コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第一章


目次


序論

この書はヘブライ語では慣例に従い、書の冒頭の語「ベレシート」すなわち「初めに」と題される。ギリシア語およびラテン語では「ゲネシス」(創世記)と呼ばれる。なぜなら、この書は世界と人間の生成、すなわち創造もしくは誕生、そしてその堕落、繁殖、行業を物語るからであり、とりわけ族長たちノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの事蹟を記すものである。創世記は二千三百十年間の事蹟を包含する。アダムから、すなわち天地創造からヨセフの死までにそれだけの年数が経過したのであり、創世記はヨセフの死をもって終わる。これは以下の年代記における族長たちの年数を合算すれば明らかである。

創世記の年代記

アダムから洪水までに一千六百五十六年が経過した。洪水からアブラハムまでは二百九十二年である。アブラハムの百歳の年にイサクが生まれた(創世記第二十一章第四節)。イサクの六十歳の年にヤコブが生まれた(創世記第二十五章第二十六節)。ヤコブの九十一歳の年にヨセフが生まれた。これについては創世記第三十章第二十五節で示すであろう。ヨセフは百十年を生きた(創世記第五十章第二十五節)。これらの年数を合算すれば、アダムからヨセフの死までに二千三百十年を見出すであろう。

創世記は四つの部分に分けることができる。ペレリウスはこれを同数の巻に分けて論じた。第一の部分はアダムから洪水までの事蹟を包含する(創世記第七章)。第二の部分はノアと洪水からアブラハムまでの事蹟、すなわち第七章から第十二章までに語られる事柄を含む。第三の部分は第十二章からアブラハムの死(創世記第二十五章)までのアブラハムの事蹟を含む。第四の部分は第二十五章から創世記の末尾までで、イサク、ヤコブ、ヨセフの事蹟を包含し、ヨセフの死をもって終わる。

創世記の著述家たち

オリゲネス、聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、テオドレトス、プロコピウス、聖ヨハネ・クリソストモス、エウケリウス、ルペルトゥスらが創世記について著述した。聖アンブロシウスは聖バシリウスに倣い、『ヘクサメロン』を著し、またノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ等に関する書も著した。福者キュリロスは五巻を著し、これにその『グラピュラ』すなわち「磨かれた宝石」を加えるべきである。これはいわば多くのものから選ばれた少数のものであり、文字通りの意味ではなく、おもに神秘的意味を追究するものである。これらは写本として現存し、私自身がそれを用い、その後わが会のアンドレアス・スコットゥス師がこれを他の著作とともに出版した。アルビヌス・フラックスも『創世記問答』を著した。ユニリウスというアフリカの司教も創世記の初めの諸章について著述しており、これは『教父文庫』第六巻に収められている。さらにシナイのアナスタシウス――修道士であり、後にアンティオキアの司教・殉教者となった人物――は、主の年六百年に、創世記に関する十一巻の『ヘクサメロン』を著した。その中で彼は創世記の最初の諸章をキリストと教会に関して寓意的に解説している。これらは『教父文庫』の付録に収められている。

トマス博士も著述した――聖なる天使的博士ではなく、イングランドの博士、すなわちヨーク博士であり、紀元千四百年頃の人物である。これらの著作がイングランド博士のものであって天使的博士のものではないことは、聖アントニヌスおよびシクストゥス・セネンシスが『聖書文庫』第四巻で証言している。もっとも、最初にこれを出版したアントニウス・セネンシスは聖トマス・アクィナスの著作に帰そうと試みている。そしてこれらの著作が通俗的に聖トマスの名のもとに引用されているため、われわれもまたそのように語ることとする。他の誰かを引用していると思われないためである。リラのニコラウス、フーゴー、カルトゥジオ会のディオニシウスの後にも、多くの近代の著者たちが創世記について著述した。その中でペレリウスは学識の多様さにおいて抜きん出ている。かつてはアビラの司教アルフォンソ・トスタトゥスが、他のすべての著者よりも詳細に、各論点を精密に検討し判断して著述した。彼には次の賛辞がまことにふさわしい。

「ここに世界の驚嘆あり、知りうるすべてを究めし人」

彼は四十歳にして亡くなったのである。最後に、ブレシアのアスカニウス・マルティネングスが最近、創世記第一章について二大巻を著し、これを『創世記大注釈』と題した。その中で彼は教父と博士たちから鎖(カテナ)を編み、付随するあらゆる問題を詳細に論じている。

しかし聖書に関しては次の格言がまことに当てはまる。すなわち「術は長く、命は短し」。それゆえ、他の著者たちが長々と述べたことを、私は少ない言葉に圧縮し、簡潔さを堅固さと方法とともに熱心に追求するであろう。したがって私は特に優れた道徳的教訓のみを織り込み、折に触れて、これらの事柄をより詳しく論じている著者たちに読者を委ねることとする。そしてここで一度、総括的に、説教者たちおよび道徳的教えを熱望するすべての人々に注意を促しておきたい。聖ヨハネ・クリソストモス、聖アンブロシウス、オリゲネス、ルペルトゥス、ラバヌス、ヒエロニムス・デ・オレアストロ、ペレリウス、ハメルス、カポニウス、ヨハン・フェルスを読まれたい。ただしフェルスは慎重に読む必要がある。というのも彼は信仰を大いに称揚するが、ルターおよびカルヴァンのゆえに、この時代においてはそれは危険だからである。最後に、ほとんどすべてを道徳的に適用し説明するカルトゥジオ会のディオニシウスと、等しい敬虔さと学識をもって創世記を註解するアビラの参事会員アントニオ・オンカラを読まれたい。

最後に、今述べた著者たちを引用する際には、具体的な箇所を注記しないこととする。なぜなら、彼らが私の扱う箇所について論じていることは――誰もが容易に想到しうるところであるから――当然のこととして前提するからである。それ以外の場合には通常、箇所を注記する。なお『ヘクサメロン』の業、すなわち創世記第一章においては、箇所を注記しない。なぜなら、註解者たちが同じ箇所でそれを論じていることは誰もが知っているからであり、スコラ学者たちにあっては『命題集』第二巻、区分十二以下、あるいは『第一部』問題六十六以下で論じていることも周知だからである。さて、教父や博士の中には冗長で饒舌な者もいるが、私は簡潔を旨とする。著作が膨大になりすぎ、読者が疲弊しないために、折々に彼らの重複し繰り返される言葉を削り、間に挟まれた若干の事柄を省略して、より力と重みのある部分を選び出し結びつける。こうして彼らの精髄をすべて抽出し、彼ら自身のごく少ない言葉に圧縮して、読者の時間、好み、便益に配慮するのである。


第一章


章の概要

天地の創造と六日間の業が記される。すなわち、第一日に天、地、および光が造られた。第二日(第六節)に大空が造られた。第三日(第九節)に海と乾いた地が草木とともに造られた。第四日(第十四節)に太陽、月、星が造られた。第五日(第二十節)に魚と鳥が生み出された。第六日(第二十四節)に家畜、這うもの、獣が生み出され、神はそれらを祝福して食物を定め、人を他のすべてのものの主として置かれた。


ウルガタ訳本文:創世記1章1-31節

1. 初めに神は天と地を創造された。2. 地は形なく空しく、闇が深淵の面にあった。神の霊が水の上を動いていた。3. 神は言われた、「光あれ」。すると光があった。4. 神は光を見て良しとされた。そして光と闇とを分けられた。5. 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり朝となった。第一日である。6. 神はまた言われた、「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ」。7. 神は大空を造り、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。そのようになった。8. 神は大空を天と名づけられた。夕となり朝となった。第二日である。9. 神は言われた、「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた地が現れよ」。そのようになった。10. 神は乾いた地を地と名づけ、水の集まりを海と名づけられた。神は見て良しとされた。11. 神は言われた、「地は青草と種を結ぶ草と、種類に従って種のある実を結ぶ果樹を地の上に生じさせよ」。そのようになった。12. 地は青草と種類に従って種を結ぶ草と、種類に従って種のある実を結ぶ木を生じさせた。神は見て良しとされた。13. 夕となり朝となった。第三日である。14. 神は言われた、「天の大空に光あれ。昼と夜を分け、しるしと時と日と年のためになれ。15. 天の大空にあって地を照らせ」。そのようになった。16. 神は二つの大きな光を造られた。大きい方の光には昼を治めさせ、小さい方の光には夜を治めさせた。また星をも造られた。17. 神はそれらを天の大空に置いて地を照らさせ、18. 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神は見て良しとされた。19. 夕となり朝となった。第四日である。20. 神はまた言われた、「水は生き物を群がらせよ。鳥は地の上、天の大空の下を飛べ」。21. 神は大いなる海の怪物と、水がその種類に従って群がらせたすべての動く生き物と、翼あるすべての鳥をその種類に従って創造された。神は見て良しとされた。22. 神はそれらを祝福して言われた、「産めよ、殖えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」。23. 夕となり朝となった。第五日である。24. 神は言われた、「地はその種類に従って生き物を生じさせよ。家畜、這うもの、地の獣をその種類に従って生じさせよ」。そのようになった。25. 神は地の獣をその種類に従い、家畜をその種類に従い、地のすべての這うものをその種類に従って造られた。神は見て良しとされた。26. 神は言われた、「我らの像と似姿に人を造ろう。海の魚と空の鳥と獣と全地と地を這うすべてのものを治めさせよう」。27. 神は人をご自身の像に創造された。神の像に人を創造し、男と女に創造された。28. 神は彼らを祝福して言われた、「産めよ、殖えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。海の魚と空の鳥と地の上を動くすべての生き物を治めよ」。29. 神は言われた、「見よ、わたしは地の面にあるすべての種を結ぶ草と、種のある実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となるであろう。30. 地のすべての獣と空のすべての鳥と地を動くすべてのもの、すなわち命あるすべてのものには、食物としてすべての青草を与えた」。そのようになった。31. 神は造られたすべてのものを見て、はなはだ良しとされた。夕となり朝となった。第六日である。


第1節:初めに神は天と地を創造された

「初めに」:九つの解釈

第一の解釈:「時の初めに」

1. 初めに――第一に、聖アウグスティヌス『創世記逐語的解釈』第一巻第一章、聖アンブロシウスおよび聖バシリウス『ヘクサメロン』第一説教によれば、「初めに」とは、永遠のでも永劫のでもなく、時間と世界の最初の起源すなわち開始においてということである。世界の持続すなわち時間が世界とともに始まったのである。もっとも、世界の初めには現在あるような時間は存在しなかった――現在のわれわれの時間は第一可動天体すなわち太陽と諸天の運動の尺度だからである――しかし、その時にはまだ第一可動天体も太陽も諸天も存在せず、したがって時間によって測りうるそれらの運動も存在しなかった。にもかかわらず、その時には物体的事物、すなわち天と地の持続が存在しており、それはわれわれの時間に類似し、これに相応するものであったから、実質的には時間であった。なぜなら、物体的事物はそれが動いていようと静止していようと時間によって測られるからである。時間は物体の尺度であり、永劫は天使の尺度であり、永遠は神の尺度である。ただしアリストテレス的に言えば、時間は少なくとも本性上、運動および可動的物体よりも後のものである。

世界以前にはいかなる時間があったか

ここから聖アウグスティヌスは『命題集』第二百八十番でこう述べる。「被造物が造られたとき」と彼は言う、「時はその運動のうちに流れ始めた。したがって創造以前に時を求めるのは無益であり、あたかも時そのものの以前に時を見出しうるかのようである。なぜなら、もし霊的であれ物体的であれ被造物の運動が一切なく、現在を通じて未来が過去に継起することがなければ、時間はまったく存在しないからである。しかし被造物は存在しなければ動くことは決してできない。それゆえ時間は被造物から始まったのであり、被造物が時間から始まったのではない。しかし両者ともに神から始まった。『万物は神から出で、神によって成り、神のうちにある』」。

天と地はいつ創造されたか

注意すべきは、神が天と地を時間のうちにではなく、時間の初めに、すなわち時間の最初の瞬間に、つまり世界の最初の刹那に創造されたということである。聖バシリウスと聖ベーダは、天と地が第一日にではなく、第一日の少し前に、すなわち光の前に創造されたと考える。しかし、天と地がそれ以前にではなく、まさに第一日そのものに、すなわち第一日の始まりにおいて、光が産み出される前に創造されたことは、出エジプト記第二十章第一節から明らかである。

第二の解釈:「御子において」

第二に、文字通りの意味ではより優れた解釈として、同じ聖アウグスティヌス、聖アンブロシウス、聖バシリウスが同箇所で、またラテラノ公会議が「フィルミテル」の章「至高の三位一体とカトリック信仰について」で述べるところによれば、「初めに」とは御子においてということである。なぜなら、万物が御子を通じて、すなわち御父の理念にして知恵として創造されたことを、使徒がコロサイ書第一章第十六節で教えているからである。しかしこの解釈は神秘的かつ象徴的なものである。

第三の解釈:「万物に先立って」

第三に、最も単純には、「初めに」とは万物に先立ってということであり、神は天と地よりも先に、あるいはそれ以前に何も創造されなかったのである。こうしてヨハネ福音書第一章第一節に「初めに言葉があった」と記されている。これはあたかも、万物に先立って、すなわち永遠から言葉が存在したと言うのと同じである。聖アウグスティヌスも前掲箇所でこの意味を提示している。

これら二つの意味はいずれも真正かつ字義的であり、第二の意味から、プラトン、アリストテレスおよび他の者たちに反して、世界は永遠ではないことが明らかとなる。第三の意味から、天使たちは物質的世界の前にではなく、それと同時に神によって創造されたことが明らかとなる。これはラテラノ公会議が教えるところであり、後に引用されるであろう。

これら三つの解釈に加えて、古代の教父たちは他の説明を付け加える。

第四の解釈:「主権において」

それゆえ第四に、「初めに」とは主権において、すなわち王権においてということである(なぜならギリシア語の「アルケー」もまたこの意味を有し、そこから為政者や長官が「アルコンテス」と呼ばれるからである)。神は天と地を造り給うた、とテルトゥリアヌスが『ヘルモゲネス反駁論』で述べる。プロコピウスもまたこう述べる。「王の王にして、まったく完全に自らの主であり、何ものにも依存せず、万物をご自身の意志に従って治め給う神は、この宇宙をその種と形とともに呼び出し給うた。まことに神ご自身が質料を産み出し給い、これを他から借り受け給うたのではない」。

第五の解釈:「総括的に」

第五に、アクィラは「初めに」を「頭において」すなわち総括的に、すべてのものを一度に包括的に、あるいは一括してと訳している。なぜなら神は天と地を創造される際に、同時にいわば他のすべてのものを総括的に創造されたからである。天と地から後に残りのものを形成されたのである。ヘブライ語の「レシート」すなわち「初め」は、「ロシュ」すなわち「頭」に由来する。

第六の解釈:「一瞬のうちに」

第六に、聖アンブロシウスと聖バシリウスは『ヘクサメロン』第一説教で、「初めに」とは一瞬のうちに、いかなる時間の遅延もなく、最も微小な遅延すらなくということである。なぜなら初めは不可分だからであると述べる。道の始まりが道でないように、時間の始まりは時間ではなく、刹那なのである。

第七の解釈:「主要なものとして」

第七に、「初めに」とは主要な、より優れた、根源的なものとしてということである。聖アンブロシウス、プロコピウス、聖ベーダがこう述べる。

第八の解釈:「基礎として」

第八に、「初めに」とは最初のものとして、すなわち宇宙の基礎にして土台としてということであると聖バシリウスとプロコピウスは述べる。こうして「知恵の初めは主を畏れること」と言われる。なぜなら畏れは知恵の基礎であり、知恵に至る第一の段階だからである。

第九の解釈:神の永遠と全能

最後にユニリウスはここで次のように述べる。「初めに」という句は神の永遠と全能を示すものである。「時の初めに世界を創造されたと宣言される方は、確かにすべての時に先立って永遠から存在しておられたものと示される。そして創造のまさにその最初に天と地を創造されたと語られる方は、そのすみやかな業によって全能であると宣言されるのである」。


「創造された」

何から創造されたのか?

「創造された」――すなわち、厳密に言えば無から、いかなる既存の質料からでもなく創造された。かのマカバイの聖なる母はマカバイ記下第七章で息子にこう語っている。「わが子よ、天と地を、またその中にあるすべてのものを仰ぎ見て、神がそれらを無から造られたことを悟りなさい」と。第二に、「創造された」とは、すなわち神のみが単独で、イザヤ書第四十四章第二十四節に述べられているとおり、ご自身とその全能によって創造されたのであり、天使たちによってではない。天使たちはまだ存在しておらず、たとえ存在していたとしても、創造の奉仕者とはなりえないからである。第三に、「創造された」とは、永遠の昔からご自身の御心に抱いておられた理念と範型に従って創造されたということである。なぜなら、そのとき神は

「ご自身こそ最も美しくありながら、美しき世界を御心に宿しておられた」とボエティウスが『哲学の慰め』第三巻、韻文第九で歌うとおりである。

なぜ創造されたのか?

第四に、神が天を創造されたのは、それを必要としたからではなく、神が善であり、この手段を通じてご自身の善を世界と人類に分かち与えようと望まれたからである。善なる神からは善き業が生じるのがふさわしかったのであると、プラトンが述べ、プラトンに続いて聖アウグスティヌスが『神の国』第十一巻第二十一章で述べている。それゆえ同じアウグスティヌスは『告白』第一巻で美しくこう述べている。「主よ、あなたは私たちをあなたのために造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまで安らぐことがありません」と。また、「天と地は叫んでいます、主よ、私たちがあなたを愛するようにと」とも述べている。

注意すべきことがある。キケロやローマの異教徒たちにおいて「創造する」とは「生む」を意味し、ギリシア人においては創造と建設は同一のものである。しかし聖書において、以前にまったく存在しなかったものについて「創造する」と言われる場合、それは無から何かを造ることを意味する。聖キュリロス『宝庫』第五巻第四章、聖アタナシウス「アリウス派に対するニケア公会議の決定書と題された書簡」、聖ユスティヌス『勧告書』、ルペルトゥス『創世記論』第一巻第三章、聖ベーダおよびリラのニコラウスがここでそう教えている。なぜなら、聖トマスが『神学大全』第一部第六十一問第五項で教えるとおり、万物の普遍的な流出は無からでなければ生じえなかったからである。

ヒエロニムス・デ・オレアストロはヘブライ語のバラーを「分けた」と訳している。そこから彼はこう翻訳する。「初めに神は天と地を分けた」と。彼は、神がまず最初に水を地とともに創造し、それらは最も広大で巨大であり、次にそこから天を生み出し(聖書はここでそれを黙示し前提としている)、最後にそれらを地と水から分離した、そしてここではその分離のみが表現されていると考えた。しかしこの発明はすべての教父と博士たちによって退けられている。彼らはバラーを「創造した」と訳しているからである。これがその本来の意味であり、ヘブライ語に通じた者たちが知るように、バラーは決して「分けた」を意味しないのである。

被造物の三重の観想に関する訓話的解釈

訓話的に言えば、被造物は三つの仕方で観想されるべきである。第一に、それら自体において何であるかを考察すること、すなわち無であるということ。なぜなら被造物は無から造られ、それ自体においては日々変化し、無に向かう傾向にあるからである。第二に、創造主の賜物によって何であるかを考察すること、すなわち善く、美しく、安定し、永遠であり、かくしてその造り主の不変性を模倣しているということ。第三に、神がそれらを人間の罰と報いのために用いるということ。このようにして我々は、すべての被造物が我々に向かってこの三つのことを叫んでいるのを聞く。すなわち、受けよ、返せ、逃れよ。恩恵を受けよ、負い目を返せ、罰を逃れよ。第一の声は仕える者の声であり、第二は勧告する者の声であり、第三は脅かす者の声である。

哲学者たちの誤謬が論駁される

ここから明らかになることは、第一に、ランプサコスのストラトンの誤謬である。彼は世界が生成されず、その固有の力によって永遠から存在していたと空想した。第二に、プラトンとストア派の誤謬である。彼らは世界は確かに神によって造られたが、永遠で非生成の質料から造られたと言った。なぜなら、この質料は非被造で神と共に永遠であり、したがって神そのものであることになるからであると、テルトゥリアヌスがヘルモゲネスに対して正当に反論している。第三に、ペリパトス派の誤謬である。彼らは神が意志によってでも自由にでもなく、自然の必然性から永遠に世界を創造したと主張した。第四に、エピクロスの誤謬である。彼は世界が原子の偶然の衝突と結合によって生じたと教えた。

聖アウグスティヌスは『神の国』第十一巻第三章で見事にこう述べている。「世界そのものが、その極めて秩序正しい可変性と可動性により、また目に見えるすべてのものの最も美しい外観により、言わば沈黙のうちに、自らが造られたこと、そして言い表しがたく見えざるほどに偉大であり、言い表しがたく見えざるほどに美しい神によってでなければ造られえなかったことを告げ知らせている」と。ここからすべての哲学派のうち、より神的な何かを知るものは、異口同音に、世界が神によって造られ、その摂理によって治められていることを、世界全体の眺望そのものとその美と秩序の考察ほどに証明するものはないと断言している。プラトン、ストア派、キケロ、プルタルコス、そしてアリストテレスもそう述べており、この主題に関するアリストテレスの議論はキケロの『神々の本性について』第二巻に報告されている。

いかに創造されたか?

注意すべきことがある。神は天と地を命じ、語ることによって創造された。すなわち「天と地よ、成れ」と。これはエズラ記第四巻第六章第三十八節、および詩篇第三十二篇第六節に明白に述べられている。「主の言葉によって天は堅く立てられた」と。ここから聖バシリウスは推論する。神がその力と技と自由によってこの世界を造られたのであるから、同じ力でさらに多くの世界を創造することができ、また同じ力で世界を滅ぼすこともできると。なぜなら世界は神に対して桶からの一滴のごとく、朝露の一滴のごとくであると、イザヤ書第四十章第十五節、知恵の書第十一章第二十三節に言われているからである。それゆえ神は三本の指で地の塊を支えると言われるのである。

反論

こう言う者がいるであろう。ではなぜモーセはここで、光について「光あれ」と神が言われたと述べたように、「天あれ」と神が言われたとは述べなかったのか。答えるに、モーセが「言われた」ではなく「創造された」という語を用いたのは、無学なユダヤの民が「あれ」という語から、神がそれに向かって語りかけた、あるいはそこから天と地を造り出した既存の質料を想起しないためである。ルペルトゥスは三つの理由を挙げている。第一に、彼は言う、初め自体が神の言葉であるのだから、「初めに神は言われた」と言うのは余分で不適切であろうと。第二に、まだ命令の対象となるものが何も存在していなかったからである。第三に、神がすべての質料の創造主であることが示されるように、「あれ」ではなく「創造された」と言うのだと。


「神」(エロヒム):十三の定義

異端者たちの誤謬

「神」――それゆえ、シモン・マグス、アリウス、およびその他の者たちは誤っている。彼らは神が御子を創造し、御子が聖霊を創造し、聖霊が天使たちを創造し、天使たちが世界を創造したと言う。第二に、ピュタゴラス、マニ教徒、およびプリスキリアニストたちは誤っている。彼らは万物の根源が二つ、すなわち二つの神があると言う。一つは善なる神で霊の創造者、もう一つは悪なる神で物体の創造者であると。

エロヒムという語の説明

ヘブライ語で「神」はエロヒムであり、これはエル(すなわち「力ある者」)とアラー(すなわち「誓約した、義務づけた、縛った」)に由来する。なぜなら神はご自身の力、徳、およびすべての善を被造物に与え保たれるからであり、これを通じて被造物を言わば誓いによってご自身に縛り、礼拝、服従、畏れ、信仰、希望、祈願、感謝へと向かわせるのである。

それゆえエロヒムとは、万物の創造者、統治者、裁き主、監督者、報復者としての神の名である。モーセがここでエロヒムという名を用いたのは、第一に、人間が世界の創設者と裁き主が同一であることを知るためである。すなわち、世界を創造されたのと同じ方が、エロヒムすなわち裁き主として、それを裁かれるのである。第二に、世界が神の意志、判断、知恵によって神により建てられたことを知るためである。第三に、万物が正しい秤の上に配置され、各々のものにいわば当然のもの、すなわちその本性と宇宙の善が要求するものが与えられたことを知るためである。第四に、世界が神によって創造されたように、同じ方によって保存され統治されていることを知るためである。ヨブ記第三十四章第十八節以下、知恵の書第十一章第二十三節以下が教えるとおりである。

それゆえアベン・エズラとラビたちは、神がここでエロヒムと呼ばれるのは、その威厳と、三つの賜物すなわち知性、知恵、聡明とを宣言するためであると言う。神はこれらによって世界を建てられたのである。他の者たちは、モーセが神のうちにある理念と完全さの多様性に言及していたと考える。注意すべきことがある。神はモーセにそのヤハウェという名を啓示された。モーセ以前、それゆえ神はエロヒムと呼ばれていた。それゆえ蛇もまた神をそう呼び、こう言った。「神はなぜあなたがたに命じられたのか」と。ヘブライ語ではエロヒムである。ここから明らかなように、世界の初めからアダムとエバは神をエロヒムと呼んでいた。聖ベーダがそう述べている。

神とは何か? 十三の定義

それではエロヒムとは何か? 神とは何か?

第一。アリストテレス、あるいはアレクサンドロスに宛てた『世界について』の著者が誰であれ、こう述べている。「船における舵手、馬車における御者、合唱における指揮者、都市における法律、軍隊における司令官、それと同じものが世界における神である。ただし、それらの場合には支配は労苦に満ち、混乱し、不安に満ちているが、神においてはそれは容易で、秩序があり、平穏である。」

第二。聖レオ、受難についての説教第二。「神とは、その本性が善であり、その意志が力であり、その業が慈悲である方である。」

第三。アリストテレス、あるいは『エジプト人に倣う知恵について』の著者が誰であれ、第十二巻第十九章でこう述べている。「神とは、永続、場所、時間がそこから来る方であり、その恩恵によって万物は存続する。そして円の中心がそれ自体のうちに存在し、中心から円周へ引かれた線と、その点を持つ円周自体がその同じ中心のうちに存在するように、知性に属するものも感覚に属するものも、すべての本性は第一の作用者(神)のうちに存立し、確立される。」

第四。神は万物に対する摂理そのものである。なぜなら、聖アウグスティヌスが『三位一体論』第三巻第四章で述べるとおり、「目に見え感覚で知覚されるもので、至高なる統治者の内的で見えざる知的な法廷から、この全被造物の極めて広大で測りがたい共和国において、報いと罰、恩寵と応報の言い表しがたい正義に従って、命じられるか許可されるかしないものは何も起こらない」からである。

第五。同じ聖アウグスティヌスはこう述べている。もし善い天使、善い人間、善い天を見るならば、天使を取り去り、人間を取り去り、天を取り去りなさい。そして残るものこそ善きものの本質、すなわち神であると。

第六。ある異邦の王は、神はすべての光の彼方にある闇であり、精神の無知によって知られると述べた。

第七。エロヒムとは、端から端まで力強く達し、万事を柔和に整える方である。知恵ある者がそう述べている。

第八。エロヒムとは、我々がそのうちに生き、動き、存在する方である。使徒言行録第十七章第二十八節。

第九。「神とは」と聖アウグスティヌスは『瞑想録』で述べている。「精神も及ばない方である。なぜなら把握しがたいからである。知性も及ばない方である。なぜなら探究しがたいからである。感覚も知覚しえない方である。なぜなら見えざる方だからである。舌も言い表しえない方である。なぜなら言い表しがたい方だからである。文も説明しえない方である。なぜなら説明しがたい方だからである。」

第十。「神とは」と聖グレゴリウス・ナジアンゾスは『信仰について』の論考で述べている。「語られても語りつくせず、評価されても評価しつくせず、定義されてもその定義そのものによって増大する方である。なぜなら御手をもって天を覆い、拳をもって全世界の周囲を包まれるからである。万物はこの方を知らず、しかも畏れることによって知っている。その名と力にこの世界は仕え、互いに入れ替わる諸元素のたゆみなき交替がそれを証しているのである。」

第十一。「神とは、三本の指で地の塊を支え、掌で水を量り、一指の幅で天を測られた方である。見よ、諸国民は御前にあって桶からの一滴のごとく、秤の上の一塵のごとく数えられ、島々は細かな塵のごとくである。レバノンも燃やすに足りず、その獣も燔祭に足りない。地の円の上に座す方の前では、その住民はいなごのごとくである」イザヤ書第四十章第十二、十五、二十二節。

第十二。神とは、知恵ある者が第十一章第二十三節でこう述べている方である。「秤の上の一塵のごとく、御前にあって世界はかくのごとし。地に落ちる朝露の一滴のごとし」と。

第十三。「質料は空気よりも精妙であり、空気よりも魂は精妙であり、魂よりも精神は精妙であり、精神よりも神ご自身は精妙である」とヘルメス・トリスメギストスは述べている。

複数形としてのエロヒム

注意すべきことがある。エロヒムは複数形であり、単数形ではエロアハと言う。この理由は次のとおりである。第一に、ヘブライ人は偉大なものや高位の者を尊称として複数形で呼ぶからである。ラテン人もまた同様にし、たとえば「我らフィリッポス、スペイン王」と言う。こうしてヨブ記第四十章第十節では、象はベヘモトすなわち「獣たち」と呼ばれている。なぜなら、その身体と力の大きさゆえに、多くの獣に匹敵するからであると、ヘブライ人たちが教えている。

第二に、複数形のエロヒムは、創造し、統治し、裁く神の極めて大いなる、至高の、測りがたい強さと力を意味する。

第三に、複数形のエロヒムは神における位格の複数性を暗示する。それはちょうど、神における本質の一性が単数形の動詞バラーすなわち「創造した」によって暗示されるのと同様である。リラのニコラウス、ブルゲンシス、ガラティヌス、エウグビヌス、カタリヌス、師(ペトルス・ロンバルドゥス)および『命題集』第二巻区別一のスコラ学者たちが、カイェタヌスとアブレンシスに反してそう教えている。

創造の四つの原因

それゆえ以下が創造の、すなわち天と地という被造物の四つの原因である。質料因は無、形相因は天と地の形相、作用因は神、目的因は善であるが、神の善ではなく我々の善である。かくしてすべての被造物は全永遠にわたって自らの無のうちに、また神の精神における自らの理念のうちに隠れていたが、人間のために時の中に産み出されたのである。なぜなら、その全永遠にわたってご自身のうちで最も至福であった神は、いかなる仕方でもより幸福に、あるいはより豊かになられたのではなく、それらを通じてご自身を被造物と人間のうちに注ぎ出そうと望まれたのである。あたかも溢れ出る海が岸辺にその身を注ぎ出すように。

それゆえ神は世界をこの目的のために創造された。第一に、人間のために王の住まい、いや王国を備えるために。第二に、人間のためにあらゆるものの劇場と、あらゆる種類の喜びの楽園を差し出すために。第三に、人間に一冊の書物を提供し、そこにおいて人間が自らの創造主を見、読むことができるようにするためである。


「天と地」:四つの解釈

第一の見解

第一に、聖アウグスティヌスは『マニ教徒に対する創世記論』第一巻第七章でこう述べている。天と地とは、ここでは第一質料のことを言っている。なぜなら、そこから天が第二日に、地が第三日に産み出されることになっていたからである。しかし、形相なき質料のみが創造されたとは考えがたく、そのようなものが天と呼ばれることもありえない。アウグスティヌス自身の言葉を聞こう。「神が無から造られたあの形を持たない質料は、初めに天と地と呼ばれた。それがすでにそうであったからではなく、そうなりうるものであったからである。なぜなら天はその後に造られたと記されているからである。それはちょうど、樹木の種子を考察して、そこに根、幹、枝、実、葉があると言うようなものである。すでに存在しているからではなく、そこから生じることになるからである」と。しかし同じアウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第一巻第十四章で、この質料はまさに同じ時間の瞬間に自らの形相を与えられ飾られたと付け加えている。したがって、ここではその創造が単に名付けられているにすぎない。なぜなら、時間においてではなく本性においてその形相に先行したからである。これに近いのはニュッサのグレゴリウスの解釈であり、彼は天と地を、一つの普遍的で共通の粗い形相のうちに積み重ねられた混沌と理解し、そこからすべての天体と元素的物体が引き出されることになったとしている。

第二の見解

第二に、同じアウグスティヌスは『神の国』第十一巻第九章で、天を天使たちと理解し、地を形を持たない第一質料と理解している。しかし前者は神秘的であり、後者も同様に蓋然性がない。

第三の見解

第三に、ペレリウス、グレゴリウス・デ・バレンティアはその『六日間の業についての論考』で、また他の者たちは、おそらく天をすべての天球と理解し、地を地そのものおよび水、火、近隣の大気と理解している。あたかも世界の第一日に神がすべての天体の球と元素の球を創造し、続く五日間でそれらに運動、光、星辰、影響力、導く知性のみを付加して飾ったかのようである。

第四の見解:著者の見解

第四に、最も蓋然性が高いのは、天によってここで最初にして最高の天、すなわち至高天が理解されるということである。パウロはこれを第三の天と呼び、ダビデは天の天と呼び、それは福者たちの住まいであると、すべての者が一般に教えている。それゆえ第一日に神は諸天のうち至高天のみを創造し、そのすべての美をもってそれを飾り完成された。なぜなら、これを永遠に住まいとするために、天使たちと人間がその後に創造されたのである。そしてこれこそ、あらゆる時代の信者たちが天と呼ぶものである。この世の後どこに行きたいかと尋ねれば、彼らはすぐに天へ、すなわち至高天へと答える。そこで幸福で至福であるためにと。ここから聖ヨハネ・クリソストモスはここの説教第二でこう述べている。「神は人間の慣習に反して、ご自身の建造物を完成するにあたり、まず天を広げ、その後に地をその下に敷かれた。まず屋根を、その後に基礎を」と。なぜなら世界の建造物の屋根は天であり、星辰の天ではなく至高天である。また聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第一でこう述べている。「天と地が、宇宙のいわば基礎と支えの土台として、最初に据えられ構築された」と。

この見解は次のことによって証明される。第一に、大空すなわち第八天および隣接する天球は、単に飾られただけでなく、実際に第二日に作られ創造されたからである。これは第六節から明らかである。したがって第一日に創造されたのではない。第一日に創造された天は至高天以外のものではない。これは使徒ペトロの口から受けた福者クレメンスの見解であり、オリゲネス、テオドレトス、アルクイヌス、ラバヌス、リラのニコラウス、フィロン、聖ヒラリウス、アンティオキアのテオフィロス、ユニリウス、聖ベーダ、アブレンシス、カタリヌス、その他多くの者たちの見解である。聖ボナヴェントゥラはこの見解がより一般的であると断言し、カタリヌスは最も真実であると断言するほどである。

「地を」

「地を」――すなわち、地の球体を、深淵すなわち水の塊とともに。水の塊は地に注がれ地の上に広がり、至高天にまで及んでいた。それゆえこの三つのものが万物に先立って最初に創造された。すなわち至高天、地、そして深淵、つまり至高天から地に至るまですべてを占める水の塊である。この深淵すなわち水から、一部は薄められ、一部は凝縮され固められて、すべての天すなわち大空が第二日に造られ、すべての星辰が第四日に造られた。あたかも凍結した水から水晶が生じるように。これは使徒ペトロとクレメンス、聖バシリウス、聖ベーダ、モリーナ、その他多くの者たちの見解であり、私は第六節でそれらを引用するであろう。

そしてここから帰結するのは、天と月下界のものの質料は同一であり、それは可朽的であるとする者たちの見解がより真実であるということである。さらに、神によって創造された地は宇宙の中心に置かれ、そこに堅固に立っている。それは第一に、神の意志と力が中空に吊るされた球のように絶えずそれを保持し支えているからであり、箴言第八章で永遠の知恵がこう述べているとおりである。「地の基を据えておられたとき、わたしはそのかたわらにあって万事を整えていた」と。また第二に、自然学的な理由からであり、すなわち地は被造物のうちで最も重いものであり、それゆえ最も低い場所を要求するからである。

天使たちはいつ創造されたか?

問いがある。天使たちはどこで、いつ創造されたか。ある者たちは天使たちが世界の前に創造されたと考えた。オリゲネス、バシリウス、ナジアンゾスのグレゴリウス、アンブロシウス、ヒエロニムス、ヒラリウスがそう考えた。他の者たちは天使たちが世界の後に創造されたと考えた。しかし私は、天使たちは時の初めに世界と同時に創造されたと言う。しかも至高天において創造されたのである。なぜなら天使たちはその市民であり住民であるからである。聖アウグスティヌス、聖グレゴリウス、ルペルトゥス、聖ベーダとともに師(ペトルス・ロンバルドゥス)およびスコラ学者たちがそう教えている。

のみならず、インノケンティウス三世のもとでのラテラノ公会議はこう述べている。「神が時の初めから、無から、霊的なものと物体的なもの、天使的なものと世俗的なものという両方の被造物を同時に創造されたことを、固い信仰をもって信じなければならない」と。聖トマスおよびその他の者たちの中にはこの言葉を別様に解しうると考える者もいるが、それでもこの言葉はあまりにも明白で明瞭であり、別の意味にねじ曲げることはできないように思われる。それゆえ我々の見解は、もはや単に蓋然的であるのみならず、信仰の事柄として確実であるように見える。なぜなら公会議そのものがこのことを主張し定義しているからである。

なぜモーセは天使の創造に言及しないのか?

注意すべきことがある。モーセが天使の創造に言及しないのは、彼が無学で鈍い、偶像崇拝に傾きやすいユダヤ人のために書いていたからであり、彼らは容易に天使を神として崇めたであろう。しかしながらモーセは第二章第一節でこう述べるとき、暗黙のうちに天使を示唆している。「かくして天は完成され、そのすべての飾りも完成された」と。なぜなら天の飾りとは星辰と天使たちのことだからである。これこそが、かの偉大なる万物の建築家が時の始まりとともに一瞬のうちに無から産み出した、広大にして美しき世界すなわち天と地の機構である。

見事にもセクンドゥスという哲学者は、皇帝ハドリアヌスから問われたとき、こう答えた。「世界とは何か? 絶えざる循環、永遠の営みである。神とは何か? 不死の精神、測りがたき探究、万物を包含する者である。大洋とは何か? 世界の抱擁、河川の宿、雨の源泉である。地とは何か? 天の基、世界の中心、果実の母、生あるものの乳母である。」またエピクテトスはこう述べている。「地はケレスの穀倉であり、生命の貯蔵庫である」と。


第2節:地は形なく空しかった

ヘブライ語では、地は「トーフー・ヴァヴォーフー」(תהו ובהו)であった、すなわち地は荒涼、あるいは空虚にして虚無であった。カルデア人ヨナタンが訳すごとく、地には人間も家畜もいなかったからである。さらにまた、地には植物も動物も種子も草も光も美しさも河川も泉も山も谷も平野も丘も金属も鉱物もなく、それらに対して地はいわば自然的な傾向を有するのである。ゆえに『知恵の書』第十一章において、神は「目に見えない素材から世界を創造された」と言われている。ギリシア語ではアモルフォ(ἀμόρφῳ)、すなわち無形の、未装飾の、未整序の、という意味である。

ゆえに七十人訳はここで「地は見えず、整えられていなかった」と訳し、アクィラは「地は空虚にして無であった」と、シュンマコスは「地は怠惰にして未整形であった」と、テオドティオンは「地は虚無にして無であった」と、オンケロスは「地は荒廃して空であった」と訳している。水の深淵がその上に注がれた地は、いわば空虚にして粗野で未整形の混沌のごときものであった。オウィディウスはこれについて次のように述べている。

全世界に自然のただ一つの相貌があり、
それを人々は混沌と呼んだ、粗野にして未整形の塊。
不活発なる重量のほかには何もなく、一所に堆積された
不調和なる事物の種子は善く結合されていなかった。

したがって、ガブリエルが主張するところ、すなわちこの混沌は第一質料のみであったか、あるいは物体性の粗野で曖昧で一般的な形相によってのみ形相づけられていたに過ぎないとするのは、蓋然性に乏しい。モーセのこの一節から、まず天と地が創造されたことは明らかであるからである。したがって、最初に創造された質料は形相を欠いていたのではなく、天と地の固有の形相を帯び、それに浸透されていたのである。

なぜ同時に装飾されなかったのか?

問い:神は第一日に天と地を創造したとき、なぜ同時にそれらを完全かつ十全に装飾されなかったのか。答え:第一の理由は神の聖なる御意志である。適切な説明としては、自然は(その創始者は神である)不完全なものから完全なものへと進むということがある。第二の理由は、万物がその開始においても装飾と完成においても神に依存していることを我々が学ぶためである。第三の理由は、万物が初めから完全であったと読まれるならば、それらが被造物ではないと考えられかねないためである。

ここで理解される霊とは何か?

「主の霊」――すなわち天使であると、カイエタヌスは言う。より的確には、ヘブライ人ら、テオドレトス、テルトゥリアヌスが『ヘルモゲネス反駁論』第三十二章で述べるところによれば、「主の霊」とは神によって起こされた風のことである。第三に、最も適切かつ完全には、「主の霊」とは父なる神と御子から発出する聖霊であり、御自身の力と臨在と権能をもって水の上に温かき息吹を吹きかけたのである。聖ヒエロニムス、聖バシリウス、テオドレトス、聖アタナシウス、およびほぼすべての他の教父たちがそのように述べ、この一節から聖霊の神性を証明している。

「漂っていた」のヘブライ語からの説明

「漂っていた」――「漂っていた」に対するヘブライ語はメラヘフェト(מרחפת)であり、聖バシリウス、ディオドロス、および聖ヒエロニムスが『創世記に関するヘブライ語問答』で証言するところによれば、これは鳥が卵と雛の上で、宙に浮かぶようにして翼の軽やかな打ちで穏やかに身を揺らし、ひらひらと飛び交い、それから覆い被さって温めを吹き込み、慈しみ、生命を与えることを指す言葉である。同様に聖霊も水の上に運ばれていた、あるいはテルトゥリアヌスの読みでは水の上を渡っていたのであり、それは場所や運動によるのではなく、万物を超越し卓越する力によるのであった。ちょうど職人の意志と構想が製作されるべきものの上に運ばれるように、と聖アウグスティヌスは『逐語的創世記注解』第一巻第七章で述べている。したがって聖霊は、この御意志と力により、御自身から放った温かき息吹とともに、いわば水の上に覆い被さり、水に生殖の力を付与して、這うもの、鳥、魚、植物、いやすべての天体さえもが水から生じるようにされたのである。

ゆえに教会は洗礼盤の祝別において聖霊に向かってこう歌う。「温めるべく水の上に漂っておられた方よ」と。そしてマリウス・ウィクトルは述べている。

聖なる霊は広がる波の上に漂いつつ、
養い育む水に生命を吹き込み、万物の種を与えた。

水と万物に生命を与えるこの霊を、プラトンは世界霊魂であると述べた。そこからウェルギリウスは『アエネイス』第六巻で次のように詠んでいる。

内なる霊が養い、四肢に注がれた知性が
全体の塊を動かし、巨大な肉体と混ざり合う。

寓意的解釈

寓意的には、聖霊がここで洗礼の水の上にいわば覆い被さり、その水によって我々を産み出し再生させることが示されていると、聖ヒエロニムスは『オケアヌスへの書簡』第八十三章で述べている。


第3節:神は言われた、「光あれ」

3. 「神は言われた」――口の言葉ではなく知性の言葉によってであり、しかもそれは理性的な言葉ではなく本質的な言葉であって、三つのペルソナに共通のものである。「言われた」とは、すなわち知性において構想し、意志し、決定し、力ある仕方で命令し、命令することによって実際に造り出し産出したということである。神、すなわち至聖なる三位一体そのものが光を産出したのである。なぜなら神の意志することは神の行うことであると、聖アタナシウスは『アリウス派反駁論』第三講話で述べている。しかしながら「言われた」という語は御子に帰属せしめられる。ゆえに聖書は他の箇所でしばしば、御子を通して、すなわち御言葉また理念として万物が創造されたと述べている。御子御自身が概念的かつ固有の意味での御言葉であり、したがって知恵、技芸、理念が御子に帰属せしめられるからである。ちょうど力が御父に、善性が聖霊に帰属せしめられるように。

最後に、神がこれらを言われたのは天と地と深淵の創造の後であるが、同じ日すなわち世界の第一日がまだ続いている間のことであった。

光あれ

「光あれ」――注意すべきことに、創世記と世界の創造において、光はすべてのものに先立って形成された。光は最も高貴で、最も喜ばしく、最も有用で、最も効果的で、最も力ある性質だからであり、光なくしては創造されたすべてのもの、また創造されるべきすべてのものは目に見えないままであったろう。エズラ第四書第六章第四十節は述べている。「その宝庫から」神は「輝く光を取り出し、御自身の業が現れるようにされた。」聖ディオニシウスは『神名論』第一部第四章を参照されたい。そこで彼は光と火の三十四の特性を列挙しており、それらは神と神的事物に驚くべく適合している。そしてとりわけ彼は、光が神の生ける似姿であり、ゆえに神によって最初に創造されたのは、それをいわば似姿として御自身を描き出し、世界に見える形で示すためであったと教えている。「善そのものから」と聖ディオニシウスは述べている。「光は来たり、善性の似姿である」と。

なぜなら神は被造物ではない、永遠にして無限の光であり、近づきがたい光の中に住まわれながらも、すべてのものを照らされるからである。

聖バシリウスは『ヘクサエメロン』第二講話で美しい比喩を示している。「水の深い渦巻きの中に油を注ぐ者がその場所に澄明さと透明さを与えるように、万有の創造主も、御言葉を発するや直ちに、光によって世界に愛すべき、最も美しい麗しさをもたらされた。」聖アンブロシウスは『ヘクサエメロン』第一巻第九章で別の比喩を挙げている。「世界の装飾は光から始まるほかにないであろう。見ることができなければ無駄だからである。家長にふさわしい住居を建てようとする者は、土台を据える前にまず光をどこから入れるかを調べる。そしてこれが最初の恩恵であり、これがなければ家全体が醜い荒廃に覆われる。光こそが家の残りの装飾を引き立てるのである。」

この光とは何であったか?

問い:この光とは何であったか。カタリヌスはまず、それは最も輝かしい太陽であったと答える。しかし太陽は光のように第一日にではなく、ようやく第四日に造り出されたのである。第二に、聖バシリウス、テオドレトス、ナジアンゾスは、ここでは基体なしに光の性質のみが創造されたと考える。ゆえにナジアンゾスはこの光を「霊的なもの」と呼んでいる。聖体の秘跡において附帯的性質が基体なしに存在しうることを否定する異端者に対して、この点を注意されたい。第三に、最も正しくは、聖ベーダ、フーゴー、教師、聖トマス、聖ボナヴェントゥラ、リラヌス、アブレンシスは、この光は輝く物体であったとする。すなわち天の、あるいはむしろ深淵の輝く一部分であり、円環ないし柱の形に成形されて世に輝き出でたものであった。それはいわば素材であって、後にそこから分割され諸部分に分けられ、増大させられ、いわば火の球体に造り上げられて、太陽、月、星が造られたのである。ゆえに聖トマスはこの光はまだ未完成で不完全な太陽そのものであったと述べている。ペレリウスおよび他の学者も同じことを主張している。

第一に注意すべきは、この光は厳密に言えば創造されたのではないということである。なぜなら神は第一日にすべての第一質料を創造し、それを深淵の水の形相の基体として据え、そこからこの光やその他の本質的および附帯的形相を引き出されたからである。したがって神は厳密に言えば第一日に創造されるべきすべてのものだけを創造し、残りの五日間は創造したのではなく、創造されたものを形成し装飾されたのである。そこで、光を産出するにあたって神は深淵の水から水晶のごとき球体を凝集させ、この光をそれに付与されたと思われる。

第二に注意すべきは、この輝く物体は世界の最初の三日間――すなわち第四日に太陽が創造される前――天使によって東から西へと動かされ、太陽と同じ仕方と時間で、すなわち二十四時間で天の両半球を巡って照らしたということである。ちょうど今日太陽がなしているように。

道徳的解釈

道徳的には、使徒はコリント人への第二の手紙第四章第六節で述べている。「闇から光が輝き出でよと仰せになった神は、みずから我々の心の中を照らされた。」すなわち、かつて創世記において神が闇から光を生じさせたように、今や神は不信仰者の中から我々を信仰者とし、信仰の光で照らされたのである、と言うのである。さらに、万物に先立って創造された光は、我々のすべての業に先立ち、それを導くべき心の正しい志向を意味すると、サン=ヴィクトルのフーゴーは述べている。

さらに、光は知識と知恵である。ゆえに聖アウグスティヌスは述べている。「最初に光が創造された」、すなわち「知恵はすべてのものに先立って創造された」(『集会の書』第一章第四節)。「主よ、御顔の光が我々の上に印されています。」最後に、光は律法と教え、とりわけ福音である。『箴言』第六章第二十三節によれば、「掟は灯火であり、律法は光である。」ゆえに福音についてイザヤは第九章第二節で歌っている。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。」

象徴的および寓意的解釈

象徴的には、「光あれ」とは「天使あれ」という意味であると聖アウグスティヌスは述べている。しかしこれは字義的な意味ではありえない。天使は光に先立って天と地とともに創造されたからである。第二に、同じ聖アウグスティヌスはこれを神の御言葉の永遠の生成について解している。父なる神は「光あれ」と言われた、すなわち「御言葉あれ」と。いわば光からの光である。しかしこれも象徴的であって、字義的なものではない。

寓意的には、受肉されたキリストは世の光である。ヨハネ福音書第八章第十二節に、「この世に来るすべての人を照らすまことの光であった」とある。ゆえに同じ名がキリストから使徒、博士、説教者に分かち与えられている。主はマタイ福音書第五章で彼らに言われる。「あなたがたは世の光である。」これについて聖バシリウスは『痛悔についての講話』で見事に述べている。「イエスは御自身の特権を他の者に分かち与えられる。主は光である。『あなたがたは世の光である』と主は仰せになる。主は司祭であり、司祭を立てられる。主は羊であり、『見よ、わたしはあなたがたを狼の中に羊として遣わす』と仰せになる。主は岩であり、岩を立てられる(聖ペトロを)。御自身に属するものを僕たちに分かち与えられる。キリストは絶えず湧き出る泉のごときものだからである。」

天上的には、光は栄光の光と至福直観の輝きを意味する。詩篇第三十六篇第十節によれば、「あなたの光の中にこそ、我々は光を見る。」ゆえにキリストは変容において天上の栄光を光によって示された。「その御顔は太陽のように輝いた」とマタイ福音書第十七章第二節にある。


第4節:神は光を見て良しとされた

4. 「神は光を見て良しとされた」――「見た」とは、すなわち我々に見させ、知らせたということであると、聖ヒエロニムスは書簡第十五章で述べている。第二に、より平明かつ単純には、モーセはここで一種の文学的擬人法によって、人間の仕方に倣い、神を仕事を完成した後にそれを観照し、それが美しく見事であると見る職人のごとく描いている。そしてこれは次の目的のためである。すなわち、マニ教徒に反して、神によって何も悪なるものは造られず、すべて善きものが造り出されたと我々が知るためである。聖アウグスティヌスは『命題集』第百四十四号で博識をもって述べている。「被造物の条件について、我々に知らされるべき三つのことが特にあった。誰がそれを造ったか、何を通して造ったか、なぜ造ったか。『神は言われた、光あれ、すると光があった。神は光を見て良しとされた。』神よりも卓越した作者はなく、神の御言葉よりも効果的な技芸はなく、善き者によって善きものが創造されるという理由よりも善い原因はない。」

「良し」――ヘブライ語のトーブ(טוב)はすべての善きもの、美しきもの、快いもの、有用なもの、利益あるものを意味する。光は世界にとって最も快いものであり、また最も有用なものだからである。

いかにして光を闇から分けられたのか?

「光を闇から分けられた」――ヘブライ語と七十人訳では、「光と闇との間を分けられた」とある。第一に場所によって分けられた。ここに光と昼があるとき、対蹠地には夜と闇があるからである。第二に時によって分けられた。同一の半球において、交互に、異なる時に光と闇、夜と昼が相継ぐからである。第三に原因によって分けられた。光の原因は輝く物体であり、闇の原因は不透明な物体であるから、一方の原因と他方の原因は異なる。モーセがここで主として意図するのは第二のものであり、すなわち、神は御自身が創造した光の後に闇と夜が続くようになされた、と述べているのである。ゆえに続けて「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」とある。

地獄はいつ創造されたのか?

問い:地獄はいつ創造されたのか。ルイス・モリナはそれが第三日に創造されたと考える。しかし、地獄がこの時点で、すなわち第一日に創造されたとする方がより真実に近い。天使は極めて迅速であり瞬時の行為を有するのであるから、天使たちは第一日に、その創造後まもなく罪を犯し、それゆえ直ちに天から地獄へと突き落とされたと考えるのが極めて蓋然的だからである。地獄とは、神が天使たちの罪の直後に、地の中心に火と硫黄を備えた牢獄また刑架として彼らのために用意されたものである。

それゆえ第一日に、神が光を闇から分けたように、天使を悪霊から、恩寵を罪から、栄光を罰から、天を地獄から分けられたのである。

寓意的には、フーゴーおよび他の学者たちが指摘するところによれば、第一日に光が造られ闇から分けられたとき、善い天使たちは善と恩寵において堅められ、悪しき天使たちは悪において堅められて善い天使たちから分離された。こうして、可視的世界で起こっていたことは、可知的世界で起こっていたことの似姿であったのである。


第5節:神は光を昼と名づけられた

5. 「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」――「名づけた」という語には換喩がある。しるしが示されるものの代わりに置かれているからであり、すなわち、神は光がある半球を照らす全時間にわたって昼を成し、闇が夜を成すようになされたということである。聖アウグスティヌスは『マニ教徒反駁の創世記注解』第一巻第九章および第十章でそのように述べている。

「夕べと朝があった。一日であった」――私は天と地がそれ以前にではなく、まさに第一日そのものに創造されたと考える方がより確実であるとする。さて私は、世界はいわば朝に創造され、そのとき地球と深淵の上には闇があったと述べる。その間に主の霊が水の上を漂っていたのであり、それは第二節から明らかである。次いでそれからほどなく、第三節において、六時間の後の正午ごろに、光が天の中央に創造された。その光は六時間の運行を終えて中天から西へ傾き、夕べをいわばその終点として生じさせた。それゆえ闇と光を合わせても十二時間を超えなかったのである。それに続いて同じく十二時間の夜が来り、その終点が朝である。モーセはここで昼と夜をその終点によって、すなわち「夕べと朝」と呼んでいるのであって、それは次のように言っているのである。昼の行程がそれに続く夕べによって完了し、夜の長さもそれに続く朝によって同様に完了したとき、二十四時間の第一日が満ちたのである。

世界の第一日は主日であった

「一」は「第一」を意味する。第八節および第十三節から明らかである。この世界の第一日は主日(日曜日)であった。なぜなら、そこから数えて第七日が安息日だったからである。主日の十三の特権については、ペレリウスの第一日の論述末尾を参照されたい。

万物が一日で創造されたのではない

注意すべきは、聖アウグスティヌスが『逐語的創世記注解』第四巻および『神の国』第十一巻第七章において、これらの日を神秘的に理解しようとしていることである。すなわち彼は、万物は神によって第一日に同時に創造され、モーセは創造の六日間を通じて天使たちのさまざまな認識を意味していると考えているようである。フィロンも同じことを教えている。しかし他のすべての教父たちは反対のことを教え、モーセの簡素で歴史的な叙述がそれを完全に証明している。ゆえに万物が一日で造り出されたと言うことは今や誤謬である。聖アウグスティヌスは、彼自身が言うようにその当時最も困難であった問題について、疑問を呈しつつ議論的に語っているのである。

反論として『集会の書』第十八章第一節に「永遠に生きる方はすべてのものを同時に(シムル)創造した」とある。答え:シムル(同時に)という語は「創造した」にではなく「すべてのもの」に関係づけるべきであり、すなわち、神はすべてのものを等しく、何一つ除外せずに創造したということである。ゆえにギリシア語ではシムルの代わりにコイネー(κοινῇ)、すなわち「共同して」とある。

道徳的には、聖ヨハネ・クリソストモスは『人間がすべての被造物の上に立てられたことについての講話』において、昼と光とその他の被造物から、神に仕えるための鋭い刺激を人間に適用している。「あなたのために天は昼には光の輝きで覆われ太陽の光線で飾られる。夜には天の頂そのものが月の最も明るい鏡と星々のさまざまな輝きで照らされる。あなたのために季節は交互に移り変わり、森は繁り、野は心地よくなり、牧場は緑に満ち、生き物は子を産み、泉は湧き出で、河は流れる。」さらに、「すべての自然があなたに絶えずこう語りかけるとしたらどうであろうか。『私は万物の主によってあなたに従うよう命じられた。私は従い、服従し、仕える。そしてあの者が変わっても、私は変わらない。私は反逆者に従い、傲慢な者に服従し、軽蔑する者に仕える。』あなたは何者であるか、この軽蔑を続けるのか。あなたは被造物に命じながら、創造主に仕えないのか。忍耐深い主を畏れよ、さもなくば厳しい裁き主として主を味わうことになるであろう。たとえあなたが全生涯を感謝に費やしたとしても、あなたが負っているものを返すことはできないのである。罪人は二重の罪を犯す。すなわち、主に対して当然の奉仕における従順を捧げないことと、数えきれない主の恩恵に対して侮辱をもって報いようとすることである。」


第二日の業について

世界の造形における第一日に、神は地を基礎として創造してこれを造り、その上に至高天を屋根として置かれた。これらの中間の残余は混沌、すなわちかの水の深淵であり、この第二日に神はそれを展開し、秩序づけ、形成される。


第6節:大空あれ

6. 「水の中に大空あれ、水と水を分けよ」――「大空」(フィルマメントゥム)はヘブライ語でラキーア(רקיע)と呼ばれ、その語根ラカー(רקע)は、聖ヒエロニムスおよびその他の最も博学なヘブライ人たちの証言によれば、広げること、引き伸ばすこと、そして引き伸ばすことによって、以前は流動的で希薄であったものを堅固にし凝固させることを意味する。鋳造された青銅が注ぎ出されることで引き伸ばされ凝縮されるように、ここで水が凝縮されて天となったものは、ギリシア語でステレオーマ(στερέωμα)、ラテン語でフィルマメントゥム(firmamentum)と呼ばれる。大空はいわば水の中の壁のごとく、二つの水――すなわち上の水と下の水――の間に介在して、それらを互いに隔て制するものである。

問い:この大空とは何であり、大空の上の水とは何であるか。

第一の見解

第一に、オリゲネスは上の水によって天使を、下の水によって悪霊を理解した。しかしこれはオリゲネス流の寓意的空想である。

第二の見解

第二に、聖ボナヴェントゥラ、リラヌス、アブレンシス、カイエタヌス、カタリヌスおよびその他の学者たちは、上の水を水晶天と解する。しかしこれはあまりにも比喩的に水と呼ばれすぎている。

第三の見解

第三に、ルーペルトゥス、エウグビヌス、ペレリウス、バレンシアのグレゴリウスは、大空とは大気の中間領域であり、この第二日に大空すなわち上の水――つまり雲――と下の河川や泉の水とを分ける中間空間として設けられたとする。

第四の見解:真の見解

しかし私は、大空とは星辰天であり、それに隣接するすべての天球――至高天に至るまでの下位のものも上位のものも含む――であると言う。したがってすべての天の上、至高天の直下には、真実の自然の水が存在する。カルヴァンはこれを嘲笑するが、愚かにもそうしているのである。なぜならこの見解はモーセの最も平明かつ歴史的な叙述によって証明されるからである。大空とヘブライ語のラキーアは、大気や雲を意味するのではなく、固有に星辰天と天球を意味するのである。

これらの水が天の上に置かれたのは、宇宙の装飾のためであり、またおそらくは至高天に住む聖人たちの喜びのためでもあった。「この聖書の権威は、人間のいかなる才能の能力よりも大きい」と聖アウグスティヌスは述べている。

なぜモーセはこの日に「神はそれを見て良しとされた」と言わなかったのか?

カタリヌスとモリナは答える。その理由は大空がまだ未完成であったからであると。おそらく最もよい答えは、モーセが神の分離の三つの業――第一に光と闇の分離、第二に上の水と下の水の分離、第三に水と陸の分離――を一つの最終的な総括に収め、第十節で「良しとされた」と述べたということであろう。

七十人訳はここでも他の日と同様に「神はそれを見て良しとされた」とあるが、ヘブライ語、カルデア語、テオドティオン、アクィラ、シュンマコス、およびウルガタにはこの語句は欠けている。

道徳的には、大空とは神と天に固定された魂の堅固さと不動であり、上の水すなわち順境と、下の水すなわち逆境を揺るぎなく支えるものである。人間は天の似姿である。第一に、人間は天のように丸い頭を持つ。第二に、二つの目は太陽と月のごとくである。第三に、人間は天から神と天使に似た魂を受けたからである。第四に、「コエルム」(天)は「ケラーレ」(隠す)に由来し、天において多くのものが我々に隠され覆われているように、人間においても心、思考、心の秘密が隠されているからである。第五に、キリストが神性と徳の天であるように、キリスト者もまたそうであり、その中で月は信仰、宵の明星は希望、太陽は愛、残りの星々はその他の徳であると聖ベルナルドゥスは『雅歌講話』第二十七番で述べている。


第8節:神は大空を天と名づけられた

8. 「神は大空を天と名づけられた」――ラテン語の「コエルム」(天)は「ケラーレ」すなわち隠すことに由来し、すべてのものを隠し覆うからであると聖アウグスティヌスは述べている。あるいは聖アンブロシウスが述べるように、「コエルム」はいわば「カエラートゥム」(彫刻されたもの)と呼ばれ、さまざまな星によって刻まれたものという意味である。しかしモーセはヘブライ語で書いたのであってラテン語ではない。神もヘブライ語で語られ、大空を「シャマイム」と呼ばれたのであり、その理由は先に述べたとおりである。

「夕べと朝があった。第二日であった」――神が職人のようにこの大空の造営に一日中従事していたと考えてはならない。むしろ神はそれを瞬時に、一瞬のうちに造り、残りの一日中それを保存されたのである。


第三日の業について


第9節:水は一つ所に集まれ

9. 天の下の水は一つ所に集まり、乾いた地が現れよ。

水はどこに集められたのか

これがいかにして成し遂げられたかを問うことができる。第一に、ある者たちは海が地球の反対側の半球に集められ、その部分は全て水に覆われて居住不能となり、したがって対蹠地の住民は存在しないと考える。プロコピウスがそう述べ、聖アウグスティヌスもこれを否定していない。しかし反対のことが、ポルトガル人やスペイン人のインド諸島への日々の航海によって確証されている。

第二に、聖バシリウス、ブルゲンシス、カタリヌス、および聖トマスは、海がここで大地から分離されて高くされたと考える。この見解からすれば、高い場所においても泉や川が湧き出す理由を容易に説明できる。すなわち、それらは地下の脈管を通じて海から生じるのであり、海は大地よりも高いからである。

大地と水は一つの球体を成す

私は第一に言う。大地と水は一つの球体を成す。したがって水は大地よりも高くはない。これは数学者たち、モリナ、ペレリウス、カエタヌス、聖ヒエロニムス、聖ヨハネ・クリソストモス、およびダマスコの聖ヨハネの共通の見解である。そしてこれは第一に、月食から証明される。月食は太陽と月の間に地球が介在することによって生じる。この月食は一つの球体の影のみを投じ、二つの影を投じない。ゆえに大地と海は二つではなく一つの球体である。第二に、あらゆる水滴とあらゆる地の部分はどこにおいても同一の中心に向かって降下するからである。第三に、海岸や島々が水面の上に突出しているからである。第四に、聖書から明らかである。すなわち、「主ご自身が海の上にその基を据えられた」(詩篇23篇2節)、「水の上に地を据えられた方」(詩篇135篇6節)。

なぜ水が集められたと言われるのか

私は第二に言う。この第三日に水が集められたのは、第一に、神が淡水を大部分においてより濃密にされたからである。すなわち地上の蒸気をその中に堆積させ、これによって海は塩辛くされた。それは腐敗を防ぐためであり、魚の養分となるためであり、また船をより容易に支えるためであった。かくて神の御業により、濃密にされた水は自ら収縮し、以前よりも小さな地の面積を占め、地の一部を乾いたまま残したのである。

この第三日に山々が造られた

第二に、大洪水の後にではなく――ある者たちはそう主張するが――この世界の第三日に、神は大地の一部を沈降させ、一部を隆起させられた。こうして山々と谷々が形成された。また大地にはさまざまな裂け目や空洞ができ、その中へ、あたかも水路の中へのように、海が退いたのである。

大地の下の空洞

第三に、神はこの第三日に大地そのものの下に巨大な空洞を造り、それを膨大な量の水で満たされた。この水は多くの人々によって深淵あるいは大水と呼ばれている。そしてこれはさまざまな水路を通じて海と繋がっており、すべての泉と川の母体にして源泉であると考えられている。それゆえ、人間における肝臓に相当するものが、大地の洞窟におけるこの水の深淵なのである。

水はいかにして一つ所に集められたか

私は第三に言う。水が一つ所に集められたと言われるのは、すなわち大地から分離された場所に集められ、大地が乾いて居住可能になったということである。なぜなら神は、水を大地のさまざまな水路や入り江を通じて混ぜ合わせることを望まれたからである。それは大地がそれらによって潤され肥沃にされるためであり、また海風によって換気され、健康と豊穣がもたらされるためであった。

テオドレトスは、荒れ狂う海がその岸辺によってよりも、むしろ手綱のごとき神の命令によって抑制されていると指摘する。さもなければ海はしばしば万物を突き破り、圧倒していたであろう。それゆえ神は海にその越えることのできない限界を定めたと言われている。聖バシリウスは問う。「もし創造主の命令によって抑止されていなかったならば、何が紅海の溢れ出る洪水をもって、海そのものよりもはるかに低いエジプト全土に侵入することを妨げたであろうか。」プリニウスは、エジプト王セソストリスが最初に紅海から航行可能な水路を掘ることを考案したが、紅海がエジプトの地よりも三キュビト高いことが判明し、洪水の恐れによって阻止されたと記録している。

乾いた地が現れよ――それ以前は泥濘で水に覆われていた。ゆえに「乾いた地」に対して、ヘブライ語ではヤベシャ、すなわち「乾燥した」であり、居住され、種を蒔かれ、実を結ぶことができるまでに乾いたという意味である。したがって「乾いた」とは「砂質の」と同じではなく、「溜まった水がない」という意味である。なぜなら、大地を実り豊かにするために、いくらかの甘い湿気が大地に留まっていたからである。


第10節:神は乾いた地を地と名づけられた

10. 神は乾いた地を地と名づけ、水の集まりを海と名づけられた。

これは時間の先取り(プロレプシス)である。なぜなら、この第三日にではなく第六日に、すなわちアダムを形造りヘブライ語を授けられたとき、神は乾いた地をヘブライ語でエレツ、すなわち地と呼ばれ、水の集まりをヤミム、すなわち海と呼ばれたのである。

エレツ(地)の語源

注意すべきことがある。「地」はヘブライ語でエレツと呼ばれるが、それは語根ラツァツ、すなわち「踏む」に由来する。人間や家畜によって踏まれ居住されるからである(ちょうどラテン語のテッラが「踏む」を意味するテレレに由来するように)。あるいは語根ラツァ、すなわち「欲する、望む」に由来し、常に実を結ぶことを望むからである。あるいは語根ルツ、すなわち「走る」に由来し、その上に人間と動物が住み走り、すべての重い物がそこへ降下し走り、すべての元素とすべての天球がその周囲を回転するからである。ヘブライ語のエレツからドイツ語のエルデを導き出す者もいる。

さらに「海」はヘブライ語でヤミムと呼ばれ、水の豊富さと量に由来する。なぜならヤミムは文字ヨッドの転倒によってマイム、すなわち「水」と同じだからである。またヤミムは語根ハマ、すなわち「音を立てる、轟く」を暗示する。海が轟くようにである。


第11節:地は草を生じさせよ

11. 地は草を生じさせよ。――「生じさせよ」とは、カエタヌスやブルゲンシスが主張するように能動的に産出するのではなく、ただ素材を供給するだけである。なぜなら、事物の最初の創造においては、神がご自身のみによって能動的かつ効果的に、しかも瞬時にすべての芽と植物を産出されたのであり、それらは適切かつ完全な大きさのものであった。聖トマスが教えるとおりである(第一部第七十問第一項)。実に詩篇作者も述べている。詩篇103篇14節、「家畜のために干し草を生じさせ、人に仕えるために草を生じさせられる。」しかし今や大地は植物の産出に効果的にも寄与している。特に種が浸み込んでいる場合にはそうである。

さらに聖バシリウスは、発芽における神の摂理に驚嘆するが、それは当然のことである。芽は根と同数の茎を出して立ち上がる。「小麦の茎がいかに節で締められているかを見よ。それらの節はいわばある種の紐帯のようなものであり、それによって強化されて穂の重みを容易に支え持つのである。さらに殻の中に穀粒を隠しているのは、穀物を集める鳥の餌食にさらされないためである。そしてまた芒の防壁によって、小さな生き物の害を防いでいるのである。」次に彼はこれを象徴的に人間に適用して言う。神は「我々の感覚を高みへと引き上げ、地に打ち伏せられることをお許しにならなかった。また我々が、いわば蔓のように、愛の抱擁をもって隣人に寄りかかり結びつき、絶えざる愛情をもって上方へと運ばれることも望んでおられるのである。」

「種を生じさせる」――すなわち、地はその種の繁殖のために種を生じさせることのできる草を産出せよ、ということである。

「果樹」――すなわち果実を結ぶ木であり、ヘブライ語が示すとおりである。

「その種を自らのうちに持つもの」――すなわち、自らのうちに持つ種によって自らに似たものを生む力を持つもの。なぜなら多くの植物は厳密な意味での種を持たない。柳、草、薄荷、サフラン、大蒜、葦、楡、ポプラなどがそうである。しかしこれらは種に代わるものを持っている。すなわちその根に一種の繁殖力を持っている。そしてこれは、個々の植物は滅びても、自らから繁殖させる種と果実の中に存続し、かくして一種の不死性と永遠性を獲得するためなのである。


第12節:地は草を生じさせた

12. 地は草を生じさせた。――ここから明らかなのは、この第三日に大地は植物を産出する能力を受けただけではないということである。聖アウグスティヌスはそう考えているように見えるが、神が命じられたまさにその瞬間に、大地は実際にすべての種類の植物を、しかも成長した状態で、多くは熟した果実を伴って産出したのである。なぜなら神の業は完全だからである。聖バシリウスと聖アンブロシウスもそう述べている。

私は第六日に創造された動物と人間についても同様のことを言う。すなわち、すべては完全な大きさと活力と力強さにおいて創造されたのであり、教父たちが一般に教えるとおりである。以上から、この第三日に楽園もまた植えられ、驚くべき多様さと美しさの樹木で飾られたことが導かれる。これについては第二章を参照されたい。

毒草と棘

注意すべきことがある。この第三日に大地はまた毒草を、同様に棘のある薔薇を生じさせた。なぜなら棘はいわば薔薇に本来的なものであり、生まれながらに備わっているからである。これを否定する者たちもおり、人間の堕落以前には大地は何も有害なものを生じさせなかったと考えている。しかし反対のことを聖バシリウスと聖アンブロシウスが教えており、こちらがより正しい見解である。その理由は第一に、それらの美しさが宇宙から欠けることのないためであり、第二に、人間にとって有毒なものが他の事物には有益であり、他の動物には有用だからである。「ムクドリは毒人参を食べるが、毒に侵されることはない」とバシリウスは言う。「またクリスマスローズはウズラの食物であり、それによって何の害も受けない。」また同じものが人間にも有用だからである。「医者はマンドラゴラによって眠りを招き、芥子の汁によって激しい体の痛みを鎮める。」また神はアダムの罪以前に、創造の六日間にあらゆる種類のものを絶対にすべて産出し、宇宙を完全にされたからである。この六日間の後には、いかなる新しい種も創造されなかった。それゆえ狼、蠍、その他の有害な動物についても同様のことを言う。すなわち、それらは第五日に無害な動物とともに産出されたのである。しかしこれらのものは、もし人間が無垢の状態に留まっていたならば、人間を害することはできなかったのである。その無垢には思慮が伴い、またそれを要求していた。すなわち、棘に刺さらないように薔薇を慎重に扱うべきであったのである。

鉱物と風

第二に注意すべきことがある。この第三日は神が大地を完全に形成し飾られた日であるから、この同じ日に大理石、金属、鉱物、およびすべての化石も、さらには風も産出されたと考えるのがまったく確からしい。なぜなら風なしには植物も人間も生きることも繁茂することもできないからである。

最後に、モリナはこの日に地の中心に地獄が産出されたと考えている。しかし私はすでに上で、ルキフェルの堕落直後の第一日に産出されたというのがより正しいと述べた。

世界は秋にではなく春に創造された

世界はいつの季節に神によって創造されたかと問うことができる。多くの人々は秋分の時期に創造されたと考える。果実がその時に熟するからである。しかし私は答える。世界は春分の時期に創造されたというのがより正しい。第一に、すべての教父たちが一般にこのことを教えているからである。実に詩人たちさえもそうであり、ウェルギリウスは『農耕詩』第二巻において、生まれ出る世界の最初の起源について語って言う。

「春であった、偉大なる春を世界は送っていた、
東風は冬の突風を控えていた。」

第二に、春は一年で最も美しい季節であり、そのような季節は無垢の状態の幸福にふさわしく、また春において世界はキリストによって贖われ再創造されたからである。第三に、パレスチナの公会議が教皇ウィクトルのもとでキリスト紀元198年に開催され、まさにこのことを定めたからである。この公会議は「芽を生じさせよ」という言葉からその見解を証明する。春において大地は芽を出し始めるからである。同公会議はまた、世界が春分に創造されたことを、神がそのとき光と闇を等しい部分に分けられたという事実から証明する。この分割は分点において起こるものである。同公会議は、世界の最初の日は三月二十五日であり、この日に至福なる聖母マリアが受胎告知を受け、キリストがその内に受肉され、また三十四年後にこの日に受難されたか、あるいは死から復活されたと付け加えている。この日が主日であったことは確かである。

ヘブライ人たちの論拠に対して私は答える。世界の初めに、すべての場所にすべての熟した果実がこの第三日に産出されたのではない。むしろ神は植物と樹木において、あるものには葉を、他のものには最も美しい花を、あるものには熟しつつある果実を、他のものには熟した果実を、植物と樹木の本性、性質、状態に応じて、また各地域の状態に応じて産出されたのである。


第四日の業について

第14節:天の大空に光あれ

14. 天の大空に光体があれ。――これがいかに成し遂げられたかを問うであろう。第一に注意すべきは、ここでの「大空」は第八の星辰天のみを意味するのではなく、すべての天球の広がりを指して用いられているということである。なぜならヘブライ語のラキアはこれらすべてを意味しており、モーセはこれらの天球を区別する術を知らない無学なヘブライ人たちに語っているからである。

星辰は生命を持たない。第二に注意すべきことがある。プラトンは主張し、聖アウグスティヌスは『エンキリディオン』第五十八章において、太陽、月、星辰が生命を持ち理性を備えているかどうか、したがっていつか人間や天使とともに至福に達するかどうかを疑問としている。しかし今日では、天も理性的でなく、星辰も理性的でないことが確実である。なぜなら天も星辰も有機的な身体を持たないからである。さらに、それらの円環的、恒久的、自然的な運動は、その運動の原理、すなわちその本性が自由でも理性的でもなく、無生物的で完全に決定されていることを示している。聖ヒエロニムスの『イザヤ書』第二十五章注解、および教父たちと哲学者たちが一般にそう述べている。それゆえフィロンは、いつもの癖でプラトン主義に傾きつつ、『六日間の創造について』において星辰が知性ある動物であると教えて、誤っている。同様にフィラストリウスも、星辰が天に固定されていると主張するのは異端であると述べて誤っている。なぜなら星辰が天の中で動くこと、ちょうど鳥が空気の中で動き、魚が水の中で泳ぐように動くことは確実だからだと言うのである。しかしすべての天文学者たちは反対のことを教えている。すなわち星辰はその天球に固定されており、それとともに動き回転する、つまり第八の星辰天とともに動くのである。

星辰は天球と種において異なり、惑星も同様である。第三に私は前提する。すべての星辰と惑星がその天球すなわち天と種において異なること、同様に星辰が惑星と異なり、最終的に惑星が互いに種において異なることがより正しい。これは第一に、星辰と惑星が天球には欠けている驚くべき光を放つことから証明される。さらに星辰はそれ自体によって、その固有の本性によって輝く。アルベルトゥス、アヴィケンナ、聖ベーダ、およびプリニウス(第二巻第六章)はこれを否定するが、他の者たちは一般に主張しており、経験がそれを明らかにしている。なぜなら望遠鏡をもってしても、太陽に近づこうと遠ざかろうと、光の増減がいっさい観察されないからである。第二に、そしてより重要なこととして、星辰は太陽から非常に遠く離れている。すなわち七千六百万マイルである。太陽の力と光はそこまで及ぶことができない。私はこれを恒星について言っている。なぜなら月が自ら輝くのではなく、太陽から光を借りていることは明白だからである。他の惑星についても同様であろう。なぜなら私自身、多くの数学に通じた者たちとともに、望遠鏡を通して明確に観察したところ、金星は月と同じく、太陽に近づいたり遠ざかったりする一定の時の推移によって、満ち欠けの相を示し、満ちたり欠けたりするからである。第三に、星辰が天球自体にはないこの地上界に対する驚くべき感化力と驚くべき力を持つことからも同じことが明らかである。惑星もまた陸と海に対する独自の運動、力、感化力を持っており、それは驚嘆すべきものである。特に月のそれがそうである。ゆえに惑星もまた他のものとは異なる本性を持つ。モリナその他がそう述べている。

私は星辰が惑星と種において異なると述べた。なぜなら多くの星辰が同じ種であることは確からしいからである。すなわち、この地上界に対して同じ影響の仕方を持つ星辰がそうである。異なる仕方を持つものは異なる種に属する。この異なる仕方は、それらが地上に生じさせる乾燥、湿気、暑さ、寒さの効果の多様性から推測される。

天体はいかなるものから造られたか。私は言う。神はこの第四日に天の一部を希薄にし、他の部分を凝縮された。すなわち第一日に創造され第三節で光と呼ばれたあの輝く物質である。そしてかく凝縮されたその物質に、天の形相を追い出して、太陽、月、星辰の新たな形相を導入された。同様の仕方で、第二日に水から大空を造られたのである。それゆえ、星辰は火から産出されたもので火性のものであると考えた古人たちは誤っている。そこで詩人は言う。

「汝ら永遠の火よ、そして侵すことのできない神聖なる力よ、
我は証人として呼び求める。」

また、星辰は実体において第一日に産出されたが、この第四日にただ付帯的性質、すなわち光、固有の運動、およびこの地上界に対する感化力のみを付与されたと考える者たちも誤っている。

復活において神は新しい太陽を造られるか。同様にモリナその他は、復活において神は別の太陽を産出されるであろうと蓋然的に考えている。その太陽は異なる形相を持ち、偶有的な形相のみならず実体的な形相をも持つ。それは自然的に現在の我々の太陽の七倍の光を持つことになるであろう。イザヤが第三十章二十六節で述べているとおりである。

さらに、この第四日に神は惑星の天球をその部分に分割された。すなわち離心円、同心円、周転円に分割されたのである。もしそのようなものが存在するならばの話であるが。なぜならアリストテレスはこれらすべてを否定し、惑星はその天球の運動によってのみ動くと教えているからである。しかし天文学者たちやスコトゥスとその追随者たちはこれを主張する。なぜなら彼らは惑星がその天球の中で離心円と周転円に従って自ら動くと教えているからである。

太陽は天のどの部分に産出されたか。注意すべきことがある。第三日の業について述べたことから、太陽は白羊宮の始まりに産出されたことが導かれる。聖ベーダがそう述べている。なぜならそのとき春が始まるからである。しかし月は太陽の反対の位置に、すなわち天秤宮の始まりに産出された。それゆえそのとき満月であった。上述のパレスチナ公会議が定めたとおりである。太陽が一方の半球を照らし、月が他方を照らすようにするためであった。モリナその他がそう述べている。

光体。――ヘブライ語でメオロト、語根オル、すなわち「光」に由来する。ゆえに太陽はオルである。そこからエジプト人は太陽と、太陽の運行によって記述される年をホルムと呼んだ。そこから年はギリシア人によってホーラと呼ばれ、そこからホーラは年の主要な部分、すなわち春、秋、夏、冬を指すのに用いられた。次いで提喩法によって日を、そして最終的に日の著名な部分、すなわち我々が通常「時間」と呼ぶものをホーラと呼んだ。見よ、「時間」の語源がヘブライ人からエジプト人へ、エジプト人からギリシア人とラテン人へと流れたことを。クラヴィウス神父の教えに従い我らがフェルスは『時計術について』第一巻第一章の注解においてそう述べている。なぜならヘブライ人からエジプト人とギリシア人へと、すべての知識、特に数学、時間の計算、および時計の製作が伝わったからである。それゆえ聖俗の歴史において我々が見出す最初の時計は、ユダの王ヒゼキヤの父アハズのものである(イザヤ書38章8節)。クラヴィウス神父が『日時計論』第一巻七頁においてそう述べている。

昼と夜を分けよ。すなわち、昼と夜を区別せよ。かくしてまもなく創造される人間と動物に労働と休息の交替を示せ。またさらに、位置と半球に関して昼と夜を分けよ。一方に太陽と昼があるとき、他方には夜と夜を司る月があるようにするためである。なぜならこの箇所から、月が太陽の反対の位置に創造されたことが明らかであると思われるからである。私が述べたとおりである。

象徴的に、教皇インノケンティウス三世はコンスタンティノープル皇帝に宛てて書いている。『教令集』第一巻第三十三章「ソリテ」の項において、「天の大空に、すなわち普遍的教会に」と彼は言う、「神は二つの大きな光体を造られた。すなわち二つの位階を設けられた。それは教皇の権威と王の権力である。しかし昼を、すなわち霊的な事柄を司るものはより大であり、肉的な事柄を司るものはより小である。かくして教皇と王との間の差異が、太陽と月との間の差異と同じほど大きいことが知られるためである。」

星辰は何のしるしであるか。それらを、しるしとし、季節とし、日と年とのためとせよ。――「しるしとして」とは、占星術の予兆のことではない。なぜなら聖書はこれを断罪しているからである(イザヤ書47章25節、エレミヤ書10章2節)。星辰はその影響力によって身体の気質と体質を変化させ、それによって魂をも同じ方向に傾けるが、しかし魂を必然的に決定するのではない。たしかに魂はしばしば身体の体質に従う。そこで胆汁質の者は怒りやすく、多血質の者は温和であり、憂鬱質の者は猜疑深く臆病で小心で嫉妬深く、粘液質の者は怠惰であることを我々は経験する。しかし意志は、特に恩寵に助けられるとき、身体をもこれらの情念をも支配する。ゆえに穏やかな胆汁質の人々や、温和で寛大な憂鬱質の人々を多く見るのである。それゆえ賢者は星辰を支配するであろう。

かくて太陽と月は「しるしとなれ」、すなわち雨、晴天、霜、風などの予兆となれ。例えば、「新月から三日目に月が薄く澄んだ輝きで光るならば、安定した晴天を予告する。しかし太い角で幾分赤みを帯びて見えるならば、雲からの激しく過度の雨か、あるいは南風の恐ろしい吹き荒れを脅かすのである」と聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第六で述べている。さらに彼は言う。月は湿りをもたらす。これは月光の下で野外に眠る者たちにおいて明らかであり、その頭は過度の湿気で満たされる。また動物の脳と樹木の髄において明らかであり、それらは月とともに増大し成長する。さらに月は海の潮の満ち引きを引き起こし、それを示す。第二に、それらは種蒔き、植え付け、収穫、航海、ぶどう収穫などのしるしとなれ。第三に、そして本来的には、日と月と年のしるしとなれ。したがってこれは一詞二義法であり、「しるしと季節のために」とは、季節のしるしのために、あるいは季節を示すしるしのためにという意味である。「しるしと日のために」とは日のしるしのために、「しるしと年のために」とは年のしるしのためにという意味である。なぜなら年は太陽の一回の運行と黄道帯の一周によって、また十二回の朔望、すなわち月が黄道帯を十二回巡ることによって記述されるからである。

注意すべきことがある。ここでの「季節」とは春、夏、冬、秋を意味する。同様に乾燥した、暑い、湿った、嵐の、健康な、病的な季節をも意味する。なぜなら太陽と月がこれらのしるしであり原因だからである。

象徴的かつ天上的に、聖アウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第十三巻第十三章の「未完成の業」において述べている。「それらをしるしと季節のためとせよ」、すなわち季節を区別せよ。その間隔の区別によって、不変の永遠がそれらの上に留まることを意味するためである。なぜなら我々の時間は、いわば永遠のしるしであり痕跡であるように思われる。そこから我々はしるしから示されるものへ、すなわち時間から永遠へと上昇することを学び、聖イグナティウスとともに言うべきである。「天を仰ぐとき、地はいかに卑しく見えることか。」まことに聖アウグスティヌスは『格言集』第270において述べている。「時間的なものと永遠的なものとの間にはこの違いがある。すなわち時間的なものは所有される前にはより愛されるが、到来すると安くなる。なぜなら朽ちることのない喜びの真にして確実な永遠のほかには、何も魂を満足させないからである。しかし永遠的なものは、望まれているときよりも獲得されたときにより熱烈に愛される。なぜならそこでは愛は、信仰が信じたものや希望が望んだものよりも多くのものを獲得するであろうからである。」この事柄についての聖アウグスティヌスと母モニカとの対話を参照されたい(『告白』第九巻第十章)。

日と年のために。すなわち、太陽、月、星辰がすべての自然の日、人工の日、祝祭日、危機的な日、法廷の日、市場の日の指標となり、また太陰年、太陽年、大年、危機の年などの指標ともなるためである。これらについてはケンソリヌスとマクロビウスが論じている。聖バシリウスとテオドレトスがそう述べている。


第16節:神は二つの大きな光を造られた

16. 神は二つの大きな光体を造られた。――太陽と月である。月は水星を除くすべての星辰よりも小さいが、地球に最も近く最も接近しているため、太陽と同様にすべての他のものよりも大きく見える。さらに月は他の星辰よりもこの地上界に対する作用のより大きな効力と力を有している。聖ヨハネ・クリソストモスがここの第六説教で、ペレリウスが、そしてクラヴィウス神父が『天球論』第一章においてそう述べている。彼はそこで地球が月の大きさの三十九倍を内に含むこと、したがって月は地球のわずか三十九分の一であることを教えている。哲学者セクンドゥスはハドリアヌス帝に巧みに問われて答えた。「太陽とは何か」と。「天の目であり、沈むことのない輝きであり、昼の装飾であり、時間の配分者である。月とは何か。天の紫衣であり、太陽の競争者であり、魔術の敵であり、旅人の慰めであり、嵐の前兆である。」一方エピクテトスは同じハドリアヌスに言った。「月は昼の助け手であり、夜の目である。星辰は人間の運命である。」しかしこの最後の言葉は占星術師たちの誤りである。より崇高に、集会の書43章2節以下は述べている。「太陽は器である」、すなわち道具、用具であり、「いと高き方の驚くべき器、山々を焼き、火の光を吹き出す。月は季節の指標であり、時代のしるしである。月から祝祭の日のしるしが生じる。高みにおける軍勢の器、天の大空に栄光をもって輝く」、すなわち、大空に輝く星辰は器のごとく、すなわち武器のごとく、神の軍備である。「空の美しさは星辰の栄光であり、高みにおいて世を照らすのは主である。聖者の言葉によってそれらは審判のために立つ」、すなわち、星辰は神の命令に従って審判のために、すなわちその宣告と命令を執行するために立つ。「それらはその番所を離れることがない。」なぜなら星辰は、神の兵士にして番人のように、神のすべての命令に注意を向けて絶えず見張りに立っているからである。

象徴的に、聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第六で言う。月は絶えず満ちたり欠けたりして不安定の象徴であり、人間のすべての事柄が、月に従属し月がそれらを支配する限りにおいて、絶えざる変化の中にあることを示す。しかし太陽は常に自らに等しく、堅固な精神の象徴である。それゆえ知恵者は言う。「聖なる人は太陽のように知恵にとどまる。愚か者は月のように変わる」(集会の書27章12節)。

天の驚くべき広大さと地の小ささ。また星辰を造られた。――すなわち、月とともに夜を司り、夜を照らすためである(詩篇135篇7節)。天文学者たちは、天球と星辰の高度、したがってその大きさが驚嘆すべきものであり、宇宙の中心である地球はそれらに比べると一つの点のようなものであると教える。ちょうど地上のすべての富、善、喜びが天上のものに比べれば一つの点のようなものであり、一滴が全海に対するのと同じ比率を持つように。

太陽は地球から四百万マイル離れている。第一に天文学者たちは教える。太陽はその内に地球の全量の百六十倍を含み、地球から四百万マイルないしリーグ以上離れている(百万とは十万の十倍を意味する)。端数はここでは省略する。ここから導かれるのは、太陽の天球の円周と広大さは非常に大きく、太陽が二十四時間でその周回を完了する際、一時間に百十四万マイル、すなわち百十四万マイルを走破するということである。これは地球の周囲を五十回周回するのに等しい。なぜなら太陽の凸面天球の周長は二千七百三十六万マイルを含み、これを二十四時間で割れば、今述べた数字、そしてそれよりもう少し多い数が得られるからである。これらのことから神がいかに偉大であるかを考えよ。「太陽と月も創造主に比べれば、蚊と蟻ほどの比率しか持たない」と聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第六で述べている。

大空は地球から八千万マイル離れている。第二に天文学者たちは教える。地球は大空の、すなわち第八の星辰天の凹面から八千五十万マイル離れており、大空の厚さも同じく八千万マイルである。それゆえ第九天、第十天、およびそれらの上にある他のすべての天、特に至高天の距離、厚さ、広がりはいかほどであろうか。

一つの星は毎時間四千二百万マイルを走破する。第三に天文学者たちは教える。春分線上の任意の点、および春分線上に位置する任意の星は、毎時間四千二百万マイル、さらに百万の三分の一を走破する。これは日に四十マイルを進む騎馬の者が二千九百四年かけて進む距離に等しい。またさらに、一時間のうちに二千回地球の周囲を一巡し走破するのに等しい。第九天はさらに多くの空間を覆い、したがってさらに速い。第十天はなおさらであり、これが原動天であると考えられている。それゆえ時間がいかに速いかを考えよ。

時間の速さはいかほどか。なぜなら時間は原動天そのものの運動と同じほどに速いからである。時間はその尺度だからである。それゆえ時間は矢よりも、青銅の大砲から放たれた弾丸よりもはるかに速く運ばれる。なぜならこの弾丸は地球の全周を一巡するのに四十日を要するが、一つの星は一時間にそれを二千回巡るからである。稲妻のごとく取り返しのつかない時間は飛び去る。稲妻のごとく我々は時間とともに永遠に向かって運ばれ押し流される。「汝は眠っている」と聖アンブロシウスは詩篇第一篇について述べている、「しかし汝の時間は」眠らず、「歩んでいる。」否、飛んでいるのである。

碾臼の石は大空から地上まで九十年を要する。第四に天文学者たちは推論する。もし碾臼の石が大空の凸面から地上に向かって落ち始めたならば、たとえ毎時間二百マイルずつ落下し降下しても、落下して地上に到達するまでに九十年を要するであろう。自然的にはそれ以上の空間を通過することはできないからである。なぜなら四億六千万マイル(それが地球から大空の凸面までの距離である)を日と年に分け、各時間に二百マイルを割り当てれば、そのとおりになることが分かるからである。

星辰の六つの等級。第五に天文学者たちは教える。大空にある星辰で地球全体の十八倍よりも大きくないものは一つもない。実にプトレマイオスとアルフラガヌスの意見に基づいて、すべての星辰を六つの等級に分類する。第一にして最大の等級の星は十七個であり、その各々は地球全体よりも百七倍大きい。第二等級は四十五個であり、各々地球の九十倍である。第三等級は二百八個であり、各々地球の七十二倍である。第四等級は二百六十四個であり、各々地球の五十四倍である。第五等級は二百十七個であり、各々地球の三十五倍である。第六にして最低の等級は二百四十九個であり、各々地球の十八倍である。

至高天の広大な広がり。第六に天文学者たちは教える。大空の凹面内に含まれる全世界と至高天の広がりとの比率は、地球と大空そのものとの比率よりもはるかに小さい。

八千年かけても至高天に上り着くことはできない。第七に、以上の所論から推論される。もし二千年間生き、毎日真っ直ぐ上方に百マイルずつ、しかも絶え間なく上昇したとしても、二千年後にはまだ大空の凹面に到達していないであろう(なぜなら二千年でこの方法では七千三百万マイルしか進めないが、実際には八千万マイルあるからである)。さらに別の二千年間同じ距離を毎日上昇しても、凹面から凸面には達しないであろう。最後に、四千年あるいはそれ以上をかけて毎日同じ距離を上昇しても、大空の凸面から至高天には達しないであろう。これらのこと、そしてさらに多くのことをクリストフォルス・クラヴィウス神父が『天球論』第一章において教えている。

もし我々がある星の上に、さらには至高天に立って、この小さな地球を見下ろしたならば、叫ばずにはいられないであろう。これがアダムの子らが蟻のように口を開けて求めるあの点である。これが人間の間で剣と火で分割されるあの点である。おお、人間の領分はいかに狭いことか。おお、人間の心はいかに狭いことか。「おおイスラエルよ、神の家はいかに大いなるか、その所有の場所はいかに広大なるか。」ゆえにこの点を見下ろし、天の周囲を仰ぎ見よ。ここに見えるものはすべて小さく短い。計り知れないもの、永遠なるものを思え。これらのことを考えて、なお愚かにも頑迷にも、この点の中のさらなる一点、すなわち畑、家、あるいは他のものを、力や詐欺によって隣人から不正に奪い取り、それによって天球の計り知れない空間から自らを欺き締め出そうとする者がいるであろうか。地の一点を天の無限に優先させる者がいるであろうか。赤い土や白い土の欠片(金や銀もそれ以外の何ものでもない)のために、星辰の広大にして光り輝く宮殿を売り渡す者がいるであろうか。貧しいのか。天を思え。病んでいるのか。耐えよ、かくして星辰に至るのである。蔑まれ、嘲られ、迫害を受けているのか。忍べ、かくして星辰に至るのである。嘆き、励み、働き、しばし汗を流せ、かくして至高天に至るのである。

かくして若き聖シンフォリアヌスがアウレリアヌス帝のもとで殉教に引かれて行くとき、母は彼をこの言葉で励ました。「わが子よ、わが子よ、永遠の生命を思い起こしなさい。天を仰ぎ、そこで統べ治められる方を見なさい。あなたから生命が奪われるのではなく、より良きものへと変えられるのです。」この言葉に燃え立ち、彼は勇敢に刑吏に首を差し出し、殉教者として天に飛び立った。

同様に我々の時代に、かの高貴な婦人がイングランドにおいて信仰のゆえに恐ろしい死刑を宣告された。すなわち鋭い石の上に横たわり、その上に重い重量を置かれて、生命と魂が押し出されるまで圧し潰されるという刑であった。他の者たちが恐れおののく中、彼女は喜びに満ちて白鳥の歌を歌った。「天に至る道はかくも短い」と彼女は言った。「六時間の後に私は太陽と月の上に運ばれ、星辰を足の下に踏み、至高天に入るであろう。」

かくして聖ウィンケンティウスは心を天に向けて挙げ、ダキアヌスのすべての拷問に勝利した。否、それを嘲笑した。拷問台に吊るされ、嘲って「どこにいるのか」と問われたとき、「高みにいる」と彼は言った。「そこから地上の権力に膨れ上がっている汝を見下ろしている。」ダキアヌスがさらに酷いことを脅かしたとき、「脅しているようには見えない」と彼は答えた。「むしろ私が心から望んでいたものを差し出しているように見える。」かくして全身を引き裂かれながら爪、松明、灼熱の炭を堅固に耐え忍んだとき、彼は言った。「ダキアヌスよ、汝は無駄に疲れているのだ。私が耐える覚悟のないほど恐ろしい拷問を汝は考案することができない。牢獄、爪、赤熱の鉄板、そして死そのものは、キリスト者にとっては遊びであり戯れであって、拷問ではない。」なぜなら彼らは天を思っているからである。

かくしてエジプト人の殉教者聖メナスは、残酷な拷問を受けながら言った。「天の国に比べられるものは何もない。全世界をもってしても、等しい秤にかけて、一つの魂に比べることはできないのである。」

かくして聖アプロニアヌスは、殉教者シシンニウスの傍らで天から遣わされた声を聞いた。「来たれ、我が父に祝福された者たちよ、世の創めより汝らのために備えられた国を受けよ。」彼は洗礼を求め、キリスト者となったその同じ日に殉教者となった。

星辰としての聖人たち。象徴的かつ道徳的に、大空は聖なる教会であり、使徒が言うように「真理の柱にして礎」(テモテへの第一の手紙3章15節)である。その中で太陽はキリストであり、月は聖母マリアであり、恒星は他の聖人たちであって、太陽であるキリストから光を受けている。ゆえに彼らは惑星のようではない。惑星は時おり中間に入り込んで太陽を我々から隠し覆い、さまよう動きをして後退する。そうではなく恒星のように、常に太陽、すなわちキリストを敬い、キリストを指し示し宣べ伝え、すべての光をキリストから受けていることを証しし誇り、パウロとともに後ろのものを忘れ、常に直進して前方のものに向かって進むのである。

かくして第一に、星辰が天にあるように、聖人たちは心と生活において天に住み、頻繁に祈り、神と天使たちと語らう。ゆえに彼らは孤独を愛し、人間の空しい会話と世の誘惑を避ける。第二に、星辰は地球全体よりも大きいにもかかわらず、その距離と高さのゆえに小さく見え、高ければ高いほど小さく見える。同様に聖人たちは謙遜であり、聖であればあるほど謙遜である。ゆえに星辰は我々に忍耐を教えると聖アウグスティヌスは詩篇94篇について述べている。使徒のフィリピ書第二章の言葉を引用して、「曲がった邪悪な世代の中にあって、汝らはこの世の光体のように輝いている」と。「人々はこの光体そのものと月について、いかに多くのことを作り上げることか。しかし光体は忍耐をもってそれを耐える。星辰に侮辱が投げかけられる。星辰はどうするか。動揺するか、それとも自らの軌道を進み続けるのではないか。光体そのものについて人々はいかに多くのことを言うか。しかし光体はそれを耐え、容認し、動揺しない。なぜか。天にあるからである。同様に、曲がった邪悪な世代の中にあって神の言葉を保つ人間は、天に輝く光体のようなものである。」ゆえに、星辰が人間の非難のゆえに神から定められた軌道を離れないように、義人もまた人間の侮辱のゆえに神が示し植え付けられた徳と敬虔と熱心の道を離れるべきではない。それゆえ敬虔な人は、月が夜通し輝く間に嘲り声を上げる少年たちの揶揄や、吠えかかる犬の遠吠えを月が意に介さないのと同様に、嘲弄者たちの罵倒をそれ以上に気にかけることはないであろう。

第三に、星辰は多くの逆境と侮辱の中にあっても心の高貴さと不動を教える。星辰のようにこの世で起こるすべてのこと、悪しきことも善きことも見下ろすのである。なぜならアウグスティヌスが同じ箇所で言うように、「かくも多くの悪が行われている。しかし星辰は上方から逸れることなく、天に固定されて、創造主がそれらのために定め確立された天の軌道を進んでいる。聖人たちもそうあるべきである。ただし、その心が天に固定されているならば、『我々の市民権は天にある』と言う者に倣うならばである。ゆえに高みにあり、高みのことを思う者たちは、その天上の思いそのものから忍耐を得る。地上で行われることを、自らの旅路を完了するまで気にかけない。他の者たちになされることを耐えるように、自らになされることも耐える。光体のように。なぜなら忍耐を失った者は天から落ちたのだからである。」

第四に、星辰は輝き、夜に全世界を照らし、常に等しい光をもってそうする。同様に聖人たちはこの世の夜に輝き出で、言葉と模範によってすべての人に徳の道と天への道を示す。しかも常に心と表情の等しい平穏さと堅忍をもって、逆境にあっても順境にあっても同様にである。さらに星辰の光は蝋燭や灯明や松明の光のようではない。それらは獣脂、油、蝋で養われ、それを消費し、消費し尽くすと消えてしまう。これらに似ている者たちは、肉的で人間的な動機、利益のために徳を追求する者たちである。例えば人々から賞賛されるため、あるいは地位や富を得るためである。これらのものが止むとすぐに、彼らの徳と信心も止む。聖人たちは常に星辰のように輝く。なぜなら神から、そして神ご自身のために輝くからである。彼らはただ神を喜ばせ、神の栄光を広めることに専念するのである。

第五に、星辰の光は最も純粋であり、星辰そのものもそうである。同様に聖人たちは天使的な貞潔と清純を追い求める。ゆえに星辰には曇りも暗さもくすみもないように、聖人たちには憂鬱も怒りも動揺も猜疑もない。なぜなら彼らはすべてのものを星辰のように明るく慈しみ深い目で見つめるからである。彼らは偽り、詐欺、悪意が何であるかを知らない。なぜなら愛は悪を考えないからである。このゆえに彼らはほとんど罪を犯し得ない者のように見えるのである。

第六に、太陽と星辰の光は最も速い。なぜなら瞬時に全世界に広がり伝播するからである。同様に聖人たちは神の業に対して迅速である。特に使徒的な人々がそうであり、彼らは諸地方を駆け巡って福音を宣べ伝える。彼らにふさわしくあてはまるのはイザヤ書18章2節の言葉である。「行け、速き使者たちよ、引き裂かれ破られた民のもとへ、恐ろしき民のもとへ、それに並ぶ者のない民のもとへ。」

第七に、星辰の光は霊的である。同様に聖人たちの言葉は霊的であり、その思いも生き方も同様である。第八に、太陽と星辰の光は下水道、塵芥の山、死体、汚物溜めを照らしても、それらによって少しも汚されず染められることがない。同様に聖人たちは罪人たちの間に生きながら、彼らの罪に汚されることなく、むしろ彼らを照らし、自らに似た者、すなわち光り輝く聖なる者とする。第九に、太陽と星辰の光は輝くとともに暖める。それによって万物に生命、活力、成長が与えられる。同様に聖人たちは他の者たちを愛をもって燃え立たせ、かくして輝いて燃える。しかし輝くために燃えるのではない。キリストが洗礼者聖ヨハネについて言われたように、「彼は燃えて輝く灯であった」のであり、「輝いて燃える」ではない。聖ベルナルドゥスが正しく観察し解説するとおりである。洗礼者聖ヨハネについての説教において、「ただ輝くだけならば空しく、ただ燃えるだけならば僅かであり、燃えてかつ輝くことが完全である。」

最後に、天上の栄光において彼らは星辰のように輝くであろう。使徒が教えるとおりである(コリント人への第一の手紙15章41節)。またダニエル書12章3節、「学識ある者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導く者たちは星のように永遠にわたって輝く。」さらに付け加えると、星辰はその実体と広大な大きさを隠し、火花のようなわずかな光のみを示す。それによって現れ輝くのである。同様に聖人たちは自分自身とその徳、恩寵、栄光を人々から隠し、隠れていることを望む。ゆえに彼らの業は確かに輝く。それによって人々が神を讃えるためである。しかしそれは、業の光を示しつつ、業の発する自らの人格を、自らの力の及ぶ限り隠すという仕方においてである。なぜなら彼らは見られることを望まない。人々が業を見ながらもその作者を見ず、それをすべての光の源である神に帰し、神を賛美するようにするためである。


第五日の業について

第20節:水は生き物を群がらせよ

20. 水は這うものと飛ぶものとを群がらせよ。

群がらせよ。――ヘブライ語ではイシュレツー(iisretsu)、すなわち「おびただしい量で湧き出よ、噴き出よ」の意である。これは魚と蛙に固有の語であり、その驚くべき多産性、繁殖力、増殖の本性を示している。ゆえに、水分の過剰のため、魚は愚鈍で教えることができず、人間によって飼い馴らされることもできないと聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第七説教で述べている。さらに彼はこう述べている。魚の種において、牛や羊のように顎の片側にのみ歯を持つものは一つもない。魚で反芻するのはスカルスという魚のみである。他のすべての魚は、密に並んだ極めて鋭い歯の列で武装されている。それは、もし噛むのに時間がかかれば、水分によって食物が溶解してしまうからである。ある魚は泥を食べ、ある魚は海藻を食べる。一方が他方を貪り、小さいものは大きいものの餌となり、しばしば両者がさらに第三の魚の獲物となる。

人間の間でも同様に、より強い者がより弱い者を略奪し、この者もまたさらに強い者の獲物となる。蟹は牡蠣の肉を貪るために、牡蠣が日光に向かって殻を開くと、小石を投げ入れて殻が閉じられないようにし、こうして侵入してその肉を食べる。蟹は狡猾な盗人であり強奪者である。蛸はどの岩に付着しようとも、その岩の色を帯びる。そして、岩に向かって泳いでくるかのように近づいてくる魚を捕らえて貪り食う。蛸は偽善者の象徴である。貞潔な者の前では貞潔を装い、汚れた者の前では汚れを装い、大食の者の前では大食を装う者たち。ゆえにキリストは彼らを貪欲な狼と呼ばれたのである。

魚たちはこう語る。「北の海へ行こう。その水は他の海よりも甘いからである。太陽がそこにわずかしか留まらないため、その光によって飲料に適した水をすべて汲み尽くすことがないのだ。海の生き物は淡水を好む。ゆえにしばしば河川にまで泳いでゆき、海から遠く離れるのである。このため、彼らは子孫を産み育てるのにより適した場所としてポントス海を他の海湾よりも好むのである。」人よ、魚から先見の明を学べ。あなたの救いに資するものを見極めるためである。

「ウニは風の動乱を感じ取ると、かなりの大きさの小石を取り上げ、その下で碇のように自らを安定させる。船乗りたちはこれを見て、来たる嵐を予知する。毒蛇はウツボとの婚姻を求め、シューという音で自らの存在を知らせる。すると彼女は駆け寄り、毒を持つ者と交わる。この私の教訓は何を意味するか。たとえ夫が粗暴であろうと、あるいは酒飲みであろうと、妻はそれに耐えるべきである。しかし夫もまた聞くがよい。毒蛇は婚姻への敬意から毒を吐き出すのに、あなたは結合への敬意から心の頑なさ、残忍さ、冷酷さを捨てないのか。毒蛇の例は別の面でも我々に益をもたらさないだろうか。毒蛇とウツボの抱擁は一種の自然の姦淫である。他人の婚姻に罠を仕掛ける者は、自分がどの爬虫類に似ているかを学ぶがよい。」

鳥はどのような素材から作られたのか。鳥が水から作られたのかどうかを問うことができる。カエタヌスとカタリヌスはこれを否定し、鳥は地から作られたと考える。なぜなら、第二章十九節でそう断言されているように見え、またこの節においてヘブライ語は魚のみが水から生じたことを示唆しているからである。すなわち字義通りには「水は這うもの(すなわち魚)を群がらせ、飛ぶものは地の上を飛べ」とある。しかし聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、聖キュリロス、ダマスコの聖ヨハネ、およびペレリウスが引用する他の教父たち(ルペルトゥスを除く)の共通の見解は、鳥も魚も共に、素材としての水から生み出されたということである。なぜなら、これは我々の訳(ウルガタ)のみならず、七十人訳およびカルデア訳からも明らかに教えられているからである。彼らはすべて、ヘブライ語のアシェル(ascer)、すなわち「ところの」という関係詞を理解している(これはヘブライ語に特有の用法である)。あたかも「水は這うものと飛ぶものを群がらせよ、すなわち地の上を飛ぶところの飛ぶものを」と言っているかのようである。創世記第二章十九節の箇所についてはその箇所に至ったときに応答する。ゆえにフィロンは鳥を魚の親族と呼んでいる。

鳥と魚はどのように一致するのか。鳥と魚は全く異なり似ていない、ゆえに水から作られたのは魚のみであって鳥ではないと反論するであろう。これに答えて前提を否定する。鳥と魚の間には大いなる親縁性があるのであり、聖アンブロシウスが『六日間の業について』第五巻第十四章で正しく教えている通りである。

第一に、魚の住処である水と、鳥の住処である空気は、隣接し親縁性を持つ元素であるからである。いずれも透明で、湿潤で、柔軟で、精妙で、流動性がある。ゆえに空気は容易に水に変わり、逆に水は蒸気や雲に変じる。鳥は水質よりもむしろ気質の体質を持っているのである。

第二に、鳥にも魚にも軽快さと敏捷性がある。鳥にとって翼であるものが、魚にとっては鰭と鱗である。ゆえに鳥も魚も、飛翔や遊泳を妨げないために、膀胱も乳も乳房も持たないのである。

第三に、両者の運動は類似している。魚にとっての遊泳が、鳥にとっての飛翔であり、魚は水の鳥であり、逆に鳥は空の魚であるかのようである。さらに鳥も魚も尾で進路を導く。そのため人間は鳥や魚から、とりわけ鳶から航海術を学んだように思われると、プリニウスは『博物誌』第十巻第十章で述べている。

第四に、多くの鳥は水生であり、白鳥、鵞鳥、家鴨、大鷭、潜水鳥、翡翠などがそうである。

最後に、聖アウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第三巻第三章で、また聖トマスは『神学大全』第一部第七十一問第一項で、魚はより濃密な水から作られ、鳥はより稀薄な、空気に近い性質の水から作られたと答えている。

次いで聖バシリウスは驚嘆する。海水がいかにして塩に凝結されるか、珊瑚が海中では草であるのに空気中に出されると石に凝固するか、自然がいかにして無価値な牡蠣に貴い真珠を刻印したか、無価値な小さな紫貝の血からいかにして王の衣を染める紫色が生じるか、コバンザメという小魚が船の竜骨に付着すると、強風に駆られた船さえも止め、不動にしてしまうか、と。以上はすべて聖バシリウスの第七説教からである。プリニウス、プルタルコス、アルドロヴァンドゥスも同様にコバンザメについて伝えており、その原因を、磁石が鉄を引き寄せ極を指し示すのと同様に、自然がコバンザメに植え付けた隠れた性質に帰している。

さらに、これらすべてのことから聖バシリウスが教えるのは、第一に、この海の劇場における神の力、知恵、寛大さを賞賛し、海中の魚の数だけ、いや海の水滴の数だけの恩恵に対して絶えず感謝を捧げるべきであるということである。第二に、我々は魚や他の動物、また個々の被造物から、いかにして生活に適切な教訓を引き出し、それらのすべての賜物と行為を品性の形成に適用すべきかを示している。なぜなら、それらは鏡としても援助としても等しく、神によって人間に与えられたからである。

かくして知恵の書の著者は箴言六章六節で、怠惰な人を蟻のもとへ遣わしている。「怠け者よ、蟻のもとへ行け、とその著者は言う。蟻の道を見て知恵を学べ。蟻には指導者もなく、教師もなく、長もないのに、夏のうちに食物を備え、収穫の時に食べるものを集める。」

生ける魂を持つ這うもの――すなわち、生きた存在の、あるいは感覚を持つ動物の魂を有する這うもの。魚を「這うもの」と呼ぶのは、魚は足を持たず、腹を水に押し付けて、這い、漕ぐようにして進むからである。

両棲類は魚に分類されるべきである。魚のうちに両棲類を数えよ。ビーバー、カワウソ、カバなどがそうである。これらは足を持つが、水中にいるときにはそれで歩かず、泳ぐ際に櫂として使用するのである。


第21節:神は大いなる海の怪物を創造された

21. 神は大いなる海の怪物を創造された。「ケートス」(海の巨獣)はヘブライ語でタンニーニーム(tanninim)と呼ばれ、これは竜およびすべての巨大な動物、陸生のものも水生のものも含めて意味する。鯨のごときは、いわば水の竜である。かくして「ケートス」の名はすべての大型の鯨類の魚に共通であると、ゲスネルスは教えている。

ユダヤ人はタンニーニームを最大の鯨と解し、二頭のみが創造されたと言う(もしそれ以上いれば、すべての魚を呑み込み、すべての船を飲み尽くすであろうから)。すなわち雌の一頭は神が殺して、メシアの時代に義人が宴を催すために保存しておられるとし、雄の一頭は神が保存して、毎日決まった時間にそれと戯れるためであるとする。詩篇百四篇の「あなたがそれと戯れるために形造られたこの竜」、ヘブライ語では「あなたがそれと遊ぶために」という箇所による。彼らはこの作り話をエズラ記第四巻第六章から取ったのであり、リラヌスとアブレンシスが伝えている通りである。これらはこの「賢者たち」の妄想である。

「大いなる海の怪物」という語に注目せよ。それらが水面に背を出すとき、巨大な島の外観を呈するからであると、聖バシリウスとテオドレトスは述べている。

すべての生きて動く魂を。――ここで「すべての」は「すなわち」を意味する。あたかもこう言うかのようである。神は水中のすべての生きた動物を創造された。すなわち自らの内に運動の原理を、つまり自らの衝動によって自らを動かすことのできる魂を持つものを。ゆえにそれは「動き得るもの」と呼ばれるのである。


第22節:神はそれらを祝福された

22. 神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ」と。神が祝福するとは善を施すことである。そして神が魚と鳥に善を施されたのはまさに、自らに似たものを生む欲求と力と能力を彼らに与えたことによってである。それは、個体としていつまでも存続することができず死なねばならないので、せめて子孫の中に留まり、こうして一種の永遠性を持つためである。あらゆるものは自己の保存と永続を望むからである。ゆえにさらに説明を加えてこう付け加えている。「増えよ」とは、大きさにおいてではない(なぜなら適切な大きさは最初の創造において受けたからである)。ヘブライ語にあるように「実を結べ」あるいは「多産であれ」、すなわち数において増えよ、そしてあなたがた魚は水を満たせ、ということである。

なぜ魚の多産性は鳥の多産性よりも大きいのか。魚の多産性は鳥よりも大きく、鳥の多産性は陸の動物よりも大きい。なぜならアリストテレスが『動物発生論』第三巻第十一章で述べるように、魚に豊富な水分は、地よりも子孫を形成し形作るのにより適した性質を持つからである。

加えて、魚と鳥は卵によって繁殖するが、卵は陸の動物が子宮に宿す胎児よりも母体の中でより容易に増殖する。ゆえに鳥と魚に神が祝福を与えたことは記されているが、陸の動物にはそうではない。もっとも聖アウグスティヌスが『創世記逐語的注解』第三巻第十三章で正しく指摘するように、一方において表明されたことは、他方の類似した場合においても等しく理解されるべきである。

しかし人間については神が祝福されたことが記されている。それは人間がすべての動物の主であるからであり、また人間は地のすべての地方に広がるべきであったからである。他の動物はある特定の土地を自然に耐えられないのに対して。

フェニックスは唯一無二の鳥であるか。こう反論するであろう。フェニックスは世界に一羽しかいない鳥である。ゆえに「産めよ、増えよ」という命令はその場合に真でない、と。これに対して前提に答える。フェニックスの存在を主張した古代の著者は多いが、確実な知識よりもむしろ世間の風説に基づいていた。しかし後世の哲学者や博物学者――鳥について精確に著述した者たち、その中でも最新かつ最も精確なのはウリッセス・アルドロヴァンドゥスである――は、フェニックスを寓話と見なし、それが存在せず存在したこともないことを多くの論拠で証明している。ゆえにフェニックスは実在の鳥ではなく、象徴的な鳥である。これについては第七章第二節で示す。

聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第八説教で、それに続いて聖アンブロシウスは『六日間の業について』第五巻で、次のことを描写し驚嘆している。第一に、蜜蜂が蜂の巣を築き、蜜を集め、それを配置し保護する勤勉さについて。第二に、鶴の夜間の歩哨について。鶴は交代で夜間見張りを行い、眠っている仲間を巡回し守る。定められた時間が経過すると、見張りをしていた鶴は鳴き声を発して眠りにつき、別の鶴が代わって、他の鶴から受けた安全を見張ることで返すのである。鶴は戦列のように定まった順序で飛ぶ。一羽が将軍のように先頭を行き、その務めの時間が終わると隊列の最後尾に回り、最も近くに続いていた鶴に先導の役を譲る。

第三に、コウノトリの習性について。コウノトリは決まった時期に来て去る。カラスがコウノトリを護衛し、他の鳥から守る。この保護がなされた証拠は、カラスが傷を負って帰ってくることである。さらにコウノトリは老いた親鳥を慈しみ、自分の羽で包み、豊かに食物を与え、両翼で支えるのである。「これぞ孝心の乗り物である」と聖アンブロシウスは述べている。

第四に、貧しさを嘆く者はいなくなるであろう、燕のことを考えるならば。燕は嘴で藁を集め、小さな巣を作るために運ぶ。泥を足で運ぶことができないので(足が極めて短く小さいため、まるで足がないかのように見え、ゆえにほとんど止まることができず、ほぼ常に飛んでいるように見える)、羽の先端を水で湿らせ、次に塵の中を転がり、こうして自ら泥を作り出し、それで巣を造る。そこに卵を産み、雛を孵す。もし雛の目が傷つけられたならば、クサノオウという薬草を用いてその視力を回復する方法を知っているのである。

第五に、翡翠は冬のほぼ半ば、風と嵐が猛威を振るう頃に海岸近くに産卵する。するとたちまち風と嵐は静まり鎮められ、海は丸七日間穏やかになる。その間に翡翠は卵を温め雛を孵す。その後さらに七日間の穏やかな日が続き、その間に雛を育てる。ゆえに船乗りたちはその時期に安全に航海する。詩人たちが穏やかで晴れた日々を「翡翠日和」と呼ぶのはこのためである。翡翠は我々に神への希望を教える。もし神が一羽の小鳥のためにこれほどの穏やかさを与えられるならば、神に呼びかける人間に何を与えられないことがあろうか。

第五に、山鳩は配偶者が死んだ後、他の鳥と結ばれることなく、寡婦に貞潔を保ち他の男の婚姻を求めないことを教える。

第六に、鷲は雛に対して厳しく、すぐに見捨て、ときには巣から突き落とす。ゆえに鷲は子に対して残酷な親の象徴である。一方、子に対して慈しみ深い者は、鶉に似ている。鶉は雛が飛べるようになった後も付き添い、しばらくの間食物を供給する。

第七に、禿鷲は長寿であり(通常百年を生きる)、交尾なしに産む。これを異教徒に対して引き合いに出すがよい。彼らは「聖母はいかにして処女のままキリストを産むことができたのか」と言うからである。聖アンブロシウスも『六日間の業について』第五巻第二十章で同様のことを述べている。さらにアエリアヌス(『動物について』第二巻第四十章)、ホルス(『象形文字』第一巻)、イシドルス(第十二巻)、オリゲネス(第七章)、およびアルドロヴァンドゥスが「禿鷲」の項で引用する他の著者たちは、禿鷲はすべて雌であり、雄なしに風から受胎し産むと伝えている。しかしこれらの主張がすべて作り話であることは、アルベルトゥス・マグヌスが示し、それに続いてアルドロヴァンドゥスが『鳥類学』第三巻二百四十四頁で示している。禿鷲は完全な動物であり、自然の共通の法則により両性を享受し、他の鳥と同様にそれによって生殖し増殖するのである。さらに禿鷲は嗅覚が強く、数百マイル離れた死骸を、実に海の向こうにある死骸さえ嗅ぎ取り、そこへ飛んでゆく。実際、殺戮を予見するかのようであり、ゆえに大群をなして軍隊や陣営に従うのである。

第八に、蝙蝠は四足の生き物でありながら翼を持ち、鳥のようである。ゆえに四足獣として生きた子を産み、翼は羽毛に分かれておらず、革のような膜のように連続している。虚しいことには賢くても真実で堅固なことには賢くない者たちは、蝙蝠やフクロウに似ている。フクロウのように、太陽が輝くとき彼らの視力は鈍り、影と闇そのものによって鋭くなるからである。

第九に、雄鶏はあの番人であり、朝にあなたを起こして務めを果たさせる。鋭い声で鳴き叫び、その啼き声でまだ遠方から近づく太陽を告げ知らせ、旅人とともに朝早く目覚め、農夫を家から畑と収穫へと導き出す。

第十に、鵞鳥は常に目を覚ましており、他のものが見過ごすことを察知するのに極めて鋭い。ゆえにかつてローマにおいて、忍び寄るガリア人の敵に対してカピトリウムを守ったのは鵞鳥であった。眠っていた番兵をその鳴き声で覚醒させたのである。ゆえに聖アンブロシウスは『六日間の業について』第五巻第十三章でこう述べている。「まことにローマよ、お前が統治しているのは鵞鳥のおかげである。お前の神々は眠っていたが、鵞鳥は目を覚ましていた。ゆえにあの時代、お前はユピテルにではなく鵞鳥に犠牲を捧げるのだ。お前の神々は鵞鳥に道を譲るがよい。鵞鳥によって自分たちが守られたことを知っているのだから。さもなくば、彼ら自身も敵に捕らえられていたであろう。」

第十一に、蝗の軍勢は一つの合図のもとに一斉に空中へ飛び立ち、野全体の広がりにわたって陣を張り、神からそれが許され、いわば命じられるまでは穀物を食い荒らさない。神は救済手段を用意されている。それはセレウキスという鳥であり、群れをなして飛来し蝗を食い尽くすのである。

さらに、蝉の歌い方とはどのようなもので、いかなる種類のものであるか。蝉は正午にいっそう歌に励み、胸を膨らませることによって空気を取り込み、音を発する。

第十二に、昆虫(蜜蜂、蜂など)はそう呼ばれるが、それは全身にわたってある種の切れ込みや刻み目を示すからである。肺を持たず、したがって呼吸せず、身体のすべての部分を通じて空気によって養われる。このため、もしオリーブ油、すなわちオリーブから搾った油で浸されると、通路が塞がれて死ぬ。直ちに酢を振りかければ、穴が開かれて蘇生する。

第十三に、家鴨、鵞鳥、その他の水泳する鳥は、足が分かれておらず膜のように連続して広がっている。それによってより容易に浮かび、泳ぐことができるのである。白鳥は長い首を深い水中に差し入れて漁をし、魚を捕らえる。

蚕は復活の予型である。第十四に、蚕は復活の証拠であり予型である。蚕においては、まず種子から小さな虫が生まれ、これから毛虫が生じ、毛虫から蚕が生じ、桑の葉で身を満たし、満腹になると絹の糸を紡ぐ。それは自らの内臓から引き出すのであり、繭を作ってその中に閉じこもって死に、時が経つと蘇生し、翼を得て蝶となり、繭に種子を残して飛び去る。聖バシリウスはこのように述べている。

美しい声で歌う鳥を加えよう。オウム、クロウタドリ、ミソサザイ、そしてとりわけナイチンゲール。ナイチンゲールは実に小さいので声以外の何ものでもないかのようである。実際、純粋な音楽そのものである。これについて聖アンブロシウスは『六日間の業について』第五巻第二十章でこう述べている。「わたしにはどこからオウムの声が来るのか、クロウタドリの甘美さが来るのか。せめてナイチンゲールが歌ってくれさえすれば、眠っている者を眠りから覚ますであろうに。というのも、この鳥は昇りゆく日の出を告げ知らせ、夜明けにいっそう豊かな喜びをもたらすのを常とするからである。」また第五章でこう述べている。「大鷭たちよ、海の深みを好むあなたがたは、海の動乱を感じ取るとなぜ逃げて浅瀬で戯れるのか。サギ自身も、沼に留まるのを常とするが、慣れ親しんだ住処を捨て、雨を恐れて雲の上を飛ぶ。雲の嵐を感じずに済むためである。」


第六日の業について

第六日は地に住民を与えた。ちょうど第五日が水と空気に住民を与えたように。しかし火には住民が与えられなかった。サラマンダーも他のいかなる動物も火の中で生存したり耐えたりすることはできないとガレノスが『気質論』第三巻で教え、ディオスコリデスが第二巻第五十六章で教えている。そこでマッティオリは自身がこれを経験したと言い、多くのサラマンダーを火に投じたところ、たちまち焼き尽くされたと述べている。同様にピュラウスタエすなわち火虫は、蝿よりもやや大きいが、火の中でわずかな時間しか生きられない。それらはキュプロスの銅の炉で生まれ、その中で火を跳び歩くが、炎から離れるとすぐに死ぬのであると、アリストテレスは『動物誌』第五巻第十九章で証言している。

第24節:地は生き物を生じさせよ

24. 地は生ける魂を生じさせよ――すなわち生きた動物を。これは提喩法である。また「地は生じさせよ」とは、地が作用因であるかのようにではない。作用因は神のみであった。むしろ質料因としてであり、あたかもこう言うかのようである。動物が地から起こり、出で、立ち上がり、生じよ、と。

あらゆる動物のすべての種が第六日に創造されたのか。この第六日に神によって陸の動物のあらゆる種が絶対にすべて創造されたのかと問うことができる。第一に答える。完全で同質的な陸の動物のあらゆる種、すなわち一つの種の雄と雌の交わりによってのみ生まれ得るものは、この日にすべて創造された。注解者たちとスコラ学者たちが共通に教えている通りである。これは宇宙の完全性がそれを要求したから証明される。神はこの六日間でこの宇宙を完全に建設し装飾されたのであり、したがってこの六日間にすべてのもの、すなわちすべての事物の種を創造されたということが帰結する。そしてこのことから、第七日に休まれたと言われるのである。すなわち新たな種の産出を止められたのである。

毒を持つ獣も創造された。第二に言う。したがってこの第六日に、蛇のようなすべての毒を持つ獣、また狼と羊のように互いに敵対し肉食する獣もすべて創造された。しかもこの敵意と自然的反感をもって創造されたのである。なぜならこの反感は彼らにとって自然なものだからである。

かくしてアダムの罪の前にも、狼の本性は羊に対して敵対的であり、羊を殺したであろう。しかし神の摂理は、種が十分に増殖する前にそのようなことが起こらないようにしたであろう。種が滅びないためである。聖トマスは『神学大全』第一部第六十九問第一項第二異論解答で、聖アウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第三巻第十六章でそう述べている。もっともアウグスティヌス自身は『再考録』第一巻第十章でこれを撤回するかのようであり、すべての獣が植物を食べるのが自然の制度に属すると主張しているように見える。創世記一章三十節に言われていることに従って。しかし人間の不従順から、あるものが他のものの食物となるに至ったと。ペレリウスも同意見であり、アブレンシスも第十三章で詳しくこれらの問題を扱っている。ニュッサのグレゴリウスも『人間の創造について』第二説教で同じ見解を持つようである。ユニリウスも明確にこう教えている。「神が『見よ、わたしはあなたがたにすべての草を与えた』と言われたことから明らかなように、地は有害なものを何一つ生み出さず、毒草も不毛の木も一本もなかった。第二に、鳥さえもより弱い鳥を捕らえて生きることはなく、狼は羊小屋の周りを獲物を求めて徘徊することもなく、塵が蛇のパンであることもなかった。すべての被造物は一致して草と木の実を食べていたのである。」

しかし先に述べた意見のほうがより真実である。神が毒のある生き物を創造された理由は、第一に、宇宙があらゆる種類のもので完全であるためであり、第二に、それらから他のものの善性が輝き出るためである。善は悪に対置されるときにいっそう輝くからである。第三に、それらが薬や他の用途に有用であるからである。かくして毒蛇からテリアカ(解毒剤)が作られる。ダマスコの聖ヨハネは『正統信仰について』第二巻第二十五章でそう述べている。聖アウグスティヌスの『マニ教徒に反対する創世記論』第一巻第十六章を参照せよ。

なぜ腐敗から生まれる動物があるのか。第三に言う。汗、発散、または腐敗から生まれる微小な動物、たとえば蚤、鼠、その他の小さな虫は、この第六日に形式的には創造されなかったが、潜在的に、いわば種子的原理において創造された。すなわち、この日に創造された動物の一定の素質から、これらが自然に生じることになっていたからである。聖アウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第三巻第十四章でそう述べている。もっとも聖バシリウスはここの第七説教で反対を教えるように見える。

確かに蚤やそれに類する虫――いま人間を悩ますもの――がその時に創造されたとすれば、それは無垢の状態の至福に反するものであったであろう。

注意すべきは、小さな動物においても神の壮大さは等しく、ときには大きな動物以上に輝いているということである。

テルトゥリアヌスの『マルキオン駁論』第一巻第十四章を聞くがよい。「しかしあなたがより小さな動物をも嘲笑するとき――最も偉大な工匠が意図的に技巧または力において拡大されたもの、かくして使徒に従い、弱さの中の力のように小ささの中の偉大さを認めることを教えているもの――もしできるなら蜜蜂の建築を、蟻の厩を、蜘蛛の網を、蚕の糸を模倣してみよ。もしできるなら、あなたの寝台や敷物のあの生き物たち、ツチハンミョウの毒、蝿の針、蚊のラッパと槍に耐えてみよ。それほど小さなものによって助けられまたは害されるのであれば、大きなものはいかばかりであろうか。あなたは小さなものにおいてさえ造物主を軽んじてはならないのである。」

かくしてクリュシッポスは、プルタルコスが『自然について』第五巻で証言するところによれば、南京虫と鼠は人間に極めて有用であると述べた。南京虫によって我々は眠りから覚まされ、鼠によって持ち物の保管に注意を払うよう警告されるからである。

聖アウグスティヌスは詩篇百四十八篇の註解でこう述べている。「愛する兄弟たちよ、注目せよ。蚤と蚊の四肢を誰が配列したのか。それらが固有の秩序を持ち、固有の生命を持ち、固有の運動を持つように。どれほど小さくとも、あなたの望む任意の小さな生き物を一つ考えてみよ。もしその四肢の秩序と、それを動かす生命の活力を考えるなら、それは自らのために死を逃れ、生を愛し、快楽を求め、苦痛を避け、多様な感覚を発揮し、自らにふさわしい運動に活発である。蚊に血を吸う針を与えたのは誰か。それが飲むための管はなんと細いことか。これらを配列したのは誰か。これらを造ったのは誰か。あなたは最も小さなものの前に畏れおののく――偉大なる方を讃えよ。」

雑種動物もまた然り。第四に言う。雑種動物、すなわち異なる種の交配から生まれる動物、たとえば雌馬と驢馬からの騾馬、狼と牝鹿からの山猫、雄山羊と雌羊からのティテュルス、雌獅子と豹からの豹――これらはこの第六日に創造されたと言う必要はない。事実、そのときにこれらのすべてが創造されたのではないことは確かである。ルペルトゥス、モリナ、その他がそう述べている。もっともペレリウスはここで反対の意見を持っている。

この主張は第一に、アフリカでは日々新たな奇形の種が生じ、今後さらに生じ、さまざまな種あるいは動物の新たな混合から生じ得ることから証明される。第二に、そのような混合は自然に反し姦通的であり、ゆえにレビ記十九章十九節でユダヤ人に禁じられていた。第三に、これらの動物は、その混合から後に生まれることになる他の種が創造されたときに十分に創造されたと見なされるからである。第四に、騾馬については、ヘブライ人たちが創世記三十六章二十四節から教えるところによれば、この世界の第六日よりもはるか後に、アナによって砂漠で、雌馬と驢馬の交配から発見されたのである。

その種類に従って――すなわちそれ自身の種類に従って、つまりそれぞれの種に従ってということであり、次のように言うのである。地は生きた動物をそれぞれ個々の種に従って生じさせよ。あるいは、地は陸の動物の個々の種を生じさせよ。

これらの種を聖バシリウスは『六日間の業についての説教』第九説教で列挙し観想しており、それに続いて聖アンブロシウスが『六日間の業について』第六巻第四章でこう述べている。「熊は聖書が言うように狡猾な獣であるが(悪知恵に満ちた獣であるから)、形のない子を胎から産み落とすが、舌で新生児を舐めて形を与え、自らの姿と似姿に作り上げると伝えられている。あなたは自分の子を自分に似た者に育てることができないのか。」

同じ熊は深い傷を負って負傷すると、フロモスと呼ばれる草を傷に当てて自ら治療する方法を知っている。その接触だけで治癒するためである。蛇もまたウイキョウを食べることによって患った盲目を追い払う。亀は蛇の肉を食べた後、毒が体に広がるのを感じると、オレガノを用いて自らの治癒の薬とする。

狐もまた松の樹液で自らを治すのを見ることができる。主はエレミヤ書第八章でこう叫ばれている。「山鳩も燕も、野の雀も、来たるべき時を守っている。しかしわが民は主の裁きを知らない。」

蟻もまた晴天の時期を見分けることを知っている。晴天を予知して、湿った蓄えを外に運び出し、絶えざる太陽によって乾かされるようにする。牛は雨が迫ると飼い葉桶のそばに留まることを知っているが、他のときには外を眺め、首を飼い葉桶の向こうに伸ばして、外に出たいという意志を示す。より穏やかなそよ風が近づいているからである。

「羊は冬の到来に際して飽くことなく食物を求め、貪欲に草をむしり取る。来たる冬の厳しさと不毛を予感するからである。ハリネズミは何らかの脅威を感じると、棘で身を閉ざし、自らの武器の中に身を丸める。触れようとする者は誰でも傷つけられるのである。同じハリネズミは将来を見越して二つの呼吸孔を備えている。北風が吹くことを知ると北の孔を塞ぎ、南風が空の雲を払うことを知ると北の孔に向かう。向かい風を避け、その方角から害をなす風を避けるためである。主よ、あなたの御業はいかに大いなることか。あなたはすべてを知恵をもって造られた。」

彼はさらに虎について述べている。虎は子を奪った者を追跡する。追いつかれそうだと見るや、男はガラスの球を投げる。虎はそこに映った自分の姿(ガラスに反射して見え、自分の子であると思う)に欺かれて、幼子に乳を与えるかのように座り込む。こうして母性の愛情に欺かれて、復讐も子も共に失うのである。ゆえに虎は、獰猛であるにもかかわらず、親がいかに子を愛すべきか、子を怒りに駆り立ててはならないことを教えている。

次いで犬に話を進める。犬は驚くべき鋭敏さで足跡から兎を嗅ぎ出し、追跡する。主人の殺害者を見つけ出し復讐した犬の例を挙げ、こう付け加えている。「我々は造り主にいかなるふさわしい返礼をなしているのか。その食物をいただきながら、その辱めを見て見ぬふりをし、しばしば神から受けた饗宴を神の敵に供しているのである。」

小さな子羊は頻繁な鳴き声で不在の母を呼び、応答する者の声を引き出す。数千の羊の中にあっても、親の声を認め、母のもとへ急ぐ。母もまた数千の子羊の中にあって、愛情の沈黙の証によって我が子のみを認める。羊飼いは羊を見分けるのに迷うが、子羊は母を認めることに迷うことを知らない。子犬にはまだ歯がないが、あたかも歯があるかのように自らの口で復讐しようとする。鹿にはまだ角がないが、額で他の鹿の歩みに合わせることなく予行演習をし、まだ試みたことのないものを軽蔑する。昨日の食物には近づかず、獲物の残りに戻ることは決してない。豹は激しく、猛烈で、素早く、ゆえにしなやかで機敏である。熊は極めて鈍重で、孤独で、狡猾である。

家畜――すなわち家庭的で温順な動物。ヘブライ語ではベヘモート(behemot)と呼ばれ、獣、すなわち地の野獣と対比される。ギリシア語ではここでテーリア(theria)と訳されている。

六日間の業が道徳的に何を意味するか。道徳的解釈によれば、六日間の創造の業は人間の義化の業を意味する。第一日にまず光が創造される。すなわち罪人に照明が注がれ、それによって罪の醜さと自らの状態および永遠の危険を見ることができるようになる。第二日に大空が造られる。すなわち罪人に神と裁きへの畏れが据えられ、上の水すなわち理性的欲求と、下の水すなわち感覚的欲求とを分ける。感覚によっては地上のものを欲するが、霊においては天上のものへと運ばれるためである。第三日に地が、すなわち水すなわち情欲に覆われた人間が露わにされる。情欲を持ちながらもそれに圧倒されず、感じながらも同意しないために。そこから徳の芽が実る。第四日に太陽が造られる。すなわち愛徳が人間に据えられる。月すなわち輝かしい信仰。明けの明星すなわち希望。土星すなわち節制。木星すなわち正義。火星すなわち剛毅。水星すなわち賢明。その他の星々すなわち諸徳と共に。第五日と第六日に生き物が造られる。第一に魚、すなわち善良だが極めて不完全な人間。世の煩いに沈んでいるからである。第二に家畜、すなわちより完全な人間。地上にありながら霊的に生きる者たち。第三に鳥、すなわち最も完全な人間。すべてを軽んじ、あらゆる情愛をもって鳥のように天へ飛び立つ者たちである。エウケリウス、オリゲネス、フーゴの論に基づきペレリウスがそう述べている。聖ベルナルドゥスの『聖霊降臨の説教』第三を参照せよ。

象徴的解釈としては、ユニリウスはこの六日を世界の六つの時代に当てはめている。次に人間の創造が続く。すなわち、

「これらよりも神聖な被造物、高い知性を受け容れ得るものが
なお欠けていた。すべてのものを支配し得る者が。
かくして人間が生まれた。」

ゆえに神はこう仰せられる。


第26節:我らの像に人を造ろう

我らの像と肖りとに従って人を造ろう。

ここに至聖三位一体の神秘が理解される。ここに至聖三位一体の神秘を注目せよ。すなわちこの言葉において、父なる神は天使たちに語りかけているのではない――あたかも彼らに人間の肉体と感覚的霊魂を造るよう命じ、理性的霊魂の創造のみを御自身に留保されたかのように。プラトンは『ティマイオス』において、フィロンは『六日間の創造について』において、またユダヤ人たちもそのように考えた。しかし聖バシリウス、聖ヨハネ・クリソストモス、テオドレトス、キュリロス(『ユリアヌス駁論』第1巻)、聖アウグスティヌス(『神の国』第16巻第6章)はこれを不敬虔なものとして弾劾している。なぜなら、神は天使を通じてではなく、御自身によって人間の肉体も霊魂も創造されたからであり、それは第2章第7節および第21節から明らかである。ゆえにここで神は「造れ」〔facite〕とは言わず、「造ろう」〔faciamus〕と言い、「我らの」像に――おお天使たちよ、あなたがたの像にではなく、我らの像に――と仰せになる。したがって、ここで父なる神は御子と聖霊とに、御自身と同じ本性・権能・働きを持つ同僚として語りかけておられるのである。聖バシリウス、ルペルトゥス、およびすでに引用した他の諸教父がそのように教え、さらにシルミウム公会議(聖ヒラリウスの『教会会議について』に引用される)は、この箇所を別様に解釈する者にアナテマを宣告している。

人間の十二の卓越性。第二に、人間の卓越性を注目せよ。すなわち、神は人間の創造について、偉大な事柄に対するかのように熟慮し協議して「人を造ろう」と仰せになる。ルペルトゥスがそのように述べている。なぜなら、人間は被造ならざる世界、すなわち至聖三位一体の最初の像であり、その無限の技と知恵の証しであり、最も完全な作品だからである。しかし被造世界にとって、人間はその目的であり、要約であり、絆であり結び目である。すなわち人間は霊的なものと物質的なもののあらゆる段階を自らのうちに有し結び合わせており、ゆえに小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれる。またプラトンによって宇宙の地平線と呼ばれる。なぜなら人間は、上半球すなわち天と天使たち、および下半球すなわち地と獣たちの境界を定め、自らのうちにそれらを結合するからである。人間は一方では天使に似、他方では獣に似ている。同様に、この我々の生と時は永遠の地平線である。なぜなら天にある至福の永遠と地獄にある悲惨な永遠との境界を定め、その双方から何かを分かち持つからである。聖クレメンスは『使徒憲章』第7巻第35章において美しくこう述べている。「あなたの創造の極致として、理性に与る生き物、世界の市民を、あなたは知恵の摂理によって造られた。『我らの像と肖りとに従って人を造ろう』と仰せになったとき、あなたは人を、飾りの中の飾りとなるように造り、その肉体を四元素、すなわち根源的物体から形づくり、霊魂を無から造り、徳の戦いのために五つの感覚を与えた。そして霊魂の知性そのものを、御者のように感覚の上に据えられた。

第二に、人なるキリストを通じて、すでに述べたように人間という小宇宙に含まれるすべての被造物が等しく神化されるべきだったからである。ゆえに人間の尊厳がいかに大いなるものであるかを見よ。第三に、世界が人間のため、また人間とともに創造されたように、復活においても世界は刷新されるからである。第四に、信仰の至高の神秘、すなわち至聖三位一体と不可分の一致の神秘は、人間の創造において最初に啓示されたのであり、後にその同じ人間の再生において、すなわち洗礼において、公然と宣言され告白されるべきものであった。すなわち「造ろう」「我らの」という言葉は三位一体を意味し、「神は言われた」「神は造られた」等の言葉は一致を示している。第五に、動物や植物は地と水から生じたと言われるが、神のみが人間の肉体を形づくり、御自身が無から創造された理性的霊魂をそこに置かれた。第六に、人間は神によってすべての動物、最も巨大なものをも含め、その支配者また首長として造られ、いわば全世界の王とされた。第七に、神は人間の住まいと喜びのために、あらゆる快楽と万物の豊かさに満ちた楽園を割り当てられた。第八に、神は人間を霊魂の完全性と無垢においてかくも整えられた状態で創造されたので、知性は神に従い、感覚は理性に従い、肉体は霊魂に従い、すべての生き物は人間の支配に服した。ゆえに人間は自らの裸を恥じなかったのである。第九に、アダムはそれぞれの動物にふさわしい名を付けた。ここから彼の至高の知識と知恵が輝き出ており、動物たち自身もいわば人間を自らの王また主と認め告白したのである。第十に、人間は不死の肉体を有していた。すなわち神に従うならば、地上できわめて長い生涯を送った後、地上の生から天上の永遠の生へと、死とあらゆる悪から免れて移されるはずであった。第十一に、神は「これこそ我が骨の骨」と言ったとき、人間を予言の賜物で飾られた。第十二に、神はしばしば人間の姿で人間に現れ、親しく語りかけられた。

第三に注目せよ。ニュッサのグレゴリオスが述べるように、神はこの世界の宮殿を、いわばある饗宴、あるいはむしろ壮麗な食堂として、使用・愉楽・知識に適するすべてのもので整えられた。そして最後に、そのように飾り立てられた世界の中に人間を導き入れ創造された。人間こそが万物の頂点・目的・主であった。聖アンブロシウス(ホロンティアヌスへの書簡38)、ナジアンゾスのグレゴリオス(説教43)、ニュッサのグレゴリオス(『人間の造成について』)を見よ。ゆえに聖ベルナルドゥスは『受胎告知についての説教』第1においてこう正しく述べている。「最初の人間に何が欠けていたであろうか。憐れみが彼を守り、真理が彼を教え、正義が彼を治め、平和が彼を養っていたのである。

さらに、プルタルコスが『心の平静について』で証言するようにディオゲネスが、またフィロンが『君主政について』第1巻で教えるところによれば、世界は神の聖にして美しい神殿のようなものであり、その中に人間はその大祭司となり、すべての被造物のために祭司職を行い、すべてのものに与えられた恵みに感謝し、善きものを加え悪しきものを退けるよう神を宥めるために導き入れられたのである。ゆえに、旧約の大祭司アロンは「彼が着ていた祭服には」「全世界が描かれていた」(『知恵の書』18章24節)。ラクタンティウスの『神の怒りについて』第14章を聞け。「次に私は、なぜ神が人間を造られたかを示さねばならない。神は世界を人間のために設計されたように、人間そのものを御自身のために、神の神殿の大祭司、天の業と事物の観察者として造られた。なぜなら感覚を持ち理性を備えた者として、神を理解し、その業を讃嘆し、その力と権能を見極めることができるのは、人間ただ一人だからである。ゆえに人間のみが言葉と思考の通訳たる舌とを受けたのであり、主の威厳を語り告げるためである。

さらに聖アンブロシウスは、すでに引用した書簡38において、人間が最後に創造されたのは、世界のすべての富――すべての鳥類、陸上の動物、魚類さえも――を従えるためであり、いわば元素の王として、これらを通じて階段を登るように天の王宮へ上るためであると教えている。そして最後に優美にこう結んでいる。「ゆえに人間が最後であったのは正しかった。全業の総括として、世界の理由として、万物がそのために造られた者として、あらゆる元素の住人として。人間は野獣の間に生き、魚とともに泳ぎ、鳥の上を飛び、天使と語らう。地に住まい、天に仕え、海を耕し、空気に養われ、土を耕す者、深淵の旅人、波間の漁師、空の鳥刺し、天の相続人、キリストの共同相続人である。

「人を」。ここでの「人」とは、プラトンに従ってフィロンが考えたような、すべての個々の人間の原因また範型となる抽象的・普遍的な人間の観念ではない。また「人」とは、「人間の霊魂を我らの像すなわち恩寵で飾ろう」と言うかのような人間の霊魂でもない。聖バシリウスとアンブロシウスはそう解釈するが、むしろ「人」とはアダムその人であり、最初の人間にしてすべての人の親である。すでに述べたことから明らかなように、アダムにおいて、またアダムを通じて、神は他のすべての人間を造り創造されたのである。

「像と肖りとに」――人間における神の像。我らの像と肖りとに従って。問うであろう。人間に表現されたこの神の像は何に存するのか。擬人論者(アウダエウスを創始者とし、ゆえにアウダエアニとも呼ばれる)は、人間は肉体に即して神の像であり、したがって神は有体的であると考えた。しかしこれは異端である。

第二に、オレアステルとエウグビヌスは『世界創成論』において、神がここで人間の形をとり、その似姿に人間を創造されたと考えるが、これも等しく薄弱かつ新奇な説である。

第一に注目せよ。ここで「像」とは「範型」の意味であり、すなわち「我らの範型に従って人を造ろう。像として人が我ら、すなわちその範型を映し表すように」ということである。この像とは、ある人々が解釈するような神の言葉すなわち御父の像である御子のことではなく、神的本質そのもの、一にして三なる神御自身のことである。なぜなら人間はこの方の像に従って造られたからである。ゆえにルペルトゥスが「像」を御子、「肖り」を聖霊と解するのは神秘的解釈である。しかし第二に、「像」はここでヘブライ語法として固有の意味でとることもでき、すなわち「我らの像に従って人を造ろう」とは「人が我らの像となるように、すなわちその範型の像となるように」という意味である。

像と肖りはここで区別されるのか。第二に注目せよ。多くの者が「像」と「肖り」をここで区別する。すなわち「像」は本性に属し、「肖り」は諸徳に属するとする。聖バシリウスは『六日間の創造についての説教』第10においてこう述べている。「私の霊魂に刻まれた像によって、私は理性の使用を得た。しかしキリスト者となることによって、私はまことに神に似る者とされたのである。」聖ヒエロニムスはエゼキエル書第28章の「あなたは肖りの印である」についてこう述べている。「像は創造のときにのみ造られたが、肖りは洗礼において完成されることに注意すべきである。」また聖ヨハネ・クリソストモスは『創世記についての説教』第9においてこう述べている。「彼は支配の理由から『像』と言い、『肖り』とは、人間の力によって柔和や温良などにおいて神に似る者となるためであり、キリストもまた『天におられるあなたがたの父に似る者となれ』と仰せになる。」同じことを聖アウグスティヌスが『アディマントゥス駁論』第5章で、エウケリウスが『創世記について』第1巻で、ダマスコの聖ヨハネが『正統信仰について』第2巻第12章で、聖ベルナルドゥスが『受胎告知についての説教』第1で教えている。聖ベルナルドゥスはさらにこう加えている。「像はまことに地獄で焼かれうるが、焼き尽くされはしない。燃えうるが、滅びはしない。肖りはそうではない。肖りは善において留まるか、あるいは霊魂が罪を犯せば、愚かな獣に似せられて惨めに変えられるのである。」かくして罪によって人間における神の肖りは失われるが、像は失われない。

しかし私は両者は区別されず、二詞一義法(ヘンディアディス)であると言う。すなわち「像と肖りとに」とは「肖りの像に」ということであり、『知恵の書』第2章第24節に見られるように、「似た像に」あるいは「最も似た像に」という意味である。ゆえに聖書はこれらの語を互換的に用いている――あるときは一方を、あるときは他方を、あるときは両方を。

人間は神の影である。第三に注目せよ。「像」に当たるヘブライ語はツェレム(tselem)であり、物の影あるいは影絵を意味する。語根ツァラル(tsalal)は「影を投ずる」を意味し、そこからツェル(tsel)は「影」を意味し、ツェレム(tselem)は「影なる像」を意味する。すなわち影が物体に属するように、像はその原型のある種の影絵である。ゆえにツェレムは、人間が神に対してただ影、あるいは影のような像にすぎないことを示唆している。なぜなら神は堅固で不変の本質を有するが、人間は影のようで消え去る本質を有するからである。これこそ詩篇第38篇で言われていることである。「まことにすべて生ける人はことごとく空しい。まことに人は像の中を(ヘブライ語ではベツェレム、すなわち影の中を、影のように)過ぎ行くのである。

第四に注目せよ。人間は神そのものとしての神の像ではない。すなわち神に固有の属性に関しては(なぜなら人間は全能でも遍在でも永遠でも全知でもないが、神はそうであるから)そうではなく、ただ共通の属性、すなわち神が知的被造物に分かち与える属性に関してのみ神の像なのである。

第五に注目せよ。この神の像はテオドレトスが主張するように男にのみあるのではなく、天使にも女にもある。聖アウグスティヌスが『三位一体論』第12巻第7章で詳しく教え、聖バシリウスもここで第10説教において、創世記第1章の「男と女とに彼らを造った」という言葉を解説しているとおりである。

神の像は人間の精神に位置する。第一に私はこう述べる。この神の像は人間の精神に位置する。すなわち人間が事物の最高の段階に立ち、そこに神と天使が位置するという事実、すなわち人間が知的本性を有し理性的動物であるという事実にある。なぜなら理性・精神・知性によって、人間は他のすべての被造物にまさって最も神を映し、神に最も似ているからである。この理性的本性から六つの卓越した人間の賜物と特質が生じるのであり、教父たちはあるときはそのうちの一つに、あるときは別のものに、この神の像を置いている。ただし部分的にであり不完全にである。

人間が神の像である六つの卓越した賜物。第一は、人間の霊魂が非物質的にして不可分であり、神御自身がそうであるのと同様であること。聖アウグスティヌスはここに神の像を置く。第二は、霊魂が永遠にして不滅であること。オリゲネスはここに置く。第三は、知性・意志・記憶を備えていること。ダマスコの聖ヨハネはここに置く。第四は、自由意志を有すること。聖アンブロシウスはここに置く。第五は、知恵・徳・恩寵・至福・神の直視、およびあらゆる善を受容しうること。ゆえにニュッサのグレゴリオスはこの受容能力に神の像を置く。第六は、すべての動物の上にその権能によって君臨し支配すること。聖バシリウスはここに置く。

第七に加えよう。神においてすべてのものが卓越的に存在し含まれているように、人間においてもすべてのものが卓越的に存在するのであり、この節の冒頭で述べたとおりである。さらに、人間は知解することによっていわばすべてのものとなる、とアリストテレスが言う。なぜなら人間はすべての事物の像と似姿を想像力と精神のうちに形成するからである。

人間の他の四つの特質と卓越性。第八に、ゆえに人間は神と同じくいわば全能である。なぜなら人間は技術によって多くのものを、精神によってすべてのものを形成し把握しうるからである。さらに、人間は神がすべての被造物の目的であるのと同じく、すべての被造物の目的である。第九に、霊魂が肉体を支配し、全体の中に全体として在り、その各部分の中に全体として在るように、神もまた全世界の中に全体として在り、世界の各部分の中に全体として在る。第十に、最も完全な仕方で、父なる神が知性によって御自身を認識して御言葉すなわち御子を産出し、御子を愛して聖霊を発出させるように、人間もまた自己を知解することによって自らの精神のうちに知解の言葉を産出する。その言葉は自己を表現し自己に似たものであり、そこから意志において愛が発出する。かくして人間は至聖三位一体を明瞭に表現するのである。聖アウグスティヌス『三位一体論』第10巻第10章および第14巻第11章がそのように教えている。

神の自然的な像は罪によって失われえない。この人間における神の像はゆえに自然的なものであり、罪によって失われることができなかった。なぜならそれは本性そのものに親密にかつ消しがたく刻印されており、本性そのものが失われない限り失われえないからである。聖アウグスティヌスがオリゲネスに反対して『修正論』第2巻第24章で教えるとおりである。ゆえに、ルター派のマッティアス・フラキウス・イリュリクスの見解は不敬虔かつ愚かである。彼は、人間における神の像は罪によってかくも損なわれ、人間は実体的に悪魔の生きた実体的な像へと変容されたと主張する。彼によれば、これこそが原罪そのものだというのである。

人間における神の超自然的な像について。第二に私はこう述べる。人間にはもう一つの神の像、すなわち超自然的な像もある。それは恩寵と人間の義化に位置し、それによって人間は神的本性に与る者となり、栄光と永遠のいのちにおいて確認され完成されるものである。「恩寵は霊魂の霊魂である」と聖アウグスティヌスは述べている。この像は人間の意志に依存し、罪を犯すときには失われるが、恩寵と義化によって修復され改められる。ゆえに使徒はエフェソ書第4章第23節でこう述べている。「あなたがたの心の霊において新たにされ、真理の義と聖において神に従って造られた新しい人を着なさい。

アダムの原初の義。ここに注目せよ。アダムには、その創造の最初の瞬間において、恩寵とともに、すべての対神徳と倫理徳が同時に注入された。同様に、原初の義が与えられた。それは先述の諸徳の習性に加えて、神の不断の助けと支えであった。それによって、理性に先立つ欲望すなわち肉欲のすべての無秩序な動きが阻止され、欲望は理性に、理性はすべてにおいて神に服した。かくして人間はすべてにおいて内的な平和・正しさ・聖性を享受した。そしてアダムは罪を犯さなかったならば、この義と完全性を子孫に伝えたであろう。原初の義については、モリーナ、ペレリウス、アレティヌス、その他の著者を参照せよ。

第三に私はこう述べる。人間の肉体には固有の意味での神の像はないが、それでもそこにはある仕方で神の像が輝き映し出されている。なぜなら人間の肉体は精神の像だからである。すなわち直立の姿勢と天に向けて仰ぎ上げられた顔は、肉体を支配する霊魂が天上の起源から生まれ、神に似て、永遠性と神性を受容しうるものであり、上なるものを仰ぎ見て求めるべきであることを示している。「ガラスがこれほどの価値があるなら、真珠はいかばかりであろうか。」肉体がこのようであるなら、霊魂はいかなるものでなければならないか。聖アウグスティヌス(『創世記逐語的注解』第6巻第12章)および聖ベルナルドゥス(『雅歌についての説教』第24)がそのように述べている。ゆえに直立の姿勢によって、人間は地上のものを追い求めるべきでないと訓戒される。家畜のように。家畜のすべての快楽は地からのものであり、ゆえにすべての家畜は腹に向かってうつぶせに伏している。ゆえに詩人はこう述べている。

他の動物は皆うつむいて大地を見るが、
神は人間に高く仰ぐ顔を与え、天を
見つめよと命じ、星々へと目を上げさせた。

天のために我々は生まれ、天のために我々は造られた。これが我々の目的であり、これが我々の目標である。もしこれから逸れるならば、我々はいたずらに人間であり、いたずらに天と太陽を仰ぎ見たのであって、獣か石であった方がよかったであろう。しかしもしこれを達し遂げるなら――三度また四度幸いである。ゆえにこれを我々にとって、聖ベルナルドゥスにとってと同様に、清く聖なる生活への絶え間なき鞭策とせよ。ベルナルドゥスよ、なぜあなたはここにいるのか。なぜ天を仰ぎ見るのか。なぜ理性的で不滅の霊魂を受けたのか。

他の被造物には神のある種の痕跡がある。第四に私はこう述べる。他の被造物には像はないが、いわば神のある種の痕跡がある。結果がその原因を表すように、神を表している。なぜなら、その本性・作用・配置・規定、およびすべてのものの間の驚くべき結合と秩序を考察する者には、それらが神の理性と知恵によって造られ保たれていることが明らかだからである。

道徳的教訓:人間が神の像を帯びる理由が示される。道徳的に言えば、神はすべてのものが人間のものであり、しかし人間は神のものであること、いわば特別の所有物であることを望まれた。ゆえに神は人間に御自身の像という印章を、しかもきわめて強固で消えることのない印章を押されたのであり、人間が自分自身を見つめるとき、いわば像の中に自らの創造主である神を認識するためである。すなわち人間は神の像を帯びている。第一に、父の子として。子は父に愛と敬虔を負っている。第二に、主人の僕として。僕は主人を恐れ敬わねばならない。第三に、指揮官また将軍の兵士として。兵士は忠誠と服従を果たさねばならない。第四にまた最後に、主人また所有者の財産の管理者また執事として。執事は委ねられた被造物の正しい使用を、主なる神への永遠の讃美と栄光のために果たさねばならない。最後に、王の像を侵害することが不敬罪であるならば、自らに植えられた神の像を罪によって汚し穢すことは、いかなる種類の罪となるであろうか。

「彼に治めさせよ」――人間の支配権。彼に治めさせよ。ヘブライ語ではヴェイルドゥ(veiirdu)、すなわち「彼らに治めさせよ」あるいは「支配させよ」であり、アダムもエバもその子孫も含まれる。ゆえに人間は支配するために生まれた動物である。

聖バシリウスの『六日間の創造についての説教』第10を聞け。「おお人よ、あなたは支配するために生まれた動物である。なぜこの惨めな情欲の隷属に身を委ねるのか。なぜ卑しい奴隷として自らを罪に引き渡すのか。なぜ自ら進んで自分を悪魔の召使いまた囚人とするのか。神はあなたに被造物の間で首位を占めるよう命じられた。見よ、あなたはかくも偉大な主権の尊厳を振り捨て拒んでいるのである。

無垢の状態において人間は被造物に対していかなる支配権を有していたか。第一に注目せよ。無垢の状態において、人間はすべての動物に対して完全な支配権を有しており、それは一つには自然的知識と思慮によるものであった――それによって人間はそれぞれをいかに馴らし飼い慣らし扱うべきかを知っていた――もう一つには神の特別な摂理によるものであった。なぜなら、人間の肉が霊に従い、霊が神に従う限り、動物もまた人間に主として従うことがふさわしかったからである。さらに、この支配権は人間の大いなる尊厳のしるしである。聖アンブロシウスの『六日間の創造について』第6巻の冒頭を聞け。「自然は象より高く強いものは何もなく、獅子より恐ろしいものも、虎より猛々しいものもないかに見えた。しかしこれらは人間に仕え、人間の教育によってその本性を脱ぎ捨てる。自分が何として生まれたかを忘れ、命じられた通りのものとなる。要するに、子供のように教えられ、僕のように仕え、弱い者のように助けられ、臆病な者のように打たれ、臣下のように矯正される。自らの本能を失った以上、我々の流儀へと移り行くのである。

注意せよ。無垢の状態において、動物の服従はいわば政治的なものであったであろう。すなわち動物は人間の命令を何らかの感覚によって知覚し、それに従う必要があったであろう。最後に、そのときには人間は人間をも支配したであろうが、奴隷的支配によってではなく、天使たちの間に存するような市民的支配によってである。聖アウグスティヌス『神の国』第19巻第14章がそのように教えている。

今や自然の支配権はどのように存在するか。第二に注目せよ。この支配権は罪の後も人間に残っており、それは創世記第9章第1節から明らかである。ゆえに自然法により、すべての人間に野獣の狩猟も魚の漁も許されている。しかし罪によってこの支配権は大いに減少した。とりわけ最も遠い動物、すなわち獅子のような最大のものや、蚊や蚤のような最小で最も卑しいものに対して。しかしながら、原初の無垢にできる限り近づいた最も聖なる人々は、この支配権を回復した。例えばノアは箱舟のすべての動物に対して、エリシャは熊に対して、ダニエルは獅子に対して、パウロは毒蛇に対して、聖フランシスコは魚と鳥に対して(彼はそれらに説教した)、支配権を得たのである。

寓意的には、人間が魚を支配するとは飽食と情欲を制するときであり、鳥を支配するとは野心を制するときであり、匍うものを支配するとは貪欲を制するときであり、野獣を支配するとは怒りを制するときである。オリゲネス、聖ヨハネ・クリソストモス、エウケリウスがそのように述べている。


第27節:男と女に創造された

神の像に従って彼を創造された。「神の」とは、すなわちキリストの像に従ってということである。キリストは神であり、人間はとりわけキリストの像に従って創造された。すなわちローマ書第8章に言われている通りである。「あらかじめ知っておられた者たちを、御子の像に同じ姿にされると予め定められた。」しかしキリストの像は超自然的な恩寵と栄光に属する。ここでは主として自然の像について論じられている。ゆえにこれはヘブライ人にしばしば見られる人称の転換(エナラゲー)である。すなわち神は御自身について、他の誰かについてのように三人称で語っておられるのである。

27節。男と女とに彼らを創造された。これにより、フランスのある革新者は最近、アダムは両性具有者として創造され、女でもあり男でもあったと不適切に主張した。同様にプラトンも『饗宴』において、最初の人間たちは両性具有者であったと考えた。しかしこれは愚かに述べられている。なぜなら聖書は「彼を創造した」とは言わず「彼らを」と言っている。すなわちアダムとエバを――つまりアダムを男として、エバを女として創造されたのである。ゆえにこれは先取りとして述べられていることが明らかである。なぜならモーセはまだエバの創造を叙述していなかったからである。エバも同じ第六日に造られたが、モーセはこれを第2章第22節に留保している。同様に愚かなのは、一部のユダヤ人やフランチェスクス・ゲオルギウス(第1巻問題29)が伝えるところ、すなわちアダムとエバは神によって脇腹で互いにくっつき合い、いわば一つのものであるように創造されたが、後に神が彼らを互いに分離されたというものである。なぜならこれは第2章第18節と矛盾するのであり、そこで私が示すとおりである。


第28節:産めよ、殖えよ

28節。産めよ、殖えよ。これらの言葉から、アダムとエバが成熟した年齢と身丈で、生殖に適した状態、すなわち青年期あるいは壮年期に創造されたことは明らかである。異端者たちは、ここで神がすべての個人に生殖と結婚の行使を命じていると主張する。しかしもしそうであるなら、彼らは主キリストを(他の最も聖なる人々については言うまでもなく)この法律の最初の違反者として告発しなければならないことになる。そして実際、もしここに何らかの掟があるとすれば、それは個人にではなく全人類共同体に、すなわちすべての人間に共通して与えられたものであり、人類という種を絶やさないためである。聖トマスがそのように述べている。しかし私は、ここには掟は全くないと言う。なぜなら神は第22節で魚にも同じことを仰せになったのであり、魚にはもちろん律法を課されなかったからである。ゆえにここで神はただ人間を祝福されたのであり、それは御言葉そのものから明らかである。すなわち人間の間の結婚の行使を認可し、他の動物と同様に男女の結合によって自分と同じものを生み、かくして自らとその種を保存し増殖させるための力と多産性を授けられたのである。聖ヨハネ・クリソストモス、ルペルトゥス、聖アウグスティヌス(『神の国』第21巻第22章)、ペレリウス、オレアステル、ヴァタブルス、その他がそのように述べている。

アダムの名は世界の四方を含んでいる。地を満たせ。この象徴として、聖アウグスティヌスは『ヨハネ福音書講話』第9で、世界の四方がギリシア語のアダムの名のうちにその頭文字によって含まれていると述べている。すなわちアダム(ADAM)とは、頭文字を展開すれば、アナトレー(日の出、東)、デュシス(日の入り、西)、アルクトス(北)、メセンブリア(南)であり、アダムから世界の四方に住み満たす人間が生まれることを意味している。

これを従わせよ――すべての野獣を追い払いあるいは馴らして、地に住み耕し、その美しさと実りによって自らを養い楽しめ。

「支配せよ」。ヘブライ語レドゥ(redu)は多義的である。なぜなら、もしラーダー(rada)から導くならば「支配せよ」を意味するが、もしヤーラド(yarad)から導くならば「降れ」を意味し、すなわち「もし我が掟に従うならば、すべての動物を支配するであろう。しかし従わないならば、支配権から転落するであろう」ということになる。詩篇第48篇第15節で嘆かれているとおりである。デルリオがそのように述べている。しかしこの意味は堅実というよりも巧妙にすぎる。なぜならここではただ人間の祝福と支配権のみが論じられていることは明らかだからである。ゆえにここでのレドゥは「支配せよ」と同じ意味である。


第29節:見よ、すべての草をあなたがたに与えた

29節。見よ、すべての草を食物としてあなたがたに与えた。「与えた」とは「与える」の意味である。なぜならヘブライ人は、自らが欠いている現在形の代わりに過去形を用いるからである。ゆえに教父と博士たちのより一般的な見解は、洪水までの人間はその食事においてきわめて質素であり、草と果実を食したが、肉をまた同様にぶどう酒を控えたということである。しかもそれは神の掟によるのではなく、神が肉とぶどう酒の使用を明示的にかつ明確に許可されていなかったという事実から生まれた一種の敬虔な心遣いによるのである。それは創世記第9章第3節および第21節から明らかである。見よ、この太祖たちの質素な簡素さは彼らの寿命を縮めるどころか延ばしたのであり、彼らは当時900歳まで生きた。ボエティウスはこの古代の質素さについて(『哲学の慰め』第2巻韻文5)美しくこう歌っている。

いにしえの時代はまことに幸いであった。
信頼すべき畑に満足し、
怠惰な奢侈に身を持ち崩すことなく、
遅い断食を手に入れやすい
団栗で破るのが常であった。

またオウィディウスは『変身物語』第1巻で古代の太祖たちについてこう歌っている。

人々は野いちごを摘み、
山茱萸の実と、茨のとげだらけの藪に絡まった桑の実を摘み、
ユピテルの広い樫の木から落ちた団栗を拾った。

この問題について、私は第9章第3節および第2節でさらに詳しく述べるであろう。


第31節:神は造られたすべてのものを見て……はなはだ良しとされた

なぜ人間について「神は良しと見た」と言われないのか。問うであろう。なぜ創造の個々の業の後には「神はそれを見て良しとされた」と言われるのに、人間の創造の後にはそれが省かれているのか。答える。第一の理由は、人間において事物の創造が完了するからであり、その創造が終わり完成したとき、モーセはすべてを包括する一言でこう述べている。「神は造られたすべてのものを見て、それははなはだ良かった。」この包括的表現は人間にとりわけ当てはまる。それはモーセが人間の創造を他のものよりも詳しく直前に叙述していたからであり、また人間がすべての被造物の目的・総括・結び目・中心であるからである。なぜならすべてのものは人間のために創造され、人間はすべての被造物の主・分有者・絆・結び目だからである。ゆえにモーセは、同じことを直ちに二度繰り返すことを避け、前者を省いて後者の中にそれを含意させた。すべてのものが人間において、また人間のために、創造されたように、人間の善き創造者によって善きものであることを意味するためである。ペレリウスがそのように述べている。

彼はまた、他の業には省かれている「はなはだ」という語がここに加えられている理由も述べている。すなわち人間の善は他のものの善に優るからであり、とりわけ人間を通じて、すなわちイエス・キリストを通じて、すべての被造物が神化されるべきだったからである。なぜならキリストの人性が神化されたとき、その中に含まれるすべての被造物もまた驚くべき仕方で神化されたからである。

聖アウグスティヌスは『創世記逐語的注解』第3巻第24章で他の二つの理由を挙げている。第二の理由。彼はこう言う。人間はまだ完全ではなかった。なぜならまだ楽園に置かれていなかったからである。あるいは、楽園に置かれた後もなお、同じ表現が等しく省かれたからである。彼は第三の理由を加える。神は人間が罪を犯し、御自身の像の完全さに留まらないことを予見しておられたからである。すなわち、御自身の罪によって悪しき者となることを予見しておられた者を、本性において善しと呼ぶことを欲されなかったかのようである。

聖アンブロシウスは『楽園について』第10章で第四の理由を述べている。神はエバの形成前にアダムだけについて「それは良かった」と言うことを欲されなかったのであり、御自身に矛盾するように見えることを避けるためであった。なぜなら第2章第18節で神は仰せになる。「人がひとりでいるのは良くない。彼のために彼に似た助け手を造ろう。」ゆえに人類の善、すなわち多産と繁殖がエバに依存していたから、神はエバの形成前にアダムだけについて「それは良かった」と仰せになることを欲されなかった。「なぜなら神は」と聖アンブロシウスは言う、「罪のない一人のアダムだけよりも、救うことができ罪を赦すことができる多くの者がいることを望まれたからである。

第五の理由は道徳的なものであり、すなわち人間が自由意志を有し、他の被造物はそれを欠くことを意味するためである。ゆえに他の被造物は存在の善、すなわち自然的善のみを有する。しかし人間は自由であるがゆえに、より大いなる徳の善、すなわち道徳的善を有する。ゆえに、主要なものである人間の道徳的善が自由意志の行使に依存することを示すために、神は人間について前もって善しと仰せになることを欲されなかったのである。この理由は聖アウグスティヌス、聖アンブロシウス、その他によって提示されている。

31節。神は造られたすべてのものを見て、それははなはだ良かった。聖アウグスティヌスは『マニ教徒駁論としての創世記注解』第1巻第21章でこう述べている。「個々のものについて論じるとき、神はただ『神はそれを見て良しとされた』と仰せになるのみであった。しかしすべてのものについてまとめて言われるとき、『良し』と言うだけでは足りず、『はなはだ』が加えられねばならなかった。なぜなら、もし神の個々の業が知恵ある者によって考察されるとき、それぞれの種類に定められた称賛に値する度量と数と秩序を有することが見出されるならば、まして一つに集められたすべてのもの、すなわち宇宙そのものにおいてはなおさらである。なぜなら部分から成り立つすべての美は、部分においてよりも全体において遥かに称賛に値するからである。」そしてすぐ後に、「善きものは、何らかの全体へと集まり合流するとき、とりわけ大いに喜ばれるほどに、完全性と一体性の力と権能は偉大である。そして宇宙(universum)という名は一体性(unitas)からその名を受けている。

世界の美の九つの理由。

注目せよ。世界と被造物の美は驚嘆すべきものである。

第一に、事物の多様性から。事物の多様性のゆえに。すなわちあるものは天使のように非物質的であり、天使たちはさまざまな種・品階・聖歌隊に分けられ、きわめて多く、ほとんど無数である。あるものは物質的である。さらにこの後者のうち、あるものは天と星のように不朽であり、あるものは朽ちるべきものであって、これは二重であり、すなわち無生物と有生物である。有生物のうち、あるものは植物、あるものは動物、さらにあるものは人間のように一部は物質的であり一部は非物質的である。そして人間の間には、姿と容貌、歩き方、声、才能、言語、学問、技術、風俗、法律、制度、宗教において、いかに大きな多様性があることか。

第二に、事物の秩序から。すべての事物の秩序とその最もふさわしい配置のゆえに。すなわちより高貴なものは世界の最高の位置を占め、より卑しいものは最低の位置を占め、中間のものは中間を占め、後者は上位のものによって動かされ、保たれ、統治される。

第三に、事物の普遍性から。事物の充満と普遍性のゆえに。すなわち世界にはすべてのものが三重の仕方で存在する。第一に、事物の一般的段階に従って。それは四つあり、存在すること、生きること、感覚すること、知解することである。第二に、これらの各段階のすべての類とその下位の種に従って。第三に、どこにも存在せず、神によって造られていないものは世界に含まれずそれに属さないものは何もないということ。

第四に、事物の連結から。すべての部分相互の間の緊密かつ驚嘆すべき連結のゆえに。量において、どこにも空虚や空所がないだけでなく、自然の種の系列と組織においても、すなわちいかなる断絶もなく、どの部分も隣接する部分にあらゆる方面から最もふさわしく最も友好的に結び付けられ結合されていること。

第五に、事物の反感と共感から。事物相互の間の不一致の中の一致のゆえに、またそれらの共感と反感のゆえに。かかる反感はぶどうの木とキャベツの間に、羊と狼の間に、猫と鼠の間に、その他無数のものの間に存在する。共感は磁石と鉄の間に、雄株と雌株の間に、さまざまな金属の間に、液体の間に、動物の間に存在する。

第六に、事物の均衡から。すべてのものの相互間における、また全世界との驚嘆すべき均衡のゆえに。なぜならこの均衡は人間の肉体の均衡と美に似ており、それはすべての肢体の調和的構成から生じるものであり、人間が小さな世界であるように、世界はある種の大きな人間であるからである。

第七に、世界の優れた統治から。神的にして最も優れた世界の統治のゆえに。第一に、神は個々のもの、最も卑しいものにさえも、それぞれの生命を維持しその目的を達するために必要あるいは好都合なものすべてを、最も知恵深くかつ最も寛大に備えられたからである。第二に、神は個々のもの、理性も感覚もないものをさえも、その目的に向かわせ、神の導きのもとでそれらは、あたかも自らの行為と目的を認識し意図しているかのように、その目的に到達するからである。鳥が巣を作るとき、太陽や天や風の運動において、それは明らかに見られる。第三に、神はすべてのものを均等にかくも調和させるので、互いの力を砕き合い互いを腐敗させつつも、それらは世界と自らに対して滅びではなく救いと飾りとなる。第四に、個々のものが公共の善を私的な善に優先させるからであり、例えば重い物体は真空を防ぐために上方へ上昇する。ゆえに聖アウグスティヌスは書簡28において、七十人訳に従うイザヤ書第40章の「数によって」あるいは数多く「世を導き出す方」という箇所を引用し、世界は作曲者なる神のきわめて甘美な音楽であり、対立する音と調べのようなさまざまで相反する事物から構成されて、驚嘆すべき和声と調和を生み出すと教えている。同じアウグスティヌスは『神の国』第11巻第18章で、この世界において神がかくも多様なものを造られたのは、「諸時代の秩序を」彼は言う、「ある種の対句によっていわば最も美しい詩として飾るためである」と述べている。

第八に、すべてのものが人間に仕えるがゆえに。世界のすべてのものが人間の有用のために秩序づけられているがゆえに。すなわちあるものは人間の生活の必要と便宜に属し、あるものは人間のさまざまな喜びに属し、あるものは病の治療と健康の守りであり、多くのものは模範と倣いのために示され、すべてのものは事物の知識に、とりわけ神に対する認識・愛・宗教を抱くことに寄与する。

第九に、悪が善へと秩序づけられるがゆえに。神は世界のすべての悪を善へと秩序づけるがゆえに。すなわち神は罰の悪を罪過の悪を懲らしめるために秩序づける。罪過の悪は絶対的に悪であり罪である。しかし神の善と知恵と力はかくも偉大であるので、神はそれらを、赦すことによって慈悲と憐れみの善へと、あるいは現世および永遠の罰をもって罰することによって正義と報復の善へと秩序づける。ペレリウスがそのように述べている。

ゆえに聖ベルナルドゥスは『聖霊降臨についての説教』第3で適切にこう述べている。「この世界の大いなる業において我々は三つのことを考えねばならない。すなわちそれは何であるか、いかにあるか、何のために設けられたかである。そして事物の存在そのものにおいて、測り知れない力が称えられる。かくも多く、かくも大きく、かくも多様に、かくも壮大に創造されたのであるから。まことにそのあり方そのものにおいて、比類なき知恵が輝き出ている。あるものは上に、あるものは下に、あるものは中間に、最も秩序正しく置かれているのであるから。しかしもし何のために造られたかを瞑想するならば、かくも有益な慈愛、かくも慈愛深い有益さが現れ、最も恩知らずの者をさえもその恵みの多さと大きさで圧倒しうるのである。まことに最も力強く無から、最も知恵深く美しく、最も慈愛深く有益に、すべてのものは創造されたのである。」また聖アウグスティヌスは『箴言集』第141においてこう述べている。「創造の条件について最も知るべき三つのことが我々に告げられるべきであった。すなわち誰がそれを造ったか、何を通じて造ったか、なぜ造ったかである。神は言われた、『光あれ』。すると光があった。神はその光を見て良しとされた。神より優れた作者はなく、神の御言葉より効果的な技はなく、善き方によって善きものが創造されるというこれ以上の理由はない。」そして第440の箴言においてこう述べている。「神は、悪しき者となることを予見しておられた天使も人間も一人として創造されなかったであろう。もし同時に、善のいかなる用途にそれらを充てるかを知り、諸時代の秩序をある種の最も美しい対句によっていわば最も美しい詩として飾ることを知っておられなかったならば。」これが世界の詩であり、これが世界の書である。

ゆえに、ある人が聖アントニウスに、書物なしに砂漠でいかに生きられるのかと尋ねたとき、聖アントニウスはこう答えた。「おお哲学者よ、私の書物は神によって創造された事物の本性である。それは私が望むときはいつでも、神御自身の書物を読むために供してくれるのである。」ソクラテスが『教会史』第4巻第18章でそのように伝えている。

最後に、フィロンは『ノアの植樹について』の末尾近くで、神の業には正当な評価者また称賛者以外の何物も欠けていないと教えている。「知恵ある者たちによって後代に伝えられた物語がある。それはこのようなものである。かつて創造者が全世界を完成したとき、ある預言者にこう尋ねた。地にあれ水にあれ、空にあれ天にあれ、まだ造られていないもので何か望むものはあるか、と。彼はすべてのものがまことに完全であり充分に整っていると答えたが、ただ一つ、これらの業の称賛者を必要としていると述べた。その称賛者はすべての事物において、最も小さく最も不明瞭に見えるものにおいてさえも、称賛するというよりはむしろ語り述べるのである。なぜなら神の業をそのまま語り述べること自体が最も十分な称賛であり、何の付け加えも要しないからである。

最後に、聖バシリウスは『六日間の創造についての説教』第4においてこう述べている。「この世界の全体のこの塊は」と彼は言う、「文字で書かれた書物のようであり、神の栄光を公然と証しし宣言し、知的被造物であるあなたに、他の仕方では隠され見えない至高の威厳を豊かに告げ知らせている。天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げ知らせる」(詩篇第18篇第1節)。