コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第二十四章


目次


序論

アブラハムはその僕に誓わせて、ハランよりイサクのために妻を求めさせる。僕はリベカを連れ帰り、イサクは連れ来られた彼女を妻とする。


ウルガタ本文:創世記24章1-67節

1. アブラハムは老い、齢を重ね、主はすべてにおいて彼を祝福したまえり。2. 彼はその家の年長の僕、すなわちその所有する一切を司る者に言えり、「汝の手を我が腿の下に置け、3. 天地の主なる神にかけて汝に誓わせん。汝は我が子のために、我が住むカナン人の娘たちの中より妻を取ることなく、4. わが故郷、わが親族のもとに赴き、そこより我が子イサクのために妻を取るべし」と。5. 僕答えて言えり、「もし女がこの地まで我とともに来ることを欲せざらば、我は汝の子を、汝が出で立ちたる地へ連れ帰るべきや」。6. アブラハム言えり、「我が子を決してその地に連れ帰ることなきように注意せよ。7. 我を父の家とわが生まれし地より連れ出だし、我に語り、『汝の子孫にこの地を与えん』と我に誓いたまいし、天の主なる神、彼みずからその使を汝の先に遣わしたまわん。しかして汝はそこより我が子のために妻を取るべし。8. もし女が汝に従うことを欲せざらば、汝は我が誓いより解かれん。ただ我が子をそこに連れ帰ることなかれ」と。9. かくて僕はその手を主人アブラハムの腿の下に置き、この事について彼に誓えり。10. 彼は主人の群れより駱駝十頭を取り、主人のすべての財の一部を携えて出で立ち、メソポタミアに向かい、ナホルの町へと至れり。11. 彼は町の外、水の井戸の傍らに、日暮れ、女たちが通常水を汲みに出づる時、駱駝をひざまずかせ、かく言えり、12. 「わが主人アブラハムの主なる神よ、今日、我に会わせたまえ、願わくはわが主人アブラハムにいつくしみを示したまえ。13. 見よ、我は水の泉の傍らに立てり。この町の住民の娘たちは水を汲みに出で来らん。14. されば我が『汝の瓶を下ろし、我に飲ませよ』と言わん娘にして、『飲みたまえ、汝の駱駝にも水を与えん』と答うる者、その者こそ、汝が汝の僕イサクのために備えたまいし者たらしめたまえ。これによりて我は、汝がわが主人にいつくしみを示したまいしことを知らん」と。15. 彼がなお心の内に語り終わらざる間に、見よ、リベカ出で来たれり。肩に瓶をのせたるは、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘なりき。16. その娘は甚だ美しく、いとも愛すべき処女にして、いかなる男にも知られざる者なりき。彼女は泉へと降り、瓶を満たして戻り来たれり。17. 僕は走り寄りて彼女を迎え、「汝の瓶より少しの水を我に飲ませよ」と言いけり。18. 彼女答えて、「飲みたまえ、わが主よ」と言い、速やかに瓶を腕に下ろして彼に飲ませたり。19. 彼が飲み終えし後、彼女はさらに言えり、「汝の駱駝のためにも水を汲まん、皆が飲み終うるまで」と。20. 彼女は瓶を水槽に注ぎ、再び井戸に走り水を汲み、すべての駱駝のために水を汲めり。21. 彼は黙して彼女を見守り、主が彼の旅を成功せしめたまえるや否やを知らんと欲せり。22. 駱駝が飲み終えしとき、その人は二シェケルの重さの金の耳輪と、十シェケルの重さの同数の腕輪を取り出せり。23. しかして彼女に言えり、「汝は誰の娘ぞ。我に告げよ。汝の父の家に宿る場所ありや」と。24. 彼女答えて、「我はミルカがナホルに産みたる子ベトエルの娘なり」と。25. さらに言えり、「藁も飼葉も我らには豊かにあり、宿る場所も広し」と。26. その人は身をかがめて主を拝し、27. 言えり、「わが主人アブラハムの主なる神は祝せらるべきかな。彼はわが主人よりそのいつくしみと真実とを奪い去りたまわず、我をまっすぐなる道によってわが主人の兄弟の家へ導きたまえり」と。28. かくて娘は走りて、聞きしすべての事をその母の家に告げたり。29. リベカにはラバンという兄弟ありき。彼は急ぎ、泉のほとりにいる彼の人のもとへ出で来たれり。30. 彼は姉妹の手に耳輪と腕輪を見、そのすべての話の言葉を聞きしとき、すなわち「その人はかく我に語れり」との言葉を聞きしとき、水の泉のほとりの駱駝の傍らに立ちおりしその人のもとに来たり、31. 彼に言えり、「入れ、主に祝福されたる者よ。何ぞ外に立つや。我は家と駱駝のための場所を備えたり」と。32. 彼を宿へ連れ入れ、駱駝の鞍を解き、藁と飼葉、そして彼および彼とともに来たる人々の足を洗う水を与えたり。33. そしてパンが彼の前に出されたり。しかれど彼言えり、「我は使命を語らざるまでは食せじ」と。ラバン答えて、「語れ」と言えり。34. 彼言えり、「我はアブラハムの僕なり。35. 主はわが主人を大いに祝福したまい、彼は大いなる者となれり。主は彼に羊と牛、銀と金、男女の僕、駱駝と驢馬を与えたまえり。36. わが主人の妻サラはその老年にわが主人に子を産み、主人はそのすべての所有を彼に与えたり。37. そしてわが主人我に誓わせて言えり、『汝はわが子のために、わが住む地のカナン人の娘たちの中より妻を取ることなかれ。38. わが父の家に行き、わが親族より我が子のために妻を取れ』と。39. 我はわが主人に答えて、『もし女が我とともに来ざらば、いかにせん』と言えり。40. 主人言えり、『その御前を我は歩む主は、その使を汝とともに遣わし、汝の道を整えたまわん。しかして汝はわが親族より、わが父の家より我が子のために妻を取るべし。41. 汝がわが親族のもとに至り、彼らが女を汝に与えざる時、汝は我が呪いを免れん』と。42. 故に我は今日、水の泉のほとりに来たり、かく言えり、『わが主人アブラハムの主なる神よ、もし汝が我の今歩みつつある旅を導きたまいしならば、43. 見よ、我は水の泉の傍らに立てり。水を汲みに出づる処女にして、我より「汝の瓶より少しの水を我に飲ませよ」と聞くときに、44. 「汝も飲み、我は汝の駱駝のためにも汲まん」と我に言う者、その者こそ主がわが主人の子のために備えたまいし女たらしめたまえ』と。45. 我がこの事を心の内に黙々と思い巡らしおる間に、リベカ現れ出で、肩に担える瓶とともに来たり、泉へと降りて水を汲めり。我は彼女に言えり、『少し飲ませたまえ』と。46. 彼女は速やかに肩より瓶を下ろし、我に言えり、『飲みたまえ、汝の駱駝にも水を与えん』と。我は飲み、彼女は駱駝に水を飲ませたり。47. 我は彼女に尋ねて言えり、『汝は誰の娘ぞ』と。彼女答えて、『我はミルカがナホルに産みたる子ベトエルの娘なり』と。かくて我は耳輪を彼女の顔を飾るために掛け、腕輪をその手に嵌めたり。48. そして身をかがめて主を拝し、わが主人アブラハムの主なる神を祝せり。神はまっすぐなる道によりて、わが主人の兄弟の娘をその子のために取るべく我を導きたまいたり。49. されば、もし汝らがわが主人にいつくしみと真実とを示さんとせば、我に告げよ。しかれど他のことを欲せば、それをも我に告げよ。われは右または左へ行かんためなり」と。50. ラバンとベトエル答えて言えり、「この事は主より出でたり。われらは彼の定めたまいしことのほかに、汝に何も語ることあたわず。51. 見よ、リベカは汝の前にあり。連れて行き、主の語りたまいしごとく、汝の主人の子の妻とせよ」と。52. アブラハムの僕これを聞きしとき、地にひれ伏して主を拝せり。53. しかして銀と金の器、そして衣服を取り出し、リベカに贈り物として与え、また彼女の兄弟と母にも贈り物を捧げたり。54. 宴が設けられ、彼らは共に食し飲み、そこに宿れり。朝起きて、僕言えり、「我を行かしめよ、わが主人のもとに帰らんがために」と。55. 彼女の兄弟と母答えて、「娘を少なくとも十日我らのもとに留めしめよ。その後に出で立たん」と。56. 彼言えり、「我を引き留むることなかれ、主がわが道を導きたまえり。我を行かしめよ、わが主人のもとに進まんがために」と。57. 彼ら言えり、「娘を呼びて、その意を問わん」と。58. 彼女が呼ばれて来たりしとき、彼ら問えり、「汝はこの人とともに行くことを欲するや」。彼女言えり、「行かん」と。59. かくて彼らは彼女を送り出したり、その乳母、アブラハムの僕、およびその同伴者とともに。60. 彼らは姉妹に繁栄を祈りて言えり、「汝はわれらの姉妹なり。願わくは汝が千々万々に増え加わり、汝の子孫がその敵の門を所有せんことを」と。61. かくてリベカと侍女たちは駱駝に乗りて、主人のもとへ急ぎ帰るその人に従えり。62. 当時、イサクは「生きて見たもう者の井戸」と呼ばるる井戸へ至る道を歩みおれり。彼は南の地に住みおりしなり。63. 彼は日の傾く頃、野に出でて黙想しおりしが、目を上げしとき、遠くより駱駝が来たるを見たり。64. リベカもまたイサクを認め、駱駝より降れり。65. 彼女は僕に言えり、「野を通りてわれらを迎えに来たるかの人は誰ぞ」と。彼言えり、「彼はわが主人なり」と。彼女は速やかに外套を取りて身を覆えり。66. しかして僕はイサクにその行いしすべての事を語れり。67. 彼は彼女をその母サラの天幕に連れ入れ、妻として娶れり。彼は彼女を甚だ愛し、その愛は母の死より彼に臨みし悲しみを和らげしほどなりき。


第一節:アブラハムは老いて

アブラハムが僕を遣わしてイサクのためにリベカを妻として求めさせたとき、彼は百四十歳であった。というのは、イサクは齢四十にしてリベカを娶ったからである(これは次章二十節より明らかである)。それはアブラハムの百四十歳の年であった。なぜなら、イサクはアブラハムの百歳のときに生まれたからである。ゆえにアブラハムの齢はイサクの齢より百年多い。聖アウグスティヌスはかく語る。


第二節:汝の手を我が腿の下に置け

その年長の僕——すなわち執事エリエゼル。これについては第十五章二節を参照せよ。

汝の手を我が腿の下に置け——すなわち、「我が座しおる間に、汝の手を我が腰の下に置け。この儀礼と儀式によって、わが子のためにカナンの女を妻として取らざることを我に誓え」と言うがごとし。文字通りには、これは腿にかけて誓う者たちの儀礼であった。なぜなら、腿は生殖と生命の原因であり象徴だからである。ゆえに腿を握ることによって、誓う者たちは、我らの救いがその手中にある生命の創造主として神を証人とした。すなわち、「我が正しく真実に誓い、誓いしところを果たすならば、神は我に長く幸いなる生命を賜え。それは腿によって表される。しかれど、我が欺き偽り誓うならば、我は滅び、腿より出でたる生命に与ることなかれ」と言わんがごとくである。

マルティヌス・デ・ロア『特異集』第四巻、第四章にかく言う。

ヘブライの学者たちは、手を腿の下に置くこの儀式が、ユダヤ人の間で誓約の際に厳粛な慣習であったと考えている。それは、腿に近い部分で行われる割礼の秘跡の意義と敬意のためであったという。しかしこれは誤りと思われる。なぜなら、聖書においてこの儀式をもってその家族に誓わせたのはアブラハムとヤコブのみであり、他のすべての者は手を高く挙げて誓ったと記されているからである(今日もそうなされているように)。

ゆえに注意せよ。腿または腰というとき、両腿の間にある生殖器もまた暗に理解され含まれている。というのは、ヤコブの子らは彼の腿より、すなわち彼の生殖器より出で来たりと言われているからである。創世記46:26およびその他の箇所を参照せよ。

ゆえに手を腿の下に置くこの象徴と儀式によって、アブラハムは、イサクがすでに彼の腿より生まれたこと、そして同じ腿より、イサクを通して多くの子孫が生まれること、実に彼に神より約束されたる祝福の子孫、キリストが生まれることを示している。この子孫、そしてキリストがイサクを通して彼より生まれるために、彼はここにイサクのために忠実な妻を求め、僕に誓わせるのである。彼がかかる妻を彼のために求めんがために、腿すなわち子孫の根源によって。同様に腿によって、すなわち彼の腿より生まるべきキリストによって、彼は僕に誓わせ、すなわち彼を縛り、誓いを立てることを強いる。というのは、この誓わせ方を最初に用いた者はアブラハムであり、その孫ヤコブが第四十七章二十九節でそれに続くからである。聖ヒエロニムス、テオドレトス、聖アウグスティヌス(説教七十五)、聖アンブロシウス(『アブラハム論』第一巻、最終章)、プロスペル(第一部『予言』第七章)、そして聖グレゴリウスはかく語る。聖グレゴリウスは次のように言う。「彼は手を腿の下に置くことを命じた。なぜなら、その部分を通してその肉が降るべきであり、その御方はその人性によりアブラハムの子となり、その神性により彼の主となるからである。それはあたかも『わが子に触れ、わが神にかけて誓え』と言うがごとし。ゆえに彼は手を腿の上にではなく、その下に置くことを命じた。なぜなら、そこより降るべき御方は、まことに人であれども、人を超える者として来たるからである」と。


第三節:汝を誓わせん

汝を誓わせん——すなわち、「我は汝をその誓いによって縛り、誓わせん」の意である。ヘブライ語にもそうある。なぜならアブラハムはこの儀式によって僕に誓うことを強いるからである。ゆえに実際、僕はこの儀式によって彼に誓ったのである。これは九節より明らかである。ゆえにここで「誓わせる」とは、聖なるものによって人を呼ぶことではなく、人に誓いを立てさせ、その誓いによって彼を何らかの約束または行為に縛ることを意味する。


第四節:カナン人の娘たちの中からではなく

汝は我が子のためにカナン人の娘たちの中より妻を取ることなく(なぜならカナン人は不敬で偶像崇拝者であったゆえ)、わが故郷、わが親族のもとに赴くべし——カルデアにではなく、メソポタミア、すなわちハランへ、わが兄弟ナホルの家へ赴くべし。これは第十節より明らかである。というのは、アブラハムは父とすべての親族とともにハランへ移住していたからである(第十二章一節)。ナホルの家は、ともに住む民の習慣に従って偶像を拝していた(これは第三十一章三十節より明らかである)。しかしながら彼らは唯一の神への崇拝の何ほどかを知り、これを保ち、偶像とともに天の神を拝していた。これは本章第三十一節に明らかである。しかしてこの家族は礼儀正しかった。これは以下のことから明白である。

道徳的意味において、不信者、異端者、不敬なる者たちとの結婚がいかに避くべきであるかは、聖ヨハネ・クリソストモスおよび聖アンブロシウス『アブラハム論』第一巻、最終章を参照せよ。聖アンブロシウスはかく言う。「しばしば、女の魅惑は、最も強き夫らをも欺き、彼らを宗教より離れ去らせた。それゆえ結婚においては、まず第一に宗教が求められるのである。されば、妻に何が求めらるべきかを学べ。アブラハムは金も銀も所有も求めず、ただ善き性格の恵みを求めたのである」と。寓意的には、同じ著者が同じ箇所でかく語る。

「イサクの妻、すなわちキリストの妻——つまり教会——は、メソポタミアにおいてのほか、どこに見出さるべきであろうか。そこで彼女は二つの河、すなわち恵みの水洗いと悔い改めの涙とに囲まれている。ティグリス河、すなわち賢明が彼女を守り、ユーフラテス河、すなわち正義と豊かなる照らしが、彼女を野蛮な諸民族より隔てているのである」と。


第六節:我が子を決してその地に連れ帰ることなきように注意せよ

「連れ帰る」とは「連れ帰ると約束する」の意である。すなわち、「汝がハランに求める娘がここなる我とイサクのもとに来ることを欲せず、イサクがそこに彼女のもとへ行くことを望まば、同意することなかれ。わが子の結婚を彼女に約束することなかれ。なぜなら神は、我とわが民がメソポタミアより永遠に離れ、神が我と我が子孫に約束したまいし地に来ることを欲したまいしゆえ」と言うがごとし。


第七節:彼みずからその使を遣わしたまわん

見よ、古代ヘブライ人たちは、人間に守護天使が神によって与えられ、守り、導き、教え、指し示すために定められていると信じていた。同様のことはトビト記5:5にもある。スカリゲルは、「天使」(angel)という語はペルシア語のangar(使者、伝令の意)より来たり、rがlに変えられたものであると考える。それはちょうどBelialがBeliarと言われるのと同様である。ヘブライ人もまたペルシア語のangarより、使者すなわちangariらによって運ばれる手紙をiggeret、あたかもingeretのごとく呼ぶのである。


第九節:彼に誓えり

彼は、その主人アブラハムの言葉と命令を忠実に果たすことを誓ったのである。


第十節:ナホルの町へ

すなわちハランであって、そこにナホルの家があった。アブラハムが当時滞在していたベエル・シェバから七、八日の道のりの距離にあった。アブレンシスはかく語る。


第十二節:それを成就せしめたまえ

ヘブライ語ではhacre、すなわち「我に会わしめよ」の意である。すなわち我の求めるもの、つまりアブラハムがイサクのために妻として望むような娘に会わせよ、の意である。七十人訳はかく訳す、「我の出会いを成功せしめたまえ」と。

ここでキリスト者たちは、自分自身と我が子のために配偶者を求めるにあたり、人の取り決めよりもむしろ神の摂理によって求めることを学ぶべきである。また富、美、家柄よりもむしろ、養育と善き適切な性格を顧みるべきである。かくプルケリアはその兄弟、皇帝テオドシウスのために、エウドキアを妻として得させた。彼女は貧しかったが、よく教育され、礼儀正しかった。しかるに多くの人々は他のごとくに行うゆえ、我々は多くの争いと不幸なる結婚を目にするのである。ゆえに箴言19:14において、かの賢者は正しくかく言う。「家と富は親により与えらる。されど賢き妻は、まさに主より賜わるものなり」と。かくしてイサクのためのリベカ、ボアズのためのルツ、トビアのためのサラ——神より与えられし妻たち——は平穏で、実り多く、幸福な結婚生活を送ったのである。というのは、箴言18:22にかの賢者の言うごとく、「善き妻を見出す者は善きものを見出し、主より喜びを引き出すなり」である。というのは、善き、勤勉な、賢き妻は、地上にまれなる鳥だからである。

ソロモンはコヘレトの言葉7:29にかく言う。「我は千人の中より一人の男を見出せり。されどそのすべての中に女を見出さざりき」と。ゆえにカトーは、女は必要悪であると言った。悪しき女がいかに大いなる悪であるかを知らんと欲するか。シラ書25:17を聞け。「すべての悪意は女の邪悪なり」。また22節、「蛇の頭よりも悪しき頭はなく、女の怒りを超ゆる怒りはなし。獅子や龍とともに住むことは、悪しき女と生活することよりも好ましかるべし」。また31節、「悪しき女は心の傷なり」と。ゆえに神は、姦淫者、不義者、その他の不敬な者らに、罪の罰として悪しき妻を与えたもう。これは最大にして最も持続する災いである。なぜなら生涯を通じて続くからである。

これに対して、「善き女の夫は祝福せらる。力ある女は夫を喜ばせ、その生涯の年を平和にて満たさん。善き妻は善きものの分け前なり。神を畏るる者には、その善き行為の報いとして与えらるべし」(シラ書26:1-3)と。この記憶に値する例は、ソフロニウス、あるいはむしろヨハネス・モスコスの『精神的牧場』第二百五十章に見出される。そこには、コンスタンティノポリスのさる貴族のことが記されている。彼はその財産を貧者に分かち与え、死に臨みて、イエス・キリストをその子の後見人として残した。父の施しのゆえに、キリストはその子のために裕福にして有徳なる妻を得させ、彼は彼女とともに聖なる喜ばしき生涯を送ったのである。ゆえにシラ書(26:16)は真にかく言う。「勤勉なる女の恵みはその夫を喜ばせ、その骨を肥やさん。その規律は神の賜物なり。恵みの上に恵みなるは、聖く慎ましき女なり。神の高みにて昇る太陽が世にあるがごとく、善き女の美はその家の飾りなり」と。


第十三節:見よ、我は立てり

ここで僕は、自ら定めたある徴によってイサクの将来の妻を啓示したもうよう神に求める。彼はこの徴を定めるにあたって神より動かされ、促された。それゆえ彼はまた、神の摂理、助け、導きに確信をもってこの徴を用いた。というのは、彼は神がアブラハムに約束し、アブラハムが彼に告げたことを知っていたからである。すなわち、「神はその使を汝の先に遣わしたまわん」と。それゆえ彼はまた、謙虚な祈りを冒頭にして、この徴が自分に示されることを求めた。最後に、その結果は、これほどまでに成功裏に続いたものであって、この徴が神より出でたることを明らかにしたのである。さもなくば、この僕は軽率な予兆と占いによって神を試みていたことになる。

これに似たものはヨナタンの前兆であった。彼は神の促しによって、ペリシテ人を攻撃することについて、ペリシテ人の言葉よりその前兆を取り、それに従って彼らを打ち破った。「もし彼らが『我らのもとに上れ』と言わば、我らは上るべし。主が彼らを我らの手に渡したもうゆえ——これが我らの徴たらん」(サムエル記上14:10)と。同様にギデオンもミディアン人の夢より勝利の前兆を取った(士師記7:13)。

これに似たものはクロヴィスの前兆であった。彼はゴート人に向かって陣を進めるとき、トゥールの聖マルティヌスに贈り物を送り、その使者たちに指示して言った。「神殿に入るとき、我らが備えおる戦いより、その結末について何らかの推測を与え得るものを観察せよ」と。彼らは命令に従い、教会に到着したとき、修道士たちがダビデのかの詩篇の節を詠唱するのを聞いた。「汝は戦いのために我に力の帯を締めたまえり」と。この幸いなる前兆を受け取り、彼らは王のもとに戻りてこれを報告した。そして出来事は、それが空しきものではなく神よりのものであったことを明らかにした。フルゴシウス第一巻、第三章が証人である。

これに対して、ネブカドネザルの前兆は迷信的であった。彼は神の促しによってではなく、自らの、あるいは悪魔の衝動によってそれを取ったのである。彼はアモン人を攻撃すべきかユダヤ人を攻撃すべきか疑っていたとき、二本の矢を取り、その一本にラバト(これはアモン人の都ペトラ・アラビアであった)という名を、もう一本にエルサレムという名を記した。しかして彼はそれらを互いに混ぜ合わせた。やがて彼は盲目的に一本を引き出し、その上にエルサレムと書かれているのを見ると、ただちにそれに向かって進軍した(エゼキエル書21:21)。

これに似たものはペリシテ人の前兆であった。彼らは主の箱を運ぶ雌牛の進路と歩みより、彼らに加えられた災いが神より出でたるものか、偶然起こりしものかを推測した(サムエル記上6:7)。聖なる、合法的な前兆と、瀆神的で、非合法で、迷信的なそれについてさらに論ぜんとならば、ここでペレリウスを参照せよ。

注意せよ。僕が立てしこの徴はふさわしきものであった。というのは、それは善き妻であって、親切な、もてなしを好む、思慮深く、勤勉な性格の徴であったからである。聖ヨハネ・クリソストモス、テオドレトス、ルペルトゥスはかく語る。

——すなわち井戸。これは第十一節および第二十節より明らかである。というのは、聖書において泉と井戸は同じものだからである。


第十四節:その娘こそ、その者なれ

その娘こそ、汝がイサクのために妻として備えたまいし者たらしめたまえ。あたかも言うがごとし、「主よ、願わくは、汝がイサクの妻となしたもうと欲したもう者のみが、ここに我が求めることをなし、語ることを許したまえ。しかして彼女のこれらの行いと言葉より、我はその者こそ他ならぬその者なりと知ることを得ん」と。


第十五節:見よ、リベカ出で来たれり

ここにリベカのうちに乙女たちの鑑を見よ。第一に、彼女は多くの者のごとく怠けて座しているのではなく、労苦して水瓶を運び、水を汲む。第二に、水を汲み終えると帰路につき、人前に長く留まらない。アブラハムの僕を見ても、好奇心をもって彼を凝視することも、彼に話しかけることもしない。第三に、僕が彼女に飲み物を乞うたとき、ただちに立ち止まって差し出し、優しく語りかけ、彼を主と呼ぶ。彼女は求められた以上を差し出す。見知らぬ者に仕えることを厭わない。ところが今日のわれらの女たちは、時として人々、ことに異邦人に対し、あたかも自分とは何の関わりもなき者のごとくに、ほとんど口を利こうともしないほど気難しい。第四に、彼がアブラハムの僕であると聞いても、彼女自身は彼を家に招き入れない――それは乙女にふさわしくないからである。彼女は家に走り帰って、その母に告げる。第五に、この僕が何ゆえに来たのか、何を望んでいるのかを好奇心をもって問わない。乙女は詮索好きであってはならぬからである。第六に、彼女は両親に従い、両親がイサクのもとへ行くことを許すと見て、両親と故郷を離れるのは彼女にとって辛きことであったにもかかわらず、異議を唱えない。第七に、彼女は柔弱ではなく、男々しい。駱駝に乗り、長き旅路を引き受けるからである。第八に、イサクを見るや、ただちに駱駝より降り、身を覆う。ここに許婚に対する彼女の慎みと敬意とが明らかである。


第二十一節:彼は黙して彼女を見守れり

彼女の美貌のみならず、その注意深さ、勤勉さ、親切さ、寛大さに感嘆し、彼女がすべてにおいてそのように振る舞っているか、イサクにふさわしい人物であり、彼自身とアブラハムの願いにかなう者であるかを吟味していたのである。


第二十二節:二シェケルの重さの金の耳輪

注意せよ。この僕はリベカの両耳に一つずつ耳輪を与えた。すなわち合わせて二つであり、おのおの半シェケル、あるいは七十人訳・ヘブライ語訳・カルデア語訳にあるごとく一ドラクマの重さであった。したがって両方合わせて一シェケル、すなわち二ドラクマの重さであった。

汝は問うであろう。然らばわれらの翻訳者はいかにしてこれを二シェケルと訳しているのか、と。われ答えて言う。われらの翻訳者はより小さきシェケル、すなわち半シェケルを解しているのである。というのは、半シェケルもまた時にシェケルと呼ばれるからであって、ちょうどわれらのあいだでレアルに大と小(あるいは半分)とがあるごとくである。すなわち、大なるレアルは十ステュイフェル、小なるは五ステュイフェルである。『度量衡について』の巻末に述べられたことを参照せよ。


第二十七節:そのいつくしみと真実とを奪わざりき

すなわち、神はわが主人アブラハムに対していつくしみ深く、真実であられた。約束するにはいつくしみ深く、約束を成就するには真実であられた。今われは、神がいつくしみと真実とをもってわが旅路をアブラハムの親族のもとへ、そしてリベカのもとへと導きたまい、もって彼女をイサクの妻として迎えさせたもうたことを見ているのである。


第二十八節:その母の家へ

というのは、古代ヘブライ人の家には男のための住居と女のための住居、すなわち別々の居所と区画があったからである。母は女たちの区画において娘たちとともに別々に住んでいた。ニコラウス・セラリウスがエステル記第二章への註解四百六十九頁において教えているとおりである。さらに当時の男たちは複数の妻を有しており、平和を保つためにそれらの妻たちは別々に住んでいた。カイェタヌスおよびトマス・アングリクスがそう言っている。この女たちの区画へとリベカは走り行き、アブラハムの僕から受けた耳輪を示した。

注意せよ。リベカは贈り物を母に示している。というのは、一般に「贈り物を受ける女は善き女にあらず」と言われるからである――ただし、これは、秘かに、家族の助言または同意なしに贈り物を受ける場合と解すべきである。


第二十九節:リベカにはラバンという兄弟ありき

リベカが乙女たちの鑑であったのと同じく、ラバンは一家の長たちの鑑であった。第一に、妹の言葉を聞くや、彼はただちに出で行ってその人を招き、求められるのを待たない。第二に、親切かつ敬虔に彼に語りかけて言う、「お入りください、主に祝福されたる方よ」と。第三に、彼のみならず彼に同行する者たちをも招き入れ、出費の大きさを少しも恐れない。第四に、ラバン自身が駱駝の鞍を下ろし、足を洗うための水を運び、食卓を整えるなどした。ここに古人の歓待がいかに大いなるものであったかを見よ。第五に、事の次第を聞いたとき、異議を唱えず、かえって結論して言う、「この事は主より出でたり」と。これによって彼はこの事を偶然や運命にではなく、神の定めに帰した。第六に、彼とその父ベトエルとは少女に強いず、彼女の意志を問う。第七に、僕が急いでいるのを見て、彼女を引き留めず、去ることを許し、彼女に世話をし教える者が伴うよう、その乳母を付き添わせる。第八に、彼は妹の幸いを祈る。


第三十節:彼見たりしとき

「見たとき、また聞いたとき」ということである。これはヘブライ語的表現であって、ヴァタブルスが次のように訳すことで明瞭に説明している。すなわち「彼は耳輪を見、またリベカの言葉を聞いたからである」と。


第三十一節:入れ、主に祝福されたる者よ

すなわち、主に祝福された者よ、神の恵みのうちにある者よ、神があなたに好意を示し、繁栄させたもう者よ、そしてわれらは神が引き続きあなたに好意を示し繁栄させたもうよう祈り願っている、という意である。

われ家を備えたり――われは家を備えさせ、あなたがたのために宿所を整えるよう僕たちに命じた、という意である。


第三十五節:主は我が主を大いに祝福せり

主は彼を著しく富ませたまえり。


第三十六節:そしてすべてのものを彼に与えたり

彼は与えることを決意していた。ひとり子なる息子として、彼にすべてのものを与えることを定めていた。というのは、アブラハムはいまだ自らの財産の所有を手放してはおらず、またいまだそれらをイサクに譲り渡してはいなかったからである。したがって「与えた」という語は、完了した行為ではなく、始められ意図された行為を意味する。これはちょうど第三十一節における「備えた」という語と同じである。


第四十節:その御前を我は歩む

われはその方を現存するものとして仰ぎ、敬い、拝する。かくのごとくエノクは神の御前を、あるいは神のみまえに、神とともに歩んだのであり(第五章、第二十二節)、またノアも然り(第六章、第九節)。そこに述べたことを参照せよ。あたかも次のごとく言うかのようである。われがかくのごとく神を拝するゆえに、報いとして神はその御使いを遣わしたまい、あなたを通じてわれとわが事柄とを導き栄えさせたもうであろう、と。


第四十一節:汝は我が呪いを免れん

汝は呪いの誓いより解かれ、したがって汝が誓うときに――すなわち、もしこれを破るならば、慣例に従い「主がわれにこのようにし、さらに加えたまわんことを」と言って、みずからに招いた呪いと罰とより解かれるであろう、もしわれがわが主人アブラハムの命じたことを実行しないならば、という意である。


第四十七節:耳輪を掛けたり

われ掛けたり――われは彼女にそれらを掛けさせた。これは第三十節から明らかである。


第四十九節:汝らがいつくしみと真実とを示さんとせば

注意せよ。この二語をもって聖書はあらゆる徳の務めを包括している。すなわち、あらゆるものは、負っていないのに自由に与えられるものであって、これがいつくしみであるか、あるいは命じられ負っているものであって、それが正義からであれ、敬虔からであれ、その他いかなる徳からであれ、真実と呼ばれるものであるかのいずれかである。したがってここにおける真実とは、リベカの両親がその親族、すなわちその叔父アブラハムに対して負っていた敬虔の務めである。オレアスターがそう言っている。

カイェタヌスは別に言っている。彼によれば、真実とはここにおいて証示を意味する。あたかも次のごとく言うかのようである。汝らがもしこれほど多くの神の御旨のしるし――神がリベカをイサクに与えることを望みたもうとお示しになったしるし――を証示し、真実なるものとして示し、実現しようと望むならば、と。

われが右にも左にも行くように――これはヘブライ語的表現であって、あたかも次のごとく言うかのようである。われがいずれの道を行かねばならぬか、何をなさねばならぬかを知るために。ここに留まるべきか、他のところへ進むべきかを知るために、と。というのは、彼はイサクのためにナホルのほかの息子たちから妻を求めることもできたからである(なぜならナホルには、創世記22:21から明らかなように、十一人の息子がいたからである)。また彼はリベカの件で拒絶されていたならば、そのようにしていたであろう。


第五十節:ラバンとベトエル答えて言う

ラバンはリベカの兄弟であり、したがってベトエルの息子であったが、父が老いゆくあいだ家事を取り仕切っていたもののようである。ゆえにここで彼はしばしば父に代わって語り、リベカのイサクとの結婚を取り計らっている。賢明にも聖アンブロシウスはこう言っている。リベカは、と彼は言う、「両親の判断を待っている。なぜならば夫を選ぶことは乙女の慎みにふさわしくないからである」と。そこからまたエウリピデスのアンドロマケーもこう言う、「わが父がわが縁談を取り仕切らん。これはわが務めにあらざればなり」と。

この事は主より出でたり――この事は神の御旨によって行われている。リベカをイサクに与えることは神の御旨である、という意である。


第五十一節:主の語りたまいしごとく

声によってではなく、しるしによってである。それによって神は第十四節においてその御旨を示したもうたのである。聖アウグスティヌス『創世記問題集』第六十七問がそう言っている。


第五十二節:少年、すなわち僕

少年――すなわち僕のことである。


第五十七節:彼女自身の意を問わん

イサクとの結婚についてではない。なぜならばリベカは第五十一節、第五十三節、第五十四節、第五十五節より、すでにこれに同意したものと解されるからである。そうではなく、両親のもとからの突然の出立と、イサクのもとカナンへの旅路についてである。聖アンブロシウスがそう言っている。

寓意的に、聖アンブロシウスはこう言っている。リベカはキリストによって異邦の民の中より婚姻へと召された教会を表している、「彼女は召されたとき遅延せず、それゆえにいっそう主に喜ばれた。なぜならば晩餐に召されたユダヤの民は来るに値しなかったが、異邦人の集まりは、自らが召されているのを見るや、主を迎えるために走り寄ったからである。彼女が駱駝に乗ったとき、彼女はその夫のもとへ来た。というのは、諸国民は、功徳におけるある種の獣のごとき醜さをもって粗野であり、自らの形に何らの美をも有していなかったが、やがて教会の信仰と悟りとを受けようとしていたからである」と。


第六十二節:生きて見たもう者の井戸への道筋を通りて

荒野を通って、すなわちシュルの荒野を通ってであり、それが近くにあったので、イサクは黙想するために一人でそこを歩くのが常であった。なぜなら孤独は、祈りにとっても、また思索と観想にとっても、最も適したものだからである。

異教徒もこのことを知っていた。プラトンは長い外国の旅から戻ってアテネに帰った後、木陰の多い郊外の場所に退き、その場所は所有者アカデモスにちなんでアカデメイアと呼ばれ、そこで彼は哲学をなし、学派を創立した。キケロはしばしば職務と都会から田舎に退き、そこで哲学をなした。彼は自ら『義務論』第三巻においてこのことを証言している。古の詩人たちは人里離れた山々に退き、そこで孤独な隠遁の中にあって詩歌を作ったものである。こうしてヘシオドスは、ヘリコン山で小羊を飼いつつ、ムーサたちから詩を学んだと歌っており、孤独が才能の喚起者であることを示している。まことに「詩歌は作者の隠遁と閑暇を求める」のである。エウリピデスはサラミス島の暗く恐ろしい洞窟の中で彼の悲劇を書き、アウルス・ゲッリウスはそれを自分の目で見たと記している。ホラティウスは、ローマでは詩を作ることができないと言っている。

信仰者たちのうちでは、エリヤ、エリシャ、洗礼者ヨハネ、聖ヒエロニムス、聖バシリウス、ナジアンゾスの聖グレゴリウス、その他多くの者が荒野に退き、そこで知恵と観想に身を捧げた。そしてこれはキリストの模範に倣ってのことである。キリストは夜間、タボル山上の変容の時のように祈るために山々に退かれ、また受難の時には園に退かれたのである。

我々はここで、トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の自筆原稿を見たが、その冒頭にはこの言葉が読まれた。「我はあらゆるものの中に安らぎを求めたが、見出さなかった」――dan in een hoecxken met een boecxken、すなわち「ただ少しずつ、一冊の小さな書物とともに片隅に座する時を除いては」と。これこそ、かの偉大な隠遁者、師父アルセニオスがよく口にしていた言葉である。「我は神と人間とに同時に住むことはできない」と。

井戸へと――これについては創世記16:14、および創世記25:11を見よ。

南の地にて――カナンの南の地、すなわちベエル・シェバからそれほど遠くない所である。

「彼は歩いていた」について、ヘブライ語では「彼は来ることから来ていた」とあり、フランス人が言うようにvenait d'arriver(ちょうど到着したところであった)と同じである。


第六十三節:黙想のために

七十人訳はadoleschesai、すなわち「自らを鍛える」、つまり黙想という霊的修練を行うと訳している。というのもadolescheinは、大いなる熱意と巧みさをもって何かに心を集中することを意味するとプロコピウスは言い、それは歓びをもって極めて熱心に思索し黙想する魂の働きであると聖アウグスティヌスは言うのである。それゆえイサクはここで自然的なこと、たとえば星々の運行とその経路、そしてその創造者・動者である神について黙想していた。ヘブライ人たち、リラヌス、トスタトゥスはそう言う。

むしろ、イサクは天的で神的なことを黙想していた。聖アンブロシウスはその著『イサクについて』第一章で次のように言う。「賢者のしるしとは、肉の快楽から自らを切り離し、魂を高め、それを身体から引き離すことである。なぜなら、これこそ人間として自らを知ることであるからである」と。聖アンブロシウスは書全体を通じて、イサクの型のもとに、キリストとの霊的婚姻を熱望する聖なる魂の歩みを描き続けている。それゆえカルデア訳はこれを彼は祈るために出て行ったと訳している。このことからアルクインは、イサクがここでキリストの型であり、キリストは夕方と夜に祈るために山に退かれたのだと教える。アクイラとシンマクスは誤ってイサクは野で語り合うために出て行った、すなわち彼の農夫や働き手たちと語り合うために出て行った、と訳している。

「賢者の生とは黙想である」、また「学識ある者にとって、思索することは生きることである」。こうしてカルネアデスは、いわば自らの思索によって養われていたのである。それゆえ賢者は何事にも驚かないが、子供たちはあらゆることに驚嘆する。前者にとってはすべてが予見され、予め黙想されているが、後者にとってはそうではないからである。


第六十四節:リベカ駱駝より降れり

リベカもまた、イサクを見つけるや、駱駝から降りた――もちろん、実際にそうであったように、これが自分の夫となるイサクであると察したうえで――花婿に対して示すべき敬意のために、彼女は駱駝から地に身を降ろしたのである。

第二に、より適切に言えば、これは倒置法(ヒステロン・プロテロン)であると言える。というのも、リベカはまず僕に、自分たちの方へと向かって来ているあの男が誰かと尋ね、僕がそれはイサクであると答えたとき、初めてリベカは駱駝から地に飛び降りたと思われるからである。


第六十五節:外套と花嫁のベール

外套――それをもって、花嫁のベールのように、慎ましさと恥じらいのために、新しい花嫁が花婿の前で自らを覆い隠すためである。創世記20:16に述べたことを見よ。

ここに新しい花嫁リベカの慎ましさを見よ。聖ヨハネ・クリソストモスは説教第四十八において言う。「考えてみよ。ここにはあの無用で余計なものは一つもなく、悪魔的な華美もなく、シンバルや笛や踊りもなく、あの悪魔的な宴会や卑猥極まりない冗談もない。しかしすべては尊厳であり、すべては知恵であり、すべては善である」云々。また聖アンブロシウスは言う。リベカはイサクを見て、「降りて、外套で頭を覆い始めた。それは婚姻に先立って慎ましさがあるべきことを教えるためである。実にこの行為そのものから、婚姻(nuptiae)はその名を得た。なぜなら、慎ましさの意識から、若い女たちは自らを覆った(obnuberent)からである。それゆえ、おお、処女たちよ、学ぶがよい、いかにして慎ましさを保つかを。見知らぬ者たちの前で頭を覆わずに出て行かぬように。既に婚約していたリベカは、自分に定められた夫を頭を覆わずに見ることをふさわしくないと考えたのである」


第六十七節:サラの天幕へ

サラの死後三年を経て、イサクはリベカを妻としたが、これは本章第一節に述べられたことから明らかである。このことから妻たちは夫たちとは別に住んでいたことが明らかであり、これは私が第二十八節で述べた通りである。

ナンニウスは雅歌第三章について注して、花嫁はかつて姑の天幕または部屋に導き入れられたと述べている。それは新しい花嫁が将来の家の母となり、その者から子らの糸、後継、そして家系が引き出され広げられることを意味するためであり、また彼女が家の者たちの間で、花婿の母がかつて保っていたのと同じ名誉と地位を保つためである。それゆえ花嫁自身、その愛がより堅固なものとなるように、自分も同じことをすると約束し、雅歌3:4でこう言う。「私は彼を母の家に、私を身ごもった者の部屋に連れて行こう」と。すなわち、花婿は私を母の代わりとするであろうから、彼を彼女の部屋と場所に連れて行こう、というのである。「それゆえ、人はその父と母を離れ、その妻と結ばれるであろう」。翻って私、花嫁は、彼を我が両親の代わりとし、彼を我が母の場所、我を身ごもった者の部屋に連れて行くのである。


全章の寓意

寓意的にいえば、アブラハムは父なる神を表し、イサクはキリストを、リベカは教会を――実にあらゆる忠実な魂を――そしてアブラハムの僕は使徒たちを表す。この章においてこれら四人の人物が何をなしたかを考察せよ。そうすれば、父なる神が我々の救いのために何をなされたか、キリストが何をなされたか、使徒たちが何をなしたか、そして我々が何をなさねばならぬかが分かるであろう。


アブラハムは父なる神:六つの類比

第一に、アブラハムが自分の持つすべてを与える独り子を持っていたように、父なる神もまたそうである。

第二に、アブラハムは自分の子が独りでいることを望まず、子をもうけさせるために彼に妻を与えようと計る。こうして父なる神もキリストを教会に結び合わせることを望まれ、彼に向かってこう言われる。「我に求めよ、然らば我は諸国民を汝の嗣業として与えん」云々と。

第三に、アブラハムはまず婚姻のことを口にし、自ら僕を遣わす――僕は他の仕方では行かなかったであろう――。彼自らが妻を呼び寄せさせる――彼女は自分からはやって来なかったであろう――。こうして神は我々の救いの創始者であり始まりである。さもなくば、我々は決してキリストのもとに来なかったであろう。神自らが預言者たちと使徒たちを遣わして我々を招かれたのである。

第四に、アブラハムはこのことを自らではなく、最も年長で最も忠実な僕を通して行った。こうして神もまた御自分の羊と花嫁を、最も忠実な牧者たちに託される。それゆえペトロに三度こう言われる。「汝はこれらの者よりも我を愛するか。我が羊を飼え」と。

第五に、アブラハムは僕を誓いによって縛る。こうして神は説教者たちに対し、厳しい罰のもとに説教の務めを課される。聖パウロはコリントの信徒への手紙一9章で「もし我、福音を宣べ伝えずば、我に禍あれ」と言い、エゼキエル書3章で神は滅びる者の血を見張りの者の手から要求される。

第六に、アブラハムは自分の子のために妻を望むが、同じ血筋から出て、イサクと同じ性格を備えた妻を望む。こうして神は、御子に恥ではなく栄誉をもたらす聖なる教会を持つことを望まれる。「聖なる者となれ」と神は言われる、「我は聖なる者なれば」と。


イサクはキリスト:八つの類比

イサクにおいて、キリストがその婚約の時になされたことを見るのである。

第一に、イサクは野に出て行き、キリストは世に出て行かれた。

第二に、イサクは夕方に出て行き、キリストは世の最後の時代にお出でになった。

第三に、イサクはその時南の地方に住んでいた。キリストは、裁きを意味する冷たい北から来て、憐れみの南へと向きを変えられた。

第四に、イサクは生きて見たもう者の井戸のそばを歩いていた。生きて見たもう者とは神である。なぜなら、神の目にはすべてのものが裸で露わだからである。この生きて見たもう者の泉とは聖書である。泉への道は受難の謙遜である。この道をキリストはその地上の旅路において歩まれ、あるときはこの聖句を、あるときはかの聖句を成就されつつ、すべてを成就し終えた後こう言われた。「成し遂げられた」と。

第五に、イサクは花嫁が近づいて来るのを見て迎えに出た。キリストもまた、恩寵を通して御許に来るすべての者を迎えられる。ザアカイや放蕩息子の場合に明らかなように。

第六に、イサクはリベカを奴隷としてではなく妻として迎え入れた。こうしてキリストもまた教会を迎え入れられた。

第七に、イサクはリベカを母サラの天幕に連れて入れた。キリストは異邦人の教会を、自らの出自であるユダヤ人のシナゴーグの場所に連れて入れられた。

第八に、イサクはリベカを深く愛し、それによって母の死に対する悲しみを和らげた。こうしてキリストもまた、都を見てそれを嘆き泣かれたが、異邦人の教会を得たことによってその悲しみを和らげられた。


僕は使徒たち:十三の類比

アブラハムの僕において、使徒たちと説教者たちの務めが描かれている。

第一に、僕は主人の命令によって花嫁を探しに出て行ったが、誰を、どのような者を探すのかを知らず、事の結末と成功を主に委ねた。こうして使徒たちは出て行き、至る所で説教したが、誰が信じるかを知らなかった。彼らは種を蒔き、実りを主に委ねたのである。

第二に、僕は主人のすべての財産の中から幾らかを携えて行き、それをもってその乙女を飾ろうとした。こうして使徒たちも手ぶらでは来ず、大いなる賜物――すなわち恩寵、平和、奇跡、生活と性格の聖さなど――を携えて来たのである。

第三に、アブラハムの僕は井戸のそばに立ち、どの乙女を選ぶべきかを熟慮する。こうして使徒たちは真珠を豚の前に投げず、より大きな実りを期待できる者たちに説教し、頑なで相応しからぬ者たちを洗礼に与らせたり和解させたりせず、悔い改めた、然るべく備えのある者たちにそうした。

第四に、僕は遣わされずには行かぬ。こうして真の使徒たちもまたそうである。偽の使徒たちについてはこう言われている。「彼らは走っていたが、我は彼らを遣わしはしなかった」と。

第五に、僕は任務に取りかかる前に祈る。こうして使徒たちもまたそうである。なぜなら、先立つ祈りなくしての説教は何の実りも結ばないからである。

第六に、僕が自分の務めを果たすや否や、彼は探し求めていた乙女を見出した。こうして神もまた使徒たちに協力され、彼らが行くいかなる諸国民のうちにおいても、彼らを受け入れ信じる人々を見出せるようにされた。

第七に、僕は乙女に飲み水を求める。使徒たちの渇きとは、魂の救いへの望みである。彼らの言葉を聞き、それを行いにおいて果たす者たちが、彼らに飲ませるのである。

第八に、僕は乙女が自分の祈りの通りに行動するのを見て、神に感謝をささげた。こうして聖パウロもまた至る所で異邦人の回心について神に感謝をささげた。

第九に、僕は花嫁に耳と手のための飾りを与える。使徒たちは教会を飾り、教会は信仰によって耳を飾られ、善き業によって手を飾られるのである。ファリサイ派の人々は手だけを飾った、すなわち律法の業だけを教えた。シモンや異端者たちは耳だけを飾る、すなわち聞くことによって来る信仰だけを説教する。しかし真実には、どちらか一方だけでは十分ではないのである。

第十に、僕は婚姻に同意した乙女により大きな賜物を与える。こうして信者たちにも聖霊のより大きな賜物が与えられるのである。

第十一に、僕は用件が終わると直ちに帰る。なぜなら、彼は主人の事柄にのみ心を用いるからである。使徒たちもそうしたし、すべての説教者もまたそうすべきである。

第十二に、僕は乙女を父の家からアブラハムの家へと連れて行く。こうして使徒たちもまた魂たちを異教から教会へと導いた。

第十三に、僕は花嫁を自分のためにではなく、主人のために連れて行く。聖パウロもまたそうし、こう言っている。「私はあなたがたを一人の夫に婚約させた。清い処女としてキリストに献げるためである」と。


リベカは忠実な魂:十の類比

リベカは教会と忠実な魂の性格を示す。

第一に、ヘブライ語でリベカとは「肥えた者」「富まされた者」と同じ意味である。なぜなら、彼女はイサクを夫に持つ、すなわち「笑い」――魂の歓びであるキリスト――を夫に持つからである。

第二に、リベカは処女であった。そしてキリストは、肉と世のあらゆる愛から清められた処女を花嫁として持つことを望まれる。コリントの信徒への手紙二11:2に述べたことを見よ。

第三に、リベカは労働しているところで見出された。キリストは怠け者を持つことを望まれない。

第四に、リベカはアブラハムの僕に慈愛を示した。キリストは忠実な魂から慈愛を要求される。

第五に、リベカはアブラハムの僕に宿と食べ物を提供する。こうして信者たちも説教者たちに対してそうすべきである。

第六に、リベカはすべてを後にして、アブラハムの僕に従う。忠実な魂もそうする。

第七に、リベカは自分に仕える侍女たちを連れて行く。こうして忠実な者もまた自分の家族を連れて行く。

第八に、リベカはイサクに近づきながら駱駝から降りた。こうして忠実な者は、キリストに近づくとき自らを低くし、恥と悔い改めをもって、歪んだもの、高ぶったものをすべて捨て去るのである。

第九に、リベカはイサクを見るや、直ちに自らを覆った。こうして忠実な者は、キリストを知れば知るほど、自分の過去の生を恥じる。ローマの信徒への手紙6にあるとおりである。「今は恥ずかしく思っているそれらのことから、その当時あなたがたはどのような実を結んだか」と。

第十に、リベカはイサクとともに永遠に留まり、父の家に戻らない。こうして忠実な者は、終わりまでキリストとともに堅く留まるならば救われるであろう。聖グレゴリウスの『モラリア』第三十五巻第十七章、エウケリウスの『創世記について』第二巻第四十章、フェルスその他の者たちがこう言っている。