コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第四十二章


目次


本章の概要

ヨセフは穀物を求めてエジプトに来た兄弟たちを認め、彼らに厳しく当たり、ついに第二十五節においてシメオンを留め、他の者たちはベンヤミンを彼のもとに連れて来るという条件のもとに送り返す。


ウルガタ本文:創世記42章1-38節

1. さてヤコブは、エジプトで食物が売られていると聞いて、息子たちに言った、「何故お前たちは怠けているのか」と。2. 「エジプトで穀物が売られていると聞いた。下って行って、我らに必要なものを買ってくるがよい。我らが生きながらえ、窮乏のゆえに滅びることのないように」と。3. そこでヨセフの兄弟十人がエジプトへ穀物を買いに下って行った。4. しかしヤコブはベンヤミンを家に留めて、その兄弟たちに言った、「道中で何か悪いことが彼の身に降りかかるといけないから」と。5. 彼らは他の買いに行く者たちと共にエジプトの地に入った。カナンの地には飢饉があったからである。6. ヨセフはエジプトの地の統治者であって、彼の命令によって民に穀物が売られていた。そして兄弟たちが彼に身を伏せたとき、7. 彼は彼らを認めたが、見知らぬ者に対するかのように厳しく語り、彼らに尋ねた、「お前たちはどこから来たのか」と。彼らは答えた、「カナンの地より、食物を買うために」と。8. 彼は兄弟たちを認めたが、彼らには認められなかった。9. そしてかつて見た夢を思い起こして、彼らに言った、「お前たちは間者である。この地の弱点を探りに来たのだ」と。10. 彼らは言った、「そうではありません、我が主よ。あなたの僕どもは食物を買うために来たのです」と。11. 「我らは皆、一人の人の子で、平和の使者として来た者であり、あなたの僕どもは何の悪も企ててはおりません」と。12. 彼は彼らに答えた、「そうではない。お前たちはこの地の守りなき所を視察するために来たのだ」と。13. しかし彼らは言った、「あなたの僕どもは十二人の兄弟で、カナンの地の一人の人の子です。末の者は父のもとにおり、もう一人はもはやおりません」と。14. 「これが」と彼は言った、「我が言ったことだ。お前たちは間者である」と。15. 「さあ今、お前たちを試すことにしよう。ファラオの生命にかけて、お前たちの末の兄弟が来るまで、ここから出ることはできない」と。16. 「お前たちのうちの一人を遣わして、彼を連れて来させよ。しかしお前たちは、お前たちの言ったことが真か偽かが確かめられるまで、囚われの身にしておく。さもなければ、ファラオの生命にかけて、お前たちは間者である」と。17. こうして彼は彼らを三日間拘束した。18. 三日目に彼は牢から彼らを引き出して言った、「我が言ったとおりにせよ。そうすればお前たちは生きるであろう。我は神を畏れるからである」と。19. 「もしお前たちが平和の民であるならば、お前たちの兄弟のうちの一人を牢に縛っておくがよい。しかし他の者たちは行って、買った穀物をお前たちの家に運び、20. 末の兄弟を我のもとに連れて来い。お前たちの言葉を確かめるためである。そうすればお前たちは死なないであろう」と。彼らは彼が言ったとおりにした。21. そして互いに語り合った、「我らは兄弟に対して罪を犯したがゆえに、これらの苦しみを受けるに値する。彼が我らに乞うたとき、その魂の苦悩を見ながら、我らは聞き入れなかった。それゆえこの苦難が我らに臨んだのである」と。22. そのうちの一人、ルベンが言った、「あの少年に対して罪を犯すなと、我はお前たちに言わなかったか。しかしお前たちは我の言うことを聞かなかった。見よ、彼の血が求められるのだ」と。23. しかし彼らは、ヨセフが理解しているとは知らなかった。通訳を介して彼らに語っていたからである。24. 彼はしばし身を背けて泣いた。そして戻って彼らに語った。25. そしてシメオンを取って、彼らの面前で縛り、僕たちに命じて、彼らの袋を穀物で満たし、各々の銀をその袋に戻し、さらに旅の糧を与えさせた。彼らはそのようにした。26. 彼らは穀物を驢馬に積んで出立した。27. そのうちの一人が、宿屋で家畜に飼葉を与えようと袋を開けたとき、袋の口に銀があるのを見て、28. 兄弟たちに言った、「我の銀が戻されている。見よ、袋の中にある」と。彼らは驚き、心を騒がせて互いに言った、「神は我らに何をなさったのか」と。29. そして彼らはカナンの地の父ヤコブのもとに来て、身に起こったことをすべて語って言った、30. 「あの地の主は我らに厳しく語り、我らをその地方の間者と見なしました。31. 我らは彼に答えました、『我らは平和の民で、何の陰謀も企ててはおりません。32. 我らは一人の父から生まれた十二人の兄弟で、一人はもはやおりません。末の者はカナンの地の父のもとにおります』と。33. 彼は我らに言いました、『こうしてお前たちが平和の民であることを確かめよう。お前たちの兄弟のうちの一人を我のもとに残し、お前たちの家に必要な食物を取って行け。34. そしてお前たちの末の兄弟を我のもとに連れて来い。お前たちが間者ではないことを知るためである。そうすれば縛られている者を受け取ることができ、その後この地で欲するものを買う許しが与えられよう』と」。35. 彼らがこう言って穀物を空けていたとき、各々が袋の口に縛られた自分の銀を見出した。皆が恐れおののいたとき、36. 父ヤコブは言った、「お前たちは我を子無き者にした。ヨセフはもはやおらず、シメオンは囚われ、お前たちはベンヤミンを連れ去ろうとしている。これらのすべての災いは我に降りかかった」と。37. ルベンは彼に答えた、「もし我が彼を連れ帰らなかったならば、我が二人の子を殺してください。彼を我の手に委ねてください。我が彼をあなたに戻します」と。38. しかし彼は言った、「我が子はお前たちと共に下って行ってはならない。その兄弟は死に、この子だけが残っている。もしお前たちの行く地で彼に何か災いが降りかかったならば、お前たちは白髪の我を悲しみのうちに墓へ下らせることになる」と。


第一節:食物

ヘブライ語ではsceber(セベル)であって、すなわち「砕かれるべきもの」、つまり穀物、あるいは砕いて分配されるパンのことである。ゆえにヨセフは、穀物を売り分配する者として、ここでは至る所ヘブライ語でmasbir(マスビル)、すなわち「砕く者」または「分配する者」、つまり砕かるべきもの、すなわち食糧または穀物を分配し配分する者と呼ばれている。ここから、キリストとパウロの句、「我らが裂くパン」(コリントの信徒への手紙一10:16に述べたとおり)という表現が生まれた。ヘブライ人にとってパンを裂くとは、パンを分け分配することと同じだからである。


「何故お前たちは怠けているのか」

ヘブライ語では「何故お前たちは互いに見合っているのか」である。すなわち、何故怠けてぐずぐずしているのか、ということである。怠惰で鈍い者たちは互いに見合い、各々が他の者が手を仕事に付けて事を片付けるのを待つのが常だからである。「心の怠惰は不完全な意志から生じる。善を欲することを始めるやいなや、熱意と勢いが生ずるであろう」。七年の豊穣の年が過ぎ去った後、すでに飢饉の第二年目が進行していた。これは第四十五章第六節から明らかである。


ヨセフが二十三年間知られずにいた理由

問われ得るのは、ヨセフがどのような理由でかくも長い間、すなわち二十三年間(彼の十六歳から当時の三十九歳までそれだけの年月が経過していた)エジプトで知られぬまま留まっていたのか、しかも、ヨセフのために深く悲しんでいた父に自分のことをその間何一つ知らせなかったのか、特に彼がエジプトの統治者であった最後の九年間においてそうであったのか、ということである。

聖トマスとペレリウスは、神がヤコブにこのことを、神によって定められた時と機会より前に、すなわちこの飢饉より前に——その飢饉によって兄弟たちはエジプトにおけるヨセフのもとに来ることを余儀なくされたのだが——知らされることを望まれなかったと答える。このことが神の御旨であることをヨセフが悟ったのは、自分の夢から(これについては第三十七章第七節を見よ)、また事の成り行きから、そして神の霊感と啓示とからであった。これはヨセフ自身が第四十五章第八節で示しているとおりである。

あなたは言うであろう、なぜ神はこのように事を起こし、かつ隠そうとされたのかと。私は第一に答える。神はこの悲しみの煉獄のごときものをヤコブに、彼が義人であったとしても、ある軽い罪のゆえに与えることを望まれたのである。その罪とは、他の諸々の罪とともに、ヨセフを過度に、しかも兄弟たちの妬みを招くほどに愛したからであった。というのも、神は聖人たちがある物や人物に対して抱く過度の愛情を、あたかもぶどう酒に水を加えて薄めるように、逆境によって和らげ、いやむしろ切り詰めて死滅させることを常とされるからである。かく聖アウグスティヌスは『四季について』説教82で述べている。

第二に、神はヤコブにヨセフの生と境遇とを隠すことを望まれた。それは、神がアブラハムにそのイサクを犠牲としてささげるよう命じられたときに、アブラハムとイサクの従順と徳とを試されたのと同様に(創世記22:2)、ヤコブとヨセフ双方の徳、放棄、忍耐、神への愛を試すためであった。

第三に、もしヤコブが自分の子ヨセフが捕らえられたことを知っていたならば、いかなる代価を払ってでも彼を買い戻したであろう。そうすれば、ヨセフはエジプトで君侯の地位にまで上げられることは決してなかったであろう。しかし神は、ヨセフの謙遜に対してその地位をもって報いることを定められていたのである(知恵の書10:13)。かくテオドレトスは述べている。

第四に、神は、このような手段によって、ヨセフに送られた夢(創世記37:7)を成就させるためにこのことを望まれた。すなわち、兄弟たちが飢饉に迫られて、ヨセフのもとに来て彼を礼拝するように余儀なくされるためであった。

第五に、神は、この機会にヤコブが家族全員と共にエジプトに下り、そこで増し加えられ、かつて神がその祖父アブラハムに第十五章第十三節で約束し、出エジプト記が語る、あの偉大かつ驚くべきことが彼の身にエジプトで起こるように、このことを望まれたのである。


第六節:彼らは身を伏せた

見よ、ここで兄弟たちは知らぬうちにヨセフの夢を成就し、彼を礼拝せざるを得なくされるのである。かくプロコピウスは述べている。


第九節:夢を思い起こして

彼は、自分に対するこの礼拝の中に自分の夢が成就するのを見て、復讐のためではなく、夢とその真実とを確証するために、自分をかくも不当に扱った兄弟たちを自分への嘆願者にするのである。この理由から、彼らがより厳しく語りかけるのは、彼ら自身が自分たちの不敬とヨセフの夢の真実とを認めるためである。それゆえ彼は言う。


「お前たちは間者である」

あなたは言うであろう、ヨセフはここで嘘をついているのではないか。彼は自分の兄弟たちが間者でないことを知っていたのだからと。ルペルトゥスはまず答えて言う、「間者」とは盗人の意であって、「お前たちは」盗人なのだ。なぜなら、お前たちは我を父から盗み出して売ったからである、と。しかし間者と盗人とは別である。というのも、ヨセフが間者によって理解するのは、敵に渡す目的で、ある地方のより守りの薄い場所を探り出す者のことだからである。

第二に、ペレリウスは答えて、ヨセフはここで嘘をついているのではなく、冗談を言っているのであって、戯れと見せかけで語っているのだと述べる。

第三に、そして最もすぐれた答えとして、聖トマスは、ヨセフは断定的にではなく、試探的かつ検証的に語っているのであり、それはちょうど裁判官が犯罪を試しに問いかけながら、真実を引き出すために被告に対して断定するのに似ていると答える。同じようにヨセフはここで兄弟たちを試みているのである。それは、自分が父と兄弟ベンヤミンについて尋ねようとしていたときに、彼らに真実を語らせるためであった。

さらに、ヨセフはこの告発を彼らに投げかけ、恐れを引き起こすことによって兄弟たちに何の不正も働いていない。なぜなら彼らははるかに重い罰に値したのであり、ヨセフはエジプトの統治者として、自分に対して加えられた殺害未遂と誘拐のゆえに彼らを死をもって罰することもできたからである。ルベンはヨセフの売却には関与していなかったとはいえ、彼もやはり罪ある兄弟たちと交じっていたため、彼らと共に苦しみを受けるのである。というのも、もしヨセフが彼だけを除外していたならば、兄弟たちに正体を見破られていたであろう。かくアブレンシスは述べる。このように神は、また君侯もまた、戦いの共通の災厄において無辜の者を有罪の者と共に巻き込み、罰するのである。

ここで高位聖職者たちは、矯正にあたっていかなる節度を守るべきかを心にとめ、ヨセフからそれを学ぶがよい。敬虔かつ思慮深く、聖グレゴリウスは『エゼキエル書講話』第二十一においてかく言う。「敬虔がヨセフの心に打ち勝った。その兄弟が無辜に見えたときには敬虔が勝ったが、外見においては厳しさが保たれた。それは罪ある兄弟たちが浄められるためであった。盃が末の子の袋に隠され、盗みの嫌疑が彼らに対して起こされた。それは末の子の袋の中に見出され、ベンヤミンは連れ戻され、苦しむすべての兄弟たちが従った。おお、憐れみの責め苦よ!彼は苦しめつつ、愛する。かくして聖なる人は兄弟たちの罪を赦しもし、罰しもした。かくして厳しさの中に寛容を保ち、罪を犯した兄弟たちに対して、罰なしに憐れみ深くあることもなく、優しさなしに厳格であることもなかった。見よ、これぞ規律の精髄である。過ちを思慮深く許すことと、それを愛情をもって断ち切ることとを知ることである」と。ここまでが聖グレゴリウスの言である。


第十四節:これぞ我が言ったことだ

言うなれば、お前たちは自分たちが十二人の兄弟で、もう一人の兄弟が家にいると偽っている。ここから、私はお前たちが他の事もすべて偽っており、間者であると結論するのだ。それゆえ、その反対を示すために、末の兄弟を私のもとに連れて来い、私が彼を見、そこからお前たちが真実を語ったことを知るためにである、というのに等しい。

再び、ヨセフはこれを断定的にではなく、試探的に語っている。それはベンヤミンに何が起こったかを探り出すためであった。というのも、彼は兄弟たちがベンヤミンに対しても——彼はヨセフの同腹の兄弟であり、ヤコブがレアよりも愛していたラケルの子であったのだから——自分に対してなしたのと同じようなことを企てたのではないかと恐れていたからである。かく聖ヨハネ・クリソストモスは述べている。


第十六節:ファラオの生命にかけて

あなたはまず問うであろう、「ファラオの生命にかけて」という言い方は誓いなのか、そしてそれは適法であるかと。カルヴァンはこれが誓いであることを否定し、さらにこれは単に異教徒の言い回しであって、エジプトの偶像崇拝の匂いがすると付け加える。というのも、ローマ人はカエサルの守護神にかけて誓ったが、それはかく言うことによってカエサルに媚びへつらい、彼を事実上、神々と同等に置くためであった。第二に、ハメルはこれが誓いではないと答える。なぜならこれは明白に神を証人として呼ぶことによってなされていないからであると。

私は第一に言う。「ファラオの生命にかけて」は誓いである。これが明らかなのは、ヘブライ語では「ファラオは生きる」となっており、これはヘブライ人の間では「主は生きる」と言うのと同様に、誓いの定型句だからである。我らの翻訳者も「ファラオの生命にかけて」と訳すことによってこれを示している。同様の仕方で我らは「我が魂にかけて」と誓うのである。

私は第二に言う。この誓いは適法である。その理由は、被造物にかけて誓う者は、諸民族の共通の慣用と、誓う者の暗黙の意向とによって、それらの創造主にかけて誓うと解されるからである。これはキリストがマタイによる福音書23:21で説明されるとおりである。それゆえヨセフは、ハメルの言うように冗談で誓っているのではなく、真剣に、ファラオの生命にかけて、すなわち自分の恵み深く、崇めるに値し、愛し返すに値する王として、しかもあたかもファラオの中に神を、同時に神から彼に与えられた王としての権能をも崇めつつ、誓っているのである。それゆえ、「ファラオの生命にかけて」は、「ファラオの生命と安寧の創始者かつ守護者なる神にかけて」と言うのと同じことである。かく聖トマスらは述べる。

あなたは反論するであろう、ヨセフはここで偽証しているように見える。というのも、たとえ兄弟たちがベンヤミンを連れて来なかったとしても、そのゆえに彼らが間者であったわけではないからである、と。

私は答える。ヨセフは自分の兄弟たちが間者であると誓っているのではなく、「さもなければお前たちは間者である」と言っているのである。すなわち、お前たちは私によって間者と見なされ、推定されるであろうと言うに等しい。つまり、お前たちがベンヤミンを連れて来ず、それによって自分たちの言葉が真実であることを示さないならば、私はお前たちを間者として見なし、扱い、罰するであろう、ということである。かく聖アウグスティヌスは述べている。

あなたは第二に問うであろう、「ファラオの生命にかけて」あるいは安寧にかけてというこの誓いはいかなる種類のものかと。私はまず答える。これは宣誓的なものでありうる。すなわち、「ファラオの生命にかけて」とは、私はファラオ、我が最愛の王の生命と安寧の創始者にして守護者なる神にかけて誓う、と解する場合である。

すなわち、ヘブライ人が「主は生きる」と言うとき、その意味は、「私は生ける神を証人として呼ぶ。私が述べることは、私が証人として呼び、かけて誓う神が生きるということが真であると同じほどに真である」ということである。

第二に、そしてむしろこちらの可能性のほうが高いが、この句は通常の慣用から言って呪詛を意味する。それによって人は自分や自分の身内を罰に委ねるのである。ゆえにこの誓いはむしろ呪詛的であると思われる。すなわち、その意味は、「ファラオの生命にかけて」とは、もしお前たちがベンヤミンを私のもとに連れて来ないならば、私はお前たちを間者として扱い、罰するつもりだが、そうしなかった場合には、ファラオ、我が最愛の王の安寧と生命を取り去ってくださいと、私は誓い、証しし、神に乞う、ということである。というのも、同様の仕方と意味において、我らは「我が魂にかけて」と誓うからである。かく聖トマス『神学大全』第二部の第二部・第八十問第六項は述べる。我らは自分自身の人格を担保にすることができるのと同様に、自分に結びついた他の人格をも、「我が父の生命にかけて。我が妻の生命にかけて」と言って誓うことによって、もし我らが欺くならばその人において我らを罰してくださるようにと神に縛ることができるのである。

あなたは反論するであろう、これは父、妻、そして王に対して災いを願うことであるが、これは愛徳に反する、と。私は答える。もし我らが偽りを誓うならば、それは愛徳に反するが、我らの言うことが真であるならば、それは愛徳に反するのではなく、むしろ愛徳に従うものである。というのも、我らは自分の王あるいは父をいかに重んじるかを示し、そのようにして彼を敬うのであり、我らが欺いた場合に災いを願うだけでなく、欺かなかった場合には善をも願うからである。それゆえ、「ファラオの生命にかけて」は、次のように言うのと同じことである。すなわち、神がファラオを救いたもうように、あるいは救いたもわないように。私が真実を語るならば、あるいは言うとおりを果たすならば、救いたまえ。私が欺くならば、救いたまわざれ、と。両方が含まれているからである。これは我らのレッシウスが『誓願について』疑問2において鋭く学識豊かに指摘するとおりである。


第十七節:三日間の拘束

これは彼らが三重の罪を償うためであった。すなわち第一に、彼らがヨセフに加えようとした死の脅威、第二に、井戸への投げ入れ、第三に、ヨセフを売ったこと、この三つである。またヨセフ自身が三年間獄中にあったように、彼らも三日間そこに置かれるためであった、とデルリオその他は述べている。


第十八節:我は神を畏れるからである

すなわちこう言うかのようである。恐れるな、われはお前たちに対して不正なこと、不誠実なこと、非人道的なことは何一つしない。かえって、われが言ったことを忠実に行おう。なぜなら、われは支配者であるけれども、神を、支配者たちの支配者を畏れ敬い、神によって裁かれること、そしてわがすべての行いの申し開きを神にしなければならないことを知っているからである。


第二十一節:我らはこれらの苦しみを受けるに値する

ヘブライ語からは次のように訳すこともできる。まことに我らは荒れ果てている、すなわち、あらゆる助けを失い孤立している。それは我らの兄弟のゆえであり、我らは彼を荒れ果てさせ、孤独のまま異邦人に売り渡したのだ、と。ここで聖クリソストモスと共に、良心の力がいかに大きいかに注目するがよい。神の復讐の御手を見、感じるとき、その眼前にあらゆる罪がたちまち現れ集まってくるのである。ここではヨセフのことは何も口にされていないのに、二十三年前に彼に加えた害の記憶が、兄弟たち全員の心に直ちに浮かび上がる。それは彼らが、そのことのために今罰を受けていると感じ取ったからである。

聖クリソストモスは言う。「酔っ払いが大量の葡萄酒を飲み下すとき、その葡萄酒による害を感じないが、後になってその害がいかに大きいかを感じるように、罪もまた、犯されている間は心を暗くし、濃密な雲のように心を腐敗させる。そしてその後、良心が立ち上がり、いかなる告発者よりも厳しく心を噛み、その行いの不条理を示すのである。」すなわち、聖グレゴリウスが言うように、「罪が閉ざす眼を、罰が開くのである」。また、「良心は千人の証人である」。そして聖ナジアンゾスのグレゴリウスは雹の災いについての説教のなかでこう言う。「良心は家内の真実な法廷である。」知恵の書17:10にも言うとおりである。「不安な良心は常に過酷なことを想像する。」これに対してシラ書13:10には、「良心に罪のない財産こそ善いものである」と言われ、また同書30:17には、「心の喜びに勝る楽しみはない」と言われる。さらに使徒もコリントの信徒への手紙二1:12でこう言う。「我らの誇りとは、我らの良心の証しである。すなわち、我らが心の単純さと神の誠実さとをもってこの世に生きてきたということである。」また聖ヒエロニムスは言う。「善き良心は誰の眼からも逃れず」、恐れることがないと。

さらに、これらの兄弟たちも苦難のなかでわれに返り、自分たちの罪を認める。このようにして、最も不敬虔な王マナセも獄中で自らの罪を認めた(歴代誌下33章)。このようにして、最も傲慢なネブカドネツァルも獣に変えられた後、自らの弱さと神の力とを認めた。ダニエル書4章にあるとおり、神は「高ぶって歩む者を低くすることができる」方である。このようにして、最も邪悪な王アンティオコスも致命の病に打たれたとき、こう言った。「今、われはエルサレムで為した悪事を思い起こす。これらのことのゆえに、これらの災いがわれに降りかかったことを知る。見よ、われは大いなる悲しみのうちに異国で滅びようとしている」(マカバイ記一6:13)。このようにして、飢えは放蕩息子にこう言うことを教えた。「父よ、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」(ルカによる福音書15章)。それゆえ詩編作者は、邪悪な者たちに対して次のような呪いの言葉を発するのは正しいのである。詩編83編にこう言う。「彼らの顔を恥で満たしてください。そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう、主よ。」

第三に、ここで神の驚くべき正しい摂理と復讐に注目するがよい。神は、この告発については無罪であったヨセフの兄弟たちを、彼らがかつて無罪のヨセフを苦しめたのと同じ罰、すなわち獄と捕囚をもって罰したもうのである。ラダマンテュスが言うように、不正に為したことを、その同じことによって正しく蒙るのは公平なことである。

これと類似する記憶すべき例、いや実に多くの最も輝かしい例を、聖エフレムが語っている。それは放縦で淫らなある若者に起こったことで、それによってその若者はより良き生活へ、実に修道生活へと回心したのである。彼自身が、一部は告白として、一部は回心の物語として語るところを聞くがよい。わたしは、と彼は言う、神の摂理を疑い、万事はむしろ偶然と成り行きによって起こるのではないかと思っていた。この疑いを神はわたしから、言葉によってではなく行いによって取り除かれた。ある日、両親から近郊へ遣わされたとき、わたしは孕んだ雌牛を石で追い立て、それが野獣に引き裂かれる原因を作った。その後、その雌牛の主であった貧しい男に出会い、彼がそのことについて尋ねてきたとき、わたしは彼に罵りの言葉まで浴びせかけた。一か月後、再びメソポタミアの郊外へ遣わされたとき、夜になって数人の羊飼いのもとに立ち寄ったが、その夜、野獣が囲いに押し入り、群れを散らしてしまった。そこでわたしは羊の持ち主たちに捕らえられ、あたかもわたしが獣を入れたかのように扱われて、役人と獄とに引き渡された。そこに四十日間いた後、ある恐ろしい顔の若者がわたしの眠っているそばに立ち、言った。「お前はこの獄で何をしているのか。」わたしが無罪であるわが不幸を彼に語ると、彼は言った。「われはそのことを知っている。お前はこの告発については無罪である。しかし過ぎ去ったことを思い返してみよ。お前は貧しい男の家畜を追い立て、それを死に至らしめたのを知っているだろう。ゆえに、お前が神の摂理と正義を学ぶために、あの二人の男に問うてみよ。一人は殺人の、もう一人は姦淫のいわれなき告発を受けて、この同じ獄に投げ込まれているが、彼らが訳もなく鎖につながれているのではないことを、お前は悟るであろう。しかし同時に、それらの罪の真の犯人たちも罰を免れはしないのだ。」こう言って彼は姿を消した。翌朝、わたしは彼らに向かって尋ねた。「お前たちはなぜここにいるのか。」その一人は言った。「自分が告発されている罪について、わたしは無罪である。しかし最近、ある男が敵との争いのなかで橋から波の間へと投げ落とされ、死に瀕していたとき、わたしは助けることができたのに助けなかった。」もう一人は言った。「わたしもこの告発については無罪である。しかし最近、わたしは二人の兵士から五十枚の銀貨を受け取って、彼らの姉妹が姦通を犯したと偽って誓い、それによってその娘の遺産を兄弟たちに移そうとした。こうしてわたしは偽証を犯し、作り上げた姦通の罪によってその哀れな娘を破滅させ、彼女のすべての財産を奪ってしまったのである。さて今度はお前の番だ、若者よ。自分のことを話せ。」わたしはその求めに応じて、雌牛の死のことと、わたしが投獄された理由とを述べた。それから、わたしは悔い始め、われに返り、自分たち三人の者はみな、捕らえられた罪については無知であり無実ではあったけれども、正しく罰を受けていることを悟った。翌日我らは裁判官のもとに引き出された。彼ら二人は拷問にかけられたが、無罪と判明したので釈放された。わたしは再び獄に戻された。そこでもう四十日ひとりで過ごした後、さらに三人の鎖につながれた男たちが連れ込まれ、彼らと共に三十日を過ごした。すると、前に現れた同じあの方がわたしの眠っているそばに立ち、言われた。「どうしたか、エフレムよ。お前は神の正しい裁きを見るか。今日お前に加えられたこの三人が誰であるかを知らせよう。この二人は姉妹を淫行のかどで偽って告発し、彼女の遺産を奪った者たちである。もう一人は、あの男を川に突き落とした者である。」こう言って彼は去られた。それで翌朝、わたしは彼らに、獄に投げ込まれた理由を語ってくれるよう頼んだ。すると兄弟たちは、自分たちが姉妹を邪悪な策で陥れたことを告白し、もう一人もある男が水中に突き落とされたことを認めた。これを聞いたわたしは今度は、自分に起こった出来事を物語り、さらに例の二人の男の事例、すなわち一人は偽証を犯し、もう一人は瀕死の者に手を差し伸べることを拒んだ事例を述べた(なぜならこれらの人々は、あれらの犯人が犯した、まさにその罪において同意または協力していたからである)。そこで神の裁きへの畏れが、我ら全員から豊かな涙を絞り出した。翌日我らは裁判にかけられ、二人の兄弟は、先ほど述べた罪のほかに、姦通と殺人の真犯人でもあったこと(それが前に述べた二人に偽って負わされていた罪である)をも告白し、死罪に処せられた。やがてもう一人もまた、自らが犯した二つの殺人のゆえに、同じ刑に処せられた。そこで裁判官はわたしをも引き出すよう命じた。わたしは激しく泣きながら、このような言葉で神を呼び求めた。「主よ、この苦難からわれを救いたまえ。そうすればわれは価するところに従って修道士となり、御身に仕えん。」ところが役人は、わたしを引き延ばして牛の筋で打つよう拷問吏に命じた。しかし役人の補佐がこう言った。「この者は別の審理に残しておこう。今はもう昼食の時刻だ。」こうして鎖に繋がれたまま、わたしは再び獄に連れ戻され、そこでひとりさらに二十五日間を過ごした。そのとき例の若者が三度現れ、言われた。「お前は今や、神が正しい裁きによって世を治めていられることを確信するか。」「まことに、主よ」とわたしは答えた。「しかしどうかお願いします、この獄からわれを連れ出してください。修道士となって主キリストに仕えるに価するようにしてください。」すると彼は微笑みながら言われた。「もう一度お前は取り調べを受けるであろう。そして最後にはもう一人の裁判官によって解き放たれるであろう。しかし知れ、あらゆるものを見通す御眼がひとつあることを。」その後わたしは八日間を不安のうちに過ごしたが、新たな裁判官がわたしを裁判に引き出し、わたしを認めて、濡れ衣であるとして解放してくれた。そしてわたしはすぐさま山へ登り、ある尊敬すべき長老の足もとに身を投げ出したのである。


第二十二節:彼の血が求められる

というのも、兄弟たちはヨセフがかかる過酷な奴隷状態のなかで、苦悩と悲しみからとうの昔に死んでしまったと信じていたからである。二十三年間、彼らは彼について何も聞いていなかった。ゆえにここで「血」とは換喩的に流血のため、すなわち殺害と死のために用いられている。すべての殺戮と非業の死は、たとえそれが絞殺、溺死、圧死、あるいは他のいかなる手段によって起こったとしても、ヘブライ人の間では「血を流すこと」と呼ばれている。これは提喩および誤用的転義によるもので、非業の死が流血を伴って加えられることが最も多いためである。


第二十五節:シメオン

ヨセフは他の誰にも先んじてシメオンひとりを縛り上げた。なぜならヨセフを売った罪はシメオンにおいて最も大きかったからである。フィロン、テオドレトス、ゲンナディオスはこう述べている。もし次男のシメオンが長子ルベンおよび兄弟たちの中で恵みと威厳とに秀でていたユダと手を結んでいたならば、この三人はその権威によって他の兄弟たちを容易に制止し、ヨセフを解放できたことであろう。おそらくまた、シメオンは兄弟たちの中でもヨセフに対して最も横柄で不正であった。彼の大胆で横柄な性格は、シケム人たちの虐殺(創世記34:25)のなかに十分に現れていたのである。


旅の糧

「旅の糧を与えて」——すなわち、穀物のほかに、道中のための食糧、つまり人と驢馬の双方のためのパンやその他の食物を与えた、ということである。これは彼らが穀物そのものをまったく手をつけずにカナンの父のもとへ運び帰ることができるようにするためであった。


第二十九節:彼らはすべてを父に告げた

彼らは進んで自発的にそうした。父がシメオンがどこに留まっているのかについて不安のうちに放置されることのないようにするためである。というのも、フィロンが賢明にも言うように、予期せぬ不幸においては、知識は疑いよりも軽いのである。一度事情が知れれば、安全への道も見いだしうるが、ためらいは何も成し遂げない。まことに詩人は言う。「戦そのものよりも、戦の恐怖のほうが耐え難い。」

苦難の有用性、そしてそれが我らに、第一に神を、第二に自己とその脆さを、第三に世とそのすべての業と財の虚しさを知らしめることについての美しい道徳的考察は、ペレリウスが第二十二節以下に記している。


第三十五節:皆が恐れおののいた

息子たちは道中で袋を開き、その中に銀があることを知っていた。しかし父はそれを知らなかった。息子たちは父から叱責されるのを恐れて、父の前では自分たちも知らなかったかのように装った。それゆえ息子たちの恐れは、あらかじめ心に抱かれていた恐れ、あるいは少なくとも装った偽りの恐れであった。これに対してヤコブは新しい真実の恐れに打たれた。すなわち、この銀のために、もし彼らが戻らなければシメオンに何らかの害が及ぶこと、あるいは戻れば彼ら自身にヨセフから害が及ぶことを恐れたのである。


第三十六節:お前たちは我を子無き者にした

これは悲しむ者の声である、とアブレンシスは言う。というのも、悲しむ者は小さな事柄について普遍的な言明をなすからである。そうして、もし彼らが少しの悪を蒙っているなら、彼らはあらゆる悪を蒙っていると言い、もし少しの善が欠けているなら、すべてが欠けていると言う。こうしてヤコブは、ただ三人の息子だけがいなくなるのだと知りながらも、悲しみの激しさから、九人の他の息子たちがなお残っていたにもかかわらず、すべてが失われたと言うのである。この悲しみは、彼が他のすべての者にまさって愛していた失われたヨセフと、奪い去られようとしていたベンヤミンとに対する深い愛情から生じたものであった。


第三十七節:我が二人の子を殺せ

このルベンの申し出は、非理性的で、取り乱し、情念に満ちたものであった。というのも、祖父が孫を殺すことは許されていないし、たとえそれが許されていたとしても、このことはヤコブの悲しみを和らげるどころか、かえって増し加えることになっただろう。しかしルベンは、この無分別で非理性的な申し出によって、自分が必ずやベンヤミンを連れ戻すことを示そうとしたのである。


第三十八節:白髪の我を悲しみのうちに墓へ

すなわち、お前たちは年老いたわれを悲しみと憂いのうちに死なせるであろう。いや実に、我が老年の死を早めるであろう、ということである。アブレンシスとウァタブルスはこう述べている。これがヤコブの八つ目の十字架であった。