コルネリウス・ア・ラピデ

創世記 第四十九章


目次


本章の概要

ヤコブは死を目前にして子らを呼び集め、彼らを祝福し、その子孫の上にやってくる善きことと悪しきことを預言する。第二に、第二十九節において、自らがカナンに葬られるよう命じた後に死ぬ。ある人々はこの章を「十二人の族長たちの祝福」と題し、他の人々は「十二人の族長たちに関する預言」と題する。いずれも正しく適切である。なぜなら、ヤコブはここでその両方を行っているからである。


ウルガタ本文:創世記49章1-33節

1. ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まれ、終わりの日に汝らに起こることを告げ知らせよう。」2. 「集まり、聞け、ヤコブの子らよ、汝らの父イスラエルに耳を傾けよ。」3. 「ルベンよ、わが長子よ、汝はわが力、わが悲しみの始め。賜物において第一、権威においてより大いなる者。」4. 「汝は水のごとくに注ぎ出された。汝は栄えてはならぬ。なぜなら汝は父の寝床に上り、その床を汚したからである。」5. 「シメオンとレビ、兄弟。不義の戦いを行う器。」6. 「我が魂は彼らの謀議に入らず、わが栄光は彼らの集まりに加わらぬように。なぜなら彼らはその憤りにおいて人を殺し、その自らの意のままに城壁を崩したからである。」7. 「呪われよ、彼らの憤り、それは強情なるがゆえに。また彼らの怒り、それは厳しきがゆえに。我は彼らをヤコブの中に分かち、イスラエルの中に散らそう。」8. 「ユダよ、汝の兄弟たちは汝を讃えよう。汝の手は敵の首にかかり、汝の父の子らは汝を礼拝しよう。」9. 「ユダは獅子の子。わが子よ、汝は獲物に向かって上って行った。休らいて汝は獅子のごとくに、また雌獅子のごとくに身を伏せた。誰が彼を起こすことができようか。」10. 「王笏はユダから取り去られず、統治者の杖はその足の間から離れぬ、遣わされるべきお方が来られるまで。彼こそ諸国民の待望となろう。」11. 「彼は若駒をぶどう園に、また雌ろばをぶどうの木につなぐ、わが子よ。彼は自らの衣をぶどう酒で洗い、その上着をぶどうの血で洗うであろう。」12. 「彼の目はぶどう酒よりも美しく、彼の歯は乳よりも白い。」13. 「ゼブルンは海辺に住み、船の港のかたわらに住み、シドンにまで及ぶであろう。」14. 「イッサカルは強きろば。境のあいだに伏せる。」15. 「彼は休息が良きものであり、その地が優れていることを見た。彼は荷を負うために肩を曲げ、貢ぎを納める僕となった。」16. 「ダンはイスラエルの他の部族と同じく、その民を裁くであろう。」17. 「ダンは道のかたわらの蛇、小道のかたわらの角ある毒蛇となれ。馬のかかとを噛み、その騎手は後ろに落ちる。」18. 「主よ、我はあなたの救いを待ち望む。」19. 「ガドは帯をしめて彼の前に戦い、彼自身は後ろから帯をしめられるであろう。」20. 「アシェルのパンは豊かで、彼は王たちのために珍味を備える。」21. 「ナフタリは放たれた鹿、美しい言葉を語る者。」22. 「ヨセフは成長する子、成長する子であり、見るに麗しい。娘たちは城壁の上を走った。」23. 「しかし槍を持つ者たちは彼を怒らせ、彼と争い、彼を妬んだ。」24. 「彼の弓は強さの上に座し、彼の腕と手の縛めはヤコブの強き者の手によって解かれた。そこから牧者、イスラエルの石が出た。」25. 「汝の父の神は汝の助けとなり、全能者は上の天の祝福、下に伏す淵の祝福、乳房と胎の祝福をもって、汝を祝福したもうであろう。」26. 「汝の父の祝福は、その父祖たちの祝福によって強められ、永遠の丘の願いが来るに至るまで続く。それらは汝の兄弟たちの中なるナジル人ヨセフの頭の上に、そしてその頂の上にあるように。」27. 「ベンヤミンは飢えた狼。朝には獲物を食らい、夕には分捕り物を分かつであろう。」28. これらすべてはイスラエルの十二の部族である。これらは父が彼らに語ったことであり、彼は各々をその固有の祝福をもって祝福した。29. そして彼は彼らに命じて言った。「我は我が民に集められようとしている。私を父祖たちと共に、ヘト人エフロンの畑にある二重の洞穴に葬れ、30. それはカナンの地、マムレに面しており、アブラハムがヘト人エフロンより畑と共に墓所として買い取ったものである。」31. そこに彼らは彼と妻のサラを葬り、そこにイサクとその妻リベカを葬り、そこにレアも葬られている。32. そして子らに与える命令を終えると、彼は寝床の上に足を引き上げ、息絶え、そして自らの民に集められた。

ここでヤコブにおいて、古き慣わしを認めよ。すなわち、死を目前にした親が、子らあるいは自らに従う者たちに最後の言葉を残すのである。それは託宣であれ、救いのための助言であれ、ともかくもその後に彼らを祝福した。モーセもまた然り。申命記第三十一章、第三十二章、第三十三章を見よ。ヨシュアもまた然り。最終章。サムエルもまた然り。列王記上第十二章。トビアもまた然り。第三章。マタティアもまた然り。マカバイ記一第二章。そして主キリストも然り。ヨハネ福音書第十四章および第十五章。

『聖なる父祖たちの図書館』第三巻には『十二族長の遺訓』が収められている。これはヤコブの十二人の子らの遺訓であって、本章に関わる多くのことが解き明かされている。その中には極めて多くのこと――預言的な託宣も、徳と神への礼拝への勧めも――が語られ、エノクの書からの多くの預言も差し挟まれている。これは古いものである。なぜならオリゲネスもこれに言及しており(ヨシュア記説教第十五)、ガザのプロコピウスも創世記第三十三章の注解においてこれに言及しているからである。リンカーン司教ロバートはこれをギリシア語からラテン語に翻訳した。しかしこの遺訓は著者が不確かであり、疑わしい。なぜならユダヤ人の寓話に類した、不思議で新奇なことが多く含まれているからである。


第一節:終わりの日に

「終わりの日に。」――将来の日々に、ということである。なぜなら、われらの翻訳者が「終わり」と訳したヘブライ語の acharit(アハリト)は、「後に続く」「のちの」「後にあること」を意味するからである。ヤコブはここで、間もなく後に起こることをある程度予告し、ヨシュアの時代に起こることを、また士師たちの時代に起こることを、またキリストのもとに成就することを、またアンチキリストのもとに起こることを預言するのである。


ルベンの預言と祝福

3. 「ルベンよ、わが長子よ。」――生誕と出生に関してである。なぜならそれ以外の点では、ヤコブはここでビルハとの近親相姦のゆえに、彼から長子の権を剥奪しているからである。ルベンはこの年、すなわちヤコブの百四十七年目にして最後の年に、六十二歳であった。シメオンは六十一歳、レビは六十歳、ユダは五十九歳、ヨセフは五十六歳である。これは第三十章において語られたことから明らかである。

「汝はわが力。」――すなわち、わが青年の盛りにおいて私が初めて生んだ者、ということである。

「またわが悲しみの始め。」――なぜなら子らが生まれることは、親に新しい心労、悲しみ、不安をもたらすからである。あるいはむしろ、こう言うがごとくである。汝は近親相姦のゆえに、私にとって悲しみと苦しみの主要な原因となった、と。ヘブライ語では rescit oni(レシート・オニ)であり、これは第二に、カルデア訳者やヴァタブルスらと共に、「わが力の始め」、すなわち、わが生殖力の始めと訳すこともできる。すなわちこう言うがごとくである。汝を初めに生んだことにおいて、私は男としての盛りと生殖の力を示した、と。それゆえに七十人訳は「わが子らの始め」と訳した。われらの翻訳者も申命記21章17節において同じく訳している。このことから明らかなのは、ヤコブはレアとの婚姻の前に貞潔に生き、いかなる女をも知らなかったということである。

「賜物において第一、権威においてより大いなる者。」――汝はすなわち長子としてあるべきであった。これをカルデア訳者は明白に説き明かして、こう訳している。汝は三つの分け前、すなわち長子の権、祭司職、王権を受けるはずであった。だが汝はこれらを受けないであろう、なぜならビルハと罪を犯したからである、と。なぜなら祭司職はルベンからレビに移され、二部族の王権はユダに与えられ、十部族の王権はエフライムに与えられたからである。長子の権、すなわちカナンにおける相続地の二倍の取り分、したがって二重の部族は、ヨセフ、すなわちその子らエフライムとマナセに与えられた。それゆえに歴代誌上5章1節には、長子の権がルベンからヨセフに移されたと言われている。

われらの翻訳者は、長子の権の権利、また同じく祭司職の権利を、「賜物において第一」と訳した時に解した。同様に、王権の権利を、「権威においてより大いなる者」と訳した時に解した。ヘブライ語は vieter seet veieter oz(ヴィエテル・セエト・ヴィエテル・オズ)であり、これをパグニヌスは明白に「品位(あるいは賜物と贈り物)において卓越し、力において卓越せる者」と訳している――「であるべきであった」と補わねばならない。

注意すべし。ルベンが長子の権を剥奪されたとき、第二子であるシメオンがこれを継ぐべきであったが、彼はヨセフに対して不敬虔であり、その部族はその指導者と共にバアル・ペオルを礼拝した(民数記25章14節)。それゆえに長子の権のうちのより尊い品位、すなわち祭司職は第三子、すなわちレビに移され、長子の権のもう一つの権利、すなわち王権は第四子、すなわちユダに移されたのである。

「権威においてより大いなる者。」――なぜなら長子は、自らの兄弟全員に対して一種の王的な首位と支配をもっていたからである。これは第二十七章第二十九節より明らかである。神の民にあっては、ペレリウスが言うように、モーセの律法の前にすでに、長子に属する八つの特権が記されている。第一に、彼らは祭司であった。第二に、長子は食卓の第一席に座し、より大きな分け前が彼に与えられた(第四十三章第三十三節)。第三に、彼は他の兄弟たちを祝福し、彼らは彼に従い、彼を礼拝した(第二十七章第二十九節)。第四に、彼は兄弟たちに対して権威と支配をもった(同箇所)。第五に、彼は父の遺産の二倍の取り分を受けた(申命記21章17節)。第六に、長子は五シェケルで贖われたが、他の子らはそうではなかった。あたかも長子は特別に神に聖別され、献げられているかのごとくであった。第七に、彼は言う、長子はある特別な種類の衣、すなわち他の兄弟たちのものよりも繊細で高価なものを着ていた。それゆえにヤコブは、エサウから長子の権を求めるに当たって彼の衣を身にまとった。もっともこれはこの点を十分には証明しない。第八に、長子は父の死に臨んで特別に祝福された。そしてルベンはこれらの特権のほとんどすべてを失ったのである。

4. 「汝は水のごとくに注ぎ出された。」――汝は情欲と近親相姦によって溶け崩れた。汝の情欲は満ちあふれていた。リラヌスとアブレンシスはこれをあまり表現豊かでない仕方で「汝は水のごとくに低くされ、投げ落とされた」と訳す。なぜならわれらの翻訳者ははるかに表現豊かに「汝は水のごとくに注ぎ出された」と訳しているからである。なぜなら水が注がれるとき、その何ものも杯にも桶にも残らないように――色も、香りも、味も――情欲もしばしば、人の力、判断、理性、知恵、評判、富、良心、その他あらゆる善いものを、その精と血と共に注ぎ出し、浪費するからである。

「汝は栄えてはならぬ。」――汝は栄えないであろう、ということである。なぜならこれは呪いというよりむしろ預言だからであって、こう言うがごとくである。汝は近親相姦の罪を犯したゆえに、神は汝を不毛をもって罰するであろう。そして汝は子や孫の数においても、またその卓越や富や栄光においても増し加わらないであろう、と。それゆえにルベンの部族は最も小さな部族の一つであった。モーセも申命記第三十三章第六節において同じことを預言した。

「汝は父の寝床に上った。」――汝は父の妻ビルハと近親相姦を犯した。この事柄について、またルベンの不思議なる悔い改め(それが真実であってほしいものだが)について、外典の『十二族長の遺訓』には材料がある。これについては章の冒頭で言及した。

寓意的に。聖アンブロシウスは言う、ルベンとはユダヤ人のことである。彼らはキリストの人性、すなわちその神性のいわば寝床を犯し、殺害したのであって、それゆえに神より呪われたのである、と。

同様に道徳的に。ルベンはエウティケス派、ネストリオス派、その他の異端者たちを表すと、ルペルトゥスは言う。また、肉の快楽に注ぎ出され、教会をつまずかせ、犯し、汚す悪しき高位聖職者たちと君主たちを表す、と。

最後に、ここから第一に学べ。神の復讐は遅いが、しかし決して空しくはない、ということを。見よ、ルベンの罪に対する罰は、彼が罪を犯し、ヤコブが見過ごしてから三十年後に宣告された。第二に学べ。人がいかに卑しい原因のために最大の善を失うかを。ルベンは長子の権のすべての善を、ほんのつかの間の快楽というこの上なく恥ずべき報いのために失ったのではないか。エサウもまた一杯の豆の煮物のために同じものを失ったのではないか。第三に、親に対して反逆し侮辱することがどれほど大きな罪であるかを。これについては聖書に三つの著名な事例がある。一つはノアの子ハム、第二はヤコブの子ルベン、第三はダビデの子アブサロムである。


シメオンとレビの預言と祝福

5. 「シメオンとレビ、兄弟。」――単に生まれによる兄弟であるばかりでなく、罪においても極めて似通い、極めて密接に結びついている。すなわちシケム人に対する獰猛さ、大胆さ、欺瞞、残虐さにおいて。

「不義の器。」――すなわち、不義の道具、シケム人の不正な殺戮と滅ぼしの道具、ということである。なぜならヘブライ人はあらゆる道具を keli(ケリ)、すなわち器と呼ぶからである。カルデア訳者は不忠実かつ誤って、「シメオンとレビ、極めて勇猛なる者ら、その寄留の地で力ある業をなした」と訳している。あたかもヤコブがここで彼らを力のゆえに称賛しているかのごとくであるが、実際には彼はその憤りと残虐さを叱責している。これは続くところより明らかである。

「戦いを行う。」――これらの器、あるいは道具は、休んではいなかった。彼らはシケム人に対して不正な戦争と殺戮を加えたのである。ヘブライ語では mecherotehem(メケロテヘム)であり、これをアリアス、オレアステル、ヴァタブルスは「彼らの剣」と訳す。すなわちこう言うがごとくである。彼らの剣は不義の器、すなわち武器であった、と。これは極めて適切である。そして machaera(マカイラ、剣)という語は、他の多くのラテン語およびギリシア語と同じく、ヘブライ語に由来するものと思われる。もっともエウグビヌスはこれを否定する。

6. 「我が魂は彼らの謀議に入らず。」――「謀議に」、すなわち彼らがシケム人を滅ぼそうとしてひそかに企んだ謀議に。すなわちこう言うがごとくである。我は昔から彼らのこの謀議と罪を忌み嫌い、今もなおこれを忌み嫌う、と。第二に寓意的に、ヤコブはここで予見していた。シメオンの子孫である律法学者たちとファリサイ派の者たち、また同じくレビの子孫である祭司長たちと祭司たちが、キリストに対してたくらんだ謀議を。それゆえヤコブはここで、彼らがキリストを死に追いやるためにたくらんだ謀議を忌み嫌い呪うのであって、こうして彼らはその先祖シメオンとレビの罪を真似たのである。なぜならこれは預言だからである。聖アンブロシウス、イシドールス、ルペルトゥスその他の説である。

「またわが栄光は彼らの集まりに加わらぬように。」――こう言うがごとくである。彼らはこの殺戮を、いわば自らの力のしるしであるかのごとくに誇った。だがそのような誉れと栄光は我より遠ざかれ、と。七十人訳は「わが内なる部分は彼らの集まりにて争うことなかれ」と訳している。すなわちこう言うがごとくである。わが愛、わが心、わが肝が彼らの集まりに加わらぬように、と。なぜなら肝は愛と欲望の座だからである。そしてヘブライ語の cabod(カボード、栄光)は、もし異なる母音点をもって cabed(カベード)と読むならば、肝を意味する。

「彼らは人を殺した」――人々を、すなわちシケム人らを、その首長で災いの原因であるシケムと共に、ということである。これは提喩である。

「またその自らの意のままに。」――荒れ狂おうとする欲望のままに、ということである。それゆえに七十人訳は「その情欲において」と訳している。

「彼らは城壁を崩した。」――すなわち、城壁の数々を、ということである。すなわちこう言うがごとくである。彼らはシケムの城壁ある町を覆し、荒廃させ、その城壁を打ち倒した、と。それゆえこの箇所からして、シメオンとレビが配下の者らと共にシケムの町を狂気のごとくに襲撃した時、その住民を殺戮したのみならず、その城壁をも倒したことが明らかとなる。

かくして寓意的に、シメオンとレビの子孫である律法学者たちと祭司たちは、ティトゥスを通じてエルサレムを覆した。なぜなら彼らはキリストを殺すことによってその滅びの原因を与え、いわばティトゥスをそれを行うように召喚したからである。

他の者たち、たとえばプロコピウスは、城壁とは町の首長であるハモルとシケムを意味すると解する。彼らはその力をもって、いわば城壁のごとくに町を守っていたからである。それゆえに七十人訳もまた、城壁を意味する schur(シュール)の代わりに牡牛を意味する scor(ショル)と読み、「彼らは牡牛の腱を切った」、すなわち彼らはシケム自身を打ち倒し殺害した、と訳している。

最後にエルサレム・タルグムは「彼らはヨセフを売った。彼は牡牛になぞらえられる」と訳す。もしこれが真実であるなら、シメオンとレビはヨセフを売る首謀者であった。それゆえにヨセフがシメオンのみを牢に閉じ込めたのも当然である(第四十二章第二十五節)。

7. 「呪われよ、彼らの憤り。」――この呪いは、その熱心さによってレビとレビ人らから取り去られた。すなわちモーセとアロンの熱心さによって、また金の子牛を礼拝する者らを殺戮した他のレビ人らの熱心さによって、また、ミディアン人の女と姦淫を犯したヘブライ人を殺し、バアル・ペオルを倒したレビ人フィネハスの熱心さによって(民数記25章5-6節)。それゆえにレビの部族は、モーセより祭司職と祝福の両方を受けたのである(申命記33章10節)。だがシメオンにおいてはこの呪いはとどまった。なぜならシメオン部族の指導者であったジムリの姦淫と偶像礼拝のためであり、フィネハスは彼を殺した(民数記25章)。それゆえにシメオンのみが、モーセより祝福されなかった(申命記33章)。プロコピウスの説である。

「我は彼らをヤコブの中に分かち、イスラエルの中に散らそう。」――彼らが再び頭を寄せ合って、その謀議によって他の者たちに滅びをたくらまぬためである。これはレビにおいて成就した。なぜならカナンにおいてレビ人らに相続地は割り当てられず、彼らはあらゆる部族の中に散らされたからである。シメオンにおいてもまた、なぜなら彼にはユダ部族のただ中に取り分と住まいが与えられたからである(ヨシュア記19章2節および9節)。さらに、シメオン部族が増えたとき、新しい領地を求め、一部はゲドルへ、一部はセイル山へ赴いた(歴代誌上4章27節、39節、42節)。最後に、シメオンの子孫である律法学者と教師たちもまた、祭司たちと同じく、すべての部族の中に散らされ、民に律法を教えた。神はこの罰を彼らの賞賛と民の善とに変えたもうたのである。この点においてこの預言はシメオンとレビへの祝福でもある。もっとも先の叱責でさえ、父としてのものであるからして、祝福と見なすことができ、また見なすべきであって、これは第二十八節において論ずることになる。


ユダの預言と祝福

ヤコブはユダの部族を称賛する。第一に、その名から――ユダは告白と賛美を意味する。第二に、その戦士としての強さから。第三に、その尊厳と尊崇から、すなわち彼の兄弟たちがユダを礼拝するであろうということから。第四に、その勝利から。第五に、その王権と王笏から。第六に、その富と産物の豊かさから。第七に、彼から生まれるキリストから。そして彼はこの第八節から第十二節までにわたって、これらすべてを予告し預言する。

8. 「ユダよ、汝の兄弟たちは汝を讃えよう。」――ヘブライ語ではユダの名についての見事な言葉遊びがある。jehuda(イェフダ)と jehoducha(イェホドゥカ)であって、こう言うがごとくである。汝は「賛美」を意味するユダと正しく呼ばれる。なぜなら汝の兄弟たちは汝を讃えるからである、と。彼の母レアは第二十九章最終節において彼をユダと名付けた。あたかもこの子孫について神に感謝し、神を賛美するかのごとくであった。今や父ヤコブもまた彼をユダと呼ぶ。だがそれは別の理由と趣旨によるものである。すなわち彼が兄弟たちによって賛美されるであろうということによってである。なぜなら、ユダの部族はモーセに次いで紅海に最初に踏み込んだ部族だからである。この部族はヨシュアの死後、戦いにおいて他の諸部族の指導者であった(士師記1章)。これより極めて強大で極めて栄光あるダビデ王が起こり、ソロモンその他の王たちが、バビロン捕囚に至るまで起こった。この部族はイシュマエル人、エドム人、モアブ人、アラブ人、そしてあらゆる近隣の者たちに対して最大の戦争を行った。これよりバビロンから帰還する民の指導者ゼルバベルが生まれた。最後に、これよりキリストが生まれたのである。

「汝の手は敵の首にかかる」――彼らを敗走させ、追跡し、捕らえ、殺すために、ということである。それゆえカルデア訳者は「汝の手は敵に対して勝利を得るであろう」と訳す。

「汝の父の子らは汝を礼拝しよう。」――見よ、ここで長子の権利がルベンから取り去られ、ユダに与えられている。なぜなら長子はいわば兄弟たちの首長として、彼らに敬われ、礼拝された――すなわち兄弟たちは彼の前にひざまずき、父あるいは君主に対して示すような市民的な敬意を彼に示したからである。さらにここでは、ユダに与えられるべき王権が示されている。なぜなら王たちは、その臣民が敬意と尊崇のためにへりくだって彼らの前にひれ伏す時に、彼らによって礼拝されるからである。

「汝の父の子ら。」――母とは言わず、父と言うのは、ユダの兄弟たちには異なる母がいたが、父は同じであったからである。そしてヤコブはここで、いかなる母から生まれたとしても、すべての兄弟がユダを礼拝するであろうことを予告するのである。

寓意的に、ユダはキリストである。彼は絶えず神を賛美し、いわば神への絶え間ない賛美そのものであった。すべての殉教者たちは死に至るまで彼を告白し、すべての兄弟たち――すなわち聖なる御使いたちと人々――は彼を賛美し礼拝する。彼は最も力強く我らを悪魔の口から奪い取られた。それゆえに「彼の手は」悪魔と世と肉と罪との「首にかかる」のである。これらすべてを彼自身が打ち破られたのである。


第九節:獅子の子ユダ

9. 「ユダは獅子の子。」――ユダがその兄弟たちのうちにあったように、ユダの部族も他の諸部族のうちにあって、獅子のごとくであった。第一に、最も強い者として。第二に、最も恐れを知らない者として。第三に、最も戦士たる者として。第四に、最も勝利に満ちた者として。第五に、最も気高い精神の者として。聖ヒラリウスは、ある者から悪意をもって「ガリア人」と呼ばれたとき、これに当意即妙に言及してこう答えた。「私はガリア人として生まれたのではない、ガリアより出たのである。だが汝はまさにレオ(というのが彼の名であった)であるが、ユダの部族からのレオではない。」これをヨハネ・ベレトゥスは第二十二章で伝えている。

指揮官たちと忠実な兵士たちは、ユダのこのような獅子のごとき精神を持つべきである。強い指導者は金剛石のごとくである。それは鉄によっても打ち破られず、火によっても焼き尽くされない。皇帝フリードリヒ二世は諸侯の脅しを聞いて、こう言った。「脅しの音は、ろばのいななきである。」

同じくレオニダスは、明日はペルシア人が射る矢の雨のために、スパルタ人らは太陽を見ることがないであろうと脅すあるペルシア人にこう答えた。「それなら我らは、日陰で都合よく戦うであろう。」

アラゴンのアルフォンソ王は、難破した者たちが助けを求めているのを見て、他の者たちが恐れているのに対し、自ら船を出してこう言った。「最も勇敢な者である仲間たちと共に滅びるほうが、彼らが嵐の中で最悪の目にあうのを見ているよりも善い、と。」パノルミタヌスがその証人である。

カール五世は、敵が銃弾の雨を浴びせている時に、塹壕と陣地の中の戦列に立ち、退くようにと忠告された時、こう答えた。「吠える犬は恐れるに足らぬ。汝らも恐れる理由はない。なぜなら我らは神の保護によって十分に守られているからである。」

同じくカール五世は、インゴルシュタットの近くにて、敵から頻繁な砲撃を受けたとき、こう言った。「気を確かに持て――いかなる皇帝も大砲の弾によって滅びたためしはない。」同じ人物が、スペインへ出立しようとした時、その途中で疫病が猛威をふるっていることを聞き、こう言った。「我らは行かねばならぬ。このような好機を逃してはならぬ。疫病は決してアウグストゥスに触れたことはなく、疫病は決してカエサルに触れたことはなく、疫病は決していかなるカール(カルロス)にも触れたことはない。」

ルイ十二世はミラノに進軍する途中で、自分が宿営しようと計画していた小さな町が敵に占拠されたと知ると、強引に進んでこう言った。「私は彼らの屍の上に宿を取るか、さもなくば彼らが私の屍の上に取るかであろう。」

ブランデンブルク辺境伯アルブレヒトは、バイエルンのルイを捕らえ、彼から多くのものを要求して脅した。これに対しルイはこう答えた。「自由人としての私から得ることのできたものはすべて、捕らえられた私からも同じ仕方で求めるがよい。さらに何かを欲するならば、私の身体は汝の権内にあるが、わが精神は私に従属するものであって、汝に従属するものではないことを知るであろう。」

皇帝オットー四世は、皇后の貞潔を冒そうとしたとして偽りの告発を受けた騎士を殺すよう命じた。妻が夫の首を膝に抱えて皇帝のもとに進み出て、不正な裁判官はいかなる罰を受けるべきかと尋ねた。「死である」と皇帝は答えた。すると彼女はこう言った。「ならば死ね、皇帝よ。汝はわが無罪の夫を殺したのだから。彼が無罪であったことを、私はこの真っ赤に焼けた鉄を、害なくして手に握ることによって証明する。」ベルナルドゥス・コリウスが 『オットー四世伝』 でこう伝えている。

注意すべし。ヘブライ人らは獅子に多くの名を与えており、それによって獅子の年齢を区別する。第一に、獅子の子であって、いわば乳飲み子である時、それは gur(グル)と呼ばれる。第二に、成長して大人となり、獰猛になり始め獲物を狩り始める時、それは kephir(ケフィル)と呼ばれる。第三に、その力の堅固さの中にあり、成熟した獅子である時、それは arie(アリエ)あるいは ari(アリ)と呼ばれる。第四に、確固たる、満ち足りた力と年齢にある時、それは labi(ラビ)と呼ばれる。これはいわば「勇敢な者」を意味し、心を意味する leb(レブ)から来ている。第五に、すでに老齢に達し、狩りに鍛えられた古参の兵士のごとくでありながら、なおも盛んで力強くある時、それは lais(ライシュ)と呼ばれる。

これらの名のうち三つがここでユダに与えられる。第一に、gurであり、これには kephir も含まれる。これはヨシュアの時代の戦いにおけるユダ部族の幼年期と青年期を意味する。第二に、arie はその男としての力を意味し、これはダビデのもとで持っていたものである。第三に、labi はソロモンのもとでのその確固たる力と権威を意味する。ソロモンこそ labi、すなわち知恵において、剛毅において、寛容において、壮麗において心賢き者であった。

「わが子よ、汝は獲物に向かって上って行った。」――「獲物に向かって」の代わりに、ヘブライ語、シュンマコス、アクィラは mittereph(ミッテレフ)、すなわち「獲物より」と読む。これによって彼らは略奪と勝利の絶え間ない継続を意味する。すなわちこう言うがごとくである。汝は獲物より獲物へと上って行く。汝は絶えず略奪する。汝は絶えず獲物より、獲物と共に帰る、と。これはダビデにおいて極めて真実に成就した。彼はその全生涯を戦争に従事し、敵から絶え間ない戦利品を得て、より小さな獲物からより大きな獲物へと徐々に上って行った。すなわち熊と獅子を引き裂くことから、ゴリアトとの一騎討ちとその戦利品へと進み、それから軍の指揮と百人のペリシテ人の包皮という戦利品へと進んだ(サムエル記上18章43節)。やがて彼はペリシテ人らから絶え間ない戦利品を奪った(サムエル記上27章)。後に彼はサウル王の王国からユダ部族を事実上引き離した(サムエル記下2章7節)。最後に、すべての部族の王とされた後、彼はアンモン人、モアブ人、シリア人、その他の諸国民から最大の戦利品を運び去った。デルリオの説である。

この預言から、ユダ部族、ダビデ、ソロモンらが獅子の像をその紋章として持つに至ったのである。それゆえにアビシニア人らの王プレスター・ジョンも、シェバの女王とソロモン、したがってユダから出ていることを誇る者であって、その紋章あるいは家紋として、足で立てた十字架を保つ獅子をいただいている。なぜなら獅子はユダの血統の象徴であり、十字架はキリスト教の象徴だからである。

「休らいて、汝は身を伏せた。」アクィラは「身をかがめて、汝は横たわった」と訳す。シュンマコスは「足をひきずりつつ、汝は座した」と訳す。すなわちこう言うがごとくである。獅子がその獲物を捕らえた後、地に身を沈め、いわば怠惰に、足を引きずりながら身を横たえてそれを貪り食い、食らう者を誰一人として挑発したり乱したりする勇気を持たないように、汝も、ユダよ、汝の王笏によってダビデを通してすべての部族を従わせ、その王国を確立した後、安らかに平和と安静に身を委ね、その雌獅子が子に乳を与えるごとく、眠れる者のごとく自らを寝床に置き、良き牧者のごとく自らの民を養い育てたので、誰も汝を戦いへと挑発する勇気を持たない、と。デルリオの説である。

注意すべし。これらすべての過去時制は、預言であるからには未来時制として説き明かされねばならない。

「雌獅子のごとく」――子に乳を与えている時、雌獅子は雄獅子よりもさらに獰猛で力強い。

「誰が彼を起こすことができようか。」――誰が敢えて彼を起こし、戦いへと彼を挑発するであろうか。それを行う者は罰なくしては済まないであろう。彼は敗北を被るであろう。

寓意的に、ユダから生まれたキリストは 「獲物に向かって上って行った」。なぜならその名は 「急いで戦利品を取れ、急いで獲物を奪え」(イザヤ書8章3節)だからである。それゆえに彼は休らった、すなわち獅子のごとくに死んだ――なぜなら彼はその死において全世界を揺るがし、死ぬことによって悪魔と死を滅ぼしたからである。聖アンブロシウスはその書 『族長たちの祝福について』 においてユダの祝福について次のように言う。「『誰が』と彼は言う、『彼を起こすであろうか』、すなわち主はだれを受け入れたもうのか。彼自身がその力と父の力によって自らを起こしたもう以外に、ほかに誰が彼を起こすであろうか。私は自らの権威によって生まれた方を見、自らの意志によって死した方を見、自らの力によって眠れる方を見る――自らの裁きによってあらゆることを行いたもうた方が、再び起き上がるためにいかなる助けを必要とするであろうか。それゆえに彼こそ、自らの復活の創始者であり、死の裁定者である。」

雌獅子の子は三日眠る。エウケリウスはここで自然学者たちから次のように伝える。獅子の子は、生まれた時、三日間眠る。三日目に、洞窟を揺るがすその父の咆哮によって起こされる、と。同様にキリストも三日目に、自らの力と父の力によって、これは同時に地震を引き起こした力でもあるが、よみがえったのである。エピファニウスとエウケリウスはこれを誤って死んだ獅子の子に当てはめている。すなわち、雄獅子がその咆哮によってよみがえらせるとされる獅子の子に。だがこれは虚偽であり、寓話に過ぎない。


第十節:王笏は離れず

10. 「杖はユダから取り去られない。」七十人訳はこれを「君主はユダから絶えることがない」と訳しており、すなわちこう言うがごときである。ユダ族はダビデにおいて王国を受けたゆえに、メシア、すなわちキリストが来るまで、この主権と指導権を保ち続けるであろう、と。

それゆえ私は言う。ここでユダ族に王国と主権が割り当てられており、彼が事実、メシア、すなわちキリストに至るまでこれを獲得したのは、二重の理由と権原による。第一に、ユダ族のみがダビデからゼデキヤに至るまで四百七十年間、王国を獲得し、それも大いなる栄光、富、力をもって、バビロン捕囚に至るまで保ったからである。さらに、ユダ族のみがこの捕囚から帰還し、ベンヤミン族、レビ族その他の部族から出た少数の者たちと共に戻ったからである。それゆえ、ユダヤ人の全民族はそれ以後ユダから名を取るに至り、他の部族から出た者たちでさえも、すべてユダ族と見なされた。彼らはユダと混ぜ合わされ、ユダの部族と共同体に接ぎ木され組み入れられたからである。同様に、ローマ人は支配したと言われる。そしてローマ皇帝とは、ローマにおいてローマ帝国を獲得したすべての者を指す。たとえトラキア、スペインその他の地から起こった者であっても、これらすべてはローマ人と一つの共同体、一つの帝国に合体していたからである。

第二に、そしてより重要なことに、杖は厳密にはキリストに至るまでユダから絶えることがなかった。なぜなら、王冠、すなわち王国の権利と権能が、本来常にユダ族に属していたからである。それは、この王国の権利が神によってダビデおよびユダから出た彼の家系に与えられ、ダビデの子孫がそれを世襲権によって連続的継承の中で常に継ぐようにされたからであり、また王国の座、領域、首都、すなわちエルサレムがユダ族に属していたからである。

それゆえこの箇所から、我々はユダヤ人を論駁し、彼らに対してメシアがすでに来たこと、そしてヘロデの時に生まれたことを示す。なぜならその時に杖はユダから去ったのであり、したがって我らのキリストこそが、ヤコブによってここで予告され約束されたメシアにほかならないからである。

私はこう答える。これほど大きな時の長さの中で、三十五年というわずかな間隔は、ここではないに等しいものと数えられる。なぜなら、この預言の真実のためには、杖がユダから去ったまさにその同じ王ヘロデのもとで、キリストが生まれたということで十分だからである。「まで」という語は、キリストの来臨の決まった年、月、日を厳密に意味するのではなく、ただ漠然と、その同じ時のもとで、すなわち杖がユダから絶える同じ王のもとで、キリストが生まれるであろうことを意味するに過ぎない。

転義的に、キリストの杖はその教皇から、御自身が再臨において我らを祝福し栄光化するために来られるまで、取り去られることはない。ペレリウスが聖アンブロシウスとオリゲネスに従って言うところである。

「そして指導者」――ヘブライ語ではメコケク、すなわち「立法者」であって、法を制定し、その法によって民を統治することを役目とする指導者または君主を意味する。

「彼の腿より。」「腿」は換喩的に、両腿の間、両足の間にある生殖器を意味する。ヘブライ語の表現がそうなっている。


遣わされる者が来るまで(シロー)

「遣わされる者が来るまで。」カルデア訳は明らかにこう訳す。「メシアが来るまで、王国は彼のものである」と。なぜなら当時の彼の名は「遣わされるべき者」あるいは「来るべき者」であったからである。ヘブライ語では「シローが来るまで」となっており、それを彼らはさまざまに導き、説明するが、すべての者がそれをキリストに帰している。

第一に、七十人訳はこう訳す。「彼(すなわちキリスト)が来るまで、彼のために留め置かれているもの」、すなわちユダの杖と王国に至るまでとなる。聖イグナティウス、聖エイレナイオス、聖ヒエロニムス、聖アンブロシウスがそう読み、そう理解している。なぜならキリストにのみ、したがってユダにのみ、留め置かれていたからである。第一に、ユダとヤコブの王国、第二に、イスラエルを救う権利、第三に、アブラハムとダビデになされたすべての約束、第四に、恩寵と栄光のすべての宝、第五に、すべての諸国民の信仰と従順、第六に、生ける者と死せる者の裁き、これらが留め置かれていたのである。

第二に、レオ・カストロは、シローを別の母音記号でサイラク、すなわち「賜物」あるいは「彼に約束されたもの」と読む。

第三に、ラビ・キムヒは、シローは「彼の子」、すなわちユダの、そしていっそう本来的には神の子を意味すると考える。あたかもシローとは、父なる神が「お前は我が子。今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2編)と語られる者であるかのように。

第四に、ガラティヌスとハメルスはシローをシェラ、すなわち「彼女の子」、すなわち女、処女の子であって父をもたない者と読む。聖パウロがガラテヤの信徒への手紙4章で語る方、すなわち「時が満ちると、神は御子を女から生まれた者として遣わされた」その方である。

第五に、ヴァタブルスとオレアステルは、シローは音位転倒によってシャローム、すなわち「平和を保つ者」「平和の創始者」のために言われていると考える。なぜならキリストはこのために生まれたのである。すなわち神と人との間に平和をなし、平和を残し、御自身の平和を我らに与えるためである。

第六に、そして最も確からしいのは、シローのためにシロアハ、すなわち「使者、遣わされる者または遣わされるべき者」と読むべきだとするものであって、これはシャラハ、すなわち「彼は遣わした」を意味する語根から来ている。なぜなら我らの翻訳者(ウルガタ)はそう訳しており、これはすでに古くからメシアの一般的な名であったことが、出エジプト記4章13節から明らかである。それゆえキリストは、盲人に視力を与えようとしたとき、その者をシロアムの池へ遣わすことで、御自身のこのシロアハという名に言及されたのである。シロアムはヘブライ語でシロアハと呼ばれ、聖ヨハネの言うところによれば「『遣わされた者』と訳される」(ヨハネによる福音書9章7節)。なぜならキリストの本来の務めは、人々の間で神の使者として行動することであった。それゆえ御自身の本来の名はシロアハ、すなわち「使者」「遣わされた者」だったのである。

注意すべし。これらの言葉――「絶えることはない、云々、遣わされる者が来るまで」――によって、ヤコブは暗にキリストがユダから生まれることを予告している。なぜならヤコブはここで、各々の子に固有の祝福を割り当てるごとく、ユダにはキリストとキリストの誕生を特別な祝福として割り当てているからである。すべてのヘブライ人がこの預言をそのように理解しており、それゆえ聖パウロはヘブライ人への手紙7章14節において「我らの主はユダから出たことが明らかである」と言うのである。


諸国民の待望

「そして彼自身が諸国民の待望となる。」ヘブライ語で「待望」を意味する語はイッケハトであって、それはさまざまに導かれ、説明される。第一に、ある者たちはこれを「無垢にし、清め、純化する」を意味する語根から導き、それゆえ「彼自身が諸国民を清める」、すなわち彼らの罪から清めると訳す。それゆえガブリエルが、まさに生まれようとしているキリストについて「彼自身が御自分の民をその罪から救う」(マタイによる福音書1章)と語るとき、これに言及している。第二に、他の者たちは「従う」を意味する語根からこれを導く。それゆえキムヒ、パグニヌス、カルデア訳は「諸民族は彼に従うであろう」と訳す。第三に、他の者たちは音位転倒によってケヒラー、すなわち「集会、会衆」を意味する語根からこれを導き、その意味はこうなる。メシアは諸国民の説教者にして教師となるであろう。メシアは諸国民に御自身の福音を宣べ伝えるであろう、と。

第四に、そして最善のものは、これを「待望」と訳すのがよい。なぜなら我らの翻訳者、七十人訳、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンがそう訳しており、これはカヴァー、すなわち「彼は望んだ、彼は待ち望んだ」を意味する語根から来ているからである。それゆえヘブライ語から文字どおりに訳せばこうなる。「彼に(シロー、すなわちメシアに)諸国民の待望があるであろう」、すなわちこう言うがごときである。メシアはすべての諸国民の信仰、従順、支配、王国を待ち望むであろう。なぜなら神がこれを彼に相続地として約束されたからであって、詩編2編に言われているとおりである。「我に求めよ。わたしは諸国民をお前の嗣業として、地の果てをお前の領土として与えよう。」

なぜなら意味はこうである。「彼自身が諸国民の待望となる」、すなわちこう言うがごときである。ユダヤ人だけでなく異邦人も、最も待ち望まれた者として、最も切に望んでメシアを受け入れるであろう。彼らは彼を信じ、彼に従うであろう。彼らは彼に自らの救いの希望、心、愛を置き、固定するであろう、と。それゆえキリストは、誕生し、知られ、諸国民によって信ぜられた後に、現実的に「諸国民の待望」と呼ばれる。しかしその誕生の前には、キリストはただ可能態において、あるいはむしろ解釈的に「諸国民の待望」であった。すなわちこう言うがごときである。諸国民がキリストについて聞き、彼を知るに至るとき、彼らはまるで常に彼を待ち望んでいたかのように、最も切に彼を抱きしめるであろう、と。同様の擬人法によって、約束の地は「天からの雨を待ち望む」(申命記11章14節)と言われる。なぜならもしそれが生命をもつものであれば、そこから雨を待ち望むであろうからである。さて大地が雨を必要とするように、諸国民はキリストを必要としたのであり、キリストは彼らに最大の善をもたらした。それゆえ正しくここにおいて、またハガイ書2章8節において、キリストは「すべての諸国民の望み」と呼ばれ、本章26節においては「とこしえの丘の慕い」と呼ばれているのである。


第十一〜十二節:ぶどう園とぶどう酒

第十一節および十二節。「彼の子ろばをぶどう園に、雌ろばをぶどうの枝に繋ぐ。我が子よ。彼はその衣をぶどう酒で、その上着をぶどうの血で洗うであろう。彼の目はぶどう酒よりも美しく、彼の歯は乳よりも白い。」すなわちこう言うがごときである。ユダの地、すなわちカナンにおいて彼に当たるであろうくじは、ぶどう酒に富み、人が一本のぶどうの枝に自分のろばを繋ぎ、その実から自分のろばに荷を負わせることができるほどである。なぜなら各々のぶどうはそれほど強く、ぶどうとぶどう酒に富んでおり、家庭の用途に十分なだけでなく、市場へ運んで売るためにろばに荷として積むこともできるほどである。

第一の解釈はヴァタブルスのものである。この説明は冷淡で、地上的で、ユダヤ的である。これに対しては、これらすべてのことがユダについてではなく、シロー、すなわちメシアについて語られているという事実が立ちはだかる。それゆえヤコブはユダに二人称で語りかけてから、ユダから三人称、すなわちメシアへと移っているのである。

第二に、二人のカルデア訳者、すなわちオンケロスとヨナタンは、これらのことを部分的にユダに、部分的にメシアに帰している。しかしこれらの解釈もまた不完全で、十分に整合性がなく、部分的にユダヤ的である。

第三にして真の教父たちの解釈。それゆえ私は言う。ディオドロス一人を除き、ほとんどすべての教父たちは、この箇所を文字どおりキリストについて説明している。すなわちテルトゥリアヌス、聖アンブロシウス、聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムス、聖ヨハネ・クリソストモス、聖クレメンス、聖キプリアヌス、テオドレトスをはじめ、ペレリウスが引用するその他の者たちであって、これらの者を、彼らを嘲るカルヴァンよりも信頼すべきである。それゆえ、信仰、希望、愛の絆をもって、ぶどう園、すなわちユダヤ人から集められた初期の教会に、御自身の子ろば、すなわちまだ律法のくびきを負っていなかった異邦人の民を結びつけ、彼らをユダヤ人と一つの教会に合一させ結合されたのは、ユダではなくキリストである。そしてぶどうの枝、すなわち御自身(なぜならキリストはまことの実り豊かなぶどうの木であって、ヨハネによる福音書15章1節によれば、ぶどう園全体がそこから掛かり成長する)に、ああ我が子よ、ああユダよ、同じキリストが御自身の雌ろば、すなわち律法のくびきに慣れ、それによって疲れ果てたユダヤ人の民を結びつけられるであろう。

聖ヒエロニムスは言う。キリストは雌ろばを御自身に繋がれたと言われている。なぜなら彼は御自身でユダヤ人に説教されたからである。一方、子ろばをぶどう園に繋がれたのは、彼が異邦人にはユダヤ人、すなわち使徒たちを通じて説教され、彼らを通じて異邦人を御自身のもとに集められたからである、と。

「彼は洗うであろう」(キリストが)「ぶどう酒で」(人類への至高の愛をもって流された御自身の血のぶどう酒で)「その衣を」(すなわち御自身の肉、最も純粋で最も罪のない肉を)洗い、それによって赤くなるだけでなく白くもされる、すなわちより清められて、この死すべき命のすべての悲惨が洗い去られ、栄光のうちに復活するためである。テルトゥリアヌスから、また聖アンブロシウス『族長たちの祝福について』第四章による。「そしてその上着をぶどうの血で。」「ぶどうの血」とはすでに述べたキリストの血のぶどう酒のことである。キリストの「上着」とは教会である。なぜならキリストは教会を上着として身にまとっておられるからである。実にキリストは十字架において御自身の血で教会を洗い、洗礼において生まれる教会を日々洗っておられる、「命の言葉における水の洗いをもって、彼女を清められるのである。」

12. 「より美しい。」ヘブライ語でカクリレー、すなわち「あなたの目は」(おおキリストよ)「ぶどう酒よりも、より赤らみ、より火のごとく、より輝き光っている」。なぜなら、受難を通じて、また御身の復活の最も輝かしい栄光を通じて洗われ、それは特に顔、口、歯、目において輝き出ており、閃き、輝きを放ち、それを見るすべての聖人たちの目を、ぶどう酒が人の心を爽やかにし喜ばせるよりもさらに不思議にも喜ばせるからである。ディオドロス、聖キリロス、テオドレトスがそう述べている。

「そして彼の歯は乳よりも白い。」このすべての句によって、キリストの美しさ、特に復活したキリストの美しさが意味されている。象徴的には、目によってはキリストの最も鋭く最も力ある知識と摂理――それによって彼は教会を治め守られる――が意味され、乳より白い歯によっては彼の福音の教説と説教の甘美さ、完全さ、純粋さ、輝きが意味されている。それゆえ寓意的に、キリストの目は使徒たちと預言者たちである。すなわち彼らは、その知恵、説教、生活、熱心、奇跡の明らかさによって全世界を照らしたのであり、ぶどう酒、すなわち古い律法の鋭さと厳しさよりも美しい。聖アンブロシウス、聖アウグスティヌス、エウケリウス、ルペルトゥスがそう述べている。さらに歯とは博士たち、説教者たちであって、彼らは歯のように、教えと勧めの食物を信徒たちのためにあらかじめ噛み砕き、分かち、彼らの悪徳を噛み取り、切り取り、捨て去るのである。彼らは乳、すなわち幼子たちのための乳と食物のごときであった古い律法の教えよりも白い。先に挙げた教父たちのとおりである。


ゼブルンの預言と祝福

ヤコブはゼブルンを彼より年上の他の者たちより前に置いている――彼はより若かったにもかかわらず(彼はヤコブの第十番目の子であった)。なぜならキリスト――ユダの祝福においてヤコブが今しがた語ったその方――が、ゼブルンの領土と土地において宿り、住まわれたからである。すなわちゼブルンの領土には、第一に、キリストが宿られたナザレがあり、第二に、彼が変容されたタボル山があり、第三に、キリストが説教し、その宣教の最大の部分を過ごされたカファルナウムがある。それゆえゼブルンにおいて福音の宣教が始まったのである。イザヤ書9章が言うとおりである。「先には、ゼブルンの地は照らされた」云々。そしてゼブルンから、使徒たちのほとんどが生まれた。

13. 「ゼブルンは海の岸辺に住むであろう」、すなわち地中海とガリラヤ湖、あるいはゲネサレト湖の近くにである。なぜならそれに隣接しているのは、有名な交易市場カファルナウム、ベトサイダ、ティベリアスその他の都市であって、これらはゼブルンの領土にあった。「船舶の港に。」ヘブライ語からはこう訳すことができる。彼は船舶の港に住むであろう、と。ヴァタブルスがそう述べているのは、ゼブルンが最良の港をもち、それを通してあらゆる商品が輸入され、こうして彼が富むであろうことを意味する。「シドンにまで及び」――直接にではなく、その間にあるアシェル族を通してである。

寓意的に、ゼブルン――「住まいの場」を意味する――は教会であって、富み、平和で、魂の交易に専念するものである。なぜならゼブルンからキリストと使徒たちが説教しつつ、シドン、ティルスその他の諸国民にまで進み出たからである。聖アンブロシウス『族長たちの祝福について』第五章のとおりである。


イッサカルの預言と祝福

14. 「イッサカルは強いろばである。」ヘブライ語ではこうなっている。イッサカルは骨太のろば、すなわち骨のごとく頑強で強く、農業の労働のため、また自分の作物と果物を海へ運ぶためのものである。なぜならイッサカルの領土は快適で、油、ぶどう酒、穀物に富んでいたからである。聖ヒエロニムスのとおりである。

「境の間に伏して」、すなわちイッサカルはゼブルンのように航海に身を委ねず、自分の取り分と田舎から自らを養い、家にとどまり、そこで他の部族の境界と境の間で静かに住むであろう、ということを意味する。それゆえモーセは申命記33章で言っている。「イッサカルよ、汝の天幕にて喜べ。」

15. 「彼は休息が良きものなるを見た」、すなわちイッサカルは静かで田舎の生活の利を認め、それゆえこれを好み、抱きしめた、ということを意味する。なぜなら静かな生活においては知恵、徳、平和、農業が栄え、それらから田畑の実りと富が生まれるからである。それゆえイッサカル人たちは、平和な人々であって、知恵の追求に専念したのであって、これは歴代誌上12章32節から明らかである。

「そしてその土地が優れていることを見た。彼はその肩を屈めて」すでに述べた田舎の重荷を負った。「そして彼は貢を納める僕となった」、すなわちイッサカルは貢を納めても静かな生活を送ることを、それから自由でも戦いに苦しめられること、あるいはソロモンその他の王たちの軍役に徴用されることよりも好んだ、ということを意味する。なぜなら一般に農夫たちは他の者たちよりも租税を負わされるものであり、兵士たちはそれを免れているからである。

寓意的に、イッサカルによって聖アンブロシウスはキリストを理解し、聖ヒッポリュトスは使徒たちを理解する。「イッサカルは『報い』を意味し」と聖アンブロシウスは言う、「それゆえ我らの報いであるキリストに帰される。なぜなら我らは、永遠の救いの希望のために、金や銀によってではなく、信仰と敬虔とによって彼を獲得するからである。」

道徳的解釈においては、イッサカルは静かで平和なキリスト者、特に修道生活を送る者である。敬虔にしてふさわしくも、ネステロス師は『教父伝』第五巻第十五章において、いかにして修道院の中でかくも平和に過ごし、あらゆる試練の中で沈黙と忍耐を保つことを学んだのかと問われたとき、こう答えた。「私が初めて共同体に入ったとき、私は自分の魂に言いました。『お前とろばとは一つでなければならない。なぜならろばが打たれて口をきかず、害を受けて応えないように、お前もそうであれ。それは詩編に記されているとおりである――「私はあなたの御前で荷を負う獣のごときものとなった。それでも私は常にあなたと共にあります」。』」


ダンの預言と祝福

16. 「ダンは裁くであろう。」ヘブライ語ではダン・ヤディン、すなわち「裁き手は裁くであろう」を意味する。ここでヤコブは息子の名ダンを確認しているが、それは別の理由による。すなわちダンは、彼から生まれるサムソンを通して、裁くであろう、すなわちペリシテ人の隷属からイスラエルを擁護し解放するであろう、ということである。なぜならサムソンは民の裁き手、すなわち擁護者であったからである。聖ヒエロニムス、プロコピウス、ゲンナディウス、ルペルトゥス、カルデア訳のとおりである。「他の部族のごとく」、それは自らの裁き手をイスラエルに与えた部族のことである。なぜならすべての部族が裁き手を与えたわけではないからである。むしろルベン、ガド、シメオン、アシェルが裁き手を与えなかったというほうが、より正しい。

17. 「ダンを道の蛇、小道の角ある毒蛇とせよ。」ヘブライ語ではダンは主格にあり、それゆえ意味はこうなる。ダン、すなわちダン人サムソンは、蛇のように、また角ある毒蛇のようにあるであろう、と。なぜなら第一に、道や小道に潜む蛇が、葉の下や砂の中から人を不意に襲い噛むように、サムソンも策略と欺きをもって密かにペリシテ人を攻撃し、荒らし、殺したからである。これは三百匹の狐の場合に明らかである。サムソンはその尾に燃える松明を結びつけ、ペリシテ人の作物に火をつけたのである。また神殿の柱を引き倒し、それによって彼らの首長たちを自分と共に埋め、こうして死ぬことによって生きていたときよりも多くの者を殺したのである。

「小道の角ある毒蛇は馬のひづめを噛み、その騎手を後ろに落とす。」プリニウスは『博物誌』第八巻第二十九章で言うように、ケラステース(角ある蛇)は雄羊の角に非常によく似た四本の角を持つ蛇であって、騎手に届かないとき、馬のかかとを噛んで、馬を倒し、その結果騎手をも倒す。同様にサムソンも、その力だけでなく策略と待ち伏せによってもペリシテ人を攻撃し、つまずかせ、殺したのである。

注意すべし。ヤコブはこれらのことを文字どおりにはサムソンについて、寓意的にはサムソンの対型としてのアンチキリストについて予告している。なぜなら教父たちが共通して教えるとおり、アンチキリストはダンから生まれるからである。それゆえアンチキリストは蛇と角ある毒蛇の角と性格をもつであろう。なぜなら彼はその欺き、技、甘言、偽善、知識、雄弁、偽の奇跡、力、責め苦によって、蛇と角ある毒蛇のごとく、非常に多くの人々を欺き、倒し、噛み、殺すであろうからである。聖アウグスティヌス、聖エイレナイオス、聖アンブロシウス、プロスペル、聖ヒッポリュトス、ルペルトゥス、アレタス、ハイモ、リカルドゥス、アンセルムスがそう述べており、ペレリウスはこれらの者を引用しこれに従っている。

18. 「主よ、私はあなたの救いを待ち望みます。」「あなたの救い」のヘブライ語はイェシュアテカ、すなわち「あなたの救い」であって、これは我らの救い主シロー、すなわちキリストがもたらすであろう救いである。注意すべし。ヤコブはサムソンを通してのイスラエルの解放がわずかで短命であって、その後イスラエル人は再びペリシテ人によって屈服させられるであろうことを予見し、また蛇と角ある毒蛇によって何よりもアンチキリストが意味されることを予見して、骨の髄から悲しみ、震えながらこう叫んだ。「主よ、あなたの救い」、すなわちあなたの救い主、「を私は待ち望みます」、すなわち、サムソンではなくキリストを、イスラエルと世の真の、不変の、永遠の救い主を、サムソンはその予型と影に過ぎないその方を、と。それゆえカルデア訳はこう訳す。「私はヨアシの子ギデオンの救いを待ち望まない。彼の救いは時のものだからである。マノアの子サムソンの救いも待ち望まない。彼の救いは過ぎ去るものだからである。私はダビデの子キリストの贖いを待ち望む。彼はイスラエルの子らを御自身のもとに集めるために来られる方であって、私の魂はその贖いを切に願う。」


ガドの預言と祝福

19. 「ガドは、武装してその前に戦い、彼自身も後方で武装するであろう。」「その前に」、すなわち先の祝福、第十六節に挙げられたイスラエルの前にである。ヘブライ語にはガドという名の語源への連続した同音異義の言葉遊びと言及がある。なぜならガドはゲドゥド、すなわち「帯を締めた(武装した)」から名づけられている。すなわちガド族はその名にふさわしく、帯を締め、武装し、好戦的であって、これは他の時にも明らかであり(歴代誌上5章18-19節から明らか)、また当の部族自身が、武装して、イスラエル、すなわち残りの部族の前を、彼らの指導者として進み、ヨルダンを越えてカナンへ導くことになるときに明らかとなるであろう。そして「後方で帯を締める」のは、その兄弟たちが自分たちの領土に正しく定住し、平和を楽しむようになった後、十四年の間その指導と兄弟たちのための戦いの後、再び帯を締め、戦利品を担いで、栄光のうちにヨルダンの向こうの自らの領土へと帰還するときである。ヨシュア記22章の歴史を見よ。カルデア訳、聖ヒエロニムス、プロコピウスがそう述べている。

寓意的に、武装したガドはキリストであり、戦の陣形に整えられた軍隊のごとき教会であり、すべての信徒、特に殉教者である――とルペルトゥスは言う――、世と肉と悪魔に対して立派に戦い、それゆえ天において栄光あり、最も幸いとなる者である。なぜならガドはヘブライ語において「帯を締めた者」と「幸いな者」の両方を意味するからである。聖ラウレンティウスはそのような者であって、彼は焼かれているとき、デキウスにこう言った。「裏返して食べよ。」

ロチェスターの司教ヨハネ・フィッシャーは、ヘンリー八世の教会的首位権を認めるのを拒んだことによって死刑を宣告され、刑場に近づいたとき、老人がそれに寄りかかっていた杖を投げ捨ててこう言った。「来たれ、足よ、汝の務めを果たせ――道はもうわずかしか残っていない。」

聖アガタはクィンティアヌスにこう言った。「残忍な暴君よ、汝が自らの母から吸ったその乳房を、私から切り取ることを恥としないのか。だが汝は何も得ない。私には信仰と希望の内なる乳房があって、汝はそれを奪うことができない。その乳房に養われて、忍耐の徳が私のうちに新たにされるのである。」聖アグネスは死刑執行人にこう言った。「なぜ躊躇するのか。私が何も望まぬ目によって愛されうるこの体は、滅びるがよい。」彼女は立ち、祈り、首を垂れ、こうしてただ一人の生贄として、貞潔と信仰の二重の殉教を受けた。聖アンブロシウスのとおりである。

聖フェリキタスもそのような者であって、彼女はアントニヌス・ピウスのもとで七人の子と共に殉教を受けた。なぜなら太守プブリウスが彼女に神々を礼拝させようとし、嘆願に脅迫を加えたとき、彼女はこう答えた。「私はこの甘言にも動かされず、恐怖と脅迫にも砕かれません。私には聖霊がおられ、私に力を供してくださるので、信仰のために何でも耐える覚悟があります。」そして子らに向かって言った。「最愛の子らよ、信仰の告白に堅く立ちなさい。キリストはすでに聖人たちと共にあなたがたを待っておられます。あなたがたの魂のために戦い、自分がキリストに忠実な者であることを示しなさい。」


アシェルの預言と祝福

20. 「アシェル、彼のパンは肥え、彼は王の珍味を産するであろう。」ここでヤコブはアシェル族の富、肥沃さ、果実――それは香り高く繊細であって、ユダ、イスラエル、ティルスその他の国の王たちにとって楽しみとなるであろうもの――を意味し予告している。これは一つにはその土地の良さによるもの、一つには海の近くに位置していたことによるもの、一つにはティルス人とシドン人に近かったことによるものである。モーセは申命記33章でアシェルについて同じことを予告して言う。「彼に油の中に足を浸させよ。彼の靴は鉄と青銅で。」

寓意的に、アシェルはキリストであって、聖体の喜びによって我らを喜ばせ、富ませ、祝福される。「ゼカリヤが9章17節で言うように、彼の善きものは何ぞや、彼の麗しさは何ぞや。それは選ばれた者の穀物と、おとめたちを栄えさせるぶどう酒ではないか。」プロコピウス、エウケリウス、ルペルトゥスがそう述べている。聖アンブロシウスは美しくこう言う。「キリストの貧しさは我らを富ませ、彼の弱さは癒やし、彼の飢えは満たし、彼の死は命を与え、彼の埋葬は我らを起こす。」


ナフタリの預言と祝福

21. 「ナフタリは放たれた雌鹿、美しい言葉を発する者である。」「雌鹿」のヘブライ語はアヤラーであって、これは雄鹿と雌鹿の両方を意味する。放たれた鹿が草豊かで肥沃な土地で跳ねまわるように、ナフタリも自分の肥沃な領土で戯れ喜ぶであろう。第二に、「彼は美しい言葉を発する」、すなわち彼は礼儀正しく、優しく、愛らしく、その都雅さによってすべての人を自分に引き寄せるであろう。なぜならこれこそモーセが申命記33章でナフタリについて予告したことだからである。「ナフタリは豊かさを享受し、主の祝福に満たされるであろう。」

第三に、本来かつ直接的に、ヤコブはここでバラクとデボラのシセラに対する勝利、士師記4章を見つめ予告している。なぜならバラクはイスラエルの軍の指揮官であって、ナフタリ生まれであり、それ自体は臆病であるが、狩人と敵に取り囲まれて自分の命が危機に瀕しているのを見ると、勇気と角を奮い立たせ、激怒した者のように、大いなる力と速さで敵の隊列の真っただ中を突き破って逃れる鹿に正しく比べられる。サムソンも初めは鹿のように恐れて、デボラなしには戦いに臨もうとしなかったが、彼女の同行に励まされて、獅子のように敵の軍勢の上に飛びかかり、それを突き破り倒し殺した。それも非常に迅速に、鹿のように、また稲妻のように――バラクはヘブライ語で「稲妻」を意味する――、こうしてカエサルと共に「来た、見た、勝った」と言うことができたのである。

それゆえ「彼は美しい言葉を発する」、すなわち彼は最も美しい感謝と謝恩の歌を、勝利の主たる神に向けて作り出すであろう。これがすなわち士師記5章にあるバラクとデボラの有名な賛歌である。

寓意的に、ナフタリはキリストであって、霊の力によって跳ねる鹿のように(ルカによる福音書4章14節)、ナフタリの中にある湖であるゲネサレトの近くと周辺において、熱心にかつ迅速に悪魔の陣営を突き破り、美しい言葉を発し、御自身の福音において「心の貧しい者は幸いである、天の国はその人たちのものだからである」云々と言われ、そこで使徒たちを集められた。彼らはこれらの福音の最も美しい言葉を全世界に宣べ伝えたのである。聖ヒエロニムス、プロコピウス、聖アンブロシウスがそう述べている。


ヨセフの預言と祝福

第二十二節。「ヨセフは実り豊かな子。」ヘブライ語では ben porat Joseph(ベン・ポーラト・ヨセフ)であり、すなわち「実りの子」、つまり「実り豊かなヨセフ」という意味である。ヤコブはここでエフライムの名にほのめかしている。エフライムはヨセフの子であった。エフライムは「実り豊かな者」のごとく名付けられたのであり、同じ語根 para(パーラ)、すなわち「彼は実り豊かであった」(創世記第四十一章第五十二節)から来ているからである。エフライム部族はもっとも実り豊かで、もっとも数多く、もっとも強く、王の部族であったからである。さてヨセフは、彼が生んだ二人の子、すなわちマナセとエフライムのゆえに、増し加わる者、あるいは実り豊かな者であった。彼らはイスラエルにおいて二つの部族を構成した。それゆえここでは「増し加わる者」という語が二度繰り返されている。ヨセフはユダとともにルベンの長子の権利を継いだのであり、そのためユダがユダの王国を得たごとく、ヨセフはカナンにおいて二倍の部族と二倍の相続地を、またイスラエルにおいて王国を得たのである。

「容貌の美しき者。」ヘブライ語では ale ain(アレー・アイン)であり、これは二通りに訳すことができる。第一に「泉のかたわらに」と訳される。すなわちこう言うがごとくである。ヨセフは実りの子であり、また実りの子となるであろう、つまり泉のかたわらに植えられて実を結ぶ木のごとく実り豊かである、と。第二に「目の上に」と訳すことができる。すなわちこう言うがごとくである。ヨセフはあまりに美しかったので、彼を見る者の目を支配したのである、と。

「娘たちは(すなわちエジプトの女たちは)城壁の上を駆け回った」――家々や町々の城壁の上を、汝、おおヨセフを見ようとして、すなわち王の装いに飾られた、あたかも祖国と世界の救い主のごとくに美しい青年たる汝を見ようとし、また自らも汝に見られようとして駆け回ったのである。カエタヌスとリポマヌスの説である。

寓意的には、ヨセフは「人の子らに優って美しき」キリストである。それゆえアブラハムと父祖たちは彼を見ることを切望したのである。

第二十三節。「しかし彼らは彼を怒らせた」――兄たちはヨセフが、これほど美しく愛らしい者であったにもかかわらず、苦々しい思いを抱かせた。「そして彼と争った」――こう言いながらである。「お前が我らの上に王となるのか」と、また「見よ、夢見る者がやって来る。さあ、彼を殺そう」と。「投げ槍を持ちながら」――言葉の投げ槍、すなわち噛みつくような嘲り、嘘、誹謗の投げ槍も、また打撃の投げ槍も持ちながら、である。彼を裸にし、突き飛ばし、井戸に投げ込み、ついにエジプトに売り渡したとき、彼らはどれほどの言葉と打撃の投げ槍をもって彼を貫いたことか。

寓意的には、ヨセフはキリストである。ユダヤ人たちは彼に対して、舌、釘、鞭のあらゆる矢を投げつけ、こう叫んだのである。「除け、除け、彼を十字架につけよ。」

第二十四節。「彼の弓は強き者の上にとどまった。」「弓」とは、すなわち彼の力と守りであって、こう言うがごとくである。兄たちのこれほど大きな憎しみと迫害において、奴隷の身においても、エジプトの牢獄においても、ヨセフは気を落とさず、弱り果てもせず、むしろ立ち、いやそれどころか、もっとも力強き神に全き望みを定めて、揺るぎなく強く座していた、と。ヨセフは自らの弓を、もっとも力ある神、射手としてもっとも巧みな神に委ね、その御手によって導かれるようにしたのである。

「彼の腕と手の縛めは解かれた。」ヘブライ語の japhozu(ヤフォーズー)は、その本来の意味が定かでなく、訳者たちはさまざまに訳している。我らの訳者と七十人訳は「縛めは解かれた」、すなわち彼の腕と手の鎖は解かれたと訳している。見よ、力ある神への希望はヨセフを欺かなかった。知恵の書第十章を聞け。「彼女(永遠かつ造られざる知恵、すなわち神御自身)は、義人が売られた時にこれを見捨てず、王笏を彼にもたらすまで縛めの中に放ってはおかなかった」云々。

「ヤコブの力ある者の御手によって。」「力ある者」とあるところ、ヘブライ語では abbir(アッビル)であり、これは神の御名のひとつである。ヘブライ人たちは、この御名は神秘に満ちていると伝えている。最初の文字 aleph(アレフ)は ab(アブ)、すなわち父を意味する。第二の文字 beth(ベート)は ben(ベン)、すなわち子を意味する。第三の文字 resh(レーシュ)は ruach(ルアハ)、すなわち聖霊を意味する。これら三つの文字が一つの御名 abbir(アッビル)の中にあるのと同じく、これら三つのペルソナが一つの神性の本質の中にあるからである。

「そこから牧者が出た、イスラエルの石が。」「そこから」という語は場所ではなく原因を意味し、「それゆえに」と同じ意味である。すなわち、ヨセフは abbir(アッビル)、すなわち力ある神の助けによって守られた――それゆえに牧者が出た、すなわち彼はエジプト人の支配者・君主となり、また石、すなわち民イスラエルの支えとなった、というのである。ヨセフは父イスラエルをも、また兄たちとその家族をも、エジプト人と等しく、七年の飢饉の間養い育て、こうして彼らが欠乏のうちに滅び去らぬよう、彼らを強め支えたからである。

寓意的には、ルペルトゥスが言うように、牧者ヨセフは教会の牧者・岩・隅の親石たるキリストである。さらに、教会の牧者・岩は聖ペトロおよびその他のキリストの代理者たる教皇たちである。キリストはペトロにこう言われた。「私の羊を養いなさい。」また「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」

第二十五節。「あなたの父の神」――すべてのことにおいてあなたの父ヤコブを導いた神は、ヤコブの子であり、その信仰と敬虔の継承者であるあなたをも助け、導きたもうであろう。「彼はあなたを天の祝福をもって祝福したもうであろう」――時宜にかなった雨、露、雪、晴れた空、そして太陽と空の恵み深き影響を天より与え、これによってあなたの土地が実り豊かにされるのである。「下に横たわる深淵の祝福をもって」――深淵とは本来、地の下に隠れている水の渦巻く淵であって、海とつながり、その脈と水路を通じて土地を潤し、肥沃にするものである。「胸と胎の祝福をもって」――すなわち、動物のものも人のものも、あなたが豊かな乳、子孫、子らを得るためである。

寓意的には、ヨセフはキリストである。天上のすべてのもの、また下にあるすべてのもの、天におけるすべての御使いと聖人たち、そして辺獄にいる父祖たちが彼を祝福し、礼拝する。地上のすべての信者たちもまた彼を讃え、エリサベトとともにこう言う。「あなたの胎の実は祝福されている。」また群衆の中で叫んだ別の女とともに、こう言う。「あなたを宿した胎、あなたが乳を吸った乳房は幸いである。」

第二十六節。「あなたの父の祝福は、彼の父祖たちの祝福によって強められた。」こう言うがごとくである。私、ヤコブは、父祖アブラハムとイサクに優って、父イサクからも神からも祝福された。それゆえ私はあなたに、おおヨセフよ、祝福を返し、その結果あなたは私の父祖たちよりも、また私自身よりもさらに祝福された者となるであろう。なぜならあなたは、私のごとく父祖たちの祝福だけでなく、私自身の祝福をも受けるからである。リラ、アブレンシス、ペレリウスの説である。

「とこしえの丘の望みが来るまで」――すなわちキリスト、彼はすべての祝福と約束のうちで最後にして最大のものであり、それらすべての結びである。それゆえすべての人々、いや、地・海・丘・山に至るまで、あらゆる理性なき被造物までもが、その始まりからキリストを、人々の贖い主として、また全宇宙の修復者・改革者として、もっとも切に待ち望んでいるのである。それゆえ意味するところは、ヤコブが言うがごとくである。私のこの祝福、おおヨセフよ、これは父祖たちの祝福より大きく、キリストに至るまで続くであろう。彼はあなたと全世界に最大の祝福をもたらすであろう、と。

第二に、象徴的にはキリストはとこしえの丘、すなわち父祖たち・預言者たち・名高い聖人たちの望みである。彼らは知恵・徳・聖性において他の人々より秀で、永遠に天において、丘が谷より高くそびえるのと同じように卓越するであろう。ルペルトゥス、カエタヌス、リポマヌスの説である。

「それらがヨセフの頭の上に、また兄弟たちのうちのナジル人の頂に来たれ。」注意せよ。ヨセフはここでナジル人、すなわち「分離された者」と呼ばれている。カルデア訳が「冠を戴き、聖別された者」と訳しているとおりである。nezer(ネゼル)は分離をも、冠をも、聖別をも意味するからである。ヨセフは兄弟たちから分離されていた。第一に、その性格と無垢によって。第二に、場所と生活によって。第三に、牢獄によって。そこでヨセフは髪を切られぬまま、ただ神にのみ委ねられ、捧げられ、聖別されていたのである。それは民数記6章にあるように、自らとその節制とを、また髪をも神に捧げたナジル人と同じであった。第四に、エジプトにおける王権、あるいは支配の冠によって。確かに、ナジル人ヨセフは、ナジル人キリストの明白な予型であった。すなわち、ユダヤ人たちおよび人々の通常の生活から分離され、神に聖別され、世界の最高の王・大祭司として戴冠された者の予型である。


ベンヤミンの預言と祝福

第二十七節。「ベンヤミンは噛み裂く狼。朝には獲物を食らい、夕べには分捕り物を分ける。」文字通りには、ヤコブはここで、ベンヤミン部族が狼のごとく略奪的かつ好戦的であり、その権利を力と武器に置くであろうことを予告している。これは事実、ギブアの戦争において確証された。ベンヤミン人たちだけが、レビ人の妻に対して自ら犯した陵辱のゆえに、他のすべての部族と戦い、絶滅の寸前まで持ちこたえた。そしてついには彼らはシロの娘たちを奪ったのである(士師記20章)。プロコピウス、エウセビオス、テオドレトス、アブレンシスその他の説である。

さらにヤコブはここで、ユダヤ人たちの最初の王サウルの分捕り物と勝利、また同様にエステルとモルデカイの分捕り物と勝利にもほのめかし、これを予告している。これらの者たちはすべてベンヤミンから生まれたからである。

寓意的には、ほとんどすべてのラテン教父たち――すなわち聖ヒエロニムス、聖アンブロシウス、ルペルトゥス、エウケリウス、ベーダ、そして聖アウグスティヌスはその『聖パウロの回心について』第一説教において――この狼を聖パウロのこととして解釈している。彼はベンヤミンから生まれ、サウルと呼ばれており、早朝、すなわちその若き時に、狼のごとくキリストとキリスト教徒たちに対して荒れ狂い、男も女も牢獄に引きずって行き、他人の手によってステファノを石で打ち、すべての者に対して脅迫と殺戮を吐いていた。しかしキリストによって回心させられ、サウロからパウロに、悪魔の狼から神の狼へと変えられた彼は、「夕べに」、すなわちすでに年を取ってから、悪魔から奪い取った異邦人の分捕り物をキリストと教会に分けたのである。「パウロは」と聖アンブロシウスは言う、「教会の羊たちを食い荒らしていた時には狼であった。しかし狼として来た者が牧者となったのである。それゆえラケルはベンヤミンを生んだ時、彼の名を『私の悲しみの子』と呼び、その部族からパウロが出て、教会の子らを苦しめ、その母を大きな悲しみで悩ますであろうことを預言したのである。しかし同じパウロが後には食物を分かち、異邦人に福音を宣べ伝え、きわめて多くの者を信仰へと招き寄せたのである。」


第二十八節:十二部族

「これらすべてはイスラエルの十二部族である。」ヘブライ語では「これらすべてのイスラエルの部族は十二である」となり、こう言うがごとくである。これら十二人のヤコブの子らから、イスラエルの十二部族が生まれ、名付けられたのである、と。ここではヤコブの各々の子(彼らは数において十二人であった)が数えられており、その結果レビとヨセフもまた数えられている。それゆえヤコブの各々の子が一つの部族を構成しているのである。しかし聖地の分配においては、レビは数えられない。彼はその一部も持たなかったからである。レビの分け前は主、すなわち主に捧げられる犠牲と初穂であった。またヨセフも数えられず、その二人の子、すなわちエフライムとマナセが数えられる。彼らはレビとヨセフの代わりに置かれて、二倍の部族、それゆえにカナンにおける二倍の分け前を受けたからである。

「そして彼は各々を、それぞれに固有の祝福をもって祝福した。」ここから意味するところは、「彼は各々を祝福した」、すなわちこれまで述べた祝福を、それぞれに固有のものとして宣言し、割り当てたということである。シメオンとレビを彼は厳密には祝福せず、むしろ叱責したのではあるが、この父としての叱責は実際には祝福であったのである。聖ヨハネ・クリソストモス、カエタヌス、リポマヌスの説である。


第二十九〜三十二節:ヤコブの死

第三十一節。「そこにレアもまた葬られている。」ヘブライ語では「そして私はそこにレアを葬った」となる。これによりレアがカナンで死に、そこでヤコブによって葬られたことが明らかである。ある者たちが言うように、彼女がエジプトで死に、夫の遺体とともにカナンに移されたのではないのである。

第三十二節。「そして彼が命令を終えたとき。」ヘブライ人たちが伝えるところによれば、ヤコブは死の床において、子らに相互の平和と一致、唯一にして真の神への畏れ・服従・礼拝、そしてエジプト人たちの偶像礼拝からの逃避を命じたのである。

「彼は両足を寝床に引き入れた。」ヤコブは預言し、子らを祝福する間、自らを起こして寝床の上に座り、両足を垂らしていた。今や、語り終えて家族に別れを告げ、両足を寝床に引き入れ、徐々に息を引き取るのである。

ここに義人の死がいかに穏やかであるかを見よ。同じく聖ルキウス殉教者は死刑を宣告されたとき、長官ウルビキウスに感謝してこう言った。「私は悪しき主人たちから解き放たれ、最善の父である神のもとに行くのである」と。バビラス殉教者は、首を打たれるべく差し出した時、こう言った。「我が魂よ、お前の安らぎへと帰れ。主はお前に大いなる恵みを施されたゆえに。主は我が魂を死より、我が目を涙より、我が足をつまずきより救い出されたのである。私は生ける者の地で、主の御前を歩むであろう。」聖ヨハネ・クリソストモスが言うように、死とは穏やかな港であり、真の安らぎ、眠り、より善きものへの移り行き、悪からの解放、地から天へ、人から御使いへ、御使いの主御自身へと至る移住なのである。

「彼はその民に集められた」――彼は死に、その魂については辺獄とアブラハムの懐に住まう父祖たちと義人たちのもとに降って行った。聖書がこう語るのは、聖人たちの魂が死後に孤独で悲しい生活ではなく、社交的で喜びに満ちた生活を送ることを示すためである。一方、悪人たちの魂は、火の中で結び合わされていても、絶え間ない憎しみと争いによって分裂し、犬どものように、呪いと冒瀆によって互いに引き裂き合うのである。

ヤコブの生涯の年代を記しておく。ヤコブは洪水の後452年に生まれた。エサウから逃れて、彼はその年齢の77歳の時にハランへラバンのもとに行った。そこから20年後、すなわち97歳の時にカナンに帰った。10年後、すなわち107歳の時にラケルが死に、ベンヤミンが生まれ、またヨセフはエジプトに売られた。そこからヤコブはなおもカナンに23年とどまった。彼はその年齢の130歳の時にヨセフから召し出され、家族全員とともにエジプトへ赴き、そこで17年生き、147歳で死んだのであり、それは世界の年で2256年であった。ヤコブの墓碑銘と讃辞については、知恵の書10章10節とシラ書44章25節を参照せよ。