コルネリウス・ア・ラピデ
目次
序論
ヤコブは欺きによって父の祝福を兄から奪い取る。そのためエサウはヤコブを死をもって脅す。そこで母はヤコブにハランへ逃げるよう助言する。ここから学ぶべきは、神の御計画、約束、選びは堅固であって、神が創世記25:23において「兄は弟に仕える」と語られたごとく、いかなる人間の計らいもこれを覆すことはできないということである。
ウルガタ本文:創世記27章1-46節
1. イサクは老い、その目は霞みて見ること能わざりき。彼はその長子エサウを呼び、彼に言えり、「我が子よ」。彼答えて、「我ここにあり」と言えり。2. 父言えり、「見よ、我は老い、わが死の日を知らず。3. 汝の武具、すなわち箙と弓を取り、外に出でて、狩によりて何ぞ捕らえよ。4. しかして我が好む料理を作り、我に持ち来たれ。我これを食らい、わが死ぬる前に、わが魂が汝を祝福せんがためなり」と。5. リベカはこれを聞きしが、エサウは父の命を果たさんとて野に出で行きたり。6. リベカはその子ヤコブに言えり、「我は汝の父が汝の兄エサウに語るを聞けり、彼に言いて曰く、7. 『汝の獲物を我に持ち来たり、わが食らうべき料理を作れ。わが死ぬる前に、主の御前にて我は汝を祝福せん』と。8. されば今、わが子よ、わが助言に従え。9. 群れに行きて、二頭の上等の小山羊を我に持ち来たれ。我これより、汝の父が好む料理を作らん。10. しかして汝これを父に持ち行き、彼食らえば、彼は死ぬる前に汝を祝福せん」と。11. ヤコブは母に答えて言えり、「ご存じのとおり、わが兄エサウは毛深き者にして、我は滑らかなり。12. もし父が我に触れて気付けば、我が父を欺かんとせしと思わるるを恐る。さすれば祝福ならで呪いを我が身に招くならん」と。13. 母彼に言えり、「わが子よ、その呪いは我に帰せよ。ただわが声を聴き、行きて言いしものを持ち来たれ」と。14. 彼は行きて持ち来たり、母に渡せり。母はその父が好むを知れる料理を作れり。15. しかして母は、家にあるエサウの上等の衣服にて彼を着せ、16. 小山羊の小さき皮を彼の手に巻き、首の露なる部分を覆えり。17. しかして母は美味なる料理と、自ら焼きたるパンを彼に渡せり。18. ヤコブこれを携え行きて言えり、「父よ」。父答えて、「我聞く。わが子よ、汝は誰ぞ」と。19. ヤコブ言えり、「我は汝の長子エサウなり。汝の命じたまいしごとく我はなせり。起きて坐し、わが獲物を食らいたまえ。汝の魂が我を祝福せんがためなり」と。20. イサクは再びその子に言えり、「いかにかく速やかに見出すを得たるや、わが子よ」。彼答えて、「我が望むものが速やかに我に現れたるは、神の御心なりき」と。21. イサク言えり、「近う寄れ、わが子よ。我汝に触れて、汝がわが子エサウなりやいなやを試めさん」と。22. 彼は父に近付き、父は彼を触りて言えり、「声はまさにヤコブの声なり。されど手はエサウの手なり」と。23. しかして父は彼を見分けざりき。なぜなら毛深き手は兄に似ていたからなり。父は彼を祝せんとして、24. 言えり、「汝はわが子エサウなるか」。彼答えて、「然り」と。25. 父言えり、「わが子よ、汝の獲物の料理を我に持ち来たれ。わが魂が汝を祝福せんがためなり」と。彼が差し出したるものを父食らい、また酒を持ち来たれば、父これを飲みたり。26. しかして父彼に言えり、「わが子よ、近う寄り、我に口づけせよ」と。27. 彼は近付き、父に口づけせり。父はその衣服の香りを感ずるや、彼を祝して言えり、「見よ、わが子の香りは、主の祝したまえる豊かなる野の香りのごとし。28. 神は汝に天の露と地の肥沃さ、穀物と葡萄酒の豊かさを与えたまえ。29. 諸民は汝に仕え、諸族は汝を拝せん。汝は兄弟の主となり、汝の母の子らは汝の前にひれ伏さん。汝を呪う者は呪われ、汝を祝する者は祝福に満たされん」と。30. イサクが言葉を終えるや否や、ヤコブが出で行きしとき、エサウ来たれり。31. 彼は狩りて煮たる料理を父に持ち来たり、言えり、「父よ、起きて、汝の子の獲物を食らいたまえ。汝の魂が我を祝福せんがためなり」と。32. イサク彼に言えり、「汝は誰ぞ」。彼答えて、「我は汝の長子エサウなり」と。33. イサクは大いなる驚愕に打たれ、信じがたきほどに驚きて言えり、「ならば、先に獲物を持ち来たり、汝の来たる前に我がそれを食らいし者は誰ぞ。我はこれを祝せり、しかして彼は祝福さるべし」と。34. エサウは父の言葉を聞きて、大いなる叫びを上げ、絶望して言えり、「父よ、我をも祝したまえ」と。35. 父言えり、「汝の兄は欺きて来たり、汝の祝福を奪い去れり」と。36. 彼答えて、「彼の名がヤコブと呼ばるるはまことにふさわし。彼はすでに二度も我を取って代われり。先には我が長子の権を奪い、今また我が祝福を盗めり」と。さらに父に言えり、「我にも祝福を残したまわざりしや」と。37. イサク答えて、「我は彼を汝の主とし、彼のすべての兄弟を彼の僕として服せしめ、穀物と葡萄酒もて彼を立たせたり。されば、わが子よ、これより以後、汝のために我は何をなし得んや」と。38. エサウ言えり、「父よ、汝の祝福はただ一つのみなるか。願わくは我をも祝したまえ」。彼大いなる嘆きをもって泣きしとき、39. イサクは心動かされて、彼に言えり、「地の肥沃さと、上よりの天の露の中に、40. 汝の祝福あらん。汝は剣によりて生き、汝の兄に仕えん。されど時至らば、汝はその軛を汝の首より振り落として解かん」と。41. エサウは、父が祝福を授けたるそのことゆえに、常にヤコブを憎み、心の内に言えり、「父の喪の日々来たらん。その時に我は弟ヤコブを殺さん」と。42. これらの事はリベカに伝えられしかば、彼女は人を遣わして子ヤコブを呼び、彼に言えり、「見よ、汝の兄エサウは汝を殺さんと脅しおる。43. されば今、わが子よ、わが声を聴き、立ちて、ハランにいる我が兄ラバンのもとへ逃げよ。44. しかして汝はわずかの日々彼とともに住め。汝の兄の怒りが鎮まり、45. その憤りが止み、汝が彼になしたることを忘れ去るまで。その後、我は使を遣わして汝をここへ連れ戻さん。なにゆえ我は一日のうちに二人の子を失うべきや」と。46. リベカはイサクに言えり、「我はヘトの娘らのゆえに、わが命に飽きたり。もしヤコブがこの地の血筋より妻を娶らば、我は生くるを欲せず」と。
第一節:イサクは老いた
イサクは老い。 ヤコブが兄から祝福を奪ったその年、イサクは百三十七歳であり、エサウとヤコブはそれぞれ七十七歳であった。というのは、まさにこの七十七歳の年、ヤコブは兄の祝福を奪った直後、その怒りを恐れて、母の助言に従いメソポタミアに逃れたからである。このことは、ヨセフがヤコブの生涯の九十一年目に生まれたことから明らかである。ヨセフは父がメソポタミアに逃れてから十四年後、すなわちヤコブがそこでラケルとレアのためにラバンに十四年間仕えた後に生まれた。これについては、創世記30:25において詳述する。それゆえこのヤコブの逃亡はヤコブの生涯の七十七年目に起こったのである。なぜなら、この七十七年からヨセフが生まれた九十一年までには、まさに先述の十四年が介在するからである。エウセビオス『福音の準備』第九巻第四章にこのとおりある。アブレンシス本章「問一」、およびペレリウス本章序文を見よ。この後イサクはなお四十三年生き、その齢百八十年において没した。
そしてその目は霞みて、これは老齢のためでもあり、また度重なる病のためでもある、と聖アウグスティヌスは『神の国』第十六巻第三十章で述べている。
ここにイサクの長き忍耐に注目せよ。彼は四十四年の間、すなわち上述のごとく百三十七歳から、その没した百八十歳まで、盲目に耐えたのである。聖シュンクレティカは『教父伝』において優れたことを語った。「もし我らに病が訪れんとも、悲しむなかれ。それは肉の欲を打ち砕くために我らに益するからである。もし我らが目を失わんとも、これを重く受け止むるなかれ。なぜなら高慢の道具を失いたるなり。もし我らが聴くを得ずなりても、嘆くなかれ。なぜなら虚しき聞くことを失いたるなり」。
ゆえに同じ箇所において、別の聖なる隠修士がかく言った。「最も高き敬虔は、病の中において人が神に感謝することなり。というのは、ちょうど身体の病が強く力ある薬によって癒されるごとく、身体の病によって心の悪徳は鈍らされるからである。汝が鉄なれば、試練の火を通して汝の錆を失う。汝が金なれば、いっそう輝かしく純粋となる。それゆえ聖なる教父たちは、常に病にあらんことを願ったのである」。
同じ箇所で、聖パコミウスの仲間ポレモンは、脾臓の痛みに激しく苦しめられ、兄弟たちから何らかの治療を施すよう請われたとき、こう答えた。「キリストの殉教者たちのある者は切り裂かれ、ある者は首をはねられ、ある者は火に焼かれた。それでも信仰のために最後まで雄々しく耐え忍んだ。それなのに、なにゆえ我は、わずかな痛みに堪えかねて、忍耐の報いを投げ捨て、現世への執着のゆえに一時の苦しみをむなしく恐れるべきか」。
同じ箇所において、ディディムスについて読まれる(彼は八十年間盲目であったが、聖書に最も精通していたため、聖ヒエロニムスは彼を自らの「見る者」と呼んだ)。聖アントニオスから、目を持たないことを悲しんでいるかと問われ、彼がそれを否定しなかったとき、アントニオスからこう聞かされたという。「私は驚く。賢明なる者が、蟻や蚤すらも持っているものを失ったことを嘆き、聖人と使徒のみが受けるに値したものを所有することを喜ばないとは。なぜなら、肉によってではなく霊によって見ることのほうがはるかに優れており、罪の塵すら入ることのない目を所有するほうが、見ることだけで欲によって人を地獄の滅びに送り得る目よりも、はるかに優れているからである」。
ゆえに福者クレルヴォーのペトルスは、病の力によって片目を失ったとき、片目でこう語った。「私は敵の一つから逃れた。残った一つを、失ったほうよりも恐れる」。それゆえ、心が散らされず、ただ一つに集められて観想に専念せんがために、自ら目を抉り出した哲学者たちもいた。信徒たちのうちでは、聖アウドマルス、聖アクィリヌス、その他の者が神に盲目を願い求めて得たことが伝えられている。盲目であったローマの司祭聖ピグメニウスは、ジュリアヌス背教者に出会い、彼から「ピグメニウスよ、汝を見ることができることを神々に感謝する」と聞かされたとき、こう答えた。「私は私の神に感謝する。あなたを見なくてよいことを」。それゆえ彼は、暴君を軽蔑したのと同じく雄々しき魂をもって、自らの盲目に耐えた。その後、殉教の冠を授けられて、彼は目が見たことのなきものを見、耳が聞いたことのなきものを聞き、人の心に上りしことのなきものを悟り始めたのである。
第二節:イサクは自らの死を熟慮する
見よ、我は老い、わが死の日を知らず。 見よ、いかにイサクが四十三年もの間、ここでよく考えて自らの死を熟慮し、それを不確実なものとして日々待ち、それに対して自らとそのすべての事柄を備えたかを。それゆえ彼はその行いによって我らに教える。我らの生は、プラトンが言ったように、死の黙想にほかならぬべきであると。なぜなら死は確実であり、必ず我らに訪れる。しかしその日と時は不確実だからである。
第三節:私のために美味なる料理を作れ
狩によりて何ぞ捕らえなば、我に美味なる料理を作れ。 ヘブライ語ではmatammimを私に作れ、すなわち美味、つまりより繊細な食物の料理であって、味覚を喜ばせるものを言う。なぜなら、これは子の祝福の幸いなる、喜ばしき、厳粛なる日であり、それゆえ喜ばしき楽しい祝宴をもって祝うべきものであったからである。リポマヌスはかく述べている。
問うて言えるであろう。なぜイサクは、家に鶏や子羊を手元に持っていたにもかかわらず、エサウを祝福しようとする前に、それらではなく狩からの野獣の肉を求めたのか、と。私は答える。第一に、イサクは創世記25:28から明らかなように、エサウが狩から持ち来たった野獣の肉を食べることに慣れており、したがってそれによっていっそう養われ、喜びを得たからである。第二に、イサクは、エサウがこの服従と狩の奉仕とを通して、祝福を受けるための準備をすることを望んだからである。トマス・アングリクスはかく述べている。第三に、イサクは知らずして神に動かされてエサウを狩に送り出したのである。それは、その間にヤコブがエサウに先んじて祝福を奪い取ることができるためであった。なぜなら神は、長子の権においてヤコブをエサウより重んじることを定めておられたからである。
道徳的解釈においては、ここでイサクは、霊的なものを与える者は世俗的なものを要求し得ること、すなわち、教え、祈り、民を祝福する司祭と牧者は、民によって養われるべきことを教えている。
第七節:主の御前にて
主の御前にてとは、主が見、聞き、招かれ、同意し、霊感を与えたもうことを言う。オレアスター、ペレリウス、その他もかく述べている。ここに、神がそのみ業と約束を成就されることにおいていかに不思議であるかを見よ。父がエサウを祝福しようと決意していたゆえ、ヤコブは自らが祝福されることほど望み得ぬことはなかった。それでも祝福はヤコブ自身に及んだのである。逆に、エサウは父が彼にこのように語ったとき以上に祝福を受けることを確信したことはなかった。それでもまさにそのときに彼はそれを失ったのである。それゆえ、たとえすべてのことが汝に逆らって起ころうとも、神に信頼することを学べ。望みなきにおいて望みのうちに信ずることを学べ。
第十一節:ヤコブは滑らかな肌である
我は滑らかなり、すなわち滑らかな肌の者であり、エサウのごとく毛深くないということである。
第十二節:リベカの信仰と勇気
その呪いは我に帰せよ、これはリベカが、聖ヨハネ・クリソストモスが望むように、本当に子の代わりに父の呪いと罰を自らに受けようと欲したという意味ではない。彼女がこのように語るのは、幸いなる結果について確信していたからである。なぜなら、神がそのように約束したまえることを、創世記25:23より知っていたからである。それはあたかもこう言うかのようである。「汝は父の怒りをいたずらに恐る。それから受くる危険は何もない。我が保証する。否、もし汝が躊躇い疑うのであれば、私は彼のすべての怒りを我が身に受けよう」と。テオドレトスはかく述べている。
ここで第一に、リベカに「兄は弟に仕える」と言われた神の言葉に対する揺るぎなき信仰を見よ。第二に、彼女自らがその子に祝福を求めるよう教え、もし父によって、しかも聖なる人によって祝福されるならば、子は幸いとなると判断している。他の母らはその子を虚しさと罪に育てる。第三に、彼女は夫が、主の御心に反して長子を祝福しようと欲する点で誤っていることを知りながら、夫と争わず、力をもって抵抗もせず、ひそかに、神が定められた者に祝福が及ぶよう取り計らう。第四に、年老いた父が欺きに気付いて動揺せぬよう、あらゆる仕方で配慮する。第五に、彼女は年老いた夫に対して心遣い深く、夫が好んで食べたる料理を備える。第六に、エサウの怒りを和らげるために、賢明にもヤコブを正している。
道徳的に、両親はその子らを等しく愛し、一人を他人より優先すべきでないこと、もし優先するのであれば、別の仕方で補うべきことを、聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻第二章において、エサウに対するイサクの愛情と、ヤコブに対するリベカの愛情から教えている。「両親の間における善き競い合いを認めよ」と彼は言う、「母は愛情を示し、父は判断を示せ。母は柔らかなる愛情をもって弟のほうに傾き、父は本性の名誉を兄に対して保て。父はより敬い、母はより愛せよ。一方が減じることを、他方が補え」。
第十四節:ヤコブは小山羊を持って来る
彼は持って来た、母が求めた二頭の小山羊を。これは、プロコピウスが望むように、父が二頭の小山羊を平らげるほどに頑健で大食であったというのではなく、母は二頭の小山羊からより繊細な部分を切り分け、父に差し出すつもりだったからである。ディオドロスとアブレンシスはかく述べている。
道徳的に、聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻第二章でかく言う。「神託によって優先された者が勝った。勤勉が遅鈍に勝ち、柔和が荒々しさに勝った。一方が荒々しき狩によって粗野なる獲物を求める間に、他方は穏やかなる性質の食物を備えるのである」と。
第十五節:エサウの衣服
非常に上等な。ヘブライ語ではchamudot、すなわち望ましきものである。七十人訳では「美しき」とある。それゆえ母はそれらを箱の中に香料の間に保管していた。それらが芳しい香りを帯びていたことは二十七節から明らかである。
寓意的に、エサウの衣服、すなわち旧約の預言、祭司職、聖典は、ユダヤ人からヤコブへ、すなわちキリスト者へと移された。聖アンブロシウスはかく述べている。
第十六節:小山羊の小さな皮
そして小山羊の小さな皮を、ヤコブが毛深かったエサウのごとく見えるためである。
彼の手に巻いた、手袋のようにである。なぜなら、そうでなければ、ヤコブは手を使わざるを得ず、それによって父に食物を運び、給仕しなければならなかったからである。
寓意的に、ヤコブはキリストである。キリストは小山羊の皮をまとった、すなわち我らの罪を自らに引き受け、それを贖うためであった。聖アウグスティヌスは『嘘について駁す』第十章で、またプロスペルは『説教集』第一部第二十一章でかく述べている。
首の露なる部分、すなわち首の柔らかさと滑らかさである。ヘブライ語ではこう言う。
第十九節:私はあなたの長子エサウです
汝は誰ぞ。 ヤコブの声がイサクに疑念と疑問を引き起こし、語っているのがヤコブなのかエサウなのか定かでなくなったため、彼は問うのである、「汝は誰ぞ」と。
ここに学べ。神は時として義人らをある程度無知のままにし、欺かれ、躓き、騙されることをお許しになる。それは彼ら自身が自らを知るためである。このように聖なるイサクは、神の祝福がエサウにおいて成就されると考えていたが、誤っていたのである。第二に、神は時として、大いなる者には隠されたことを、小さき者に啓示される。このように、イサクが知らなかったことがリベカに啓示されたのである。同じことをキリスト自身が告白されている、マタイ11:25。
我は汝の長子エサウなり。 問うて言えるであろう。ヤコブはここで嘘をついたのか、罪を犯したのか、と。第一に、オリゲネス、カッシアヌス、聖ヨハネ・クリソストモスは、プラトンに従って、ヤコブは確かに嘘をついたが、合法的に、罪なしであったと判断する。なぜなら時として、嘘を、あたかもヘレボロスのごとく、また我らが医薬において毒物を用いるごとく、用いることが許されるからである、と。しかしこれは教会によってすでに宣告され、断罪された誤りであり、これに反して聖アウグスティヌスは『嘘について駁す』を著した。
第二に、ガブリエル『命題集』第三巻第三十八区分、およびアイリ『命題集』第一巻第十二問の終わりで、それ自体としては嘘をつくことは許されないが、神が許しを与えたもうときには嘘をつくことが許されると判断している。しかし聖アウグスティヌスとともに博士たちの共通の見解は、嘘はその本性において悪であり、したがって神によっても許しを与えられ得ない、ということである。なぜなら、嘘はそれ自体として真理の本性と徳に反するからである。それゆえ、聖書はあらゆる嘘を絶対的に禁じている、シラ書7:14。
第三に、より優れた解釈として、聖アウグスティヌスは『嘘について駁す』第十章において、これを比喩的表現と判断している。なぜなら、ちょうどマタイ11:14において、洗礼者ヨハネがその位格においてではなくその霊において、エリアと呼ばれているように。またトビト記5:18において、ラファエルが自らを、「神の助け」を意味するアザリア、すなわち「神の恵み」を意味するアナニアの子であると言っているように。同様にヤコブは、自らを、名と位格においてではなく、創世記25:23において神より授けられた権利と長子の権においてエサウであると言っているのである。それゆえ彼は「汝の命じたまいしごとく我はなせり」と言う。なぜなら、汝の本来の意図は、汝の長子に料理を持ち来て父の祝福を受けるよう命じることであった。そして長子は私である。「それゆえわが獲物を食らえ」、これを私は野においてではなく、家畜小屋において狩ったのである、と。
しかし真に言うならば、ヤコブは母の促しと、衣服と、行いと、言葉とによって、エサウの権利のみならず、その位格についても嘘をついたように思われる。なぜなら彼は、エサウの位格を慎重に確かめている父に、あらゆる仕方で自らがエサウ自身であることを納得させようとしているからである。それゆえ彼は嘘を言うのである、「汝の命じたまいしごとく我はなせり」、また「わが獲物を食らえ」と。あたかもこう言うかのごとくである、「私は武器と弓を取り、狩をした。見よ、私が捕らえて煮た野獣を。これを食らえ」と。聖ヨハネ・クリソストモス、リラヌス、カイェタヌス、リポマヌス、ペレリウス、その他の者がかく述べている。
さらに、これらの言葉は両義性と何らかの細やかな心の留保によって弁明し真と言うこともできようが、ヤコブはそのような留保を持っていなかったように思われる。なぜなら、彼はそれほど精妙ではなく、そのような大事を心の内に巡らしてはいなかったからである。むしろ彼は単純で、まっすぐで、率直であった。そして兄から狡知と欺きによって祝福を奪い取るこの仕事において、彼は単純に母に従い、母が示唆したことを何でも行ったのである。それゆえ彼は、三十五節において、父からも欺きを行う者と呼ばれている。
第二に言う。ヤコブのこの嘘は害をなすものでも、誰かに不正を為すものでもなく、便宜的なものであった。したがって、それはただ小罪であった。なぜなら、長子の権利は神の賜物として彼に負うべきものであり、したがって、それを狡知によってエサウから奪い取ることによって、彼はエサウに何の不正もなさず、ただ自分のものを自分のために主張したからである。トスタトゥス、リポマヌス、カイェタヌスはかく述べている。さらに、母とヤコブとは、おそらく不可抗的な無知から、オリゲネス、カッシアヌス、聖ヨハネ・クリソストモスが考えたごとく、すなわちこのような場合と必要において嘘をつくことが許されると考えたかもしれない。
汝は言うであろう。「ここには奥義があった。それゆえ嘘ではなかった」と。前提は明らかである。なぜなら、ヤコブが衣服とエサウの位格をまとうことは、我らの罪と罰とを自らに受けたキリストを表していた。さらにそれは、使徒がローマの信徒への手紙9および10で説明するごとく、異邦人がアブラハムの子としての身分と祝福、すなわち恩寵、義、救いにおいて、ユダヤ人に代わって置かれるべきことを表していた。
私は答える。この奥義は、寓意的にそれを示そうとされた神と聖霊の側にあったが、嘘はヤコブの側にあった。なぜなら、彼は文字通りの意味で、自らが位格においてエサウであることを父に納得させようとしたからである。それゆえ、今述べた神の奥義は彼を弁解しない。とりわけ彼は当時その奥義を知らなかったように思われるからである。さらに、この奥義とこの神秘的意味は、ヤコブの嘘の上に成り立っているのではない。なぜなら、真理は虚偽の上に成り立ち得ぬからである。それはヤコブの行いの上に成り立っているのである。彼は父に自らを差し出し、あたかも自らがエサウであるかのように振る舞った。なぜなら、行いはしばしば嘘から弁解され得るが、言葉はそうはいかないからである。なぜなら、言葉は事柄と語る者の心とを限定的かつ確定的に表すが、行いはただ漠然と不確定にしか表さないからである。それゆえ行いは、行為者の意図によってこちらにも、あちらにも曲げられ、限定され、これあるいはあれを表すよう向けることができる。このように喜劇における役者たちは、自らがあたかも王であり君主であるかのごとく、王や君主の行いを行うことによって、嘘なくして他人の位格を演じるのである。
起きて坐し、食らえ。 イサクは老齢と衰弱のゆえに寝床に横たわっていた。それゆえ、ヤコブは彼に食事のために起き上がるよう求めるのである。
神秘的解釈において、聖アンブロシウスは『イサクについて』第五章でかく言う。「聖人らの寝床はキリストである。そこにおいて、世俗の戦いに疲れた万人の心が安息を見出す。この寝床にイサクは安らぎ、年下の子を祝福したのである」と。
第二十二節:ヤコブの声、エサウの手
声はまさにヤコブの声なり。されど手はエサウの手なり。 このように寓意的に、キリストの声は神の子の声であったが、人々が見、また触れた手と外見とは、ありふれた、死すべき、惨めな人間の手と外見であった。それゆえ、聖ベルナルドゥスは『雅歌講話』第二十八講話でかく言う。「キリストにおいて聞かれることは彼自身のものであり、見られることは我らのものである。彼が語ることは霊であり生命であり、現れているものは死すべきものであり死である。一つは見られ、別のものが信ぜられるのである」と。
ゆえに同じ箇所で彼は、真理の認識は視覚よりも聴覚を通して受けられると教えている。「族長の目は霞み、口蓋は欺かれ、手は欺かれるが、耳は欺かれない」と彼は言う。「もし耳が真理を捉えるならば、何の不思議があろうか。信仰は聞くことから、聞くことは神の言葉を通して、そして神の言葉は真理であるからである。声は、と彼は言う、ヤコブの声である、これより真なるものはない。しかし手はエサウの手である、これより偽なるものはない。汝は欺かれている、手の似姿が汝を欺くのである。味にも真理はない、たとえ甘さがあったとしても。なぜなら、家畜の小山羊の肉を食べているのに、自らが獲物を食べていると考える者にどうして真理があろうか。まして目はなおさらである、それは何も見ないのだから。目には真理はなく、知恵もない。ただ聴覚のみが、言葉を捉えるがゆえに、真理を持つのである」と。
同じことが聖体において明らかである。聖体においては、手、味、触は欺かれている。彼らはそれをパンであると感じ、味わい、判断するからである。しかし声のみは欺かない。なぜならこれは神の子の声であり、欺かれることも欺くこともできぬ御方であって、こう言いたもうのである、「これはわが体である」と。
第二十三節:イサクは祝福の準備をする
ゆえに彼を祝福して。すなわち、祝福しようと意図し、そのための準備をしているということである。なぜなら、ここでの「祝福」という語は、完了した行為ではなく、始められ意図された行為、すなわち祝福のための意図と準備そのものを意味するからである。イサクはここでヤコブを祝福しているのではなく、続く箇所において祝福するのである。
第二十七節:ヤコブの衣服の香り
彼が感じ取ったとき。ヤコブがその衣服から放った香りの匂いは、善き老人イサクの心をかくも爽やかにし喜ばせたので、彼は喜びに満たされ、子への愛に燃え立ち、その祝福へとほとばしり出たのである。
この箇所から明らかなのは、指導的な人々や貴族たちの衣服を貴重な香油や香料で香らせることは、最も古い慣習であったということである。同じことは、雅歌4:11の「あなたの衣服の香りは乳香の香りのようである」、また詩編45:9の「没薬と沈香と肉桂があなたの衣服から薫る」からも明らかである。
見よ、わが子の匂いを。「見よ」のところをヘブライ語では「見る」となっており、あたかも「わたしは見る、すなわちわたしは感じ取り、感じ、わが子の素晴らしい香りを嗅ぎ取る」と言うがごとくである。なぜなら「視覚」はあらゆる感覚を表すために用いられるからであり、これは他の箇所で述べた通りである。
満ち溢れた畑の匂いのように、花々と果実をもって咲き誇っている畑のように。これらは甘く香り高い息吹を放ち、それによって人々は驚くべき仕方で爽やかにされるのである。「満ち溢れた」という語はヘブライ語にもカルデア語にもないが、ギリシア語にはある。
比喩的解釈においては、徳の香りについてはここでルペルトゥスを、また聖アウグスティヌスの『神の国』第十六巻第三十七章を、そして聖グレゴリウスの『エゼキエル講話』第六講話を見よ。聖グレゴリウスは次のように言う。「葡萄の花は別様に薫る。なぜなら、説教者たちの徳と評判は偉大であり、彼らは聞く者たちの心を酔わせるからである。オリーブの花は別様に薫る。なぜなら、慈悲のわざは甘美であり、油のように和らげ光を与えるからである。薔薇の花は別様に薫る。なぜなら、肉の白い生は処女の不朽性に存するからである。すみれの花は別様に薫る。なぜなら、へりくだった者たちの徳は偉大であり、彼らは望みによって最後の場所を保ち、謙遜によって地から高きへと自らを上げず、心のうちに天の御国の紫を保つからである。穀物の穂は熟したときに別様に薫る。なぜなら、善きわざの完成は、義に飢えている者たちを満たすために用意されているからである。」
主が祝福された。神によるこの畑の祝福は、イサクがここで説明するように、三つのものに存している。第一は、甘く香り高い匂いであり、これについて彼はここで「満ち溢れた畑の匂いのように」と言っている。第二は、「天の露」である。彼は雨ではなく露と言っているが、それはパレスチナでは年に二度、すなわち十月、彼らが種を蒔くときに、種が芽を出すように雨が降り、それゆえ聖書において「先の雨」と呼ばれるからである。次に四月に、作物が熟するように雨が降り、これは「後の雨」と呼ばれる。それゆえ、その間の期間には、畑は絶えず露を必要とし、そうして作物と収穫が乾き果てることなく、養われ、育てられ、生長するのである。第三は、「地の肥沃」、すなわち地が砂地でなく、水ばかりでなく、痩せ衰えていず、豊かで、ほどよく乾き、いわば若々しいものであって、豊かな子孫と果実を産み出すことができるということである。
寓意的には、これらの祝福はキリストにおいて成就した。聖アウグスティヌスが『神の国』第十六巻第三十七章で教える通りである。比喩的には、すべての義人の魂において成就した。聖グレゴリウスが『エゼキエル講話』第六講話で教える通りである。終末論的には、祝福された者たちにおいて成就した。聖イレナイオスが第五巻第三十三章で教える通りである。
第二十九節:ヤコブの四重の祝福
諸民族があなたに仕えるように、あたかも次のように言うがごとくである。あなたの子孫、すなわちダビデ、ソロモン、マカバイ家に対し、エドム人、ペリシテ人、アラブ人、アンモン人、その他の諸民族が服従するであろう、と。
この祝福の四つの部分に注意せよ。これはヤコブに対する四重の祝福である。第一は、富に関するもので、彼が「神があなたに天の露を賜るように」等と言うときの祝福である。第二は、支配に関するもので、彼が「諸民族があなたに仕えるように」と言うときの祝福である。第三は、兄弟たちの間での卓越に関するもので、彼が「あなたの兄弟たちの主となれ」と言うときの祝福である。これらの言葉によって、ヤコブはエサウに対する権利と支配権を受けた。しかしこの権利と支配の執行は、彼自身においてではなく、その子孫において受けたのであり、エサウの子孫、すなわちエドム人がダビデの下で仕えたときに成就した。第四は、彼が「あなたを呪う者は呪われ、あなたを祝福する者は祝福で満たされるように」と言うときの祝福である。これは神の好意に関するものであり、あたかも次のように言うがごとくである。神はあなたとあなたの子孫の大義を取り上げられ、あなたの友も敵も、ご自身のものとみなされる。すなわち敵を呪い、これに悪をなし、友を祝福し、これに善をなされる、と。
注意せよ。これらの祝福は、一部は祝福であり、一部は預言である。なぜならイサクは預言の霊によって、これらの言葉をもって、ヤコブとイスラエル人に神および神の好意から将来到来すべきことを、呼び求めると同時に予告しているからである。
第三十三節:イサクは大いなる驚きに打たれる
イサクは激しい驚きに打たれた。七十人訳では、「イサクは非常に大いなる脱魂状態に捕らえられた」となっている。それゆえ、聖アウグスティヌス(『問題集』第八十問)は言う。この恐怖と驚きの中で、脱魂状態に捕らえられたイサクは、続くことを見、語った。それゆえ彼は心を変え、欺きによって兄から祝福を盗み取ったヤコブに対して怒らず、かえってその祝福を確認したのである。実にこの忘我の状態において、神はイサクに、ヤコブのこの行為が、行為の実質、すなわち長子権の盗取・先取・自身による代替に関しては(その態様、すなわち嘘に関してではないが)、ご自身の合図と促しによってなされたことを示された。なぜならヤコブは、エサウではなく、アブラハムとイサクになされた約束の長子かつ後継者として、神によって指定されていたからである。それゆえ神は、イサクがこれらのことを承認することを望まれた。それゆえイサクは、ただちに神に従順となり、エサウからヤコブへと心を変えて、「そして彼は祝福されるであろう」と言ったのである。聖ヒエロニムス、アルクイン、聖アウグスティヌス(『神の国』第十六巻第三十七章)も同様である。
第三十四節:エサウの祝福を求める叫び
彼は咆哮した、獅子のごとくに。彼の悲しみだけでなく、その凶暴さと激情を、咆哮のような大きな叫びをもって表したのである。
フィロとウセビオスの判断によれば、エサウがかく咆哮したのは、失われた祝福への悲しみからというよりも(これも彼を刺したのではあるが)、むしろ兄の昇進への嫉妬からであった。とりわけ父が兄を彼自身よりも優先し、彼を兄に従属させたからである。
わたしをも祝福してください。ヘブライ語ではより悲痛な響きを持つ。「わたしをも祝福してください。わたしを、わが父よ」、すなわちあたかも「わたしはあなたの子であり、まことの長子であり、これまであなたにとって最も愛しい者であり、あなたが少し前にこの祝福を約束された者であります。今、兄の策略によって先んじられ、あなたの命令に従って、あなたが望まれたものを準備するため狩りに出かけたために、この損失を被ったのです。それゆえあなたがわたしをも祝福されるのが当然です」と理解させるかのごとくである。
先んじて。この語はヘブライ語にもカルデア語にもギリシア語にもない。ここでの「先んじて」は「より前に」と同じである。我々は普通、用心深く勤勉で鋭敏な人について、「ずっと前に、彼はすでにあなたを出し抜いた」と言う。ここでヤコブがエサウを出し抜いたのと同様である。なぜなら、ヤコブが父のもとから出るやいなや、エサウが到着したからである。これは第三十節から明らかである。これについて聖ヨハネ・クリソストモスは第五十三講話で、神に従う者たちへの神の摂理を驚嘆している。なぜなら神は、ヤコブが祝福を受けて去るまで、エサウが戻らないように取り計らわれたからである。「ここから学ぼう」と彼は言う。「主の御意志に従って自らの事柄を運ぼうと望む者は、天の助けによって大いに助けられ、それを実際に経験することは明らかである、と。」
第二には、「先んじて」は、ヤコブの出立ではなく、彼が捕らえた獲物と父に持参した食物のことを指していると考えることもできる。なぜなら父は、ヤコブとともに食べたり語ったりすることに少しばかり多くの時間を費やしたからである。
そして彼は祝福されるであろう。あなたは言うであろう。人物の取り違えは人間の契約、特に婚姻を無効にする。それゆえこのイサクの祝福もまた無効となるはずである。なぜなら彼は誤って、ヤコブを祝福しつつ、彼ではなくエサウを祝福しようと考え、意図していたからである。さらに、ヤコブは策略と欺きによって入り込んだのであり、欺きは誰の利益にもならないはずである。法の規則がそう定めている、と。
ペレリウスは、その帰結を否定することによって答える。なぜならイサクは、その第一の意図——すなわち長子であった者、または神が長子となることを望まれた者を祝福すること——に関しては人物の取り違えにはなかったからである。そしてその者はエサウではなくヤコブであった。彼は確かに第二の意図において誤っていた。それによって彼は、エサウを長子だと考えてエサウを祝福しようと意図していた。それゆえ、神の促しによってこの誤りを認め、自らの意図を正して、「そして彼は祝福されるであろう」と言ったのである。すなわち、わたしが先に祝福したヤコブのことを言ったのである。さらに、ヤコブの策略は悪ではなく、善であった。なぜなら彼はそれによって、自分の権利、自分のもの、すなわち長子権を主張したのであり、それは不正で乱暴な所有者エサウからは他の方法では得られなかったからである。
さらに、これは祝福というよりもむしろ預言であり、イサクの舌を動かしてヤコブを祝福させたのは、イサクというよりもむしろ神であった。
問うであろう、なぜエサウはかくも熱心にしつこく父の祝福を求めたのか、と。わたしは第一に答える。長い経験を通じて、当時の人々は、父の祝福——あるいは呪い——が極めて大きな力を持ち、しばしば子らに対して効力を持つことを学んでいたからである。今日もまれならず起こることである。シラ書3:11において賢者は言う。「父の祝福は子らの家を堅くし、母の呪いはその基を引き抜く」と。かくしてセムとヤフェトはノアによって祝福された。「セムの神なる主はほむべきかな、カナンは彼のしもべとなれ、神はヤフェトをひろげたまえ」等、創世記9:26。彼らはまさに同じものを神から得たのである。同じくヤコブが創世記48:20でエフライムとマナセに与えた祝福、また創世記49で十二人の子らに与えた祝福。同じくモーセが申命記33で十二の部族に与えた祝福は効力を持ち、実際に成就した。同じくトビトが第五章二十一節で子に与えた祝福。「あなたの旅が幸あれ、神があなたとともに旅にあられ、その御使いがあなたに伴われるように」。また舅ラグエルがトビアと妻サラに与えた、第十章一節の祝福は効力を持った。それゆえ聖アンブロシウスは『族長たちの祝福について』第一巻第一章で言う。「我々がいかに親に対して尊敬を負っているかは、創世記27を読めば明らかである。父によって祝福された者は誰でも、まことに祝福された。それゆえ神は、子らの敬虔が掻き立てられるよう、この恵みを親に与えられる。それゆえ、親の特権は子らの規律である。」かくして父マッタティアの祝福によって、マカバイ家は戦いにおいて勇敢かつ無敵となったのである。マカバイ記一第二章六十九節以下を参照せよ。
逆に、父ノアによって呪われたハムは、そのカナン人の子孫すべてにおいてまさにそのように現れた。同じくヤコブによって近親相姦のゆえに呪われたルベンも同様であった。レビとシメオンも同じことが起こった。創世記49:4-5。それゆえ聖アンブロシウスは上記の箇所で結論づけて言う。「敬虔な者は恵みのために父を敬い、不敬な者は恐れのために敬うがよい。」
聖アウグスティヌスは『神の国』第二十二巻第八章において、母によって呪われた十人の子らに関する記憶すべき例を挙げている。彼らは即座に手足のひどい震えに襲われ、それゆえほとんどローマ世界全体をさまよった。そのうち二人は聖ステファノの遺骸において癒されたのである。
第二には、瀕死の父のこの祝福によって、長子が宣言され、アブラハムになされた約束の後継者が宣言された。ヤコブがここで宣言されたのと同様である。ルペルトゥスはそう言う。
第三十六節:ヤコブの名と取って代わること
正しく(正確に、まことに、適切に——ヘブライ語ではそうである)彼の名はヤコブと呼ばれた。彼は二度わたしを取って代わったからである。ヤコブとは「踵を握る者」「取って代わる者」と同じ意味である。彼が誕生時に兄の踵を握っていたゆえに、そう名づけられた。これは彼が兄に取って代わることを意味していた。彼は実際にそうしたのである。第一に、創世記25:21において抜け目なくエサウの長子権を買い取ることによって。第二に、ここで彼から父の祝福を奪い取ることによって。アラビア語訳は強調的に「彼は二度わたしをヤコブした」と訳している。「ヤコブする」とはアラブ人の間で頻繁に用いられる語で、取って代わること、また何かを底や極端まで減らすことを意味し、ヘブライ語の aqab および yaaqob、すなわち「取って代わる」「取って代わる者」から取られたものである。
あなたの祝福——本性の権利によりあなたに帰属し、わたしによってあなたに定められたものであるが、神はそれをあなたの兄に移されたのである。
第三十七節:あなたのために何をしようか
彼のすべての兄弟たち。彼のすべての親族と血縁の者たち、すなわちあなた、エサウから生まれるであろう者たち、あるいはイシュマエルやわたしの他の兄弟たち、ケトラの子らから生まれる者たちである。なぜなら、わたしがこれらの者たちの頭であり長であるように、ヤコブもまたそうであるからである。
わたしは何をしようか。エサウはヤコブのものに似た祝福、長子に帰属する祝福を求めていた。イサクはこれを与えることができなかった。それゆえ使徒はヘブライ人への手紙12において、エサウは涙をもってこれを求めたが、得ることはなかった、と言明している。それゆえイサクは、彼に与えうる別の祝福を彼に与えたのである。
第三十九〜四十節:エサウの祝福
地の肥沃と上方からの天の露とがあなたの祝福であろう。ヘブライ語では「あなたの住まいまたは住居がそうであろう」となっている。すなわち、あなたは肥沃で実り豊かな地に住むであろう、神は露と雨を遣わしてその地を実り豊かにされるであろう、ということである。
ここから見られるように、イサクの祝福は預言であり、それは創世記33:9で成就した。さらに、これはヤコブに与えられた祝福のうち最も小さなもの、すなわち酒と麦の豊かさである。なぜなら実に、世俗的で肉的な人にはこのような祝福、それ以外の祝福は帰属しなかったからである。
あなたは剣によって生きるであろう。あなたは豊かな地を占めるであろう。しかし、農耕によってよりも、略奪と襲撃によって生きるであろう——あなた自身よりも、あなたの子孫が。エドム人がいかに略奪的で好戦的であったかは、ヨセフスが『ユダヤ戦記』第四巻で教えている。
そしてあなたは兄に仕えるであろう(ダビデの下で)、そして時が来れば、あなたはくびきを振り落とし解くであろう。すなわち、ヨシャファトの子ジョラムの時代に、エドム人がユダヤ人から離反した。列王記下8。そして彼らはユダヤのくびきから八百年間自由なままであり、ヒルカヌスが再び彼らを征服するまで続いた。さらにエドム人アンティパテルの子ヘロデがユダヤの王国を獲得し、エルサレム滅亡まで百五十年間、自身とその子孫において保持した。それゆえに、ティトゥスとヴェスパシアヌスの時代に、エドム人はローマ人とともにエルサレムを攻撃し荒廃させたのである。ヨセフス『古代誌』第十四巻冒頭、および『ユダヤ戦記』第一巻を見よ。
道徳的解釈において、聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻第三章で言う。「善き父が二人の子を持ち、一人は無節制で、もう一人は節制ある者であったので、両者を世話するために、節制ある者を無節制な者の上に置き、愚かな者は賢明な者に従うべしと定めた。それは、支配者の権威によって彼の性質を改善するためである。」
第四十一節:エサウのヤコブへの憎しみ
それゆえエサウは常にヤコブを憎んだ。ここで注意せよ。父の祝福を受けた後、ヤコブはただちに試され、迫害を受け、ついには父の家から追い出される。それゆえ、祝福は彼に何の益ももたらさなかった、あるいはむしろ害であったとさえ思えるかもしれない。しかし結果は、それが彼に益したことを示したのである。
第二に、エサウの不敬虔と愚かさに注意せよ。第一に、彼は怒り、実に兄を憎む。第二に、復讐の方法を求める。第三に、これが神の摂理によって起こったこと、また自分自身が当然受けるべきものを受けたことを考えず、ただ兄が何をしたかだけを考える。第四に、権利によって祝福を取り戻すことができないので、力に訴える。第五に、兄を迫害するだけでなく、殺すことを決意する。第六に、父の死を望む。彼は言う、「父の喪の日々が来るであろう。そのとき、わたしは兄を殺すであろう」と。これについて聖ヨハネ・クリソストモスは第五十三講話で正しく言う。「激怒している者たちに対して怒る者は、自分自身もまた等しく狂っているのではないか」と。第七に、これらすべてを、それを実行する機会が訪れるまで、隠している。彼はいかに愚かであったか。彼は祝福を悪しき手段によって、実に罪に罪を加えることによって取り戻そうと試みたのである。そのようなことによって、人はかえってますます呪いを招くのである。なぜなら、神の祝福は善きわざによって得るべきだからである。
第四十二節:エサウはヤコブを脅す
彼は脅す。ヘブライ語では mitnachem、すなわち「彼は自分を慰める」——あなたを殺すことによって、ということである。
第四十五節:リベカは両方の息子を失うことを恐れる
なぜわたしは一日のうちに二人の息子を失わなければならないのか。もしあなたがここに留まれば、あなたは兄と戦わなければならず、互いの傷によって倒れるか、あるいは一方が殺されたとき他方は逃亡者となるであろう。そしてわたしは二人の臨在と慰めから奪われることになるからである。
第四十六節:リベカの賢明な助言
もしヤコブがこの土地の血筋から妻を迎えるならば(カナンの女またはヒッタイトの女、エサウが妻としたような女、その邪悪さと頑迷さのゆえにわたしとあなたにとって煩わしく憎むべき者)、わたしは生きていたいとは思わない。ヘブライ語では「わたしにとって命とは何か」となっている。すなわち、命はわたしにとってかくも苦く悲しいものとなり、生きるよりむしろ死ぬことを願うであろう、ということである。
リベカの賢明さに注意せよ。兄弟殺しを防ぐために、彼女は一方の兄弟を遠くへ送り出す。そして他方の罪と陰謀を父に明かすことによって、父に悲しみを、また父の憤りを子にもたらすことのないように、彼女は息子を送り出す別の理由——しかも真実の理由——を提示する。すなわち、ヤコブが不従順で邪悪なヒッタイトの女と結婚することを望まず、彼女の父の家がよく整えられていたハランから、ある親族の女と結婚することを望むということである。この理由がイサクを動かし、彼を説得して、次の章でヤコブをハランに送り出させたのである。
それゆえ聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻第三章で言う。「リベカから学ぼう」と彼は言う、「いかにして我々は嫉妬が怒りを掻き立てず、怒りが殺人へと突進することのないように注意すべきかを。リベカ、すなわち忍耐、無垢の善き守護者が来るがよい。彼女が我々に怒りに譲歩することを説得するように。我々は少しの距離を置いて引き下がろう。やがて時とともに憤りが和らぎ、犯された罪の忘却が忍び込むまで。」
このリベカとヤコブの賢明で聖なる助言は、ナジアンゾスの聖グレゴリウスによって従われた。コンスタンティノポリス公会議において、ある司教たちの間に対立と分裂が起こった。なぜなら、ナジアンゾスが彼らに相談されることなく他の者たちによって司教に叙階されたからである。グレゴリウスは自発的にその座と地位を放棄し、彼らに次のように語りかけた。「わたしは三位一体ご自身にかけて、あなたがたが互いに正しく平和裡にすべてを治めることを謙遜にお願いする。もしわたしがあなたがたの間の分裂の原因であるならば、わたしは決して預言者ヨナよりも畏敬すべき者と思われるべきではない。わたしを海に投げ込め。そうすればあなたがたの中のこの嵐のような騒動は静まるであろう。わたしは、あなたがたの和合のためならば、無実であってもあなたがたの望む何でも喜んで受けるであろう。わたしを玉座から投げ落とせ、わたしを世から追放せよ、ただ真理と平和を愛せよ。さらば、聖なる牧者たちよ、わたしの労苦を常に覚えていてください。」これを言うと、彼は皇帝テオドシウスのもとへ赴き、辞任を求めた。「わたしは謙遜に願う」と彼は言った、「これらの労苦から解放されることを。嫉妬に終止符を打たせよ、司教たちが平和を培うようにせよ、そしてこのことがあなたを通してなされるように。これがわたしがあなたにお願いする賜物であり、最後の好意としてお与えください」と。テオドシウスはこの人の徳に驚嘆し、ついに不本意ながら同意し、ネクタリオスを彼に代えることを許した。グレゴリオス・プレスビュテロスは『ナジアンゾス伝』においてそう述べている。
寓意的には、リベカがヤコブをメソポタミアに送り、そこで彼が十二人の族長を生んだことは、父なる神がそのみ子をこの世に送られ、そこで彼が十二人の使徒を生み出されたことを意味する。そしてヤコブが杖一本を持って一人で送られたように、キリストも一人で、貧しく謙遜に来られた。そして使徒たちもまた同様であることを望まれ、彼らがあたかも何ら不足するもののない天使のごとく、いわば一種の地上の神々であるかのごとく、全世界に福音を宣べ伝えるよう望まれた。聖イレナイオスは第四巻第三十八章で、また聖アウグスティヌスは『四季について』説教七十九でそう言う。