コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第十五章


目次


第十五章の概要

神はアブラハムに、天の星のごとく数多き子孫と、同時にカナンの地とを約束される。次いで第九節において、この約束のしるし、すなわち犠牲の動物を与え、これによってアブラムとの契約をも確証される。第三に第十三節において、四百年の後にアブラハムの子孫をカナンに導き入れることを約束される。


ウルガタ本文:創世記15章1–21節

1. これらのことの後、幻のうちに主の言葉がアブラムに臨み、こう仰せられた。「恐れるな、アブラムよ。われは汝の守り手であり、汝の報いはまことに大いなるものである。」2. アブラムは言った。「主なる神よ、わたしに何を与えてくださるのですか。わたしは子なくして去ります。わが家の管理人の子、このダマスコのエリエゼルが跡を継ぐのです。」3. アブラムはさらに言った。「汝はわたしに子孫を与えてくださいませんでした。見よ、わが家に生まれた僕がわが相続人となるでしょう。」4. するとただちに主の言葉が彼に臨み、こう仰せられた。「この者が汝の相続人となるのではない。汝自身の体から出る者、その者を汝は相続人として得るであろう。」5. そして彼を外に連れ出して仰せられた。「天を仰ぎ、星を数えよ。もし数えうるならば。」さらに仰せられた。「汝の子孫はかくのごとくなるであろう。」6. アブラムは神を信じた。そしてそれは彼にとって義と認められた。7. そして仰せられた。「われはカルデアのウルから汝を導き出した主である。この地を汝に与え、汝が所有するためである。」8. しかし彼は言った。「主なる神よ、何によってわたしがこれを所有することを知りえましょうか。」9. 主は答えて仰せられた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、また山鳩と若い鳩とをわれのために取れ。」10. 彼はこれらすべてを取り、それらを真ん中から裂き、両半を互いに向かい合わせに置いた。しかし鳥は裂かなかった。11. 猛禽が死体の上に降りてきたが、アブラムはそれらを追い払った。12. 日が沈もうとするとき、深い眠りがアブラムを襲い、大いなる暗き恐怖が彼を捕らえた。13. そして彼にこう告げられた。「確かに知れ、汝の子孫は自分のものでない地で寄留者となり、隷属に服せしめられ、四百年の間苦しめられるであろう。14. しかし彼らが仕えるその国民を、われは裁く。その後、彼らは大いなる財をもって出てくるであろう。15. しかし汝は平安のうちに父祖たちのもとへゆき、善き老齢のうちに葬られるであろう。16. しかし四代目にして彼らはここに帰ってくるであろう。アモリ人の罪悪はいまだ現時に至るまで満ちてはいないからである。17. さて日が沈むと、暗き霧が生じ、煙る炉と火の灯が現れ、かの裂かれたものの間を通り過ぎた。18. その日、主はアブラムと契約を結び、こう仰せられた。汝の子孫にわれはこの地を与える、エジプトの川から大河ユーフラテスまで。19. ケニ人、ケニジ人、カドモニ人、20. ヘト人、ペリジ人、またレファイム人、21. アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」


第1節:われは汝の守り手にして汝の報いである

「これらのことの後」――すなわちソドムにおける戦争と勝利が終結し、メルキゼデクを通じて神に感謝が捧げられた後のことである。アブラムはバビロニア人が戦争を再開するのではないか、あるいはカナン人が嫉妬や略奪への期待に誘われて、戦利品を満載した自分を襲撃するのではないかと恐れていた。神はその敬虔、剛毅、徳を報いようと欲し、アブラムに現れてこれを力づけ、アッシリア人やカナン人を恐れる必要はないと告げられた。なぜなら神はアブラムを心にかけ、配慮のうちに置き、その守護者、保護者、報いを与える者となるからである。

「幻のうちに」――眠りの中ではなく、覚醒中の幻のうちにおいてである。アブラムは目覚めたまま、仮の体をまとって神を代理する天使を見た。肉眼によってか、あるいはより蓋然的には心の目によってであり、この天使と契約を結んだのである。トスタトゥス、ペレリウス、オレアステルがそう述べている。

われは汝の守り手である。ヘブライ語ではアノキ・マゲン・ラハ、すなわち「われは汝の盾である。われは汝の楯である。盾のごとく汝を守り、汝の敵のあらゆる武器を受け止める」である。それゆえ七十人訳は「われは汝のヒュペラスピステス(楯持ち)」と訳している。すなわち汝の前に立ちてわが盾をもって汝を守る者であり、戦場において将帥がその楯持ちを先行させるがごとくである。ここに神がいかに義人とその友を慰め守りたもうかを見よ。かくして神はダビデを守りたもうた。詩篇5篇13節、「主よ、汝は御恵みの盾をもって冠のごとくわれらを囲みたもうた。」また詩篇118篇6節、「主はわが助け手なり。人がわれに何をなしうるか、われは恐れない。」

アルチアトゥスに有名な紋章がある。ある兵士がその盾をもってすべての敵の武器を受け止め、その盾を舟にして、徒歩では渡れぬ川を渡り、盾に接吻して言った。「陸にて苦しめられしとき、海にて苦しめられしとき、これこそまことの唯一の友であった。」かかる盾こそ、あらゆる場所とあらゆる事において、アブラハムとその他の聖人たちにとっての神であり、今もそうであられる。

汝の報いはまことに大いなるものとなるであろう。これはすなわち、アブラムよ、汝がかくも敬虔に、聖く、勇敢に行動し、第十四章二十二節においてソドムの王の卑しい報酬を退けたゆえに、われは汝の信仰、忍耐、剛毅、愛徳、従順に対し、汝の労苦をはるかに超える、まことに大いなる報いをもって報いるであろうということである。聖ヨハネ・クリソストモス、聖アンブロシウス、カイエタヌスがそう述べている。

ここで「報い」という言葉に注目せよ。異端者に対して言えば、報いがあるところには善き業の功徳があり、その功徳がこの報いを得るのである。

この報いは第一に時間的なものであり、すなわち彼の家族と子孫の多さと偉大さであって、第五節から明らかである。第二に霊的かつ永遠のものであり、すなわちこういうことである。「あらゆる善の大海なる神であるわれ自身が、アブラムよ、汝の報い、賞、客体的至福となるであろう。」ダビデも同じことを詩篇16篇で歌っている。「主はわが嗣業の分け前にしてわが杯なり。汝はわが嗣業をわれに回復したもう者なり。測り縄はわがために麗しき所に落ちたり。まことにわが嗣業はわがために優れたるものなり。」また詩篇73篇、「天においてわれに何かあろうか。汝を離れて地上に何を望もうか。」そして聖トマス・アクィナスがナポリにて祈りの最中、十字架上のキリストから「トマスよ、汝はわれについてよく書いた。しからば汝の報いは何であろうか」と聞いたとき、彼は答えた。「主よ、汝以外の何ものでもありません。」――なぜなら汝はわが希望、わが報い、わが愛、わがすべてであるからである。ゆえにマラキ書3章14節で「神に仕えるのはむなしい」と言う不敬の者たちは偽りを語っている。

さらに第三として加える者もいる。すなわち「われは汝の守り手である」によって堅忍の賜物がアブラハムに約束され、「汝の報い」によって彼の永遠の選びが意味され、アブラハムに啓示されたのであり、しかも栄光に至るまで有効なる選びであるという。しかしこれは神秘的ではあるが不確実である。


第2節:何を与えてくださるのですか――ダマスコのエリエゼル

「何を与えてくださるのですか。」すなわち、主よ、汝がわたしに多くの善き物と富を授けてくださることは信じます。しかしそれは誰のために役立つのでしょうか。わたしは子がなく、息子も相続人もおりません。アブラムは神が第十二章七節において自分に息子を約束されたことを知っていたし、神の誠実を疑いもしなかった。しかしかくも重大な、かくも切望する事柄にあっては、自分の過ちによって神の約束を翻させ、あるいは覆してしまったのではないかと恐れたのである。欲望と愛は安全なことさえもすべて恐れ、愛する者を、かくも渇望するものを手にするまで安んじないからである。

管理人の子。ヘブライ語ではベン・メセクである。第一に、ゲンナディウスとディオドルスはこれを「メセクの子、すなわちダマスコ出身のわが女奴隷の子」と解する。第二に、ヴァタブルスは「わが家の遺任の子」、すなわちわが家政のすべての管理を託し委ねた者――わが執事にして管理人――と訳す。第三に、より正確には、オレアステルとフォルステルスは「わが家の走り回りの子」、すなわち執事がなすように、物事を配分し管理するために家中を走り回る者と訳す。メセクは「走り回る」を意味する語根に由来し、これは執事の本来の職務である。それゆえカルデア訳とテオドティオンは「わが家政すなわち管理職の子」と訳す。ここにヘブライ語法により抽象名詞が具体名詞に代わって用いられている。すなわち「走り回ること」が「走り回る者」の代わりに、「管理職」が「管理人」の代わりに用いられている。それゆえアクィラは「わが家に飲み物を与える者の子」と訳し、すなわち聖ヒエロニムスが『ヘブライ問題集』において訳すように「わが家の管理人の子」である。管理人は家族のために食物と飲料を調達し提供する者だからである。

「このダマスコのエリエゼル」――「わが相続人となるであろう」と補え。息子がいないからである。ゲンナディウスとディオドルスは、エリエゼルがダマスコ人、すなわちダマスコ出身の者と呼ばれるのは、ダマスコ出身の母から生まれたためであると考える。

第二に、トスタトゥス、デルリオ、オンカラはこの僕の本来の名がダマスコであり、エリエゼルの子であったと考える。すなわち「エリエゼルの子ダマスコ」である。

第三に、最も正確と思われるのは、ダマスコはヘブライ語でダンメセクであり、先に述べたメセクに由来するということである。頭に付くダレトの文字は冠詞であり、シリア人がヘブライ語の指示詞ヘーの代わりに用いるものである。したがって「ダマスコ」すなわちダンメセクは、「このメセク」すなわち「この管理人」と同義であり、フランドル語で言えばデン・プロキュルールである。かくしてこの僕は管理職という、いわば世襲的かつ恒久的な職務にちなんでダマスコと呼ばれたが、本来の名はエリエゼルであった。聖ヒエロニムス、トスタトゥスその他は、このダマスコからダマスコの都市が建設されたと伝えている。それゆえ他の者たちは、真実と言うよりは巧みに、ダマスコはダム(「血」)とサク(「袋」)に由来し、「血の袋」すなわち赤葡萄酒の袋という意味であると考えた。それゆえギリシア人もまた、ダマスコはいわばハイマ(「血」すなわち葡萄酒)とサックス(「袋」)に由来すると称し、そこに葡萄酒の大いなる豊穣と豊富さがあったゆえに、バッコスがその地の袋の中に住んでいたと想像した。しかしこれは異教徒の作り話であって、彼らはこのアブラハムの家令ダマスコを知らなかったがゆえに、ダマスコの語源から名称の由来を探ったのである。


第3節:わが家に生まれた僕

「わが家に生まれた僕」――わが家僕、すなわちヘブライ語にあるように、わが家に生まれた僕のことである。


第4節:汝自身の体から出る者

「するとただちに。」いかに速やかに神がご自身の者たちの苦悩と不安に応じたもうかを見よ。

「胎より」――腹よりの意。ヘブライ語法である。


第5節:星を数えよ

「星を数えよ。」したがってそのときは夜であった。月のない夜ではなく、雲のない、澄んだ星空の夜であった。ここから、星は目に見えるものだけでも、我々にとっては数えきれないことが明らかである。聖アウグスティヌスが言うように、星をより鋭く見つめれば見つめるほど、天にはより多くの星が見えるのである。聖アウグスティヌス自身が『神の国』第十六巻二十三章でそう述べており、聖バシリウス、エウセビオス、アリストテレス、プラトン、セネカもペレリウスが引用するところにおいてそう述べている。望遠鏡は肉眼では見ることのできない、はるかに多くの星を映し出す。それゆえプトレマイオスと天文学者たちに従ってわずか千二十二の星しか数えない者たちは、視覚に際立ち、輝かしく、最も注目に値する星のみを数えているのである。

注意すべきことがある。神がアブラムに星を数えよと命じたもうたのは、彼が天文学者であったからでもあり、しばしば星を見上げ、天を慕い、天に憧れる習わしであったからでもある。われらの聖なる父祖イグナティウスもまた同じようにしていた。それゆえオルフェウスは、クレメンスの『ストロマタ』第五巻で引かれるところにおいて、アブラハムを天文学者と呼び、こう歌っている。「すべてに超えたるただ一人、カルデアの族より出自を引く者。彼は天の星々を知り、星座の道を知り、天球がいかに軌道を巡るかを知っていた。」

「汝の子孫はかくのごとくなるであろう」――すなわち、アブラムよ、星のごとく汝の子孫はなるであろう。字義的には、汝がここに本来求めるところのユダヤ人という肉の子孫であり、また寓喩的には、信者およびキリスト者という霊の子孫である。なぜなら彼らはアブラハムの子であるからである。その信仰と敬虔とを模倣するがゆえに、またキリストは肉によるアブラハムの子であり、すべてのキリスト者の親であるがゆえに。そしてこれこそ、聖アンブロシウスと聖アウグスティヌスが証するように、キリストがヨハネ8章56節で仰せられたことの意味である。「汝らの父アブラハムは、わが日を見ることを喜んだ。彼は見て、喜んだ。」

注目すべきは、アブラハムの子孫が、肉の子孫もさることながら特に霊の子孫が、天の星に正しく比較されることである。なぜならこの子孫は星のごとく、第一に、数えきれないほど多く偉大であり(これが字義的に主として意図されるところである)、第二に、最も崇高にして天的であり、第三に、堅固にして最も秩序正しく永遠であり、第四に、最も力強く、第五に、最も名高く、第六に、最も輝かしく栄光に満ちており、特に復活の後にはそうなるであろう。「知恵ある者は大空の輝きのごとく光り、多くの者を義に導く者は、星のごとく永遠に輝くであろう」(ダニエル書12章)。したがって星は輝かしき信徒、すなわち博士たちを表す。そして教会がこう歌うのもこのことに関わる。「汝の旗手たる聖ミカエルが彼らを聖なる光の中へ導きますように。その光こそ汝がかつてアブラハムに(どこで? ここにおいて、そして第一節において)、またその子孫に約束したもうたものなり。」

第二に注目すべきは、アブラハムの肉の子であるユダヤ人は、アブラハムの霊の子であるキリスト者の明確な予型であったということである。第一に、彼らの極めて多くの増加において。第二に、エジプトにおける最も過酷な迫害と苦難において。第三に、三千人のエジプト人が溺れた紅海の至福の横断において。第四に、食物において、すなわち四十年間荒野で養われた天のマンナにおいて。第五に、蛇に噛まれたすべての者がこれを仰ぎ見て癒された青銅の蛇において。第六に、天の柱に導かれ、多くの危険と試練を経た四十年間の荒野の遍歴において。第七に、ヨシュアすなわちヌンの子イエスに導かれての約束の地への導入において。第八に、カナンの地における葡萄酒、蜜、油の豊穣において。これらすべてはキリスト者に霊的に容易に適用しうるのである。


第6節:アブラムは神を信じた――義化

「アブラムは神を信じた」――本性上きわめて困難にして不可能なこと、すなわち年老いて不妊のサラからひとりの息子を生み、その息子を通じて天の星のように無数の子孫を得るという約束をなされた神を、アブラムは信じたのである。

注意せよ。このアブラハムの信仰は、革新者たち(プロテスタント)が主張するような裸の、形なきものではなく、服従、従順、畏敬、愛徳、その他の徳の業をもって着飾られ形づけられたものであった。このことは前後の箇所、およびヤコブの手紙第2章21節から明らかである。

「それは彼に義と認められた」(神によって、あるいは誠実にして誤りえない神の判断によって)。ヘブライ語ではヴァヤフシェベハー・ロー・ツェダーカー、すなわち「神は彼にそれを」――つまり信仰を――「義と認められた」の意であり、より大いなる義として認められたのである(なぜならアブラムはすでに以前から義とされていたことが、第1節および前章から明らかであるからである)。こうして彼が神の前により義なる者として現れ、真にそうであるためであった。というのも、神はものごとをそれ自体のありのままに判断されるのであり、さもなければ神の判断は誤りとなるからである。

それゆえ革新者たちは、この箇所から自らの転嫁的義認を証明しようとするが、誤りである。もしそうであるならば、モーセは「神はキリストの義をアブラハムに転嫁した」と述べたはずである。しかし彼はその反対を述べている。すなわち、神がアブラハム自身に転嫁されたのはキリストの信仰ではなく、アブラハム自身の信仰であり、それを義と認められたのである。なぜならアブラハムの信仰とかくも英雄的な信仰の行為のゆえに、神は彼を義なる者、いな以前にも増して義なる者であると認め判断されたからである。というのも、これらの内的な信仰の行為によって、名称上でも転嫁的にでもなく、真に本質的にアブラムは義とされ、義において成長したのである。

注意せよ。「アブラムは神を信じた。それは彼に義と認められた」というこの言葉は、一般的な命題であり、先行するすべての出来事に関わるものである。なぜならアブラムは信仰によって不義なる者から義なる者とされ、信仰によってすでに獲得した義において成長したからである。聖書はここでアブラムを信仰の父、義化の模範として提示しようとしているのである。しかしこの言葉が他の箇所ではなくここに置かれているのは、年老いて不妊で衰弱した配偶者から、このように多くかつ偉大な子孫が――肉体的にも霊的にも――生まれると信じることは、困難な信仰の行為であり、他のすべての信ずべき事柄を暗黙のうちに包含するきわめて広範なものであったからである。この箇所についてはローマ書4章3節においてさらに詳しく述べた。


第7節:汝は所有するであろう

「汝は所有するであろう」――汝の子孫を通じてである。


第8節:何によって知りえましょうか

「何によって知りえましょうか」――アブラムは神の約束を疑っているのではない(もしそうであれば、彼の信仰は義と認められなかったであろう)。ただその方法を知ることを望み、自ら信じた事柄の何らかのしるし、象徴、類似が示されることを願ったのである。テオドレトス、聖ヨハネ・クリソストモス、聖アウグスティヌスがそのように述べている。そうであることは神の応答から明らかである。神はアブラハムの求めに応じて、将来の所有の仕方と順序を目の前に示すしるしを与えられたのである。第二に、アブラムはここで、神がその約束を確認し、子孫のいかなる功罪のゆえにもそれを無効にされないことを願った、とルペルトゥスおよびトスタトゥスは述べている。第三に、アブラムがここでしるしを求めたのは自分自身のためというよりも子孫のためであり、すなわちこのしるしによって子孫がより堅く信じるためであった、とカイエタヌスは述べている。


第9節:契約の動物たち

「三歳の雌牛を取れ」等。第一に、契約のためである。わたしは汝の慣習と儀式に従って汝と契約を結び、これらの動物を殺して分割することによりそれを批准しようとするのである。第二に、わたしとの契約を結んだ後、それらをわたしへの犠牲として捧げるためである。第三に、これらの事物を通じて、わたしが約束したカナンの地の所有に至る前に汝の子孫に起こるであろう出来事を――喜ばしきことも悲しきことも――汝に予示し象徴するためである。ペレリウスがそのように述べている。

「三歳の雌牛、三歳の雌山羊、三歳の雄羊、また山鳩と鳩」――これらはすべてアブラムの後に彼の子孫、すなわちヘブライ人に起こるべき将来の事柄の象徴である。

したがって第一に、この馴らされていない「三歳の雌牛」は、ヘブライ人の第一世代とヨセフの時代におけるエジプトでの自由を象徴する。なぜならそのときヘブライ人は、若い雌牛のように自由に豊かにエジプトの富を食んでいたからである。第二に、「三歳の雌山羊」は、ヨセフの死後、エジプト人がヘブライ人の労働と隷属によって自らを富ませ、山羊のようにヘブライ人を搾り始めた第二世代を象徴する。第三に、硬く角のある「雄羊」は、最も数多く最も強力であり、それゆえモーセの誕生の頃にエジプト人から最も過酷な隷属をもって虐げられた第三世代のヘブライ人を象徴する。第四に、「二羽の鳥」は他の動物のように分割されず、犠牲として完全なまま捧げられたが、これは四百年の後にヘブライ人が自由にして無傷のままエジプトから飛び立ち、荒れ野においてもカナンにおいても神を礼拝するようになることを象徴する。うめき声を上げる「山鳩」は、荒れ野の遍歴における嘆きの四十年を象徴する。山鳩はヘブライ語でトゥールと呼ばれるが、これはトゥール、すなわち「考える、黙想する」に由来する。山鳩が内側で語っているように見えるからであり、ちょうど黙想しながら独り言を言う人のようである。社交的な「鳩」はヨシュアの時代を象徴し、そのときヘブライ人は約束の地において喜びと平和のうちに住んだ。鳩のヘブライ語はゴーザール、すなわち若い鳩、あるいは雛鳥であり、カルデア語訳もそのように訳している。なぜならヨシュアのもとで新たにカナンに入ったヘブライ人は、そこにおいて雛鳥のようであったからである。

「四足獣の分割」はエジプトにおけるヘブライ人のさまざまな苦難を象徴し、完全なままの鳥はこれらの苦難の終わりを象徴する。「鳥の死体への飛来」はオグ、シホン、アマレク、およびその他の敵が巡礼中のイスラエルを襲撃し苦しめることを象徴する。「アブラムが鳥を追い払うこと」はアブラハムの功績のゆえにヘブライ人を守り護られる神の摂理を象徴する。テオドレトスおよびタルソスのディオドロスがそのように述べている。

転義的に、祈りとその中でのさまざまな散漫について、それらを鳥のように追い払わねばならぬことに関しては、聖グレゴリウスの『道徳論』第16巻第20章を参照せよ。

なぜ神はこれらの地上の動物を三歳のものとすることを望まれたのかと問うであろう。答える。第一に、三歳の動物は体格、年齢、力において成熟しているからである。第二に、象徴的に、エジプトの隷属は三世代にわたって続いたからである。すなわちコハト、アムラム、モーセの三世代である。

転義的に、天にある約束の地を目指す者は、アブラハムの真の子である真のヘブライ人として、次のものを取るべきである。第一に、三歳の雌牛、すなわち三重の謙遜――目上の者、同等の者、目下の者に対してへりくだること。第二に、三歳の雌山羊、すなわち三重の悔い改め――痛悔、告白、償い。第三に、三歳の雄羊、すなわち三重の剛毅――信仰と神への奉仕のために、財産、名誉、身体すなわち生命の喪失に勇敢に耐えること。第四に、山鳩を取れ。すなわち貞潔と祈りを。そして鳩を取れ。すなわち素朴さと柔和さを。第五に、鳥を追い払え。すなわち悪魔の誘惑をである。

神秘的に、すなわち自然学的に、聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻第8章で述べている。雌牛は地を、雌山羊は水を、雄羊は大気を表す。大気は雄羊のように強く、風と嵐をもって地と水を揺さぶるからである。これらは神に捧げられねばならない。道徳的に、雌牛は肉体、雌山羊は感覚、雄羊は言葉である。「われらの肉体は雌牛である。種を蒔くために労し、刈り集めるために労し、産むために労し、無数の労苦によって疲弊する。それゆえギリシア人はこれをダマリンと呼ぶ。ダマスタイ・リアン、すなわち甚だしく馴らされるからである。しかしわれらの感覚は山羊のように、あたかもある種の跳躍によって飛び出す。女性の美しさに出会えば、あるいは何かの芳香を嗅げば、あらゆる機会に即座に反応する。聴覚によっても触覚によっても素早く動かされ、それらによって魂の堅固さをも曲げるのである。雄羊は猛烈であり、われらの言葉もまた行為において効力があり、ある種の生活と行為の秩序によって群れを導くのである。」それゆえこの三つは神に捧げられねばならない。聖アンブロシウスの言葉である。

寓喩的に、これらの動物はキリストとキリストの犠牲を象徴していた。それによってキリスト者と神との新しい契約が批准されたのである。すなわち雄羊あるいは羊はキリストの無垢を、雌山羊はキリストにおける罪の肉の類似を、雌牛は労苦に耐えるキリストの力と忍耐を、山鳩はキリストの純潔と貞操を、胆嚢を持たない鳩はキリストの比類なき柔和さを象徴する。キリストはとりわけわれらがこの柔和さを愛し倣うことを望んで言われた。「わたしに学べ。わたしは柔和にして心のへりくだった者であるから。」リラヌスがそのように述べている。


第10節:彼はそれらを真ん中から切り分けた

「彼はそれらを真ん中から切り分けた。」頭から尾まで切り裂いて分割したのである。ここで神は契約を結ぶ儀式を制定されたように思われる。すなわち契約において動物、つまり契約の犠牲を割いて分割し、そのように分けられた部分の間を通り抜け、もし契約を破れば同様の死と裂断が自らに降りかかるよう自らに呪いをかけるのである。それゆえユダヤ人はその後この儀式を守った。エレミヤ書34章18節から明らかである。カルデア人も同様であった。カルデア人の間では、とタルソスのディオドロスは言う、動物を切ることによって誓いを批准し、違背者に同じ運命を祈り求めるとき、誓いはより確実なものとみなされたのである。ローマ人やラテン人もまた同様であった。「彼らは立ち、殺された雌豚の上に契約を確認した。」この事柄についてはコリントの信徒への手紙一第11章25節でさらに述べ、出エジプト記24章8節でもさらに述べるであろう。

「その部分を互いに向かい合わせに」――彼は対応する部分を両側に置き、通り抜けるための空間を間に残した。アブラムはこれらすべてを神の霊感と命令によって行ったのであるが、モーセはそれを明示していない。

「鳥は分割しなかった」――契約の象徴的目的に適わなかったからである。聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻第8章で述べている。「義なる者たちは分割されないからである。彼らには鳩のように素朴であるようにと言われている。キリストの恩寵に向けられた精神は、この世が不義に満ちていることを見た。しかし慎み、信仰、誠実はいかなる情念にも屈しないことを見た。他方、貪欲と世俗の心配事は――富の快楽を持つ者たちを窒息させるものであるが――引き裂かれ分断される。それゆえ富(ディウィティアエ)は、精神を分断し(ディウィダント)、あちらこちらに引き裂き、さまざまな方向に引っ張り、損なわれずに全きままでいることを許さないから、そのように呼ばれるのである。」


第11節:アブラムは鳥を追い払った

「彼はそれらを追い払った。」正しい訳である。ヘブライ語のヤッシェブはナシャブの語根から来ており、「取り除いた、追い出した」の意味だからである。カルデア語訳、ヴァタブルス、その他もそのように述べており、これが真正にして正確な翻訳である。アブラムが犠牲の動物から鳥を追い払ったことは確実である。さもなければ鳥は犠牲を貪り食ったであろうからである。しかし七十人訳は異なる母音符号で読み、反対に「アブラムはそれらと共に座った」と訳している。これもまた真実ではある。なぜならアブラムは自ら追い払った鳥と共に離れた所に座っていたからである。追い払われた鳥は遠くに座り、犠牲の動物を見つめ、それらのもとに戻ることを欲していたのである。

同様に、司教が荘厳ミサを執り行う際、両脇の助祭が扇を持って蠅や蚊を追い払い、聖杯に落ちないようにする。ちょうどアブラムが犠牲の動物に降り立つ鳥を追い払ったように、とトゥリアヌスは聖クレメンスの『使徒憲章』第8巻第12章で述べている。

聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻で注記している。この箇所から、異邦人が鳥の飛翔やさえずりによって占いを行った鳥卜術のいかなる推奨も汲み取ってはならない。しかしヴァレシウスは『聖なる哲学』第30章でそれを仄めかしており、彼は異教に傾いているように見え、それゆえローマの禁書目録の検閲を受けたのである。


第12節:深い眠りがアブラムを襲った

「日が沈もうとするとき、深い眠りがアブラムを襲った。」アブラハムのこの眠りは一部は自然のものであり、犠牲の動物を殺し、分割し、捧げ、またそこから鳥を追い払うという昼間の過度の労苦に由来するものであった。また一部は神からアブラハムに送られたものであった。ちょうど神がアダムに深い眠りを送られたのと同じである(創世記2章21節)。なぜなら両箇所においてヘブライ語の同じ語タルデマーが用いられており、七十人訳はこれをエクスタシス(恍惚)と訳しているからである。したがってアブラムは恍惚に引き上げられ、自らの子孫の(次節から明らかなように)エジプトにおける隷属を見、それを見て恐怖と苦悶に捕らえられたのである。フィロン、ペレリウスその他がそのように述べている。

象徴的に、この眠りは神がいわば眠り、しばらくの間ヘブライ人の苦難を黙認されることを象徴していた。それゆえ日没のときに起こったのである。すなわちヨセフが死んだとき――ヨセフはファラオのもとでヘブライ人の庇護者であった。第二に、ペレリウスは、アブラハムのこの眠りはアブラムが先に死に、自らの民の災いを見ないであろうことを象徴していると考えている。

寓喩的に、聖アウグスティヌスはこれらの事柄を世の終わりに起こるであろう混乱に関連づけている(『神の国』第16巻第24章)。


第13節:四百年の苦難

「自分のものでない地において」――すなわち一部はエジプトにおいて、一部はカナンにおいてである。

「彼らはこれを隷属に服させ、四百年の間苦しめるであろう。」注意せよ。この四百年は一部は「苦しめる」に、一部はその前の「汝の子孫は寄留者となるであろう」に帰せられねばならない。なぜならヘブライ人はエジプトにおいて四百年間奉仕したのではなく、それどころか四百年間そこに住んですらおらず、ただ二百十五年間のみであった。これは出エジプト記12章40節で示すとおりである。したがってその意味は次のようである。すなわち、このときからわたしは間もなく汝に約束の子孫を与え、イサクを生まれさせるが、汝の子孫がエジプトの隷属からカナンへ出立するまでに四百年が流れるであろう。その間にイサクと汝の子孫は、一部はこのカナンとエジプトにおいて寄留者となり、一部はエジプトにおいて奉仕し苦しめられるであろう。

注意せよ。この四百年はイサクの誕生から数え始めねばならない(なぜならこれらの事柄はイシュマエルではなくイサクの子孫に関わるものであるから)。その誕生はアブラハムの百歳の年に起こり、それは彼の召命から二十五年後であった(創世記12章4節)。このアブラハムの百歳の年からヘブライ人のエジプト出発まで、四百五年が経過した。しかし聖書は通常、端数を省略するので、ここでは五年を省いているのである。聖アウグスティヌスに従ってペレリウスがそのように述べている。あるいは正確な計算を求めるならば、この年数をハガルとイシュマエルがアブラハムの家から追放された時から数え始めよ。そのときアブラハムの家にはイサクだけが残り、彼の唯一の相続人として、またこれらの約束の相続人として残ったのである。それゆえ創世記21章12節で、イシュマエルの追放が命じられる箇所において、神はアブラハムに言われた。「イサクにおいて汝の子孫は呼ばれるであろう。しかしわたしはまた女奴隷の子をも一つの大いなる国民とするであろう。彼もまた汝の子孫であるから。」トルニエルスがそのように述べている。このイシュマエルの追放はアブラハムの百三歳の年に起こり、イサクが五歳のときであった。これについては第21章で述べるであろう。


第14節:われはその国民を裁く

「われは裁く。」エジプトの災いによってきわめて厳しく罰するであろう(出エジプト記第7章以下)。

「大いなる財産をもって」――すなわち大いなる富をもって、彼ら自身のものおよびエジプト人のものである。なぜなら彼らはエジプトの富を奪い取るのである(出エジプト記12章36節)。


第15節:汝は平安のうちに父祖たちのもとへゆく

「汝は平安のうちに父祖たちのもとへゆく」――穏やかな、平和な、幸いなる死によって世を去るであろう。聖アンブロシウスの言葉を聞け(『アブラハムについて』第2巻第9章)。「ある人々は、父祖とは、われらが生きている間にわれらの肉体を構成し、死後にそれへと分解される元素のことであると考えた。しかし、われらの母が上にあるエルサレムであることを記憶するわれらは、父祖とは生の功績と順序においてわれらに先立った者たちであると主張する。かの地にはアベルという敬虔な犠牲があり、敬虔にして聖なるエノクがおり、ノアがいた。アブラハムの渡りはこれらの者のもとへと約束されたのである。」

「良き老齢において」――年進み、成熟した、百七十五歳の年齢においてである。


第16節:四代目に

「しかし四代目に彼らはここに帰るであろう。」「四代目に」とは、第四の世紀、あるいは第四の百年、すなわち四百年の後のことである。なぜなら一世代、あるいは人間の生涯の期間は百年と定められている(シラ書17章8節)。

第二に、ペレリウスとともに「世代」をここでは本来の意味に、すなわち父が子を生む意味に解することもできる。なぜならヤコブがエジプトに下った後、ユダの系統において四世代があり、ユダからエジプトで生まれた者たちとして次のとおりである。ユダの孫であるヘツロンがラムを生んだ(これが第一世代)。ラムがアミナダブを生んだ(第二世代)。アミナダブがナフションを生んだ(第三世代)。ナフションがサルモンを生み、このサルモンが神によってユダヤ人に約束されたカナンの地に入った(第四世代)。

反論するであろう。七十人訳は出エジプト記13章18節で、四世代ではなく五世代を数えていると。答える。七十人訳はヤコブの子らから(ヤコブの子らを除いて)数えている。なぜなら彼らはユダの子であるペレツ自身も数えに含めているからである。ペレツはヘツロンを生んだが、エジプトにおいてではなく、カナンにおいてであった。ヘツロンはその父ペレツ、祖父ユダ、曾祖父ヤコブとともにカナンからエジプトに入ったのである。創世記46章12節および26節から明らかである。したがってこの第五世代はここでは省略されているのである。

「アモリ人の悪はまだ満ちていないからである。」注意せよ。四百年間、神はカナン人の罪を忍耐された。神が彼らの罰と滅亡のために予め定められた罪の量が彼らによって満たされるまでである。それが満ち、カナン人が追放され滅ぼされると、神はその場所と地域にヘブライ人を据えられたのである。

第二に注意せよ。アモリ人およびカナン人の悪は(レビ記18章、申命記9章および12章から明らかなように)主として三つであった。第一に、偶像崇拝であり、彼らは自分の子どもたちすら火で焼いて神々への犠牲に供した。第二に、寄留者と貧しい者への不正な圧迫。第三に、血族や近親との無差別な結婚。さらには言語に絶する淫行であり、男と男のみならず、獣とのものまであった。これらは甚だしく忌むべきものであったので、大地はもはやそれに耐えることができず、聖書が述べるように、彼らを吐き出さざるをえなかったのである。

第三に注意せよ。この世において神がとりわけ罰されるのは、人間社会にとって破滅的な公然として恥知らずな罪である。人間社会は主に三つのものによって成り立っている。第一に、神への宗教と敬虔。第二に、公正と正義。第三に、正しい生活の規律と善き行いの秩序。第一のものに対しては無神論と偶像崇拝が罪を犯し、第二のものに対しては略奪と無辜の者への圧迫が、第三のものに対しては無差別にして言語に絶する淫行が罪を犯す。

最後に、聖グレゴリウスはエゼキエル書第3章の「もし義人がその義を離れて不義を行うならば、わたしは彼の前につまずきの石を置くであろう」を解説して、次のように述べている。「義にして全能なる神が先行する罪に対して怒られるとき、盲目とされた精神がさらに他の罪にも陥ることをお許しになる――このことはわれらにおいて戦慄をもって考えられねばならない。」こうして神はカナン人が一つの、またもう一つの罪へと陥ることを許された。彼らの量が満ちるまでである。それゆえ罪を犯す免罰は、罪人に対してそのより重い罰と断罪のために許される神の大いなる罰である。したがってこの箇所から第一に学べ。われらが犯すいかなる罪も、いわば神の前で一つの積み重ねの中に入り、その量が満ちたとき確実な滅びがわれらの上に降りかかるのである。それゆえ罪を、小さなものであっても、軽いと考えてはならない。なぜならそれはこの積み重ねに何かを加えるからである。第二に学べ。神が速やかに罪を罰されるのは恩寵である。なぜならそれによって罪の積み重ねが減ずるからである。反対に、神が長く遅延し黙認されるのは神の大いなる怒りである。なぜならそのとき罪責の積み重ねが増し、それに伴って罰の積み重ねも増すからである。第三に学べ。神は不敬虔な者を一定の限界まで忍耐されるが、彼らは神の罰なくしてはその限界を越えることができない。第四に学べ。国家や都市において、あるいは君主やその他の人間において、罪がその頂点に達したとき、神の確実な復讐は間近である。それゆえわれらは速やかな悔い改めによってそれを避けようではないか。


第17節:煙る炉と火の灯

「闇が立ちこめた。」アブラムはこれらすべてを忘我の状態において見たのであり、七十人訳が第12節で述べるとおりである。聖アウグスティヌスも『再考録』第2巻第43章でそう述べている。

煙る炉。燃え上がり煙を噴き出す炉である。この炉は比喩的な炉の象徴であり像である。すなわちエジプトの隷属を意味し、ヘブライ人たちが窯で焼いた粘土と煉瓦における労役である。それゆえ彼らの隷属はエジプトの鉄の炉と呼ばれている(申命記4章20節)。

象徴的に、聖アンブロシウスは『アブラハムについて』第2巻第9章でこう述べている。「炉の似姿によって、人間の生が表現されているように思われる。この世の不義に絡みつかれ包み込まれた人間の生は、真の輝きの明晰さと純粋な光の輝きを持たず、内にあっては炉のように様々な欲望で煮えたぎり、渇望のある種の炎をもって喘いでいる。外面においてはあたかも一種の煙に覆われて、真理の顔を見ることができない。主イエスがその天上の灯火を、すなわちその栄光の輝きを向け給うまでは。」

火の灯。ヘブライ人は火の灯を松明、あるいは燃える薪と呼ぶ。したがってこの灯は燃える松明であり、神のしるしであった。神は旧約聖書において一般に火の中に現れ給うことを常とされたのであり、ヘブライ人への手紙12章29節で述べたとおりである。

注意すべきことがある。契約を結ぶ際に、契約を結ぶ者たちは分かたれた犠牲獣の間を通り抜ける習慣があり、もし契約を破るならば自らにも同様の死と分裂が降りかかるように呪いを唱えたのであり、第10節で述べたとおりである。したがって、この灯すなわち松明が動物の間を通過することによって、神はアブラムとの契約を確認し給うたのである。なぜなら、神に代わって天使がこの松明の中に表象され潜みつつ通過したからである。アブラムもまた神と契約を結ぶ者として、同じように通過した、あるいはむしろ自ら通過したように思えたと解すべきである。というのも、アブラムはこれらすべてを幻視において見ているように自ら思えたからである。

第二に、この灯すなわち松明は、火と雲の柱を意味していた。この柱によって神は紅海においてヘブライ人をエジプト人から分け給い(出エジプト記13章21節)、その後荒野を通って約束の地へと導き給うたのである。

さらに、この灯は神ご自身であり、その通過によってヘブライ人をエジプトからの脱出へといわば招き給うたのである。シラ書50章31節に「神の光はその足跡である」とあるとおりである。すなわち、先に行く光の、すなわち神の足跡に従うのである。なぜなら、火と雲の柱においてヘブライ人の陣営に先立ち給う神が、彼らを導き出し、荒野を通る道を示し先導し給うたからである。さらに、アレクサンドリアの聖クレメンスは『ギリシア人への勧告』において、輝き燃える火の柱そのものの中で神が民にこう語り給うたと述べている。「もし汝らが従うならば、光を与えよう。もし従わないならば、汝らに火を送ろう。」最後に、煙る炉は審判の日に不敬虔な者たちを悩まし苦しめる裁き主であり、通過する灯は短い煉獄であって、敬虔な者たちはそれによって精錬され、永遠の生命へと移るのである。

寓喩的に、この通過する松明は、神の栄光、信仰と恩寵がユダヤ人から異邦人へと移ることを意味していた。ルペルトゥスがそう述べている。

天的意味において、この松明は審判の日と世界の大火の炎を意味しており、選ばれた者と退けられた者、救われるべき者と断罪されるべき者を分かつのである。聖アウグスティヌスが『神の国』第16巻第24章でそう述べている。

最後に、分かたれた動物の部分の間を通過するこの松明は、鳩と山鳩とともにそれらを焼き尽くし燃やした。これはこのようにしてアブラハムの犠牲が完成されるためであり、またこのしるしによって神がアブラハムのこの犠牲を喜び給うことを証し給うためであった。なぜなら、このようにして神はアベル、ギデオン、マノア、ソロモン、その他の者たちの犠牲を火によって受け入れ給うたのであり、第4章第4節で述べたとおりである。聖ヨハネ・クリソストモスが説教第37番でそう述べている。


第18節:エジプトの川からユーフラテスまで

「エジプトの川から。」この川はナイル川の支流であり、リノコルラとペルシウムの間で地中海に注ぐ。それゆえ他の箇所ではエジプトの奔流、あるいは荒野の奔流と呼ばれている。これについてはリベラのアモス書第6章注解第15番を参照せよ。


第19節:十一の民族

「ケニ人。」注意すべきことがある。ヨシュアのもとで、ヘブライ人は七つの民族の土地のみを所有した。

こう問うであろう。では、ここで彼らに十一の民族の土地が約束されているのはどういうことか。ここでは十の民族が名を挙げられており、聖書が他の箇所で名を挙げるヒビ人を加えれば十一となる。アブレンシスは、この約束はヘブライ人のみならずアブラハムのすべての子孫に関わるものであり、したがって神はここにアブラハムの孫エサウとエドム人に帰すべき土地の部分、さらにアンモン人とモアブ人の子らに帰すべき部分をも含め給うたと答えている。彼らに対しては叔父アブラハムへの恩顧として二つの民族の領地を与え給うたのである。これら三つを差し引けば八つが残り、この八つのうちレファイム人すなわち巨人の土地は他の箇所でアモリ人のもとに含められている。したがってこれらを差し引けば、わずか七つの民族が残るのみであり、ヘブライ人は神の約束に従ってこれらを所有したのである。

しかし、これらすべてがエドム人やアンモン人やモアブ人ではなく、イサクとヤコブの子孫であるヘブライ人のみに関わるというのがより真実である。なぜなら、彼らこそ神がその約束を定め給うたアブラハムの種だからである。したがって聖アウグスティヌスはヨシュア記への質問第21番でより適切に答えており、ペレリウスも彼に従っている。すなわち、聖書においては二重の約束の地が置かれている。第一はヨシュアのもとでヘブライ人が所有した土地であり、わずか七つの民族を含むものであった。第二はダビデとソロモンのもとでヘブライ人が所有した土地であり、ユダヤ人の王国が最も栄えた時代のものであって、ここでアブラハムに約束されている十一の民族を包含する。ヘブライ人がソロモンのもとでこの土地のすべてに住んだというのではなく、そのすべてが彼らに従属し朝貢したということである。

第三に、最も適切な答えとして、聖ヒエロニムスとアンドレアス・マシウスがヨシュア記第1章第4節の注解で答えている。神がヘブライ人にここで約束された土地のすべてを与え給わなかったのは、彼ら自身が約束と契約の条件、すなわち神の律法と礼拝を守らなかったからである。それゆえ士師記の中で繰り返し述べられているように、カナン人はなおその地に住んでおり、神は彼らにエブス人を残し給い、彼らがイスラエルを試すようにされたのである。このゆえに、これらの民族は合計すれば十一であったにもかかわらず、一般には七つのみが挙げられるのであり、申命記7章1節およびヨシュア記24章11節に見ることができる。さらに、時には六つのみが挙げられることもある。というのも、ギルガシ人は数が少なく重要性が低かったために省略されており、聖書はこれを他の民族の中に含めているからである。