コルネリウス・ア・ラピデ
目次
第十四章の概要
バビロニア人が戦争で五都市の民を打ち破る。彼らの中でロトもまた捕らえられるが、アブラムが第14節においてバビロニア人を討ち殺して彼を解放する。それゆえ、勝利を喜ぶアブラムは第18節においてメルキゼデクに十分の一を捧げ、彼から祝福を受けるのである。
ウルガタ本文:創世記14章1–24節
1. さてそのころ、シヌアルの王アムラフェル、ポントスの王アリオク、エラム人の王ケドルラオメル、および諸国民の王ティダルが、2. ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェメベル、およびベラすなわちセゴルの王に対して戦いを起こした。3. これらすべての者が森の谷に集結したが、そこは今の塩の海である。4. 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目に彼に背いて反逆した。5. それゆえ十四年目に、ケドルラオメルおよび彼と共にいた王たちが来て、アシュタロト・カルナイムでレファイム人を、彼らと共にいたズジム人を、シャベ・キリアタイムでエミム人を討ち、6. セイルの山々でホリ人を、荒れ野にあるパランの平原まで討った。7. 彼らは引き返してミシュパトの泉すなわちカデシュに至り、アマレク人の全領土と、ハツァツォン・タマルに住むアモリ人を討った。8. そこでソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェボイムの王、またベラすなわちセゴルの王が出陣し、森の谷で彼らに対して陣を布いた。9. すなわちエラム人の王ケドルラオメル、諸国民の王ティダル、シヌアルの王アムラフェル、ポントスの王アリオクに対して――四人の王が五人の王と対峙したのである。10. さて森の谷には瀝青の穴が多くあった。ソドムの王とゴモラの王は背を向けて逃げ、そこに落ちた。残った者たちは山に逃れた。11. 彼らはソドムとゴモラの全財産および食糧に関わるすべてのものを奪って去った。12. またアブラムの兄弟の子でソドムに住んでいたロトとその財産をも奪い去った。13. すると見よ、逃れた者の一人がヘブライ人アブラムに報告した。アブラムはアモリ人マムレの谷に住んでいた。マムレはエシュコルの兄弟であり、またアネルの兄弟であった。彼らはアブラムと同盟を結んでいたのである。14. アブラムはこれを聞き、すなわち親族のロトが捕らえられたことを知ると、家に生まれた精鋭の僕三百十八人を招集し、ダンまで追撃した。15. そして部隊を分け、夜に彼らを襲い、これを討ち、ダマスコの左手にあるホバまで追撃した。16. そしてすべての財産を取り戻し、親族のロトとその財産、また女たちと民をも取り戻した。17. ソドムの王は、アブラムがケドルラオメルおよび彼と共にいた王たちを討ち殺して帰還した後、シャベの谷すなわち王の谷に出て彼を迎えた。18. しかしサレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ち出した――彼はいと高き神の祭司であった。19. 彼はアブラムを祝福して言った。「天と地を創造されたいと高き神によりて、アブラムに祝福あれ。20. また汝の敵を汝の手に渡されたいと高き神に、讃美あれ。」アブラムはすべてのものの十分の一を彼に捧げた。21. ソドムの王はアブラムに言った。「われに人々を与えよ。残りのものは汝が取るがよい。」22. アブラムは答えた。「天と地の主なるいと高き主なる神に向かって、わが手を挙げて誓う。23. 糸一本から靴紐一つに至るまで、汝のものは何も受け取らぬ。汝が『わたしがアブラムを富ませた』と言うことのないためである。24. ただし若者たちが食べた分と、わたしと共に来た者たち、すなわちアネル、エシュコル、マムレの取り分は別である。彼らにはその取り分を受け取らせよ。」
第1節:シヌアルの王アムラフェル
「シヌアルの王アムラフェル」――第11章第2節で述べたように、バビロンの王である。それゆえ、このアムラフェルはバビロン最初の王にして暴君であったニムロドから数えて三番目あるいは四番目の王であったと思われる。さらに、このアムラフェルがこの戦争の第一の、かつ主要な指揮者であった。
問うであろう。では、なぜヨセフスはこれをアッシリア人の戦争・軍隊と呼んでいるのか。答える。彼がアッシリア人と言っているのはバビロニア人のことである。というのも、その頃にはアッシリアとバビロンの王権は一つにして同じものであったからである。すなわち、これらの王はすべて、アッシリアの王、すなわち帝王ニヌスの臣下であった。
それゆえ、ニヌスがバビロンからニネベに王権を移した際に、バビロンには別の王あるいは副王を置いたと思われ、このアムラフェルはその後継者であったのである。
注意せよ。この戦争は、アブラハムがハランからカナンに出発してからおよそ五年後に起こったと思われる。その出発はアブラハムの七十五歳の年であった(創世記12章4節)。第12章からここまでのアブラハムの事跡は容易に五年を要し、同様にこの章から第16章まで、すなわちイシュマエルの誕生まで語られる事柄も五年を要するからである。イシュマエルの誕生はアブラハムの召命から十年目に起こったことが第16章第3節から明らかである。
それゆえ、この戦争はアブラハムのおよそ八十歳の年に起こった。これはニヌス小王の三十年目に当たる。アブラムは大ニヌスの治世四十三年目に生まれ、大ニヌスは通算五十二年間統治した。したがって大ニヌスが死んだとき、アブラムは九歳であった。ニヌスの後にはその妻セミラミスが立ち、四十二年間統治した。次いでその子ニヌス小王が後を継ぎ、三十八年間統治した。それゆえアブラハムの八十年目はニヌス小王の二十九年目あるいは三十年目に当たるのである。
「ポントスの王アリオク」――ヘブライ人、カルデア語訳、および七十人訳は「エラサルの王」としている。おそらくこれはステファヌスがエラスと呼ぶコエレシリアの都市であり、別名ポントスとも呼ばれ、我々の翻訳者がここでそのように訳しているのであろう。これに対しトスタトゥスとペレリウスはここでのポントスをヘレスポントスと解し、このアリオクはヘレスポントスの王であり、そこからここに名の挙がっている他の王たちの援助に来たとする。しかし、これらの学者たちはこのアリオクをあまりにも遠方から五都市連合に呼び寄せすぎている。
「エラムの王ケドルラオメル」――すなわちペルシア人の王であり、セムの子エラムの子孫であることからエラム人またはエリマイオイと呼ばれた。ディオドロスもそう述べている。このケドルラオメルがこの戦争の火種であったと思われる。かつて自ら隷属させ、今や反乱を起こしている五都市の民を再びその軛の下に服従させるために、他の王たちを彼らに対して奮い立たせたのである。
「諸国民の王ティダル」――上ガリラヤの王であった。その地域は「諸国民の」と呼ばれた。なぜなら、ストラボンが証言するように(第16巻)、その肥沃さと著名な港による交易の便により、近隣の諸民族、すなわちアラブ人やエジプト人がそこに住んでいたからである。それゆえ後にユダヤ人がその地域にガリラヤの名を与えた際、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのである。ヨシュア記第12章第9節に関するアンドレアス・マシウスもそのように述べている。
これに対しリラヌスとトスタトゥスは、ここでの「諸国民」を、さまざまな民族からの放浪者や逃亡者と解し、このティダルが自国に庇護を与えた者たちであるとしている。
第2節:セゴルすなわちベラ
「セゴルすなわちベラ」――以前ベラと呼ばれていたものが、後にセゴル、すなわち「小さい」と呼ばれるようになった。ロトが、それが小さいからという理由でその都市のために神から赦しを得、五都市連合の共通の大火で焼き尽くされることなくそこに避難できるようにした後のことであり、第19章第22節から明らかである。
象徴的に、聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻第7章で次のように述べている。「五人の王とは、われらの身体の五つの感覚、すなわち視覚・嗅覚・味覚・触覚・聴覚である。四人の王とは、肉体的かつ世俗的な誘惑である。人間の肉体もまた世界と同様に四元素から成っているからである。それらが王と呼ばれるのは正当である。罪はそれ自体の支配権と大いなる王国を有するからである。それゆえ、われらの感覚は容易に世俗の快楽に身を委ね、その快楽のある種の力によって捕らえられる。肉体の快楽とこの世の誘惑は、神に密着し地上のものからまったく自らを分かつ霊的な精神でなければ克服できない。あらゆる逸脱(これがヘブライ語でロトの意味するところである)はこれらのものに捕らえられるのである。」
第3節:森の谷と塩の海
「森の谷に集まった。そこは今の塩の海である」――森のように木々の植えられた美しい谷であり、ソドムの大火の後、アスファルトの湖に変わり、それゆえ塩の海と呼ばれるようになった。五都市は大火の後、神によってこの塩水で覆い尽くされ、いかなる動物もそこに生きることができなくなった。それゆえ、この海は死海とも呼ばれるのである。
第4節:彼らは反逆した
「彼らは反逆した」――ヘブライ語ではマーラドゥー、「彼らは背き、軛を振り払った」の意である。
第5節:レファイムとその他の民
「彼らはレファイム人を討った」――モーセはここで、ケドルラオメルとその同盟者たちが反逆した五都市の民に戦争を仕掛ける前に、まず近隣の四つの民族を荒らしたことを付随的に述べている。反乱者たちに援助を与えることができないようにするためである。すなわちズジム人、エミム人、ホリ人、およびレファイム人である。レファイム人は巨人ラファの子孫である巨人族であったと思われ、バシャンの地に住んでいた。そのためにその地は巨人の地と呼ばれた(申命記3章13節)。
ラビたちは「レファイム」がナオミの嫁オルパ(ルツ記第1章)に由来すると考えている。彼らによれば、ダビデが殺した巨人ゴリアトはオルパから生まれたという。プルデンティウスも『ハマルティゲニア』において同じ見解を持ち、オルパについて語りつつ、彼女はナオミを蔑み、「半獣のゴリアトの血統を育むことを」選んだと述べている。しかし、これは作り話である。なぜならオルパはアインの文字で書かれるが、ラファはアインなしで書かれ、アインは語根から決して脱落しないからである。
第二に、フォレリウスはイザヤ書26章14節に関して、「レファイム」はラファ、すなわち「癒す、治す」に由来すると考えている。巨人たちは健康で、頑強で、筋骨たくましい人間であったからである。
第三に、他の学者たちは「レファイム」をラファ、すなわち「溶かす」から導き出している。巨人たちはその巨大で恐ろしい姿だけで人々の力と筋をくじいたからである。
第四に、ピネダは『ヨブ記』26章5節に関して、またサンチェスはイザヤ書26章14節に関して、「レファイム」はゴリアトの父ラファに由来すると考えている。ラファは四人の巨人の子を儲けた(サムエル記下21章)。そして彼からすべての巨人が「レファイム」と呼ばれるようになった。同様に、アナキムは最初の祖先アナクにちなんで巨人と呼ばれた。しかし反論がある。モーセはヘブライ語で書きながら彼らを「レファイム」と呼んでいる。したがってダビデとゴリアトよりもはるか以前に、モーセとヨシュアの時代から巨人たちは「レファイム」と呼ばれていた。ヨシュア記では「レファイム」がしばしば言及されているからである。それゆえレファイム人は、モーセよりも古い祖先ラファにちなんで名づけられ、その子孫であったと思われる。
これに対し、モーセは彼らを「レファイム」ではなく「ネフィリム」あるいは「アナキム」と呼び、五書の編纂者が当時用いられていた名称「レファイム」で呼んだのだと答えることもできよう。ちょうど創世記14章14節において、モーセの時代にはレシェムと呼ばれていた都市が、ダン族に占領されてからダンと呼ばれるようになったのと同様である。しかし再び反論がある。五書の編纂者はヨシュアまたはその同時代の者であり、ダビデとゴリアトの時代よりもはるか前の人物である。さらにアナキムはモーセの時代に存在していたことが申命記1章28節から明らかである。そして彼らがモーセに先立つ祖先アナクにちなんでそのように呼ばれていたことは確実である。したがって「レファイム」についても同じことを言わなければならない。
「アシュタロト・カルナイムにおいて」――ヘブライ語ではアシュタロト・カルナイム、すなわち「二本の角のアシュタロト」あるいは「二本角の」という意味である。これはバシャンの王オグの王都であり(ヨシュア記12章)、ヨルダン川の向こう側にある都市で、そこで崇拝されていた二本角のアスタルテの偶像にちなんでそのように名づけられた。アスタルテはシドン人の女神――あるいは神――であると聖書も証言している(列王記上11章5節)。アスタルテは月と同一であり、月が満ちるときあるいは欠けるときに二本の角を有する。ペレリウスもそのように述べている。
第6節:ホリ人
「ホリ人を」――ホリ人という語はトログロデュタイ、すなわち洞窟や穴倉の中の地下に住む者たちを意味する。しかしここではセイルの山、すなわちイドマヤに住む民族の固有名詞であり、後にエサウが彼らを追い出した。
第7節:ミシュパトの泉とカデシュ
「ミシュパトの泉、すなわちカデシュ。」すなわち「裁きの泉」である。このように呼ばれたのは、そこで神が五都市の住民を裁き罰されたからか、あるいは、そこで神がモーセとアロンを裁かれた(民数記27章14節)からである。すなわちモーセはそこでアロンと共に岩を打ち、水が湧き出たのである。カデシュはエドムの境界、ツィンの荒れ野にある。
「アマレク人の全地域。」汝はこう反論するであろう。アマレクはまだ生まれていなかった。彼はエサウの孫であるからである(創世記36章12節)。答える。モーセは予示的にこの地域を「アマレク人の」地と呼んでいるのであり、それは後にアマレク人によって所有されたからである——ちょうどここでカデシュが、当時はまだそう呼ばれていなかったにもかかわらず、予示的にその名で呼ばれているのと同様である。
「ハツァツォン・タマル。」これはエン・ゲディであり、歴代誌下20章2節から明らかである。ハツァツォンすなわち「切断」と、タマルすなわち「なつめやし」に由来する。そこにはなつめやしの林があり、アモリ人がその剪定と手入れに従事していたからである。
アドリケミウスは、聖ヒエロニムス、エウケリウス、およびカルデア訳に従い、これを「なつめやしの町」と述べている。これはアモリ人の町であり、後にエン・ゲディと呼ばれた。
残りの固有名詞は地名である。ここに神の御業のなさり方を見よ。神は悪人を通じて悪人を罰されるのが常である。悪人とは神の笞であり鞭なのである。このようにして神はユダヤ人をカルデア人を通じて、カルデア人をペルシア人を通じて、ペルシア人をギリシア人を通じて、ギリシア人をローマ人を通じて、ローマ人をゴート人を通じて罰されたのである。
アシュタロトあるいはアスタルテは、シリア人とパレスチナ人の女神であり、ギリシア人とラテン人はこれをディアナおよびユノと呼んだ。したがって聖アウグスティヌスはここで問題16において、ヘブライ語から派生したポエニ語ではユノはアスタルテと呼ばれると主張している。さてこのディアナは月であり、アシュタロト・カルナイム、すなわち「二つの角を持つもの」と呼ばれる。それゆえこの町はアシュタロトカルナイムと呼ばれたのであり、その中で崇拝されていたディアナの偶像に因んでいる。なぜなら、ディアナは月と同一であるがゆえに、額に二つの角を持つ三日月をつけて描かれ造形されるのが常であったことは、古代の彫像と貨幣が示すとおりである。デルリオはそう述べている。
ラビ・ネヘマンヌスは異なる見解を取っている。彼の考えでは、このアスタルテがカルナイム、すなわち「二つの角を持つ」と呼ばれるのは、この町がアスタルテの偶像と共に二つの角を持つ、すなわち双峰の山に位置していたからである。
第二に、より確実には、ペレリウスはミシュパトとメリバは同一であると考えている。ミシュパトの泉はメリバの水、すなわち「反逆」の水と同一だからである(民数記20章13節)。それゆえこの泉はミシュパト、すなわち「裁き」と呼ばれ、またメリバ、すなわち「争い、口論、不平、反逆」と呼ばれる。ユダヤ人がそこで水の不足のゆえに主に向かって不平を言い、いわば訴訟と裁判において主と争ったからである。しかし神がこの争いを奇跡によって勝ち取り解決し、奇跡的に岩から水を出して彼らの間で聖とされたがゆえに、この泉と場所はその後カデシュ、すなわち「聖なる」と呼ばれたのである。民数記20章13節から明らかなとおりである。この泉はアラビアのペトラの対面に位置している。アドリケミウスを参照せよ。
第10節:瀝青の穴
森の谷には瀝青の穴が多くあった。モーセがこれを付加するのは、ソドムの王とその部下が、外国人としてこれらの場所に疎いバビロニアの敵が戦いの最中にこれらの穴に落ちるようにとの計略と策略をもって、この場所を戦場に選んだことを示すためである。しかし神の裁きにより、逆のことが起こった。すなわちソドムの人々自身が敗れ恐慌に打たれて、自らの穴に落ちたのである。
「そこで彼らは倒れた。」ソドムとゴモラの王自身が倒れたのではない(これらの王たちは逃走して逃れたのであり、17節から明らかである)。その兵士たちが、一部は剣に倒れ、一部は恐慌と逃走のあまり瀝青の穴に転落したのである。アブレンシスはそう述べている。
神はここで五都市の住民が敗北することをお許しになった。それは、この打撃と懲罰によって彼らを正気に立ち返らせ、生活の改善へと導くためであった。しかし甲斐なきことであった。それゆえ間もなく神は天からの火をもって彼らを滅ぼされたのである。
第12節:ロトの捕囚
「ロトもまた。」神はロトがソドムで捕らえられることをお許しになった。それは、その地の肥沃さに誘われて最も不敬虔なソドムの人々のもとに住むことを選んだロトの性急かつ感覚的な選択を懲らしめるためである。しかしロトの捕囚は不正であり、それゆえアブラムは正義の戦争によって彼を解放した。たとえケドルラオメルが反逆した五都市の住民に対して正義の戦争を起こしたとしても、外国人であり寄留者であるロトに手を触れることはできなかったはずである。さらに、ケドルラオメルは正当な権原によるよりも、むしろ野心と支配欲によって五都市の住民を征服したように思われる。したがってその戦争全体が不正であったと考えられ、それゆえアブラムは正当にも彼を追撃し打ち破ったのである。
第13節:ヘブライ人アブラム
「ヘブライ人アブラム。」ここに「ヘブライ人」という呼称が初めて見出される。汝は問うであろう。ヘブライ人はどこからそう呼ばれたのか。第一に答える。アブラムの高祖父であるエベルに由来する。したがってヘブライ人はエベルの子孫としてそう呼ばれた——すべての子孫ではなく、アブラム、イサク、ヤコブを通じて下った者たちのうち、バベルで言語が分かれた際に、祖先エベルから原初のヘブライ語を引き継ぎ、唯一の神のまことの信仰・宗教・敬虔と共にそれを保持した者たちだけである。これらの者が「エベルの子ら」すなわちヘブライ人と呼ばれるのである(10章21節)。聖ヒエロニムス、アカキウス、ヨセフス、エウセビウス、カイエタヌス、トスタトゥス、エウグビヌス、および聖アウグスティヌス(『再考録』第2巻14章、ここで彼は『福音書の一致について』第1巻14章で述べたこと、すなわちヘブライ人がアブラムから「アブライ」と呼ばれたかのようであるという説を撤回している)がそう述べている。これが真実でないことは、この箇所でアブラム自身がヘブライ人と呼ばれていることから明らかであり、またアブラムはアレフで書かれるが、ヘブラエウスはアインで書かれることからも明らかである。
第二に、「ヘブライ人」はアバルという語根、すなわち「渡った」に由来する。いわば「渡る者」「川向こうの住人」「ユーフラテス川を渡った者」という意味である。ちょうどわれわれが人を「海外の者」「アルプス越えの者」「マース川向こうの者」と呼ぶように、アブラムとヘブライ人はカルデアに起源を持ち、パレスチナに住むためにユーフラテス川を渡ったからである。したがってアブラムはここで、ユーフラテス川を渡りカナンに住んだ後に、初めてヘブライ人と呼ばれるのである。七十人訳およびアクィラもここで「ヘブライ人」をペラテース、すなわち「渡る者」と訳しており、聖アウグスティヌスはここで問題29において「川向こうの住人」と訳している。テオドレトス、聖ヨハネ・クリソストモス、オリゲネス、ディオドルス、ルペルトゥス、ブルゲンシス、およびヨナ書1章に関するリベラもそう述べている。
テオドレトスはさらに、「ヘブライ人」がユーフラテス川に由来する、すなわちそれを渡ったことに由来すると付け加えている。「ヘブラとは」と彼は言う、「シリア語でユーフラテスと同じ意味である。」したがって両方の語にほぼ同じ文字が含まれており、「ヘブライ人」は「ユーフラテス人」と同義なのである。おそらくメソポタミア人は頻繁な渡河のゆえに、自分たちのユーフラテス川をヘブラ、すなわち「渡り」と呼んだのであろう——ちょうどユダヤ人がヨルダン川の渡河地点をベト・アバラ、すなわち「渡りの家または場所」と呼んだように(ヨハネ1章28節)。
それゆえ、最初にエベルからヘブライ人と呼ばれた者たちは、その後同様にユーフラテス川の渡河からもヘブライ人と呼ばれたのである。すなわち「渡る者」「川向こうの住人」として。両方の語源がヘブライ人に当てはまるからである。
注意すべきことは、この戦いにおいてアブラムが初めてヘブライ人と呼ばれていることである。これはアブラム——ソドムの人でも、パレスチナ人でも、シリア人でもなく、ヘブライ人であるアブラム——がこの勝利によって、ヨシュアのもとで同様に勝利を収め栄光に輝き、同じカナンを征服して、神から約束されたその全土を戦争によって服従させることになるヘブライ人への序曲を奏でていることを示すためである。こうしてアブラムはここでいわばカナンの所有を開始し、勝利者として凱旋者として最初にその地に足を踏み入れるのである。
第14節:三百十八人の精鋭
「精鋭を点呼した。」ヘブライ語ではイアレク・ハニカヴ、すなわち「訓練された者たちを、すなわち教導された者たちを召集した」である。彼がすでに武器と鉄の扱いを教えていた者たちであり、それは異邦の地で不敬虔な者たちや不信仰の者たちの間に住みながら、正義の戦争によって彼らの不正から身を守ることができるようにするためであった。彼は戦争の権利を持っていたのであり、他の民から分離された自らの多くの家族の独立した君主として神によって立てられていたからである。
「家に生まれた僕たち」——すなわち彼自身の家で生まれた奴隷たちである。ヘブライ語原文がそう記している。
「ダンに至るまで。」この町はアブラハムとモーセの時代にはライシュまたはレシェムと呼ばれていた。そしてモーセはそのように書いた。しかしモーセのこれらの記録を編纂した者が、モーセの後にダンと呼ばれるようになった名を代わりに用いたのである(ヨシュア記19章47節)。別の者たちは、モーセが預言の霊によってそれをダンと呼んだと考えている。将来そう呼ばれることを予見したからであるが、前者の見解のほうがより正しい。
三百十八人。「汝が知るべきは」(聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第3章でこう述べている)「表されているのは数の量ではなく、選びの功徳であるということである。アブラムは忠実な者の数に加えるにふさわしいと判断した者たち、すなわちわれらの主イエス・キリストの受難を信じるであろう者たちを召集したのである。ギリシア語で300を表すTは十字架のしるしであり、10と8を表すIとHはギリシア語のイエスの名の頭文字と省略形である。もしIHTとこのように書けば、完全な名イエスにはただSの文字が欠けているだけだからである。」それゆえアブラムは多勢の軍隊によるよりも、信仰の功徳によって勝利したのである。聖アンブロシウス、エウケリウス、およびルペルトゥス(第5巻15章)がそう述べている。
ここで注意せよ。アブラハムのこの勝利はダンの近くで起こったのであり、14節から明らかなように、この地は後にフィリポ四分侯によって皇帝ティベリウスに敬意を表してカイサリア・フィリピと呼ばれた。そこでペトロはアブラハムの信仰のこの暗示的かつ象徴的な告白を明確に表現し、こう言ったのである。「あなたはキリスト、生ける神の子です」(マタイ16章)。
同様に聖アンブロシウスは、グラティアヌスに宛てた『信仰について』第1巻において、また教皇リベリウスは東方教会への書簡において、またルペルトゥスもここにおいて、信じる者たちの父であるアブラハムの318人の兵士によって、勝利のニカイアにおいて不信仰なアリウスを打ち破り断罪した318人の教父——信仰の闘士たち——が予型されていたと考えている。しかしこれらの解釈はすべて象徴的かつ寓意的に理解されるべきである。モーセはこれをヘブライ語で書いたのであり、ギリシア語で書いたのではないからである。しかし聖霊は、ギリシア語とギリシア教会(これは最も栄えるべき運命にあり、したがってこれらのヘブライ語の著作はその中に翻訳されるべきものであった)においてさえも、固有の奥義を含むようにこれらの事柄を整えることができたのである。
第15節:夜襲
「彼は仲間を分け、夜に彼らを襲った。」おそらくアブラムは自ら一隊を率いたのであろう。三人の同盟者、すなわちアネル、エシュコル、マムレを三隊に分けたと思われる。それは敵のあらゆる退路を断ち、四方から攻撃することで恐怖を与え、大軍に四方を囲まれたと思わせ、こうして睡眠と酒に埋もれている者たちを一挙に制圧するためであった。
ここにアブラハムの軍事的勇気、慎重さ、機敏さ、信仰、正義を、また彼のロトに対する、そして同盟者や友人に対する愛、友情、寛大さを銘記せよ。こうしてスパルタ王レオニダスは、三百人の兵と共に最大の規模を誇るクセルクセスの陣営に突入し、力尽きて倒れるまで殺戮をやめなかった。彼は部下にこう言ったのである。「同志よ、昼食を取れ、夕食は冥界で取ることになるのだから。」ここに神がいかに容易く世のあらゆる力を打ち砕かれるか、また少数によっても多数によると同様に救うことがおできになるかを見よ。
第17節:ソドムの王はアブラムを迎えに出る
「ソドムの王が出て来た。」山から出て来たのか、あるいはソドムの町から出て来たのである。ソドムの町はすでに敵によって略奪されていたが、彼は逃走して逃げ込んでいたのである。
「彼を迎えに」——アブラハムの勝利を祝い、感謝を述べ、敵から解放された自分の市民たちを彼から引き取るためである。
「シャベの谷、すなわち王の谷において。」この谷が後にメルキゼデク王の谷と呼ばれたのは、七十人訳が記すとおりであり、おそらくこの谷の近くでメルキゼデクが勝利者アブラハムを出迎え、彼を祝福し、勝利のために神にいけにえを献げたからであろう。あるいは確かに、この谷は「王の」谷、すなわち広大で王にふさわしい谷と呼ばれたのであり、それゆえヨセフスはこれを王の平原と呼んでいる。したがってシャベの谷、すなわち「平らな」谷と呼ばれる。また、ヨルダン川の近くに位置し死海にまで広がる快適さのゆえに、「名高い谷」とも呼ばれる。ボルカルドゥスはそう述べている。
第18節:メルキゼデク――パンとぶどう酒
「しかしメルキゼデクは。」アブラムがダンとシャベの谷からヘブロンあるいはマムレの谷の自宅に帰る途中、これほど敬虔でこれほど名高い王メルキゼデクを訪問するため、またメルキゼデクを通じて得られた勝利のゆえに神に感謝しいけにえを献げるため、やや道を逸れてサレムに向かったようである。メルキゼデクはアブラムが近づいていることを知り、出て迎えた。
汝は問うであろう。このメルキゼデクとは何者であったか。第一に、メルキゼデク派の異端者たちはメルキゼデクは聖霊であると教えた。聖霊こそがメルキゼデク、すなわち「正義の王」であるからだと。しかしこれは異端である。
第二に、オリゲネスとディデュモスはメルキゼデクは天使であると考えた。
第三に、ユダヤ人は、聖ヒエロニムスがここで『問題集』において証言するとおり、メルキゼデクはノアの子セムであったと主張している。セムはアブラハムとメルキゼデクの時代まで生きていたからである。
第一に述べる。メルキゼデクが真の、単なる人間であったことは信仰の事柄である。彼はサレムの王にして祭司であり、ここに述べられているとおりアブラハムを出迎えて祝福したのである。聖エピファニウス(異端論56)、聖キュリロス、およびその他の著者たちが一般にそう述べている。
第二に述べる。メルキゼデクはセムではなく、不敬虔なカナン人の間で敬虔かつ聖なる生活を送っていたカナン人の小王の一人であったと考えるほうが、より蓋然的である。テオドレトス、エウセビウス、および古代の著者たちが一般にそう述べている。セムの系図は創世記に記録されているのに対し、メルキゼデクには系図がないからであり、使徒がヘブライ人への手紙7章で述べるとおりである。第二に、セムはその子孫と共に東方を占めたが、ハムはその民と共にカナンの地を占め、サレムはその中にあり、メルキゼデクはその王であった。それゆえ彼はハムの子孫でありカナン人であって、セムやセムの子孫ではなかったのである。ヘブライ人への手紙7章7節の註解を参照せよ。
第三に述べる。メルキゼデクとは「正義の王」の意味である。それゆえこの王にはその正義と聖性のゆえに、メルキゼデクという名が与えられ専有されたのである。この名は、カイエタヌスが主張するようにエルサレムのすべての王に共通する称号ではなかった——ファラオの名がエジプトの王たちに共通であり、後にプトレマイオスがそうであったように、またアビメレクの名がアブラハムの時代にパレスチナの王たちに共通の称号であったのとは異なる。むしろメルキゼデクという名はこの特定の王に固有の名であった。彼自身が義なるキリスト、至聖なる者の予型であったからである。したがって聖イグナティウスはフィラデルフィア人への書簡において、またスイダスは、メルキゼデクが生涯を通じて王にして大祭司にして童貞を保ったと伝えている。
第四に述べる。メルキゼデクはキリストの予型であった。第一に、その名と名の語源においてである。両者は共に正義の王であったからである。第二に、その職務と地位においてである。両者は共にサレム、すなわち平和の王であった。第三に、その出生においてである。両者は共に父なく母なくであった(ヘブライ人への手紙7章2節)。第四に、その年齢と存続においてである。両者は共に聖書においていわば永遠の者として提示されている。第五に、祭司職において。第六に、聖体の祭司職においてである。ヘブライ人への手紙7章16節以下の註解を参照せよ。
サレムの王。聖ヒエロニムスは、エヴァグリウスへの書簡126において、このサレムはエルサレムではなく、ヨハネが洗礼を授けていたスキュトポリス近くにある別の町であると判断している(ヨハネ3章23節)。ヒエロニムスによれば、そこにはメルキゼデクの宮殿がなお示されているが、民衆の誤りによるものと思われる。おそらくヤロブアムとその後継者たちが自らの宮殿を有名にするために、それがメルキゼデクの宮殿であったと言ったのであろう。教父たちは一般に、メルキゼデクはサレムすなわちエルサレムの王であったと教えている。エイレナイオス、カイサリアのエウセビウスおよびエメサのエウセビウス、アポリナリウス、ヨセフス、カルデア訳、プロコピオス、アブレンシス、アンドレアス・マシウス、イシドルス、そしてこれらに基づくヘブライ人への手紙7章に関するリベラがそう述べており、これはユダヤ人の伝承でもある。エルサレムはかつてエブスおよびサレムと呼ばれていたのであり、ヘブライ語の詩篇76篇3節(ウルガタ75篇3節)から明らかである。実にヨセフスは『ユダヤ戦記』第7巻18章において、またそれに基づくヘゲシッポスとイシドルスは、エルサレムはメルキゼデクによって建設されたと伝えている。
パンとぶどう酒を捧げた。捧げた(ヘブライ語ではホツィ、すなわち「彼は差し出した」)パンとぶどう酒を——カルヴァンとケムニッツが主張するように兵士の食事のためでも、勝利の宴のためでもない。兵士たちはすでに戦利品で満たされていたのであり、24節から明らかである。そうではなく、和解のいけにえとして、神からアブラハムに授けられた勝利に対する感謝のうちに献げるためであった。このことは明らかである。第一に、次に付加されている言葉から。「彼は祭司であったから」——すなわち、彼がパンとぶどう酒をいけにえのために差し出したのは、彼が祭司であったからであり、いけにえを献げることは祭司の本来の務めだからである。第二に、詩篇110篇、ヘブライ人への手紙7章、その他の箇所においてメルキゼデクの祭司職が、したがってそのいけにえが称えられているからである。メルキゼデクのいけにえとその儀式および方法が記述されているのは、この箇所以外のどこにもない。それゆえ彼がここでパンとぶどう酒を差し出したのはこの目的のためであり、すなわち自らの習慣に従ってそれらを神に献げるためであった。メルキゼデクは神にパンとぶどう酒を献げることを常としていたのである。第三に、ガラティヌスが『カトリック真理の秘義について』第10巻で引用し従っている古代のラビたちが、またゲネブラルドゥスがメルキゼデクの項の年代記においてそう訳しているように、「彼はパンとぶどう酒を献げた」と訳しているからである。ユダヤ人はいけにえの文脈でホツィの動詞を用いるのであり、士師記6章18節から明らかである。第四に、使徒がヘブライ人への手紙7章でメルキゼデクのいけにえをアロンのいけにえと対比し、キリストはアロンの位ではなくメルキゼデクの位に従う祭司であると述べているからである。アロンの祭司たちはあらゆる種類の動物を献げていた。それゆえメルキゼデクはそれらではなく、また流血のいけにえでもなく、無流血のいけにえ、すなわちパンとぶどう酒を献げたのである。第五に、これは教父たちの共通の見解である。エイレナイオス、聖キプリアヌス、聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムス、テオドレトス、エウセビウス、聖アンブロシウス、その他の著者たちであり、ベラルミヌスが『ミサについて』第1巻6章で引用している。
ここからミサがいけにえであること、またキリストが十字架上のみならず最後の晩餐においてもいけにえを献げられたこと、したがって聖体はたんに秘跡であるだけでなくいけにえでもあることが明らかである。ダビデも使徒も、キリストはアロンの位ではなくメルキゼデクの位に従う祭司であると述べている。しかし十字架上においてはそうではなかった。十字架上では流血のいけにえを献げられたのであり、したがってそれはメルキゼデクの位よりもむしろアロンの位に従うものであった。それゆえ最後の晩餐においてそうであったのである。すなわちメルキゼデクに倣い、パンとぶどう酒の形色のもとに聖体を神に献げられた時においてである。教父たちは一般にそう教えており、ベラルミヌスがすでに挙げた箇所で引用している。
注記すべきこと。メルキゼデクはまずパンとぶどう酒をいけにえとして神に献げた。すなわちパンの一部を焼き、ぶどう酒の一部を灌祭として注ぎ出し、アブラハムの勝利に対する感謝のうちに神に捧げたのである。次いで残りのパンとぶどう酒をアブラハムの兵士たちに分かち与えた。すなわち分け合い食するためにである。これは和解のいけにえにおける慣例であった。同様にキリストも最後の晩餐においてパンとぶどう酒を献げ、それらを聖別して聖体のいけにえへと実体変化させ、次いで使徒たちに分かち与え、同様に献げ分かち与えるよう命じられたのである。
「彼は祭司であったからである。」ヘブライ語ではヴェフ・コヘン、「彼自身が祭司であった」、すなわち彼自身が祭司であったゆえにである。彼がパンとぶどう酒を差し出した理由を述べているのであり、すなわちそれらからいけにえを準備していたからである。これらの言葉がこの節の先行部分に属し、革新者たちが主張するように次の19節に属するのではないことは、ヘブライ語、ギリシア語、カルデア語、ラテン語の本文から明らかであり、それらはすべてこれらの言葉を同じ節の先行部分と、すなわち18節と結合しているのであって、次の19節とではない。それゆえメルキゼデクがここで祭司と呼ばれるのは、ただ続く箇所のようにアブラハムを祝福したからにすぎないと考える革新者たちは誤っている。
かくしてしばしばヘブライ語のヴァヴ、すなわち「そして」は、理由を表すキ、すなわち「なぜなら、というのは、実に」の意味で用いられる。詩篇95篇5節(ウルガタ94篇5節)にあるとおりである。「海は主のものであり、そして(すなわち「なぜなら」と聖ヒエロニムスは訳している)主がそれを造られたからである。」イザヤ64章5節にも、「あなたは怒られた、そして(なぜなら)われらは罪を犯したからである。」ルカ1章42節にも、「あなたは女のうちで祝福された者、そして(なぜなら)あなたの胎の実は祝福されているからである。」その他多くの箇所においても同様である。
祭司。革新者たちはこれを「君主」と訳す。ヘブライ語のコヘンは列王記下8章18節においてそのように用いられており、そこではダビデの子らが「祭司」すなわち君主と呼ばれている。しかし本来コヘンは祭司のみを意味し、転義的かつまれにしか君主を意味しない。ここでそれが祭司を意味することは明らかである。第一に、先行する文脈からも後続する文脈からもそうである。いけにえを献げることも祝福することも、君主ではなく祭司の務めだからである。第二に、七十人訳、カルデア訳、フィロン、ヨセフス、ラビたちがそう訳しているからである。第三に、「いと高き神の」と続くからである。彼は祭司であった。「いと高き神の君主」とは正しく言えないが、「いと高き神の祭司」とは正しく言えるからである。第四に、聖パウロがヘブライ人への手紙7章1節でそう訳しているからである。そこでこう述べられている。「このメルキゼデクはサレムの王にして、いと高き神の祭司である。」
聖ディオニシウスは『天上位階論』第8章において、メルキゼデクがいと高き神の祭司と呼ばれるのは、彼自身が神に仕えたからだけでなく、他の人々を神への信仰と礼拝に回心させ促したからでもあると指摘している。
第19節:彼を祝福した
「彼を祝福した。」すなわちメルキゼデクが、上位の者が下位の者を祝福するように、アブラムを祝福したのである。メルキゼデクはキリスト、永遠の祭司の予型であった。アブラムはレビ人の子孫に一時的な祭司職を伝えたにすぎないからである。メルキゼデクはこう言って祝福した。「アブラムはいと高き神によって祝福されよ」——すなわち神によって、あるいはいと高き神の御前においてである。いわばこう述べているのである。アブラムが祝福され、いと高き神によって善き賜物で満たされるように。神御自身が、この最も輝かしい勝利を彼に授けることによって、彼を祝福し始められたのであるから。リポマヌスはそう述べており、ここでメルキゼデクの三つの祭司的行為を指摘している。第一はパンとぶどう酒を献げたこと、第二は勝利者アブラムを祝福したこと、第三はアブラムから十分の一を受けたことである。
「創造された方。」ヘブライ語ではコネ、すなわち「所有者」「所有した者」あるいは「獲得した者」である。しかし神が天と地の所有者であるのは、それらの創造者であり、創造の権原によってそれらを獲得し御自身のものとされたからである。こうして22節では、神は天と地の所有者(すなわち創造者であり、それゆえ所有者)と呼ばれている。同様に詩篇139篇13節(ウルガタ138篇13節)にはこう記されている。「あなたはわたしの内臓を所有された(すなわち形造り、形造ることによって所有された)。」
第20節:十分の一を捧げた
「彼に十分の一を捧げた。」すなわちアブラムがメルキゼデクに十分の一を捧げたのであり、ヘブライ人への手紙7章4節から明らかである。ヨセフスもまた一般にそのように述べている。したがって、これに反してメルキゼデクがアブラムに十分の一を捧げたとするあるユダヤ人たちは誤っている。彼らの論法は以下のとおりである。十分の一を捧げたのは先行し祝福した者である。それはメルキゼデクである。ゆえにメルキゼデクが十分の一を捧げたのだと。しかしこの大前提は誤りである。というのも、ヘブライ人の間では人称の交替が頻繁にあり、一方の人物からもう一方の人物へと名を挙げることなく移行し、対話やその他の状況から理解されるに任せることが多いからである。
転義的に、聖アンブロシウスはここで次のように述べている。「勝利を得た者は、その勝利を自分のものとして主張すべきではなく、神に帰すべきである。アブラハムがこれを教えている。彼はその勝利によってより驕り高ぶったのではなく、より謙遜になったのである。なぜなら彼は犠牲を献げ、十分の一を捧げたからである。」
十分の一。カルデア訳によれば十のうちの一つである。ここに見よ、信仰と自然の理性がいかにわれらを神に十分の一を捧げるよう傾けるかを。たとえそれらが絶対的にそれを命じなくとも。この意味で十分の一は自然法に属するとも言いうるが、厳密に言えばそれは実定法に属する——すなわち旧法においては神の法に、新法においては人間の法に属する。ヤコブはその祖父アブラハムのこの範に倣ったのであり、第28章第22節のことである。
同様に異邦人もまた、宗教の一種の衝動により、しばしば戦争の戦利品から十分の一を誓い、納めた。ラテン戦争で勝利を得た後にポストゥミウスがこれを行い、他のローマの将軍たちもこれを行ったことを、ハリカルナッソスのディオニュシオスが第6巻に記しているほか、リウィウスや他の著者たちも記している。クセノフォンもまた『キュロパエディア』第5巻で次のように述べている。「ここでもまた彼らは捕虜から集めた金を分配し、法務官たちはアポロンあるいはエフェソスのディアナに十分の一として奉納されるべく誓ったものを受け取った。」同じ著者は『アゲシラオス伝』においてこう述べている。「彼は敵の領土をかくも堪能したので、二年間でデルフォイの神に十分の一として百タラント以上を奉納した。」
聖ヨハネ・クリソストモスは『ユダヤ人駁論』第4説教において、メルキゼデクが新法の祭司たちを予型し、彼に十分の一を捧げたアブラムが信徒を予型したことを指摘している。
「すべてのもの」のうちから——すなわちバビロニア人から戦争において奪い取ったすべての戦利品のうちからである。
第21節:われに人々を与えよ
「われに人々を与えよ」——すなわち民をということである。七十人訳もそう訳している。言い換えれば、汝がロトとともに敵から奪い返したわが市民と捕虜となったわが臣民をわれに返せ、残りの戦利品は汝の手に留めよ、ということである。
一人の人の徳と恩寵が神の御前でいかに力あるものであるかを留意せよ。すなわち、神はただ一人の義人ロトのゆえに、これほど多くの不敬虔なペンタポリスの民を解放し給うたのであり、それは御自身の僕アブラムを栄光あるものとするためであった。
第22節:わが手を挙げる
「わが手を挙げる。」すなわち、天に向かって手を挙げ、証人かつ報復者として呼び求める神に対して誓う、ということである。古代人はこの儀式によって誓いを立てていた。すなわち天に向かって手を挙げることによってである。
「天と地の所有者。」ここからフィロンは、その著書『ケルビムについて』において、神のみが万物に対する支配権を有し給い、人間はそれらの用益権のみを有するにすぎないと教えている。
第23節:糸一本から靴紐一つに至るまで
「横糸の一筋から靴紐一本に至るまで」——すなわち、いかに安価なもの、いかに些少なものであっても、われは受け取らないということである。これは諺である。「横糸」という語はヘブライ語原文にはなく、説明のためにわれらの翻訳者が付加したものである。横糸とは経糸の下に織り込まれる糸、あるいは経糸に組み合わされる糸のことであり、織物においては経糸と横糸が互いに対応する相関概念をなすのである。さらにカリガとは軍用靴の一種であり、これに由来して兵士たちはカリガティと呼ばれ、皇帝ガイウスはカリグラと呼ばれた。同様に使徒言行録12章8節にも「履物を履け」とあり、これはすなわち「汝の靴を履け」という意味である。
「汝のものすべてからは受け取らない」——すなわち、ペンタポリスの民に属するもので、われが敵から回復したものからはということである。アブラムは敵の財産からの自らの分け前を受け取ることについては拒んでいない。
ここにアブラハムの節制を見よ。この節制こそ彼を真に富める者としたのであり、かのセネカの言葉を口にすることができたのである。「富はわがものである。汝は汝の富のものである。富は知者には奉仕するが、愚者にあっては富が支配者となるからである。」かくてアブラハムはいかなるものも受け取ることを拒んだ。第一に、すべての人がアブラハムの戦いの目的が利得のためではなく、愛徳に基づき捕虜を解放するためであったことを知るようにである。今日このように戦う者をいかに少なく見出すことであろうか。第二に、それらの財産は貧しい者たちから奪われたものであったからである。ゆえにアブラハムはそれらの財によって自らが富むよりも、むしろそれらが本来の持ち主に返還されることを望んだ。第三に、それらを提供している王に恩義を負うことを欲しなかったからである。第四に、勝利の栄光を自らにではなく神に帰するためである。第五に、地上のすべてのものを蔑む高貴な精神を不敬虔な者たちに示し、不信仰者たちがすべての希望を置くところの富よりも大いなるものを自らが有していることを示すためである。すなわち、われは神を有している、神は世のすべての財にまさる力を有し給う、と言うかのようである。
ゆえに聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻第8章でこう述べている。「完全な精神に属することは」と彼は言う、「地上のものから何も取らず、肉体の誘惑から何も受け取らないことである。それゆえアブラハムは言う。『汝のものすべてからは何も取らない』と。あたかも無節制の汚染を避けるかのように、あたかも肉的感覚の汚れから逃れるかのように、彼は世の快楽を退け、世を超えたものを求めるのである。これこそ主に向かって手を伸べることの意味である。手とは魂の実践的な徳のことである。狭量な精神は約束によって招かれ、希望された報いによって高められるがよい。」
ペレリウスは異なる解釈を取る。「汝のもの」とは、すなわち「かつて汝のものであったが、今はわがものであるもの」の意であるという。正戦において捕獲されたものは、それが誰のものであったにせよ、自然法によってではなく、多くの国民の実定法によって勝者の所有となるのであり、アブレンシスとコヴァルヴィアスはこの法がスペインにおいて遵守されていると教えている。また或る人々は同じ法がベルギーにおいても適用されると言う。すなわち、敵によって奪い去られた戦利品が再び敵から取り返された場合、それが敵の手中に24時間あったならば、取り返した者の手に帰するということである。しかしこれらの規則は、先に述べたように実定法に属するものであって自然法に属するものではなく、アブラムがここで従っているのは自然法である。