。ゆえに人間の肉体もまた加えられた。三つのものを考えよ。神の御言葉、人間の精神、人間の肉体。もし第一のものをよく見ることができたならば、第二のものは必要なかったであろう。少なくとも第二のものを見ることができたならば、第三のものは必要なかったであろう。しかし第一のものも第二のものも――すなわち神の御言葉も人間の精神も――見ることができなかったゆえに、第三のもの、すなわち人間の肉体が加えられた。かくして「御言葉は肉となり、我々のうちに宿り給うた」(ヨハネ1:14)。我々の外的な領域において、それによっていつかは我々をその内的な領域へと導き入れるためである。ゆえに肉を持つ理性的魂が御言葉に結合されたのであり、この魂はその肉を通して、我々の教導と矯正に必要なすべてを教え、行い、忍び給うたのである。この魂においてのみ、我々が上に論じたもの――すなわち神への献身、隣人への慈しみ、世に対する節制――が最も完全に見出された。神に何も優先させず、何も等しくせず、何もいかなる部分においても、いかなるごく小さな割合においても比較しなかった。ゆえに主は言い給う、「私はつねにその御旨を――すなわち父の御旨を――行う」(ヨハネ8:29)。そして隣人を最も完全におのれのごとく愛し給うた。自らの下にあるもの――すなわち理性的精神の下にあるもの――の何一つをも惜しまず、すべてを隣人の益のために用い給うた。感覚的生命も、肉体を養う植物的生命も、肉体そのものも。我々のために最も鋭い苦痛を忍び、植物的生命に対しては死を、肉体そのものに対しては傷を忍び給うたのである。

世に対しては、人の子が頭を横たえる所すらないほどの節制と軽蔑を持ち給うた。下にあるものからは何も受けず、中間のものからも何も受けず、すべてを上にあるもの――すなわち位格の一致において結合された神の御言葉――から受け給うた。秘跡によってでなく、言葉によってでなく、範例によってでなく、ただ神の御言葉の現在によって教えられて理解し、愛へと燃え立たされた。この魂を通して、神の御言葉と知恵は三重の仕方で――すなわち秘跡と言葉と範例によって――何をなすべきか、何を耐え忍ぶべきか、そして何を通してそうすべきかを我々に示し給うた。人はただ神にのみ従うべきであったが、人にしか従うことができなかった。ゆえに人が取られたのであり、従い得る者に従いつつ、従うべき方にも従うためであった。同様に、人はその像に造られた神にのみ同形とされ得たが、人にしか同形とされ得なかった。ゆえに神は人となり給うた。人が、従い得る人に同形とされつつ、従うことが益となる神にもまた同形とされるためである。