コルネリウス・ア・ラピデ
目次
本章の概要
ヤコブは、神より彼の保護のために遣わされた二つの天使の組を見た。第二に、第三節において、兄を恐れて、彼に贈り物を送る。第三に、第二十四節において、天使との格闘に勝ち、イスラエルと呼ばれる。
ウルガタ本文:創世記32章1-32節
1. ヤコブもまた、始めた旅を続けて行くと、神の天使たちが彼に出会った。2. 彼はこれを見て言った、「これは神の宿営である」と。そしてその場所の名をマハナイム、すなわち「宿営」と呼んだ。3. 彼はまた、エドムの地方、セイルの地にいる兄エサウのもとに、自分より先に使者を遣わした。4. そして彼らに命じて言った、「わが主エサウにこう告げよ。汝の弟ヤコブはこう言う。私はラバンのもとに寄留し、今日までとどまっていた。5. 私は牛、驢馬、羊、男の僕、女の婢を持っている。そして今、わが主に使節を遣わすのは、あなたの前に恵みを得んがためである」と。6. 使者たちはヤコブのもとに戻って言った、「私どもはあなたの兄エサウのもとへ参りました。見よ、彼は四百人の者とともにあなたを迎えに急いでおります」と。7. ヤコブは大いに恐れ、非常にあわてて、彼とともにいる人々と、羊、牛、駱駝を二つの組に分け、8. 言った、「もしエサウが一方の組に来てこれを撃つならば、残りのもう一方の組は救われるであろう」と。9. そしてヤコブは言った、「わが父アブラハムの神、わが父イサクの神、主よ、かつて『汝の地と汝の生まれた所に帰れ。我は汝に善をなさん』と我に仰せられたお方よ。10. 私は、僕に示してくださった、あなたのすべての憐れみとまことにふさわしくない者である。私はこの杖をもってヨルダンを渡ったが、今は二つの組をもって戻ってまいります。11. どうか兄エサウの手より私を救い出してください。私は大いに彼を恐れております。彼が来て、母を子らとともに撃つことのないように。12. あなたは、私に善をなし、私の子孫を、その数の多さゆえに数えることのできぬ海の砂のごとく増やすであろうと語られました」と。13. そしてその夜そこに寝た後、彼は自分の所有するものの中から、兄エサウのための贈り物を取り分けた。14. すなわち雌山羊二百頭、雄山羊二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、15. 乳を飲ませる雌駱駝とその子三十頭、雌牛四十頭、雄牛二十頭、雌驢馬二十頭、およびその子十頭である。16. 彼はこれを僕たちの手によって、群れごとに別々に送り出し、僕たちに言った、「私の先を行け。そして群れと群れとの間に距離を置け」と。17. そして先頭の者に命じて言った、「もし兄エサウに出会い、彼が『汝は誰のものか』『どこへ行くのか』『汝の駆るこれらは誰のものか』と問うならば、18. 汝はこう答えよ、『これらは汝の僕ヤコブのものである。彼はわが主エサウへの贈り物として送った。見よ、彼自身もまた私たちの後から来る』と」。19. 彼は同様に、第二の者にも、第三の者にも、群れに従うすべての者にも命じて言った、「エサウに会うときは、これらと同じ言葉を語れ。20. そして付け加えよ、『汝の僕ヤコブもまた私たちの道を追って来る』と」。彼はこう言ったからである、「私は先を行く贈り物によって彼をなだめ、その後に彼に会おう。おそらく彼は私に好意を示すであろう」と。21. こうして贈り物は彼の先を進んだが、彼自身はその夜、宿営にとどまった。22. 彼は早く起きて、二人の妻と二人の婢、および十一人の子らを連れて、ヤコブの渡しを越えた。23. 彼に属するすべてのものを渡らせたのち、24. 彼はひとり残った。すると見よ、一人の人が朝まで彼と格闘した。25. その人は、ヤコブに勝てないのを見て、彼の腿の筋に触れた。するとすぐに縮んだ。26. そしてその人はヤコブに言った、「私を去らせよ、夜明けが近づいているから」と。ヤコブは答えた、「あなたが私を祝福してくださらなければ、お去らせいたしません」と。27. その人は言った、「汝の名は何というのか」。彼は答えた、「ヤコブです」と。28. しかし彼は言った、「汝の名はもはやヤコブと呼ばれてはならず、イスラエルと呼ばれる。汝は神に対して強かったのだから、いかにまして人々に対して勝つであろう」と。29. ヤコブは彼に尋ねた、「どうか、汝が何という名で呼ばれているかを私に告げてください」。彼は答えた、「なぜあなたは私の名を問うのか」と。そして同じその場所で彼を祝福した。30. ヤコブはその場所の名をフェヌエルと呼び、言った、「私は顔と顔とを合わせて神を見たが、私の命は保たれた」と。31. 彼がフェヌエルを渡ったとき、すぐに太陽が彼の上に昇った。しかし彼は足を引きずっていた。32. そのためイスラエルの子らは、ヤコブの腿において縮んだ筋を、今日に至るまで食べない。彼の腿の筋に触れて、麻痺したからである。
第一節:神の天使たち
ヤコブはここで二つの天使の組を見た。というのは、この場所はヘブライ語でマハナイム(Machanaim)と呼ばれており、これは双数形の名詞であって、二つの宿営または二つの陣を意味するからである。それゆえ、後にそこに建てられた町もマハナイムと呼ばれた。すなわち、一つの組はメソポタミアの守護者であり長である天使に属していた。彼は彼に従属し配下にある天使たちとともに、整えられた陣形のごとく、ヤコブに随伴してメソポタミアからここまで、すなわちカナンの国境まで安全に導いていたのである。そこで、カナンの長である天使が彼を迎え、自らに従属する天使の組をもって彼を受け入れた。それは、彼をカナンを通して安全にその父のもとまで導き、エサウおよびその他の敵対者から彼を守り保護するためであった。ちょうど諸侯が異国の君主を自らの領地を通して、護衛の兵を付けて安全に導き、隣接する君主とその護衛兵に引き渡してさらに先へと導かせるように、天使たちもまたここでヤコブに対して同じように行う。神とその天使たちが自分のものに対していかに摂理と配慮を示すかを見よ。また、ヤコブが神と天使たちにとっていかに偉大で、いかに親密で、いかに愛された者であったかを見よ。第三に、ラバンによってヤコブに加えられた試練と恐怖の後に、天使たちの慰めが続くさまを見よ。キリストについてマタイ4章にもこう言われている、「そのとき悪魔は離れ去った。すると見よ、天使たちが来てイエスに仕えた」と。第四に、ラバンのより小さな試練の後に、より大きな試練、すなわち敵対するエサウへの恐れが続くこと、そして天使たちがここでエサウに対してヤコブを守り固めるさまを見よ。
以上述べたことから、これが天使たちによる特別な守護であったことが明らかである。なぜなら、ヤコブの守護天使一人のみならず、二つの天使の組が二人の指導者とともにヤコブに現れたからである。
タルソスのディオドロスは、第二の組の長であり、カナンの長である天使は聖ミカエルであったと考える。というのは、彼は神によってヤコブの子孫、すなわち神の民、つまりすべてのイスラエル人の君主として立てられたからである。これはダニエル書10章末節、およびダニエル書12章1節より明らかである。
それゆえ、列王記下6章17節において、エリシャが敵に囲まれながら、自分を助け守るために来る天使の組を見たように、ここでヤコブもまたエサウおよびその他の敵に対して天使たちの守護に囲まれている。それは彼が、エサウをも、またいかなる人をも恐れないことを学ぶためである。こうアブレンシスは言う。ここに詩編34編8節のあの言葉が成就したのである、「主の天使は主を畏れる者のまわりに陣を敷く」と。
こうして、『教父伝』において師父モーセについて次のように読まれる。彼が淫欲の霊に大いに攻められていたとき、師父イシドロスのもとに行った。イシドロスは彼を家の上部に導き、そこで西の方には互いに争う悪魔の大いなる群れを見せ、東の方には輝く天使の軍を見せた。そのとき、イシドロスは言った、「あなたが西に見たもの、それはまた義人たちをも攻撃する者らである。しかし東に見たもの、これは万軍の主がご自分の僕たちを助けるために遣わされる者らである。ゆえに、我らとともにある者のほうが多いことを知れ——」と。
道徳的意味において、聖アウグスティヌスは、我々がヤコブの例によって、人間的な守りと助言を怠らない仕方で神に信頼すべきことを指摘している。というのは、それを怠るならば神を試みることになるからである。それゆえ我らの父である聖イグナチオは、我々に次のことを教えた。すなわち、物事を成し遂げる一切の望みを神に置き、自分自身と自分の力にはまったく信を置かず、大いなる信頼をもって自らを全面的に神と神の摂理に委ねること、しかも実際の実行においては、あたかもそれらのみに頼り、事のすべてがそれらのみによって成し遂げられねばならぬかのように、すべての自然的手段と人間的方策を熱心に用いること。というのは、キリスト教的な思慮と敬虔はこの両方を教え、かつ要求するからである。
第三節:セイルの地にいるエサウのもとへ
セイルの地にいる兄エサウのもとへ。この地はまたエドム、あるいはイドマヤとも呼ばれる。注意せよ。ヤコブがハランに滞在している間に、神はその兄エサウの心のうちに、ある思いと傾きを吹き込まれた。エサウは、両親の意向がヤコブに対しては好意的で、自分と自分の妻たちに対しては冷ややかであったことに憤慨していたのであるが、神はそのエサウにカナンを離れ、エドムの山々を自分の住まいとして選ばせた。これはこのようにしてカナンがヤコブとその子孫に譲られるためであった。ヤコブはハランで、おそらく母からの使いを受け(というのは、彼女はそれを第二十七章四十五節で約束していたからである)、エサウがエドムに移住したことを理解した。それゆえ彼は安心してハランからカナンにいる両親のもとに戻るのである。
第二に、先取り的表現(prolepsis)に注意せよ。というのは、この地はエサウの居住以前ではなく、その後になって、エサウ自身によってセイル、エドムあるいはイドマヤと呼ばれたのである。これは第二十五章二十五節および三十節で述べたとおりである。
第五節:私は牛を持っている
私は牛を持っている ——あたかもこう言うかのようである。「私は貧しさのためにあなたの負担となることはなく、また両親の財産を減らすこともないであろう。なぜなら神は私に豊かな富を与えてくださったからである」と。
第六節:四百人の者とともに
四百人の者とともに。それは彼がその兄に自らの勢力を示し、さらにこの行列によって彼をより一層敬い、旅の途中で安全な護衛を提供するためであった。それゆえエサウは、ヤコブから遣わされた使者たちが彼をあれほど謙虚に、また丁重に挨拶したことによってなだめられ、かつての憎しみを愛へと転じたように思われる。神が彼の心を変え、ヤコブへの好意へと傾けたのである。
第七節:二つの組
二つの組。第一の組は羊飼いを伴う家畜の群れであり、それぞれの順序に従って適切に配置されていた。第二の組は妻たちとその子らであり、三つのグループに分かれていた。第一はジルパとビルハとその子らのグループ、第二はレアとその子らのグループ、第三はラケルとヨセフのグループである。これは次章二節より明らかである。ゆえに、ラケルとヨセフは第三の組を形成していたのではなく、第二の組の最後尾を占めていた。なぜなら彼らはヤコブにとって最も愛しい者であったからである。
第八節:救われるであろう
救われるであろう ——すなわち、逃げることによって自らを救うことができるであろう、という意味である。
第十節:私はふさわしくない者
私はふさわしくない者 ——すなわち、私はあまりに卑小で、あまりに低く、あまりに無価値な者であり、あなたが私に与えてくださった、どんなに小さな恩寵や憐れみをも受けるに値しなかったし、今も値しない者である、という意味である。というのは、真の徳の基礎は謙遜だからである。そして、いかに大きな栄光であっても、高ぶりがこれを曇らせないほどのものはない。
注意せよ。ヤコブはここで、過去に彼に与えられた恩恵について神に感謝している。しかもその感謝の仕方は、自らを将来の恩恵にふさわしい者となるためであり、また自らの謙遜と感謝によって神をそれら将来の恩恵を与えるよう動かすためである。彼はここで我々に、効果的に祈る方法を教えている。まず神への畏敬と賛美から始め、父祖たちの功徳を引き合いに出して言う、「わが父アブラハムの神」云々。第二に、彼は神にその約束を思い起こさせる、「主よ、かつて『帰れ』と我に仰せられたお方よ」。第三に、彼は自らを謙遜させ、自らの弱さを告白する、「私は、あなたのすべての憐れみにふさわしくない者である」。第四に、受けた恩恵を思い起こして感謝する、「私はこの杖をもってヨルダンを渡ったが、今は二つの組をもって戻ってまいります」。第五に、祈る、「兄エサウの手より私を救い出してください」。第六に、自分のためだけでなく他の者のためにも祈願する、「母を子らとともに撃つことのないように」——彼は、祝福された子孫が滅ぼされるならば、キリストが来られないであろうことを何より恐れていたのである。
まこと(Veritas)——すなわち誠実であり、あたかもこう言うかのようである。「私は、ふさわしくない者ではあるが、今日に至るまでつねにあなたが私に与えてくださった約束において忠実であられることを経験してきた。それゆえ私は信頼し、将来も同じことを経験し、今はあなたがエサウから私を守ってくださるように祈るのである」と。
私の杖をもって ——あたかもこう言うかのようである。「ただひとり、杖あるいは牧者の杖にもたれて、貧しく、群れのない牧者のごとく、いや、むしろ養うべき群れを求めて、私は故郷からハランへと行った。そして今、神の賜物によって、子らと僕たちと家畜との二つの組をもって戻ってまいります」と。ヨセフスはこう語る。
第十五節:乳を飲ませる雌駱駝
乳を飲ませる雌駱駝 ——すなわち、最近子を産み、その子に乳を飲ませていた雌駱駝のことである。
第十六節:群れと群れとの間に距離を置け
群れと群れとの間に距離を置け。それは、エサウが彼から送られた贈り物の数と多様さと見栄えを、より長い時間味わい、それによって心を和らげるためであった。というのは、このようにすれば、エサウにはそれらがより多く、より華やかに見えるからである。
第二十節:おそらく
おそらく ——すなわち、確かに、の意である。というのは、ここで「おそらく」という語は疑う者の言葉ではなく、確言し強調する者の言葉だからである。ホメロスにおけるtacha(タッカ、「おそらく」の意)がそうである。またキリストもヨハネ8章19節でこう言う、「もしあなたたちが私を知っているなら、おそらく(すなわち確かに)わが父をも知っているであろう」と。
第二十一節:彼はその夜、宿営にとどまった
しかし彼自身はその夜、宿営にとどまった ——それは、忘れて何か置き残されたものがないかを確かめるためであり、また、どのような手段で兄をなだめるかについて思案し熟考するためであった。しかし何よりも、その夜ひとりで、静かに熱心に神に祈願し、兄との事柄と自らの旅のすべてを導いてくださるよう請い願うためであった。それゆえ、祈りの後に、格闘する天使が彼に出会ったのである。そして最後に、心配と労苦の後に、睡眠と必要な休息に時を与えるためでもあった。それゆえ七十人訳はこう訳している、「しかし彼自身は宿営に寝た」と。ヘブライ語は לין lan(ラン)、すなわち「彼は夜を過ごした」の意であり、眠るか、あるいは夜を徹して見張りをし働くかのいずれかによって夜を過ごしたという意味である。
道徳的意味において、聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻、第六章でこう語る。「完全な徳は休息の静けさと安定を有する。それゆえ主はこの賜物を、より完全な者たちのために取っておかれた。『平和を汝らに残し、わが平和を汝らに与える』と。完全な者の特徴は、世のことがらによって容易に動かされず、恐れによって乱されず、疑いによって動揺せず、恐怖によって揺るがされず、痛みによって苦しめられず、かえって最も広い浜辺のごとくに、世俗の嵐の押し寄せる波に対して、信仰の場において不動の心を鎮めることである。これに反して悪しき者は、他人の打撃に多くの者が苦しむよりも、自分自身の疑念によって多く苦しむ。そして彼の魂における傷の腫れは、他人によって打たれる者の身体における腫れよりも大きい」と。
第二十二節:早く起きて
彼は早く起きて ——ヘブライ語とギリシア語の本文が示すように、夜明け前、まだ夜のうちに起きたのである。というのは、夜のうちに、自らの所有物と家族をヤコブの渡しを越えて送り出した後、ヤコブは朝まで天使と格闘したからである。
第二十四節:一人の人が彼と格闘した
一人の人が彼と格闘した。あなたは問うかもしれない、この人は誰であったかと。テオドレトス、ユスティノス、テルトゥリアヌス、ヒラリウス、アンブロシウス、キュリロス、およびペレリウスが引用するその他の者たちは、この人は神の子、すなわち肉となるべき御言葉であったと言っているようである。そしてこのことは、ヤコブ自身が第三十節で彼を神と呼んでいることから証明される。
しかし私は第一にこう言う。この人は天使であった。これはホセア書12章3節から明らかである。そこではこの人は明確に天使と呼ばれている。第二に、聖ディオニュシオスが『天上位階論』第四章で、また聖ヒエロニムス、ヨセフス、エウセビオス、ルペルトゥス、および聖アウグスティヌスが『神の国』第十六巻第三十九章で、彼が天使であったと教えているからである。そして彼らはこう付け加える。すなわち、旧約聖書において神はご自身で現れたことはなく、常に天使たちを通して現れた。シナイ山で律法を与えた神の最も有名な顕現も、ガラテヤ書3章19節から明らかなように、天使たちを通して行われた、と。
あなたは反論するであろう。この人は第三十節で神と呼ばれている、と。私は答える。彼は個人としては天使であったが、代表として、かつ権威において神と呼ばれているのである。ちょうど副王が王と呼ばれるのと同様である。というのは、彼は神を、すなわち肉となるべき神の子を代表し、神に代わって、神の権威によって行動していたからである。そしてこれこそが、この人を神の子と呼ぶテオドレトスやユスティノスやその他引用された教父たちの意味するところのすべてである。
あなたは第二に反論するであろう。シルミウム教会会議は規定第十四条において、この人は神の子であったと定めている。というのは、そこにはこう書かれているからである、「もし誰かが、ヤコブと格闘した者は神の子ではなく、むしろ人が格闘したと言うならば、あるいは生まれざる神あるいは御父であったと言うならば、排斥されるべし」と。私は答える。この教会会議は、この天使が神を代表していること、しかも御父ではなく御子を代表していることを言っているに過ぎない。さらにこれはアリウス派の教会会議であり、それゆえ権威と信憑性はわずかであり、実に疑わしいものである。
私は第二にこう言う。この天使は、リラによれば、ユダヤ人たちが主張するように、エサウの姿をとってヤコブを打ち負かそうとした悪しき天使ではなく、善き天使であった。これは明らかである。なぜなら、ヤコブは彼から祝福を求めたからである。また、彼から場所がフェヌエル、すなわち「神の顕現」あるいは「神の顔」と呼ばれ、ヤコブ自身はイスラエル、すなわち「神に対して勝つ者」と呼ばれたからである。それゆえ、これはヤコブから生まれるべきキリストの予型としての善き天使であった。こう教父たちと註解者たちは言う。それゆえ、聖ヒエロニムスが『エフェソ書註解』第六章十二節において、この天使は悪魔であり、使徒が言うように、我々がその者と絶えず格闘している者であると述べていることは、彼の常の仕方において、自らの意見からではなく、オリゲネスの意見から提示されたものである。というのは、オリゲネスは『ペリアルコーン(諸原理について)』第三巻において、この天使は悪魔であったと主張していたからである。
私は第三にこう言う。この天使は、フランシスコ・ゲオルギウスが『問題集』第一巻第三部問題第二三四で考え出したような、エサウの長子権をヤコブに返させるためにヤコブを聖地に入らせまいとするエサウの守護天使ではなかった。むしろこの天使はヤコブ自身の守護天使であった。これは明らかである。なぜなら、彼はエサウの事柄のためではなく、ヤコブの事柄のために働き、ヤコブ自身を、エサウにとっては不利になるように祝福したからである。また、善き天使が神のみ心に反してエサウの不正な事柄を引き受け追い求めようとするなどと、誰が信ずるであろうか。最後に、このことはヤコブが第二十九節で述べる言葉から明らかである、「私は顔と顔とを合わせて主を見たが、私の命は保たれた」と。それゆえ、この天使はエサウの守護者ではなく、ヤコブの守護者であり救い主であった。
彼は格闘した。ここで第二に問われる。なぜ天使はヤコブと格闘したのか。私は答える。それは、この格闘において天使がヤコブに打ち負かされることを許し、それによって、ヤコブが同じように、いやむしろはるかに容易に、彼が恐れる兄エサウを和らげ、屈服させ、打ち負かすであろうという希望をヤコブに与えるためであった。というのは、まさにこれこそ、天使が第二十八節で言っていることだからである、「汝は神に対して強かったのだから、いかにまして人々に対して勝つであろう」と。こうギリシアとラテンの教父たちは言う。それゆえ、聖トマスとルペルトゥスがこの格闘を想像上のものと呼んでいるにもかかわらず、それが天使の取った身体において現実のものであり身体的なものであったと考えるほうが、より真実に近い。これは教父たちが一般に教えているとおりである。というのは、天使がヤコブに現れて彼を慰めたのち、彼から去ろうとしたとき、ヤコブは近づきつつあるエサウとともにひとり残ることを恐れ、ある聖なる大胆さをもって天使を願い引き止めた。そして天使は、一夜を通じての長い引き止めと格闘によって彼に捕らえられることを許した。それは、こうすることによって彼に勇気を与え、エサウへの恐れを追い払うためであった。
象徴的には、この格闘はキリスト到来までのイスラエル人の状態を予表していた。それは、彼らの罪のゆえに、神はしばしば彼らから離れようとされたが、ヤコブや彼のごとき者たち——すなわちモーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤその他の者たち——が神を引き止めなかったならば、神はとうの昔に離れ去っておられたであろう、という状態である。第二に、この格闘はキリスト者の生涯を予告していた。それは、戦い以外の何ものでもなく、聖ヨブが言うように地上における一つの戦いであり、その中で我々は時に打ち負かされるが、武装して、ヤコブのごとく勇敢に格闘するならば、最後には勝利するのである。というのは、哲学者(そしてキリスト者の兵士)の精神は、苦しんだことによってより気高くなり、熱した鉄が冷水を振りかけることによって強くなるように、彼自身もまた危難によって強くなるからである。こう聖グレゴリオス・ナジアンゾスが演説第二十三、ヘロンを称えてのうちで言う。
注意せよ。「彼は格闘した」は、ヘブライ語では יאבק yeabec(イェアベク、「格闘した」の意)であり、七十人訳はこれをepaiaie(エパイアイエ、「格闘した」の意)と訳し、「レスリング道場で格闘者のように格闘した」の意である。
第二に、アクイラとシュンマコスはこれをekonise(エコニセ、「彼は回転し投げ合った」の意)と訳している。これは「彼は彼とともに回転し、互いに投げつけていた」の意であり、格闘者たちが互いに投げ、ねじり合うようにである。すなわち一方が他方を掴み、もう一方が自分を解放し逃れようとするときのようにである。それゆえこの格闘が現実のものであり、文字通りのものであったことは明らかである。同様に、ギリシア語のpale(パレ、「格闘」の意)はpelou(ペロウ、「泥から」の意)から派生したものと考えられている。これは格闘者たちが回転することによって身に振りかける泥のことである。しかしプルタルコスはこれをpalin(パリン、「再び」の意)から派生させている。また他の者たちはpaleuein(パレウエイン、「計略と待ち伏せによって投げ倒す」の意)から派生させ、他の者たちはplesiazein(プレシアゼイン、「近づく」の意)から派生させ、他の者たちはpalaistos(パライストス、「四本の指を合わせたところから」の意)から派生させている。
第三に、厳密にはヘブライ語のyeabecは「彼は塵にまみれていた」を意味する。すなわち、ウァタブルスが訳しているように、彼は塵と砂のうちに降り立ったのである。というのは、その語根 אבק abac(アバク、「塵」の意)は「塵」を意味するからである。格闘者たちは、足をひんぱんに踏みならし、速く激しく動くことによって塵を舞い上がらせるものである。ちょうどウェルギリウスのかの雄牛が「蹄で砂を蹴散らす」のと同様である。
マルティヌス・ロアは『特異集』第六巻、最終章で、こう付け加える。すなわち「塵にまみれる」という語のうちには、ギリシア人とローマ人のレスリング道場の慣習への暗示があり、そこでは格闘者たちが互いに塵を振りかけて、掴まれたときに互いをより容易に、かつ堅く抑えることができるようにしていた、と。
第四に、他の者たちはyeabecを「彼は身をひねって、敵を力で投げ倒し、転覆させようと努めた」と訳す。これを風の比喩から取っているのである。というのは、強い風が塵を、いや人々さえも、ねじり転覆させるように、格闘者たちもまた同じことを行おうと努めるからである。それゆえ語根 אבק abacは「塵」を意味し、風によって舞い上げられると、激しくねじられ、投げ飛ばされ、散らされる。しかしこの比喩はより遠回しでこじつけである。というのは、abacは絶対的かつ単純に、いかなる塵をも意味するからである。これについて賢者は第十章十節でヤコブについて語って言う、「神は彼に困難な格闘を与えた。彼が勝つためであった」と。ギリシア語ではethlatesen(エトラテセン、「競技を行った」の意)である。あたかもこう言うかのようである。神はヤコブに困難な競技を課し、同時に競技の賞と報酬をも、ラバンの貪欲、エサウの怒り、その他の敵に彼をさらしたとき、また特に天使を彼に対して立たせ、彼がこれと格闘し、勝ったとき、彼はイスラエル、すなわち「神を治める者」と呼ばれた、と。
「朝まで」という表現に注意せよ。ここでヤコブは自らの例によって、夜全体を眠りに与えるべきではなく、その一部を祈りに与えるべきであると教えている。というのは、クレメンス・アレクサンドリヌスは『パイダゴゴス(教導者)』第二巻第九章で、睡眠が取税人のごとく、我らの生涯の半分を我らと分かち合う、と当然のごとくに嘆いているからである。それゆえ哀歌2章19節でエレミヤはこう言う、「夜のうちに起き、主の御前に汝の心を水のごとく注ぎ出せ」と。というのは、聖ヨハネス・クリソストモスが言うように、夜には、「より清く、より軽やかな魂が、高きもの、星々の舞い、深き静けさを見る」云々。さらに、沈黙と「孤独」は、ナジアンゾスが演説第二でこう言うように、「神への上昇の母」、すなわち祈りの母であり、人を神とするものである。これを彼は少し後で自らの砦と呼び、迫害や試練に悩まされたときには、そこへ退くことを常としていたのである。
神秘的には、聖アンブロシウスは『ヤコブについて』第二巻第六章でこう語る。「神と格闘するとは何であろうか。それは徳の競技を引き受け、より優れた者と戦い、他のすべての者よりも神のより優れた模倣者となることではないであろうか。そして彼の信仰と敬虔が打ち負かされないものであったがゆえに、主は彼に秘められた奥義を啓示された」と。
第二十五節:彼の腿の筋に触れた
その人(すなわち天使)は、ヤコブに勝てないのを見たとき。それゆえ、ヤコブが格闘において頑張ったとき、神は天使から同意の助けを、したがって抵抗する力を引き上げ、彼がヤコブによって捕らえられ打ち負かされることを許したように見える。
彼は触れた。ヘブライ語では נגע yigga(イッガ、「触れた」の意)、すなわち彼は打った、彼は傷つけた、彼は脱臼させた、の意である。
腿の筋。ヘブライ語では כף caph(カフ、「くぼみ」の意)であり、これは椎骨、あるいは受け皿、すなわち腿の上部が収まる骨のくぼみを意味する。ギリシア語ではこれをischios(イスキオス、「腰」の意)と呼ぶ。また、caphは、腰のくぼみに挿入される腿骨の丸く曲がった頭を意味する。そしてここではこの意味で取られる。というのは、腰のくぼみに挿入される腿骨そのものがここでその位置から動かされたのであって、くぼみや腰そのものが動かされたのではないからである。あたかもこう言うかのようである。すなわち、ヤコブのまさにその腿、まさにその腰関節が脱臼した。なぜなら、天使は腿すなわち腰関節を椎骨すなわち上部の骨に結びつけている筋、すなわち腱を解き脱臼させたからである、と。我々の翻訳者はこれをその意味において非常によく訳出している。
注意せよ。この腱を、手近にあった最初のものとして、天使は激しい打撃と衝突によって内側で傷つけ脱臼させたのである。格闘者たちが逃れるために、敵に触れ、打ち、打撃を加える仕方で、彼らができる限りどこでも、どのような仕方ででも行うごとくである。そしてこれは、ヤコブがこの天使との格闘が現実のものであったことを知るためであり、また彼が自らの力によってではなく神の力によって天使を打ち負かしたことを知るためであった。というのは、ヤコブの腿を脱臼させることのできた天使は、神が妨げなかったならば、確かにヤコブの他のすべての手足をも脱臼させ、ヤコブを完全に打ち砕くことができたであろうからである。こうテオドレトスは言う。
縮んだ。ヘブライ語では תקע teka(テカ、「解かれた」の意)、すなわち、ふさわしい以上に緩められ、脱臼し、伸ばされ、それによってヤコブが足を引きずったことを意味する。七十人訳と我々の翻訳者はこれを「縮んだ」と訳している。というのは、筋がその位置から動かされ脱臼することによって、いわば弛緩し、麻痺し、使い物にならなくなったからである。それゆえ最終節ではこれが「麻痺した」と言われているのである。
第二十六節:私を去らせよ、夜が明ける
去らせよ、すでに夜が明けている。天使が去らせてほしいと願ったのは、日が明け始めるにあたって、仮に取った身体において自分をヤコブに明確に示したくなかったからであり、とオレアステルは言う。まして、今まさに彼のもとに来ようとしていたヤコブの僕たちに示したくなかったからである、と聖トマスは言う。というのは、天使のような神的かつ霊的なものは隠れたものであり、人間の把握を超えるものであって、それゆえ人間の目を避けるものだからである。
祝福してくださらなければ、あなたを去らせません。ヤコブは非常な愛情と願望をもってこう言った。それゆえホセアは第十二章三節において、ヤコブが涙をもってこの祝福を求めたと語っており、それゆえ彼はこれを得、併せて天使が彼に授けたイスラエルという新しい名をも得たのである。
祝福してくださらなければ、あなたを去らせません。ヨセフスは、ヤコブが天使に祈って、自分の運命を天使から知らせてもらえるように願い、その望みと祈りをかなえられたと言っている。しかしこれは、ヤコブが単に自分に将来何が起こるかを知りたがったというように解してはならず、むしろ天使が自分の繁栄のために祈り、迫り来るエサウから恐れていた現在の災いを退けてくれるように願ったと解すべきである。
第二十八節:あなたの名はイスラエルとなる
あなたの名はもはやヤコブと呼ばれず、イスラエルと呼ばれる――すなわち、あなたはヤコブとだけでなくイスラエルとも呼ばれるであろう、という意である。なぜなら、その後も彼はなおヤコブとも呼ばれたからである。カノン17を参照せよ。
イスラエル。イスラエルが何を意味するかを問うか。第一に、聖ヒエロニムスはイスラエルを、ישר אל yeshar el、すなわち「神の直き者」とするかのごとく説明している。しかし、yeshar は硬音のシン(shin)で書かれるのに対し、イスラエルは軟音のシン(sin)で書かれるという難点がある。
第二に、聖アウグスティヌスは『神の国』第十六巻第三十九章において、また、フィロン、聖グレゴリオス・ナジアンゾス、ヒラリウス、エウセビオス、プロスペルは、イスラエルは איש ראה אל roe el、すなわち「神を見る人」と言われるものと考えている。しかし同様に、これも shin で書かれるのに対し、イスラエルは sin で書かれる。
第三に、それゆえ真の意味では、イスラエルは שרה sara el、すなわち「彼は神を支配した」から来ている。これより sar は「主」「君侯」と呼ばれ、sara は「婦人」と同じ意味である。したがってイスラエルは「支配する者」あるいは「神を支配するであろう者」と同じ意味である。というのは、イスラエルにおける ישרה yisra は未来形として解することができるからである。もっとも、固有名詞においては通常、yod は未来形の印としてではなく、ヘーマント語の接頭辞として加えられるのではあるが。これがイスラエルの語源であることは、天使の言葉から明らかである。天使は言う、「あなたはイスラエルと呼ばれる」と。それは שרית sarita、すなわち「あなたは勝ち、神を支配した」からである。七十人訳、テオドティオン、シュンマコス、聖ヒエロニムス、そして「あなたは神と共に支配した」、すなわち神に逆らって支配したと訳すアクイラも、そう訳している。なぜなら、あなたは神ご自身を支配したからである。天使を神と呼んでいるのは、天使が神を代表し、神の使者だからである。「イスラエルとは『神と共なる君侯』と同じ意味である。すなわち、わたしが君侯であるように、わたしと取り組むことができたあなたもまた、君侯と呼ばれるであろう。もしあなたが神であるわたしと戦うことができたのなら、まして人間、すなわちエサウとはなおさらであろう。それゆえあなたは彼を恐れる必要はない」と聖ヒエロニムスは『ヘブライ問題集』において述べている。
したがってこれが、求めるヤコブに対して天使が与える祝福である。すなわち、彼は今後イスラエルと呼ばれ、また実際にそうなるであろうということ、そして、神――すなわち神の代理者であり使者である天使――をかくも立派に組み打ちにおいて打ち勝った者は、いかなる意味においてもエサウおよびすべての敵を打ち勝つであろうことを彼が知るためである。いわば、「ヤコブよ、あなたの兄エサウを恐れるな。あなたは神に対して、あたかも神が抵抗し闘いをいどんでいるかのようであったにもかかわらず、強い祈りによって、エサウとあなたのすべての敵に対して不屈の精神を持ち、打ち勝ちがたく勝利者となることを得たのである」と言うかのごとくである。これがここでヤコブに与えられた祝福である、と聖トマスとカエタヌスは言う。
注意せよ。ある人々は、ここではイスラエルという名がヤコブに約束されただけであり、実際に彼に与えられたのは第三十五章十節においてであると考えている。しかし、真実のところは、かくも記念すべき組み打ちと勝利のゆえに、実際にここで彼に与えられ、第三十五章十節において更新され確認されたと解するのが、より正しい。
第二に注意せよ。この組み打ちとイスラエルというこの名は、ヤコブの年齢九十七歳において彼に生じた。というのは、彼の九十一歳のときにヨセフが生まれ、その後ヤコブはなおハランにとどまり、群れのために六年間仕えたからである。これは第三十章二十五節において示したとおりである。しかし七年目、すなわち彼の九十七歳のとき、逃れてカナンに来て、この組み打ちを行い、そこでイスラエルという名を受けたのである。
寓意的には、アルカザルは黙示録第十一章注一において、ここにはエサウとヤコブとの争い、すなわちシナゴーグと教会との争い、すなわち最初のキリスト教徒に対するユダヤ人の迫害が示されていると考える。というのは、彼らはその父ヤコブと共に、この試練において強く立ったのであり、それゆえ勝利を得、神に祝福されたからである。そこでアルカザルは、神が試みられ苦しめられている者たちに対して好意的かつ親しく自らを示されることを正しく指摘している。第一には、ユダヤ人およびその他の敵を通してヤコブと忠実な者たちを鍛え、攻められる力を和らげることによって。第二には、この争いにおいて堅く立ち続けるための堅忍をヤコブと忠実な者たちに与えることによってである。
比喩的には、この組み打ちは祈りである。祈りにおいてわれわれはヤコブと共に神を顔と顔とを合わせて見、われわれの魂は救われる。また、祈りによって、イスラエルのごとくわれわれは神を支配し、その結果すべての恐れ、情念、動揺、敵を支配する。そこから、腿、すなわち自己愛、自分自身の力への信頼、腿において栄える情欲は、神の力によって触れられて減じ、脱臼し、弱くなる。そしてわれわれは片足で足を引きずり、他方の足は健全なままである。というのは、世への愛が弱まるとき、人は神への愛において強くなる必要があるからである、と聖グレゴリウスはエゼキエル書説教14において、また悔悛の詩編6の冒頭において述べている。
それゆえ、キリストの兵士よ、この箇所とヤコブから学べ。いかなる誘惑、苦難、迫害においても、祈りをもって神へ逃れよ。もしあなたが祈りによって神を説得し、神に打ち勝つならば、あなたは自分の敵にも打ち勝ち、神は彼らをあなたの友か従う者とされるであろう。神はイスラエル、すなわちヤコブに対してそのように行われたからである。この勝利の秘義、そして何事をも得るための助言は、神に結ばれて神にあって力ある業を行う聖なる人々によって知られ、用いられ、また今も用いられている。「すべてを」とパウロは言う、「わたしを強めてくださる方にあって、わたしはなしうる」。神はすべての人、そしてきわめて凶暴な王たちの心をさえ、その御手のうちに保ち、御心のままに、どこへでもそれを曲げ、変えられるからである。
第二十九節:御名を教えてください
あなたが何という名で呼ばれているかを教えてください。ヤコブが天使の名を問うのは、それによって天使を自分の祝福者また恩人として称え、敬い、どんな逆境においても呼び求めることができるようにするためである。
なぜわたしの名を尋ねるのか。ある者は「それは不思議である」と付け加えている。それゆえアルカザルは黙示録第十一章一において、この天使の名は「不思議」であったと考える。すなわち、この名によって、この組み打ちの中に教会の迫害と勝利に関する神の不思議な摂理が予表されていたことを示すためであり、また、イザヤ書第九章六節において「不思議」と呼ばれるキリストの予型となるためである。ある種のラビたちも同じことを教えている。フェルネル医師が『事物の隠れた原因について』第一巻第十一章において言うことを聞け。「我々は文書による記録から受け継いでいる。すなわち、我々の最初の父の守護天使はラジエルと呼ばれ、アブラハムのはザキエル、イサクのはラファエル、ヤコブのはペリエル(すなわち『神の不思議なる者』)、モーセのはメタトロンと呼ばれた。これらの仲介者を通して、彼らは神から非常に多くのことを受け取った」と。しかしこれらはカバラ学者たちの憶測あるいは創作である。というのは、「それは不思議である」という言葉はこの箇所から削除されるべきであり、ヘブライ語本、ギリシア語本、ラテン語ローマ版も削除しているからである。もっとも、これは士師記第十三章十八節にあり、そこから何か衒学者によってこの箇所に移されたもののように思われる。
天使は自らの名をヤコブに明かそうとしなかった。それは、彼の後裔がその名を礼拝したり、迷信的にあがめたりしないようにするためである――ユダヤ人は偶像崇拝と迷信にきわめて傾きやすかったからである。また、天使は純粋な霊であり心であって、音声によって呼ばれる名を持たないからである。さらに、この天使は受肉すべき御言葉を代表しており、その御名は受肉以前には沈黙しており、隠されていたからである。
第三十節:彼を祝福された――フェヌエル
そして彼を祝福された。わたしが述べたように、第二十八節において天使は、彼をイスラエルと呼ぶことによって、暗黙のうちに、実際にヤコブを祝福した。しかしここでは、彼の上に十字架の印あるいはそれに類するしるしを形作り、「神があなたを祝福し、アブラハムとその子孫に約束された祝福をあなたに与えられますように」と言って、明示的に彼を祝福した。
そしてその場所の名をフェヌエルと呼んだ。「フェヌエル」、あるいはヘブライ語にあるごとく「フェニエル」は、「神の顔」と同じ意味である。というのは、pane は「顔」を意味し、el は神を意味するからである。ここに後に一つの町が建てられ、同じくフェニエルと呼ばれた。異教徒ストラボンはその第十六巻において、これを「神の顔」と呼んでいる。聖ヨハネス・クリソストモスは説教58において、七十人訳によって次のように読んでいる。「ヤコブはこの場所の名を『神の現れ』と呼んだ」と。というのは、そのとき神は人間の姿を取り、後には人間の真実と本性そのものを取られたからである。「彼はこう言う」とクリソストモスは言う。「このことによって我々に、神が人間の本性を引き受けることを予示された。しかし当時は、それが始まりであり端緒であったため、神は彼らのおのおのに対して、ホセア第十二章を通して語られる通り、比喩のうちに現れた。すなわち『わたしは多くの幻を与え、預言者たちの手を通してなぞらえられた』と。しかし、主が人間の形をお取りになるのを良しとされたとき、見かけだけの肉ではなく、真実の肉をまとわれた」と。
言うには、わたしは主を顔と顔とを合わせて見た――すなわち、わたしは天使によって表される身体的な姿において神を見た、という意である。というのは、ヤコブがこの夜の、また曖昧な幻のうちに、神の本質を見たのでもなく、固有の意味で神を見たのでもなく、身体を取って神を代表している天使を見たのだということは確かだからである。
第二に、より良い意味では、「わたしは主を顔と顔とを合わせて見た」とは、すなわち、神を代表する天使と間近で組み打ちし、戦い、手と手とを合わせ、足と足とを合わせ、脇と脇とを合わせて、交え組み合ったという意である。アマジヤ王はヨアシュにこう言った。「互いに顔を合わせて見よう」、すなわち、接近戦で戦おうと、列王記下14:8。このようにしてヨシヤは戦闘においてファラオに殺されたとき、ファラオを見たのである、列王記下23:29。
そして、わたしの魂は救われた。というのは、聖キュリロスとカエタヌスが言うように、天使を見た者は死ぬという古い信念があったからである。それゆえマノアは天使を見て、「われわれは死ぬ。主を見たからである」と言った、士師記13:22。それゆえヤコブは、神を見、しかも安全であることを自分のために喜んでいる。
第二に、より明白な意味では、聖ヨハネス・クリソストモスとリポマヌスによれば、次のような意である。すなわち、神のこの親しい幻、そしてわたしが見てその方と組み打ちをした神の天使を通しての神の善意と友愛によって、わたしは兄への恐怖と、その他あらゆる懸念と不安とから解放された、ということである。ラーデはホセア第十二章において、これを「わたしは強められた」と訳している。なぜなら、それ以後ヤコブは兄を恐れず、勇敢かつ自信を持って兄を迎えに行ったからである。
それゆえカッシアヌス、および他の霊的事柄に通じた者たちは、次のことを良き天使のしるしと教える。すなわち、現れる者が最初に人を恐怖で打ちのめすが、すぐに慰め、悲しみと心のすべての雲を拭い去り、力づけて、晴れやかで楽しい状態にして去るならば、それは良き天使である。悪魔はまさに反対のことをする。このように天使は恐ろしい姿、すなわち抜き身の剣を手にしてヨシュアに現れたが、すぐに彼を慰めて勇気づけて言った。「わたしは主の軍勢の長である。今わたしは来た」、ヨシュア記5:13。このようにギデオンは天使を見て恐怖に打たれ、自分は死なねばならないと考えたが、すぐに聞いた、「安心せよ、恐れるな、あなたは死なない」、士師記6:22。このようにダニエルは威厳ある姿の天使を見て、打ちひしがれて倒れ、気を失った。しかしすぐに同じ天使によって起こされ、力を与えられた、ダニエル10:8以下。このようにキリストの墓に来た女たちは、稲妻のような姿の天使を見て驚いた。しかしすぐに天使から聞いた、「恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探している。彼は復活した、ここにはおられない」、マルコ最終章、5節。
第三十一節:彼は足を引きずっていた
彼は足を引きずっていた――筋への打撃、痛み、脱臼のゆえに。ゲンナディオスは『カテナ』において、ヤコブはその後も足の不自由な者のままであり続けたと考え、ヘブライ人たちは、彼がシケム、すなわちシカル――それゆえそこは「完全な」を意味するサレムと呼ばれた――に到着したとき、ついにその跛行から癒されたと伝えている、創世記33:18。というのは、そこでヤコブは完全に歩き始めたからである。
しかしアブレンシスは、より正しく、ヤコブが彼に触れ彼を打った天使によってただちに、翌日エサウに到達する前に癒されたと判断している。というのは、天使の約束によって彼が打ち勝つことになっていた兄の前で、なぜ足が不自由で無力なままでいる必要があろうか。
第三十二節:イスラエルの子らは筋を食べない
イスラエルの子らは筋を食べない。「筋」とは、腿が動かされ収縮する筋肉のことを理解せよ。というのは、筋は多くの民族、異邦人においても、食べない習慣があるからである。ウァタブルスはそう言っている。
寓意的には、ヤコブの筋と肉は、古い律法の肉的な意味を表している。それは天使、すなわちキリストと、ヤコブ、すなわちユダヤ人との組み打ちによって、解かれ脱臼されるべきものであった。ここからユダヤ教は足を引きずり始めた。なぜなら、その一部、すなわち真のイスラエルは、(第十節に言及されている)杖、すなわち十字架によって、上方へキリストのもとへと進んだからである、と聖アウグスティヌスは言う。この部分はキリストによって祝福されたのである。他方、キリストを信じることを拒んだもう一方の部分は、恩寵と栄光を奪われて、下方へと下った。それゆえ真のイスラエルの子らは、律法の文字と肉的理解の筋、すなわち殺すものを食べない。聖トマスと聖アウグスティヌスの『四季について』説教80に、そうある。