コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第三十六章


目次


本章の概観

本章においては、エサウの子孫たちが述べられ、第十五節ではその首長たちが、第三十一節ではエサウから出た王たちが記される。その理由は、エサウがイサクの子であり、アブラハムの孫であったがゆえであり、またイサクがかつて第二十七章第三十九節において彼に与えた祝福が実に成就したことを示さんがためであり、さらに神が、ユダヤ人と一つの民となるべきエドム人が、ユダヤ人によって兄弟とみなされることを欲したもうたがゆえである(申命記23:7)。


ウルガタ本文:創世記36章1-43節

1. さて、これはエサウすなわちエドムの系譜である。2. エサウはカナンの娘たちの中から妻を娶った。すなわちヘト人エロンの娘アダ、およびヒビ人ツィブオンの娘なるアナの娘オホリバマを。3. またイシュマエルの娘、ネバヨトの姉妹バセマトをも。4. アダはエリパズを産み、バセマトはラウエルを産んだ。5. オホリバマはエウシとイエロンとコレを産んだ。これらはカナンの地で彼に生まれたエサウの子らである。6. エサウはその妻子ら、その家のあらゆる者、その財産、家畜、カナンの地で得ることのできた一切のものを携え、別の地方へと移り、兄弟ヤコブから離れた。7. というのは、彼らは極めて富んでおり、共に住むことができず、群れの数多きがゆえに寄留の地も彼らを支えることができなかったからである。8. かくしてエサウはセイル山に住んだ。彼がエドムである。9. さてこれはセイル山なるエドムの父エサウの系譜であり、10. その子らの名は次のとおりである。エサウの妻アダの子エリパズ、またその妻バセマトの子ラウエル。11. エリパズの子らはテマン、オマル、セポ、ガタム、ケナズであった。12. エサウの子エリパズの側女ティムナは彼にアマレクを産んだ。これらはエサウの妻アダの子らである。13. ラウエルの子らはナハト、ゼラ、シャンマ、ミザである。これらはエサウの妻バセマトの子らである。14. またこれらはエサウの妻、ツィブオンの娘なるアナの娘オホリバマの子らであって、彼女が彼に産んだ者たちである。エウシとイエロンとコレ。15. これらはエサウの子らの首長たちである。エサウの長子エリパズの子らとして、首長テマン、首長オマル、首長セポ、首長ケナズ、16. 首長コレ、首長ガタム、首長アマレク。これらはエドムの地にあるエリパズの子らであり、アダの子らである。17. またこれらはエサウの子ラウエルの子らである。首長ナハト、首長ゼラ、首長シャンマ、首長ミザ。これらはエドムの地におけるラウエルの首長たちであり、エサウの妻バセマトの子らである。18. またこれらはエサウの妻オホリバマの子らである。首長エウシ、首長イエロン、首長コレ。これらはアナの娘、エサウの妻オホリバマの首長たちである。19. これらはエサウの子らであり、これらはその首長たちである。彼がエドムである。20. これらはその地の住民なるホリ人セイルの子らである。ロタン、ショバル、ツィブオン、アナ、21. ディション、エツェル、ディシャン。これらはエドムの地におけるセイルの子ら、ホリ人の首長たちである。22. ロタンの子らはホリとヘマムであり、ロタンの姉妹はティムナであった。23. ショバルの子らはこれである。アルワン、マナハト、エバル、セポ、オナン。24. ツィブオンの子らはこれである。アヤとアナ。このアナは、父ツィブオンの驢馬を牧していたとき、荒野で温泉を見出した者である。25. 彼には息子ディションと娘オホリバマがあった。26. ディションの子らはこれである。ハムダン、エシバン、イェトラム、カラン。27. またエツェルの子らはこれである。バラアン、ザヴァン、アカン。28. ディシャンの子らはフスとアラム。29. これらはホリ人の首長たちである。首長ロタン、首長ショバル、首長ツィブオン、首長アナ、30. 首長ディション、首長エツェル、首長ディシャン。これらはセイルの地を治めたホリ人の首長たちである。31. エドムの地を治めた王たちは、イスラエルの子らに王が立つ前に、次のとおりであった。32. ベラ・ベン・ベオル。彼の都の名はデナバであった。33. ベラが死んで、ボツラのゼラの子ヨバブがその代わりに王となった。34. ヨバブが死んで、テマン人の地のフシャムがその代わりに王となった。35. 彼もまた死んで、ベダドの子ハダドがその代わりに王となった。彼はモアブの地においてミデヤンを撃った者である。彼の都の名はアビトであった。36. ハダドが死んで、マスレカのサムラがその代わりに王となった。37. 彼もまた死んで、川の都ロホボトのサウルがその代わりに王となった。38. 彼もまた死んで、アクボルの子バアル・ハナンが王国を継いだ。39. 彼もまた死んで、ハダルがその代わりに王となった。彼の都の名はパウであった。その妻はメザハブの娘マトレドの娘メヘタベルと呼ばれた。40. されば、これらはエサウの首長たちの名であって、その一族、居所、および名によるものである。首長ティムナ、首長アルワ、首長イェテト、41. 首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、42. 首長ケナズ、首長テマン、首長マブツァル、43. 首長マグディエル、首長ヒラム。これらはその領地に住まうエドムの首長たちである。彼がエドム人の父エサウである。


第二節:ヘト人エロンの娘アダ

ヘト人エロンの娘アダ。古代の男女は複数の名を有したことに注意せよ。これについては第十九章で述べた通りである。ゆえに、ここでヘト人エロンの娘アダと呼ばれる女は、創世記26:34においてはベエリの娘ユディトと呼ばれており、またここでアナの娘オホリバマと呼ばれる女は、かしこではエロンの娘バセマトと呼ばれている。さらに、ここでバセマトと呼ばれる女は、第二十八章第九節ではマハラテと呼ばれている。


第六節:彼は別の地方へ移った

また彼が所有しうる一切のもの、すなわち、彼がカナンの地で獲得した一切の所有物である。ヘブライ語本文にかくある。彼は別の地方へ、すなわちエドムへ移った。エサウはかつて、両親に対する罪過のゆえに、すでに先にそこへ赴いていた。これは第三十二章第三節より明らかである。しかし父が死んだとき、彼は父の葬儀のために一家を挙げてエブロンへ戻り、そこに留まるつもりであったかのようである。しかし彼は群れに富んでおり、牧草地は彼と兄弟の両者には足りなかったゆえ、彼は自ら進んでカナンを兄弟に譲り、自らは自分のエドムへと帰って行った。聖アウグスティヌス『問題集』第百十九問題にかく述べている。このことは神の御旨によって起こった。神はカナンをヤコブに約束したもうたからである。


第九節:エサウの系譜、エドムの父

これはエドムの父、すなわちエサウの系譜である。エドム人の父という意であり、第四十三節より明らかである。セイル山にて、すなわちエドムに住まいつつ。あるいはむしろ、「これらはエサウの子ら、すなわちその孫たちであり、カナンで生まれた彼の子らがセイル、すなわちエドムにおいて生み育てたる者である」と言うがごとくである。というのも、ここよりモーセは、すでにエドムに住んでいたエサウの子らから生まれたエサウの孫たちについて語るからである。


エドムとローマを同定するラビ説について

アベン・エズラとラビたちは、愚かにも、また極めて無知にも、エドムはローマであると考え、ローマ教皇をエドム人の修道士と呼ぶ。むしろ、エドム人はユダヤ人に最も近しく、習慣においても位置においても名称においても相互に類似しているがゆえに、彼らをユダヤ人であると言うほうがはるかに蓋然性が高い。それゆえプリニウスはエドム人をユダヤ人と呼んでいる。


第十二節:アマレク

アマレク。アマレクはゆえに、エリパズを介してのエサウの孫であった。彼からアマレク人が起こり、その名を受け継いだのである。


第十五節:エサウの子らの首長たち

これらはエサウの子らの首長たちである。ここまでモーセはただエサウの子らと子孫を列挙したに過ぎない。今や彼はエサウから出た首長たちを列挙する。ゆえに同じ人物が再び名を挙げられても驚くには及ばない。というのも、先には単に子らとしてのみ名が挙げられたのであるが、ここでは首長として名が挙げられているからである。注意せよ。ここでは首長たちが列挙されるが、第三十一節では王たちが、また第四十節ではエサウから出た首長たちが再び列挙される。これはエドム人がまず貴族政を採用したからである。そこでは個々の首長たちがそれぞれの部族と王朝を統率し、自らの判断によってではなく、貴族たちの意見によって統治していた。ちょうどヴェネツィアの総督がそうであるように。次いで彼らは君主政を採用し、王たちが王権によってエドム全体を支配するに至った。第三には、彼らは再び貴族政を採用し、首長たちのもとに戻ったのである。さらに首長たちも王たちも、共に選挙によって選ばれた。ゆえに王国の後継者は、故人の子らとしてではなく、別人として列挙されている。アブレンシスが指摘した通りである。


第二十節:ホリ人セイルの子ら

これらは(すなわち住民たちは)ホリ人セイルの子らである。これは「これらは、後にエサウにちなんでセイルと呼ばれた山の住民たちである」と言うがごとくである。住民と言ったのは、彼らは種族および民族からしてホリ人であり、エサウ以前にこの山に住み、エサウ系の者たちによって追い出された者たちであったからである(申命記2:12)。ゆえに、以下に名の挙げられる者たち、すなわちロタン、ショバル、ツィブオンなどは、エサウ系ではなくホリ人であった。モーセがホリ人について述べているのは、彼らがエドムの最初の住民であったからであり、またエサウ系の者たちが彼らから妻を娶っていたからである。というのも、エサウの子エリパズの側女ティムナは、ホリ人ロタンの姉妹であったからである。これは第二十二節に述べられる通りである。聖ヒエロニムスかく言う。


第二十四節:荒野で温泉を見つけたアナ

これは驢馬を牧していたときに温泉を見出したアナである。「温泉」を、ヘブライ語はiemim(イエミム)と記し、カルデア訳はこれを「巨人たち」と訳している。第二に、アクイラ、シュンマコス、および七十人訳はヘブライ語を保存してeamim(エアミム)と訳している。彼らは通常ヘブライ語のchet(ヘト)をepsilon(エプシロン)で写すのであって、その慣例によりpesach(ペサハ)をphase(ファセ)と、Corach(コラハ)をCore(コレ)と、Therach(テラハ)をThare(タレ)と訳している。さて、chaiammim(ハイアミム)はcham(カム、すなわち「熱き」の意)とjammim(ヤミム、すなわち「水」の意)から成ると見受けられる。厳密にはchaiammimは「熱き水」を意味する。これは注目すべきことである。というのは、私の知る限り、これに気付いた者はまだいないからである。

ゆえにアナは荒野において、温かく医療効果のある温泉を見出した。それはアーヘンの泉のごときものであって、硫黄および硫黄質の鉱脈を通って流れるゆえに熱く、多くの病、とりわけ粘液より生ずる病を癒すものである。それゆえアナは浴場の発明者である。トルニエルかく述べている。

第三に、聖ヒエロニムスが『ヘブライ問題集』で述べるところによれば、ある者たちは、アナは野生の驢馬を雌の驢馬と交配させるために引き連れてきたのであり、彼自身がこの種の交配を発見したと考えている。それは、それらから最も俊足の驢馬が生まれるようにするためであり、これらはjamim(ヤミム)と呼ばれるという。しかし多くの者は、彼が初めて雌馬の群れに驢馬を乗せさせたのであって、それは雌馬から、自然に反する新種の動物である騾馬を生ませるためであったと考える。そしてこれがラビたち、ウァタブルスおよびその他の者たちに通常従われており、彼らはjemim(イェミム)を「騾馬」と訳している。そしてカルヴァンおよび革新派たちは、ウルガタ訳を非難し攻撃するために、この見解を嬉々として取り上げる。それゆえに、ロベール・エティエンヌは巧妙にではあるが不誠実に、ウルガタ訳において「熱き水」の代わりに「熱き雌馬」と印刷し、欄外に「すなわち騾馬なり」と付け加えた。これはすなわち、熱き雌馬が驢馬と交わって生み出した騾馬である、というのである。さらに付け加える者もあって、teomim(テオミム)が「双子」を意味するのと同様に、jemimもまた「完成する、完全ならしめる」の意の動詞tamam(タマム)より派生しているとし、あたかもjemimが騾馬と呼ばれるのは、雌馬と驢馬という二重すなわち二種の動物から完成され完全ならしめられたものとして、それらから生まれたゆえである、というのである。

しかし我らの翻訳者はjamimを「熱き水」と訳し、最も正しく訳した。第一に、聖ヒエロニムスによれば、ヘブライ語と近縁のプニケ語において、jamimは温泉を意味するからである。第二に、我らの翻訳者はjemimと読まず、異なる母音点によってjammim(ヤンミム)と読んだのであって、それゆえ聖ヒエロニムスもまたjamimと読んでいる。しかしてjammimはヘブライ語で「水の豊富」を意味し、したがって海をも意味する。それゆえエウセビオス、ディオドロス、テオドレトス、プロコピオスはここでそのように訳し読んでいる。第三に、ヘブライ語本文ではhaiammim(ハイアミム)とあって、これはchaiammimと読むべきものと見受けられる。というのは、he(ヘ、ヘブライ文字)が、近接するchetに変形し損なわれたものと見受けられるからである。実際、七十人訳はヘブライ語を保存してeamimと訳している。彼らは通常ヘブライ語のchetepsilonによって写すのである。


転義的解釈:アナについてのペトルス・ダミアニ

転義的には、福者ペトルス・ダミアニが『書簡集』第二巻、修道院長枢機卿デシデリウスへの書簡12においてかく述べている。「アナが父の驢馬を荒野で牧するとは、比喩的には、父を神とするある霊的な者が、より遠く離れた規律のもとに素朴な兄弟たちを守る、ということでなくして何であろうか。また温泉を見出すとは、聖霊の熱によって引き出される悔悟の涙を涌き出づることでなくして何であろうか。というのは、オナムは『痛み』、または『悲しみ』、また『つぶやくこと』、または『嘆くこと』と解されるからである。なぜなら、まことの悔悟の痛みによって悲しめる者は、いわばある種の嘆きの呟きのもとに、自らの命の悪しきに対して嘆くことを余儀なくされるからである。しかしツィブオンは『正義に立つこと』と解される。このことは神に関わる事柄であることを、誰も完全に知らぬわけではない。というのも、神こそ主として正義に立ちたもう御方であり、いかなる必要にも強いられず、正しさの筋道より決して外れたまわぬ御方だからである。ゆえにオナムは、荒野で父ツィブオンの驢馬を牧するとき、温泉を見出すのである。なぜなら、命の正しさを通して自らを神の子として現わし、心の奥底から己の罪を嘆く者は、兄弟たちのための警戒ある配慮に自らを勤めさせるゆえに、神の賜物によって涙の恵みを受けるからである」


第三十一節:イスラエルの子らに王が立つ前に

イスラエルの子らに王が立つ前に。これらの言葉は、モーセの記録を整えた人物によって、モーセの後に付け加えられたものと思われる。というのは、モーセの時代にはイスラエルに王についての言及はなかったからである。創世記の序論で述べたことを参照せよ。


第三十三節:ヨバブ、すなわち聖ヨブ

ヨバブ。これは忍耐の鑑たる聖ヨブである。というのは、ヘブライ人たちおよび聖ヒエロニムスは、聖ヨブがアブラハムの兄弟ナホルの子フスから生まれたと主張しているが、聖ヨブはエサウの子孫であり、彼の曾孫であったというのがより真実である。エサウはラウエルを生み、ラウエルはゼラを生み、ゼラはヨバブすなわちヨブを生んだ。それゆえ彼の友はエサウの長子テマン人エリパズであった。これは『ヨブ記』末の七十人訳聖書(ヨブ記末)の見解であり、またオリゲネス、フィロン、聖アタナシウス、聖ヨハネ・クリソストモス、聖アウグスティヌス、テオドレトス、聖グレゴリウス、聖ヒッポリュトス、聖イレナイオス、エウセビオス、トスタトゥス、ペレリウス、およびピネダ『ヨブ記註解』第一章第一節第三十一号の見解でもある。このことから、聖ヨブがエドムにおける王であり、その順序において第二番目であったことが明らかとなる。


ヨブの生涯の年代について

第二に明らかなこととして、聖ヨブは、ヤコブがエジプトのヨセフのもとへ下った頃に生まれた。というのは、ヨブはエサウから数えて第三世代にあたり、エサウは四十歳で妻を娶って子らを生み始めたからである。しかしてヤコブは百三十歳の齢でエジプトへ下り、その頃第三世代に達したのであり、その世代でヨブは生まれたのである。ゆえに第三に、聖ヨブはモーセの時代まで生きていたことになる。というのは、聖ヨブは少なくとも二百十年生きたからである。これはピネダがヨブ記42:16第三号において示す通りである。ゆえに彼はモーセと少なくとも七十五年共に生きていた。というのは、ヤコブがエジプトへ下った――それはヤコブの百三十年目になされた、その頃聖ヨブは生まれた――その時から、モーセおよびヘブライ人たちがエジプトより出た時まで、二百十五年が経過したからである。そしてモーセはその時八十歳であった。それゆえ、ヨブがヤコブの百三十年目に生まれ、二百十年生きたと認めるならば、ヨブはモーセと七十五年共に生き、モーセおよびヘブライ人たちのエジプトよりの出発の五年前に死んだと言わねばならない。


第三十七節:川の都ロホボトのサウル

川の都ロホボトのサウル。これはすなわち、歴代誌上1:48が述べているごとく、「川に臨むロホボトのサウル」である。このことから、ロホボトが川のほとりにある町であることが明らかとなる。ある者たちは、この「川」とは聖書において代名辞的に言及される有名な川、すなわちユーフラテスを指すと解する。それゆえカルデア訳は、「ユーフラテスの上にあるロホボトのサウル」と訳している。


第四十節:エサウの首長たちの名

されば、これらはエサウの首長たちの名であって、その一族、居所、および名によるものである。これはすなわち、「これらは、エサウの子らの名であり、彼らは首長であり、エドムに住まう一族と部族の長であって、彼らに割り当てられた居所および地方に応じて、各々が自らの名によってそれらを名付け、しるしたのである」と言うがごとくである。ウァタブルスかく言う。